帳を降ろせ

夏目彦一

01.彼女は、弱さという何とも言えない魅力を欠いている

今すぐ飛びたい、と思う瞬間がある。

そんな時目をつぶると、瞼の裏に映る光景は何故か、ブクブクと酸素を吐き出しながら水の中に沈んでいく自分だ。

飛びたいのに、沈む。

酸素が段々と少なくなると、瞼の裏の景色は鮮やかさを増していく。

キラキラと眩く揺れる青、そして誰にも捕まえられない水泡の白、そして差し込む光の金。 


世の中は無限の色で彩られている。

中学に入ってすぐの美術の授業で「静物画を描く」という課題が出された。

古びた醤油色の花瓶、真新しい白の規定靴、このためだけに用意された赤い造花のバラ。

見たままに色を塗れば、教師は「もっとよく見てごらん。他にも沢山の色が入っていると思わない?」と耳元で告げた。

また、ある時には「人物画を描く」という課題が出された。

教師は「瞳には黒や緑、濃紺、光りが射すと白や黄色が現れる」と得意気に語った。

私から見れば、バラは赤にしか見えないし、瞳は焦げた茶色にしか見えない。

なんでこうも簡単なものを複雑に説明するんだろう、と思いながら盗み見た隣の席の子の画は、沢山の色が繊細に駆使されていて「素晴らしい」と称賛されていた。

「あぁ、私が変なんだ」と思い知るには十分だった。


世界は騒がしく、そしてとても難しい色で描かれている。

私は、私を嫌う多くの人が良くわかる。

けれど、その多くの人は私に笑顔で話しかけるし、髪型を変えれば褒めてくれる。

病気になれば気を遣って見舞ってくれた。そして部屋を出ると違う意味で私を笑う。

誰かに話せば「気にしすぎだよ」と笑い飛ばしてくれることもわかっていた。

だから誰にも言わなかった。


「人間なんてそういうものだよ。僕から見ればよくわかる。そういうのに気付かないのも人間なんだけどね」


それは、不運な事故だった。

学校へ行く途中、私は車に撥ねられた。

しかも、物の見事に逃げられた。


「一度、心臓が止まりました」


「最前は尽くします」と医師は告げた。

私はそれを、病院に駆け付けた父親の隣で聴いていた。

これが魂の姿っていうやつか。

左腕に着けたロレックスを見た父は「講演会に遅れるなんてことはありえん」と告げる。それを医師が批判めいた目で見ている事は、私以外誰も気づいていないと思う。

母が「でも、不幸って投票率に繋がるかもしれませんよ」と言うと、兄は「そういうことでしか役に立たない妹だ」と続けた。私は、今の姿が丁度いいと思った。


「冷静だね」


「こんなものだって、わかっているから。あんた誰?幽霊?それともお迎えの人?」


「僕の名前はベリアル。こんなナリでも、悪魔だよ」


自分でも「悪魔らしくない」って知っているみたいだ。

金色の、ワンレンのグランジウェーブのかかった髪はしっとりと彼の肩につく長さまである。

ヴァイオレットサファイアのような目は、どこか私をあざ笑うようにこっちを向いて、細めている。

真っ白なVネックのニットに、真っ白なジーンズ姿で、足を組んで宙にふわふわと浮いている。


神々しいにもほどがある。


「君が事故に遭ったのも、ここでこうして生死の境をさ迷っているのも、実を言うと僕のおかげなんだよね。ちょっとお話がしたくって。 」


「お か げ」


「なぜかって言うと、僕が召喚させてもらったからなんだよね」


「召 喚」


「そう。ねぇ君、悪魔に興味ない?」


悪魔らしい彼は、そういって一度パチン!と指を鳴らした。

するとさっきまで私の生死に興味のなさそうだった家族が立っているだけの病院だった景色が段々と幅を無くしていく。

まるで、帳が降りているみたいだ。

見ていたはずのステージが、段々と見えなくなって、終わる。

そうすると、パッと明るくなって、足元がふわふわとした感覚に襲われた。

足元を見ると絨毯だ。見るからに高そうな、ペルシャ絨毯の上に、ローファーで立っていた。


「ここは僕のお城。まぁ・・・人間も天使も、神様もいない世界。君が僕に召喚されれば、君は僕の能力で命を繋げることが出来るし、こうしてこの”世界”も自由に行き来が出来る。少々の悪魔の能力を持つことが出来るっていう感じかな。」


「・・・断ったら?」


「そりゃ死んじゃうよ。だって、今もすっごいギリギリで生きてるからね」


「えっと・・・事故に遭わせたのは・・・」


「だから、僕。何度説明したらわかるの。同じことは二度言いたくないんだけど。」


選択肢が無さすぎる。

悪魔が私を事故に遭わせたのは「召喚」の話を持ちかけるためで、私は「召喚」を受け入れて悪魔の能力をちょっとだけ持った人間になるか、「召喚」を拒否して死ぬか。


選択肢が本当に無さすぎる。

あと、この高級そうな絨毯の上でローファーを履くことは心が痛む。

悪魔のベリアルは、私をニコニコと見ている。

まるで、答えは一つだと彼の中で出ているみたいだ。

私は、というと、病院での家族を思い出していた。

無関心で、自己心しかないあの家族を。


「・・・拒否する。別に、死んでもいいし。その方がちょっと、ホッとするかも。」


そういうと悪魔はたいそう驚いた目を私に向けた。

そして思いのほか情けない顔で一言だけ私に乞うように告げた。


「えっ・・・生きようよ。命は大事だよ。」

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