第壹話 貮節

「お薬師様でご縁日が開かれるそうですわ」


 その日の夕食、夕餉時。


 食卓に集まる平井一家と河上君。五人揃っていただきますと相成ったその時に。

 お櫃の蓋を閉めつつさりげなく、そのようなことを告げられたのは澄夫人。


「ほう」や「おお」や「わあ」などと、口から出る言葉は様々なれど、皆一様に頬綻ばせ。

 河上君なぞ今にも飛びださんばかりの勢いで。


「ご縁日ですか。なんだかずいぶん久方ぶりな気がしますねェ」


 今日ではめっきりと廃れておりますが、この当時にはどこそこの縁日は一の日に、六の付く日はこちらのお宮と、日々至る所でご縁日が開かれていたもので。七、十八、二十九と露店の出る日が出世することから《出世地蔵》と呼び習わされるようになった地蔵尊などもあり、それほど人々の生活に密着していたものだったのでございます。


 ここ平井家近辺でも、だらだら坂を下った先の、薬師如来を奉った小さなお寺にて、月に三度ほどご縁日が開かれており。

 露店が並んで大道芸人集まって、それはそれは賑やかなご縁日となっていたものでございます。


 さりとて時は大正十三年。


 先年に起きた大震災の影響でこの八ヶ月余りお薬師様での縁日は中止されていたのでございます。復興の兆しというべきなのでございましょうか、久方ぶりに催されることになったご縁日は、先行きの明るさを象徴しているように思えたものでございます。


 自然、食卓の話題はご縁日のものとなり、「ご縁日と言えば」と口を開いた河上君。


「小生が思い出すのは、お面売りの女の子ですねェ」


 それは昨年の夏頃のこと。


 お薬師様のご縁日で河上君の目にとまったのは、一人の少女。

 桃太郎、金太郎、お多福、赤鬼などなどと、セルロイド造りの安っぽいお面を売る露店を出しておりまして。


 ただし露店と言っても屋台を出していたわけでもなく。居並ぶ露店の狭い空き場に一枚広げた古洋傘ふるこうもり

 その布にせいぜい十枚程度のお面を虫ピンで刺しているだけのいささか貧相な佇まい。


 その脇に座る少女は十四、五かといった年の頃。

 男物を仕立て直したと思われるチンチクリンのお着物で。なによりその少女に目を向けずにいられなかったのは、その子の背には襁褓むつきに包まれた赤子が背負われていたからで。


 貧しく侘びしい佇まい。生活苦が顔に出ている……などと言っては失礼でしょうが、いつの日にも顔色は暗く浅黒く。

 ご縁日というハレの日には似つかわしくない風体で。

 客寄せの声をあげるわけでもなくお薬師様の門の陰に隠れるようにひっそりと。商売する気があるのやらないのやら。


 全部のお面が売れても一円そこそこ、すると一日の儲けは如何ほどばかりかと、頼まれもしないのに河上君、妙に気になり心配になり。

 自分の方こそ貧乏書生でありながら、よせばいいのに無駄にお面を二枚三枚、おまけに「釣りはいらないヨ」と多めの支払いエエカッコしいの河上君。


 そんな彼氏に向かうのは、賛美や感心よりも呆れた視線。

「それってさあ、そういう手なんじゃないの? 同情を惹いて品物を買わせようとかさ」


 皮肉めいた涼嬢の声にぽかんと口開け河上君。考えもしなかったとでもいうような間抜けな表情。

「い、いや。そうだとしてもだネ、あの娘が苦労しているのは間違いないだろうし、小生のお節介が手助けになったのだとしたら、あの様子が演技だろうがなかろうが同じことだヨ」

