02.殆どの人々は、他の人々である
思っていたよりも、悪魔のいる世界は明るい。
窓に囲まれたサンルームで、ベリアルはのんびりと「金魚図鑑」を読んでいる。
多分私が見間違っていなければ、その本は私の部屋にあったものだ。
彼はあの後「命は大事だよ」と私を解き伏せた。
まぁ、言われれば勿論命は大事だなぁと、ただそれだけ思った。それだけで、私は彼の願いを受け入れてしまった。
そう、どうやら私は悪魔に【召喚】されたらしい。
おかげ様でこうして、悪魔の棲む世界と、私が住んでいる世界を自由気ままに行き来できるようになった。
そして気づいた。
どうやら神も天使も人間もいないこの世界にも、等しく太陽は当たるみたいだ。
なんだっけ、そういうの・・・「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」っていうやつ。
「”山上の垂訓”の、”敵を愛しなさい”ってやつじゃないかな?」
「そうだ、そうだ。聖書の、それだ。」
私はさんさんと降り注ぐ太陽を浴びながらまだ事故から2週間しか経っていないんだなぁと思い出していた。
あの後、私は医者もびっくりの回復力であっという間に病院を退院した。
退院する時は野崎さんが一人で迎えに来てくれた。
野崎さんとは、父が私によこした「お目付け役」だ。随分長い事私の世話をしてくれている。
外見は眼鏡にスーツ姿という真面目を絵に描いたような人で、中身は非常に世話焼きの心配性。事故の後、私を一番心配してくれたのは、家族でもなんでもない、野崎さんだった。野崎さんも可哀想に。私の「お目付け役」ということは、父が何かを切らなければならない時、彼は一番にその候補にあがるだろう。
ちょっとだけ悪魔の能力を齧った私は、ちょっとだけ色々自由になった。
例えばソファーに腰かけて「あぁ、テレビを消したいな」と思うとチャンネルを触らなくてもテレビの電源が落ちる。冷えた紅茶に「ふぅ」と息を吹きかければ再び湯気を立たせることが出来るし、「体育が面倒だ」と思うと天気を雨に変える事も出来るようになった。
私の何かが変わっても、私の周りは何一つ変わりはしなかった。利己心だけの父と、何事も他人事の母と、無関心な兄。
あぁ、一つ変わったことと言えば、妙に動物に嫌われるくらいだ。道行く猫は私を見ると唸るし、すれ違う犬は100%吠えてくる。鳥も、蝶も、魚も。この世のすべてから嫌われてしまったようだ。
「それは違うよ」
ベリアルはそういった。
サンルームにはベリアルのもたれ掛ったロッキングチェアと、渋い赤色のチェスターフィールドソファーと猫足のカフェテーブルが置かれている。
私はその赤色のソファーに座って、サンサンと太陽を浴びながらカフェテーブルに置かれたイチゴをほおばっている。イチゴは、「食べたいなぁ」と思ったらどこからか飛んできたコウモリが持ってきてくれた。ちょっとだけ「映画みたいだ」と興奮したけれど、そこはあえて顔に出さないように冷静を保つように心がけておいた。
ベリアルのロッキングチェアはギィ、ギィ、と鳴く。
どうやらこのチェアはとても年季が入っているようだ。
彼はこれが随分をお気に入りらしく、【こちら】に来ると大抵はこの椅子で、いつの間にか私の部屋から持ってきたらしい本を片手に微睡んでいる。(先日は無機化学の教科書、その前は司馬遼太郎の"燃えよ剣"だった)
「動物って純粋だからね。悪魔が怖いんだよ。嫌いじゃないよ」
「怖いも嫌いも、似たようなものでしょう?」
「大きく違うよ。それに僕たちを嫌いなのって、そうだなぁ、天使くらいじゃないかな?」
「えっ、そうなの?」
「そりゃぁそうだよ。外見は美しい。その上すべての欲望を理解できる。誰かが間違っていても正すことはないから、批判もしなければ説教もしない」
「天使以外は愛したくなくても愛してしまう。そういう風に出来てる」とベリアルは笑った。
彼の笑顔は綿菓子みたいだ。甘くて、ふわっとしていて、あっという間に消えてしまう。
