04.他人の悲劇は、常にうんざりするほど月並みである。
「将吾さん、パンはどうされますか?」
「お母様、コンフィチュールをたっぷり塗ってもいい?」
「学校に行く前にもう一度歯磨きをするって約束出来る?」
「はい!」
「じゃあ雪島さん、イチジクのコンフィチュールを塗ってあげてね。」
「はい、奥様」
「雪島さん、今朝の紅茶って何?」
「正紀様、マリアージュフレールのハッピーバレーでございます」
古い洋画のワンシーンのような朝食の光景を横目に、私は野崎に「車は回さなくていいから」と告げた。
雪島は野崎と違って、将来を期待される私の兄や腹違いの弟達の世話係だ。馬鹿馬鹿しいくらいに気取った兄弟の相手を誇らしげと言わんばかりに甲斐甲斐しくやっている。
「朝陽」
薔薇の棘に洋服の裾が引っかかるように、私の体は刺々しい低い声に引っかかって止まった。顔をリビングに向ける。そこには読み終えた分厚い本を閉じながらソファーで足を組んで腰掛けている兄がこちらを睨んでいた。
神田長太郎。
神田家の期待を一身に背負ってきた神田家のご長男であり、私とは血の繋がった兄だ。現在は大学に通いながら父の補佐をしている。つり上がった目は私と良く似ているけれど他に引き継いだパーツだったり、パーツの所在地だったりで、よくもまあこんなに違う顔立ちの兄妹になるものだと思う。
「野崎に車を回させろ」
「…必要ありません。徒歩で間に合います」
「お前は神田家の娘という意識が無さすぎる。」
車での送迎で神田家の意識だなんてことがあるわけない。けれどそう思っても口に出せない所がいけない。反論の炎を燻らせた視線を足元に向けて口を閉ざしているとジリジリと床が揺らいだ。
ーいけない!兄が消えちゃう!
そう思ってガバッ!と頭を上げた。
急に目があった兄は多少驚いた顔をしたけれどすぐに「不快」という表情に切り替え「聞いてるのか」と再び私に声を投げた。
「お母様、お姉さまは怒られているの?」
「将吾は気にせずパンを食べなさい。」
「将吾、お姉さまと呼ぶとお父様にまた注意されるぞ」
「…はぁい」と、まだ8歳の将吾は小さく返事をしてもぐもぐとパンを食べ始めた。
私は「このまま消してやればよかった」と素直に思った。兄の存在も、弟達の存在も…そしたら義母は追い出されていただろうか?だったら同じように消す方が幸せだったのかもしれない。そこまで思って「何てことを考えたんだろう」と小さく首を横に振る。
いや、でも消えてしまえば元から存在しなくなるってベリアルが…
いやいや、だからって私はバカだろうか。
色々考えて悶々としていると、急に左の側頭部に衝撃が走って体が揺らいだ。あ、兄の存在を忘れていた、と思ったのは、兄の手に持っている本で殴られたんだと理解したと同時だった。
「聞いてるのか」
荒々しい手段の割に声は全く変わらない温度だから余計に嫌になる。ふらつく体を立て直しながらなるだけ冷静に「聞いています」とだけ答えてみたけれど、気持ちに反して唇が震えてしまった。
「野崎、朝陽に車を回せ」
「は、はい、只今」
「朝日、さっさと行け。」
そう言われてリビングから出ようとすると「朝陽さん、将吾達の教育に悪いから挨拶はきちんとして頂戴」と言われた。殴る場面を見せたり、家族をいびる場面を見せる方が教育に悪いんじゃないだろうかと思いながら私はやっぱりそれを口にせずに「行ってまいります」とだけ零した。
「大丈夫ですか?」
車に乗り込むと野崎さんが氷を包んだタオルを差し出してくれた。恥ずかしいやら、悔しいやら、腹が立つやら…感情ははっきりわからなかったけれど今はとにかく「絶対に泣きたくない」という気持ちだった。
「大丈夫だから、TVつけて」
そう言って後部座席に乗り込むと、運転席との間仕切りになっている黒いカーテンを乱暴に締めた。野崎さんは「は、はい」と焦るような口調で言われるがままに後部座席のテレビをつけると黙り込んだ。タッチパネルでチャンネルを情報番組に合わせるといつもより音量を上げる。そうして小さい声で野崎さんに「ごめんなさい」と呟いた。勿論彼に私の声は届かないのだけれど。
ー○○県で9ヶ月になる息子を殴り殺したとして26歳の母親とその恋人の29歳の男性が逮捕されました。
ー日本時間の午前3時頃、☆☆☆で爆発事件が起こりました。日本人の安否は不明です。
ー生活保護不正受給で**に住む40代の夫婦が逮捕されました。
流れるテレビの音を聞きながら「可哀想な赤ちゃん」「爆発事件なんて可哀想」と、自然と自分より可哀想な人を探す事に気付く度に「私はなんて捻くれた性格なんだろう」と思う。
兄に殴られても怪我はない私より、家族に見放されている私より、あんな家に生まれた私よりー・・・
自分より幸せな人はきっと数え切れないほどいて、自分より不幸せな人もきっと数え切れないほどいる。
その基準を決めることは私だ。
そうする以外、私は前に進んでいく事が出来なかった。私よりも存在価値のない人を見つけないと安心できない。自分はまだマシ、自分はまだマシ…
けどそれが何の意味があるんだろう。
考えていたら殴られた場所がズキズキと余計に痛みだした。
「でもさ、それってもしかしたら周りもそうなんじゃない?」
急に隣から声がして顔を向けると、朝の日差しに金糸のような髪を輝かせながらベリアルが大きな欠伸をしていた。
「もしかしたら、君を見て”私より可哀想な朝陽ちゃんがいるからまだマシ”って思ってる人もいるんじゃない?」
「…それって悪魔の囁き?」
「まさか!だって君、半分くらいは悪魔じゃない。人間を誑かすのは好きだけど、半分でも同業者なら魅力は減るなぁ。」
ベリアルはピン!と右手の人差し指を立てると何もない車内の空間で小さくクルクルとそれを回す。クルクルと回していると段々黒い霧がかかってきた。そうしてそこに「フッ」と息を吹きかければ小さな頭蓋骨が浮かんだ。頭に穴が空いている。
「…どんな子どもも親を選べないからね。9ヶ月の赤ん坊の頭に穴が空くほど殴るなんて、悪魔でもしないよね」
そういって、彼は目を細めてその骨を見ていた。
「でも、これは特別な事じゃない。世の中同じような目に遭う赤ん坊がいるのもまた事実。殺人事件も、いじめも、虐待も、昔から存在するじゃない。いつだって、誰かの生活の脇に潜む小さな景色なんだよ。皆が声を高くして願うものは、決して叶わないんだよ、どんな時代でもね」
「君もおんなじだよ。よくある事情で、誰かの小さな景色なんだ」とベリアルは笑った。
私は「兄に殴られた場所と同じ位置に穴があるなぁ」とその小さな頭蓋骨を見つめながら胸の中がジリジリと燃えるような痛みを感じ始めていた。
帳を降ろせ 夏目彦一 @natsume151
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