第壹話 伍節
語り終えた河上君。その話の暗さと重さに周囲は自然と静まり返り。
しばらく経って聞こえてきたのは、押し殺したような嗚咽の声。
「わ、わあっ。はつ、溌子ちゃん!?」
眼を剥き慌てふためく河上君。それもそのはず彼氏の瞳に映るのは、幼い少女が両の眼からぽろぽろ涙をこぼす姿。
もっとも慌てふためいたのは河上君ばかりでなく、当の本人溌子嬢すら、しきりに涙を拭って
「ご、ごめ……ごめんなさい。そんな、そんなつもりはなかったんですけど、登美子さんが可哀想だと思ったらつい我慢できなくて……」
「い、今のは小生が勝手に考えたことで、本当にそうだったのかなんて分からないヨ」
河上君がそう言えば、涼嬢までもが彼氏同様慌てた様子。
「そうよ、そうに決まってるわ。太一ったら適当なことばっかり言うんだから。ちょっとは物を考えて喋りなさいよねっ」
そう言われれば、河上君とて最前の自分を思い出し、「だから、小生は黙っていようと……」と一瞬口から出かけるものの、ジロリ涼嬢から睨まれて。
「ああ、まったくその通りだねェ。小生の考えなしには自分でも困ってしまうヨ」
道化めいて滑稽で。
なんとも情けない姿ではございますが、それもまた河上君らしくもあり。
ようやく溌子嬢の顔にもうっすら浮かぶ笑い顔。
「ねえ、父様だってそう思うでしょう? 太一の言ってることなんかまるきり
お父様に期待に満ちた視線を向ける涼嬢で。
他でもない骸惚先生が「否」と仰れば、誰しも納得せざるを得ず。
ところが骸惚先生、即答せずに。
銜え煙草で腕組んで。視線を上に思案顔。
「まるきり出鱈目というのはどうかな。一応、筋道の通った話だと思うがね」
「そ、そんなあ」
情けない声をあげる涼嬢で。今度は彼女さえも泣き出してしまいそうな勢いでもございまして。
それを眺める骸惚先生、ぴくりとわずかに頬歪め。なにやらどこか愉快そう。
「旦那様」
と、そこに差し挟まれた声は澄夫人。
視線は冷ややか、咎め立てる声。
「娘の泣く姿を見て楽しんでいるなんてご趣味が悪いですわよ。それにお夕食の最中なのですから、あまり殺伐としたお話は困りますわ」
細君に咎められ、此度ははっきり微苦笑で。
「わかった、悪かったよ。
確かに河上君の意見は一応、筋道の通った話ではあったんだが、気づいていない
澄夫人のご指摘通り、ご令嬢が慌てふためく姿を楽しんで見ていた様子の骸惚先生ではございましたが。
「それならそうと早く言ってよね。まったく、人が悪いんだからっ」
と、涼嬢に睨まれるくらいならまだしもの、
「お父様……ひどいです」
泣きはらした目で溌子嬢からも責められては、居心地も悪くなるようで。
「だから、悪かったと言っているじゃあないか」
まるで拗ねたようなお言葉で。
どうやら、溌子嬢の涙には勝てぬご一家のよう。
「あの、骸惚先生。小生の気づいていない疵っていうのは何なンでしょうか?」
常に守勢に立たされる自分を省みて、骸惚先生を哀れんだ……かどうかは定かではございませんが、話題を戻す河上君。
渡りに船とばかりにこれに食いつく骸惚先生でございます。
「君の話の中だと、玉川夫妻――あるいは玉川夫人が気にしたのは《世間体》ということだっただろう?
現状で狂言誘拐という観点から考えれば、ごく自然な思考だと言える。もっとも、狂言誘拐に辿り着いた時点でいささか思考の飛躍が存在してはいるがね」
「は、はあ」と、曖昧に河上君。褒められているのか貶されているのか分からず首を捻り。
「とすると、疵というのは……」
「僕らが知らないということだよ」
「へ?」と、口開け間抜けな河上君。そんな弟子の様子を眺めては、愉快そうに紫煙をぷかりと骸惚先生。
「いいかい、河上君。君の言う《世間体》、その《世間》の中には、当然僕らも含まれているということを忘れているんじゃあないのかい。
僕らはつい先ほど、澄の話で登美子嬢が拐かされたことを知っただろう?