「動物は純粋だけど、妙に勘が働くからね。だから、愛してしまわないように本能で悪魔を避ける。嫌だよねぇ。だから僕は猫も犬も嫌いだけどね」
「君だって変わっていくんだよ」というもんだから、私は思わず眉根を寄せた。
「悪魔の力は偉大だよ。ほんのちょっとでも大きく変化する。日ごとに君は美しくなって、そのうち老若男女の誰もが放ってはおけなくなる。何でも自由自在に操れるくらいにね」
「美しく・・・」
「うん。今は地味だけどね」
一言余計だ。
確かに私の見た目は地味だ。特徴なんて長い髪だけだし、褒められることと言えばその髪が絹みたいに綺麗だねって事しかない。
家族の周りにいる人たちは、皆そういって私に微笑むのだ。
そしてそこに、私への興味は一切ない。どうやって父に取り入ろうか、どうやって父に出資してもらおうか、どうやって兄を射止めようか・・・私はいつも、その足枷に過ぎない。
「ベリアル、ベリアル、いるのかい?」
聞き覚えのない声と、カツーン、カツーンというヒールの音が響く。
ベリアルは「いるよ~」と間延びした声を出した。
「君、聞いたよ!ついに人間を【召喚】したんだって?」
そういってサンルームにやってきたのは、随分と背の高い男性だった。
ソバージュヘアーの真っ赤な髪に、真っ黒なフロントレースのブラウスには髪色に似た真っ赤なリボンが結われている。黒いテーパードパンツの裾から顔を出しているレースアップのブーツのつま先は私の方にツン、と向いている。
「そう。ついにやったよ。コレは朝陽。人間の、17歳の女の子だよ」
「コレって言わないでよ」
「へぇ・・・悪魔を必要としていない人間を手に入れるなんて、君、さすがだね」
彼はベリアルに拍手を送った。
その手は伸びた爪が真っ黒で、私は少しだけ怖くなってしまった。小さく唾を飲むとそれに気付いたベリアルは「君は悪魔に召喚された人間だから、別に悪魔に捕って食われる、なんてことはないよ。むしろ、彼らは君に友好を示すから安心していい」と微笑む。
「初めまして。私はアモン。ベリアルの古くからの友人だよ」
本当にそのようで、アモンという悪魔は私に左手を差し出してきた。
「挨拶の握手に左手・・・この人は左利きなんだなぁ」と思いながら私も左手を差し出すと、彼は差し出した手を取ってその甲に唇を落とす。
思いがけない行動に思わず手をひっこめると、ベリアルはお腹を抱えて笑い出した。
「確かに【召喚】された人間みたいだね。私達の魅力は伝わっていないみたいだ」
「み、魅力?」
「普通の人間は、たった一つの悪魔のキスで頭の先から爪の先まで血液が沸騰する。心臓がひっくり返って、何も考えられなくなる。人間の世界ではそれを「恋」と呼ぶらしいね。そうなれば悪魔(こちら)の思うつぼなんだけど、君はもう半分悪魔だから、「恋」はせずに「反応」はしてしまうって言う事だろうね」
「面白い」と、アモンは腕を組んで一人で頷いている。
「君は人間を魅了し、悪魔と対等に生きる事が出来るというわけだ。そんな存在は、宇宙全体を探しても、君だけだよ」
そういうと、ベリアルは「金魚図鑑」をアモンに差し出した。
アモンはそれをパラパラとめくると「これもなかなか面白い」と一人で頷きながらサンルームを出て行った。
彼はいったい何なのか、とベリアルに聞くと「同居人」とだけ答える。
「ど、同居人?」
「” 人”はおかしいね。同居”悪魔”?ここは他にも悪魔が棲んでいるからね。まぁ、気にしなくていいよ。最初は君も興味をもたれるだろうけれど、前に言ったように別に捕って食べたりしないから。知り合えばその興味も逸れて、君がいるのも当たり前になる」
「まぁ仮に食べたとしても人間じゃないからおいしくはないだろうしね」と、恐ろしい事を言いながらベリアルはサンルームを去って行った。
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