 分かったような物言いなれど、どこか弁明、言い訳じみて聞こえるのが河上君らしさというべきでございましょうか。


「それに、演技をしているような様子にも見えなかったンだけどねェ」

「そうですよ涼さん。憶測だけで人様をあしざまに言うものではありません」


 不満顔の涼嬢も、お母様から窘められれば「はあい」と答える他なくて。

 ほっと一息、安堵のため息河上君。

 もっとも、なぜにそれほど涼嬢が不満顔なのか分からぬあたりも彼氏らしいというもので。


「まあ何にせよ、元気でやってくれているといいンですけど。今度のご縁日でもあの姉妹に会えると嬉しいですねェ」

 なんぞと屈託無く。おかげで涼嬢の顔もますます強ばるひきつる険しくなる。

 何とも罪作りな朴念仁でございます。

 涼嬢の口が開いて皮肉が飛び出るその前に、


「あら。違いますわよ、河上さん」


「へ? 違うって何がですか、奥様」

「河上さんの仰っている方ならわたくしも存じておりますが、ご姉妹きょうだいではなくて母娘おやこですわ。連れておられた赤ちゃんはその方のお子様です」


「え? そうだったンですか。随分とお若く見えたのでてっきりご姉妹だとばかり思っていましたヨ」


「そうか、河上君は知らなかったか」

 と骸惚先生、チョイト意外そうな声。

「あの娘……いや、娘などというのは失礼か。あのご婦人は、見た目だけでなく実際に若くてね。嫁いできた時は今時少々めずらしいと人の噂にも登ったものだよ。確か、涼よりも年下なんじゃあなかったかな」


 今の世に比べれば、婚期適齢期は随分と低いこの時代。

 とは言え、女子教育も盛んになり職業婦人も多く生まれた時代でもございまして。二十代の半ばや後半まで独り身を通されるご婦人方もまた多く。


 それらに比べてみると、やはり十も半ばを前にして嫁いでこられる方はもの珍しくも映るようでございます。


「河上さん、魚正さんはご存じですわよね?」

「へ? 魚正って坂の途中にある魚屋のことですよね? そりゃァ知っていますヨ。このすぐそばですし、何度も店の前も通ったこともありますから。威勢の良いお内儀かみさんがいらっしゃるところでしょう」


 突然、あさっての方向へ話題が飛んで。

 訳の分からぬなりに河上君が答えれば、にこり微笑み澄夫人。


「河上さんの仰ったご家族、玉川さんと仰るのですけれど、その魚正さんの裏手にお住まいなんですよ」


「ああ、そういうことですか」ぽんと手を拍ち合点がいったと河上君。


「でも変ですね。そんなに近くに住んでおられるのに、小生、そのご婦人にご縁日以外でお目に掛かったことがないンですが」


「ああ」と澄夫人。河上君の疑問に、きゅっと眉寄せ痛ましげ。口調も重く辛そうに。

「その玉川さんの奥様は、どうもあまりお心がお丈夫ではない方のようで……」


「心が丈夫でないというと、精神病とかそういった類のご病気をお持ちということですか?」


「わたくしには難しいことは分かりませんが……。なんでも、常日頃から無気力なご様子で、一日中、呆っとして過ごすこともあるというお話です。家の外に出ることも滅多にないのだそうですわ」

「ははァ……そうでしたか」


「そう言えば、今日、魚正さんでお買い物をした時に、ちょうどその玉川さんの奥様のお話が出まして、少しおかしなお話を聞いて参りましたわ」


「おかしな話?」

 聞き返したのは河上君ではございましたが、周りを見れば骸惚先生に二人のご令嬢までも揃って興味津々の体。


 そのお姿を見れば、ご令嬢がさまざまな事件に興味を持つのも、河上君の影響とだけではないとも思われますが。


 澄夫人がそっと小さくため息をついたのは、そんな一家の様子に呆れた……というばかりではないようで。次に口から飛び出たその一言は。


「なんでも、お子さんがかどわかされたとか」


「かっ、拐かし!? 誘拐ですかっ」

 驚き目を剥き河上君。

「一週間ほど前に、そのような騒ぎになったと、魚正の奥様が仰ってましたわ」

 澄夫人の耳に入ったおかしな話。


 魚正のお内儀かみさんが語られたその話とは、このようなものでございました。

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