だが、この家から魚正まではせいぜい半町。その裏にある玉川家も同じ程度の距離だ。
その家で起きた誘拐事件なんてものが、僕らの耳に入ってこないのはなぜだい」
「え、えっと……あまり人に知られたくないと玉川夫妻が判断した、とか」
発言しておいて、自分でも分かるほどに苦しい反論で。
骸惚先生が思わず吹き出してしまうほどに苦しくて。
「おいおい。君は狂言を疑っていたんじゃあないのか。
普通の誘拐事件ならそういうこともあるだろうが、狂言なのだから少しでも多くの人に知ってもらわねば意味がないだろうに。それでこそ彼らが気にしている《世間体》も保たれるというものだ」
「それはそうですね……」
同意しつつもチョイト思案の河上君。
「ですが、先生。世間という大きな枠組みではなくて、もっと少数の近しい人たち――例えば玉川夫人が犯人だったとして、ご自身の旦那さんとか魚正さんとかを騙そうとしたとは考えられないでしょうか?
そういう意図を持って狂言の露呈を避けるために、恣意的に話が広まるのを避けた、あるいは妨害したのだとすれば、小生たちが知らないことへの説明になるのではないでしょうか」
「そういうことじゃあないんだよ。
君はこの話を登美子嬢の誘拐が狂言か否かという観点で論じているが、そもそもその前提からして間違っている。
これは誘拐事件じゃあない」
「へ? でも……」と河上君、首捻り。
けれども不意に何かに気付くと、「あっ」と声上げ手を拍って。
微笑み頷く骸惚先生。
「ようやく気付いたようだね。
これは、現時点では登美子嬢が誘拐された事件ではなく、登美子嬢が行方不明になった事件なんだよ。
ならば、まずは子供の行方を捜そうとするはずさ。その時、玉川夫妻にとれる手段は多くはない。
せいぜいが近隣住民に娘の行方を聞いて回るという程度だろう。だとしたら、同じ近隣住民である僕らが知らなかったはずがない」
「玉川ご夫妻に何か特別な伝手があって、そちらに捜索を任せたとか……」
「仮にそうだとしても、自分の娘がいなくなったんだ。考えられるありとあらゆる手段を使おうとするものじゃあないかな」
「ああ、それもそうですよねェ。確かに小生たちがまったく知らなかったというのは奇妙ですね……何らかの事情があって、周囲には報せないようにしていたンでしょうか」
「大まかに言えばそういうことになるのかもしれないね。しかし、そうすると今度は、なぜ今になって僕らの耳に入ってきたのかという疑問が生じるわけだが――」
「そ、そうかっ」
何を思ったのか河上君、骸惚先生のお話の半ばで突然、大きく声あげて。
「魚正のお内儀さんが、意図的に小生らの耳に入るようにしたンですね?
考えても見れば、そもそも《拐かし》という言葉を使ったのはお内儀さんでした。本来、行方不明事件であるのを誘拐事件だと称したのは、それが実は誘拐であると、ご本人が知っていたから……」
眉を寄せ、表情を険しくする河上君とは裏腹に、どこか暢気な調子の骸惚先生。
「待ちたまえ。君は少し結論を急ぎすぎているようだよ」と彼氏を諌め。
「確かに、誘拐事件だと思ってしまったのは、澄が僕らにそう伝えたからで、翻って魚正のお内儀がそう言ったからだろう。
登美子嬢の行方不明を僕らが知らなかったにも拘わらず、事情に詳しかった様子から、彼女が何らかの形で事件に関わっているのは間違いない。
ただ、彼女に疑いの目を向けた場合、今更周囲に漏らす利点が存在しているとは思えないがね」
骸惚先生の反論を受け、しばし沈思黙考、河上君。
やがて口を開くと長口上。
「最初から考え直してみますと、この事件は骸惚先生が仰ったように、現時点では誘拐ではなく行方不明事件ということになるのは分かります。
けれど、いなくなった登美子ちゃんは一歳か二歳といった年齢で、自分から親御さんの目に届かないようなところへ行けるような年齢ではありません。
だとすれば、登美子ちゃんを連れて出た人物がどこかには存在するはずですよね?
身代金といった要求はないようですし、そもそも金銭目的であるのなら玉川家を狙うとも思えない。また、今言ったように登美子ちゃんはまだ乳児といってもいい年齢ですので、見世物などに供するといった面での、言ってみれば《商品》としての価値があるようにも思えません。
すると、犯人――便宜上、登美子ちゃんを連れ去った人物をこう呼びますが――には、登美子ちゃんが必要であったのではなく、登美子ちゃんが不必要であったのではないでしょうか。
つまり、登美子ちゃんがいなくなること自体が犯人の利点であった。
ですから小生はまず狂言を疑いました。
玉川さんの奥さんが育児にご苦労なさっている様子なのは聞いていても分かりましたから、登美子ちゃんがいなくなって一番得をするのは奥さんなンじゃァないか、と……」
「河上君らしからぬ、少々人の悪い考えだったね」
「め、面目ないです……」
「まあ、くどくどは言うまい。登美子嬢がいなくなることが玉川夫人にとって得であるかどうかという以前の問題で、その考えには疑問点があるということだったわけだが?」
縮こまって恐縮するも、骸惚先生に促され、再び口を開いく河上君。
「あ、はい。骸惚先生が仰ったように、そう考えると今度は小生たちの耳に事件のことがまったく入ってこなかったことが奇妙に思えてしまう。
仮に犯人だった場合、玉川さんの奥さんとしては、登美子ちゃんが誘拐されたとするにしても単に行方不明で済ますにしても、狂言であるからこそ《それらしい》行動をとらなくてはならない。
いろんな人に行方を聞いて回ったり、他の人にも捜索を頼んだり。
その時、小生ばかりかこの家に住むどなたもそのことを知らなかったと言うのは、確かに考えられないことですね。
その場合、逆に噂の広まりを操作することができる立場にいる人物――真っ先に事件のことを知り、その後の行動を決した人物――魚正のお内儀さんが怪しいように思えたンですが……」
「顔見知りの人間をそうも簡単に疑えてしまうのは、探偵としてはともかく、人としてはあまり褒められたことではないのじゃあないか?」
河上君に告げる骸惚先生のご様子は、咎めるというより面白がっている風にも見え。事実、しゅんと小さくなる河上君に意地の悪い笑みを向けていたものでございます。
「何を言ってるのよ。全部、父様の影響じゃない」
そこに口を挟むは涼嬢で。呆れた顔でため息ついて。忌々しげに首振って。
「一年前の太一だったら、今みたいなことを言ったりしなかったわよ。でも、父様のやり方を見て、できるだけそれを真似しようとしてるからあんな穿った考え方をするようになったんじゃない。
その影響を与えた張本人が偉そうに言うものじゃないわ」
「僕の影響という点については今更否定もしないがね。ただ、僕自身がそうしろと言ったわけでもないし、そうなるように仕向けたわけでもない。
僕の責任のように言われるのは心外だね」
一向に悪びれぬ骸惚先生に、「詭弁だわ」と強い口調の涼嬢で。
「たとえ見習えって言っていなかったとしても、弟子が師匠を見習おうとするのは当たり前じゃない。太一が弟子になるのは父様が認めたことなんだから、その責任は持つべきよ」
「責任ねえ。僕のことは見習うなと河上君に言った方がいいってことかい? どうも、似たようなことは以前に言った覚えがあるんだが」
「太一が望んでることなんだから、別にそこまでは言ってないけど……」
ぶつくさ煮え切らぬ涼嬢の、お心を見抜いておられたのが澄夫人。
「河上さんにあまりお人が悪くなられては、将来の暮らしが大変かもしれませんものね。涼さんはなおのこと心配でしょう」
含みを持たせたその一言。涼嬢の顔を染めさせるには充分で。
ところが話題の中心であるにも拘わらず、ぽかんとするばかりが河上君。涼嬢を呆れ顔にするにも充分で。
「もう、いいわ……」と、肩を落とすばかりの涼嬢でございました。
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