第5話

 二人は再び出国した。野口の休みは何とかなった。もともと野口が居ても居なくても回る職場だし、野口は職場の人間と全く私的な交流も無かったので、罪悪感もなかった。そもそも有給は与えられた権利なのだし、なぜ皆が消費に罪悪感を覚えるのか、野口は理解できなかった。それに野口はこの仕事を辞めて、次を探す頃合いかもしれないと感じていた。


 しかし、今回はそういうことは全て忘れて、対峙しなければならないことに向き合うのは、この吉田の件を終わらせてからにしよう、そう昨晩決心して、野口は眠りについた。前回と違って、今回は長いフライトである。世界一広大な大陸を横断するのは、二軸ユニットから三軸ユニットに進化したエンジンを持ってしても、半日以上掛かる。機内食が二回出てくる。つまり、“Fish or Meet?”好き嫌い、アレルギー、宗教、信念上の理由がない限り、この質問に迷う必要は無い。ただどちらを先に食べるか、気分次第だ。後悔先に立たず。後であっちにしとけば良かった、なんて後悔は訪れない。あの航空会社にしとけば良かった、とは思うかもしれない。かくも業深き生き物だ、人間とは。まあ、機内食如きでああだ、こうだと悩むこと自体、つまらないことかもしれない。しかし、人生とはそういう小さな選択の連続なのだ。まるで大きなターニングポイントが人生を左右すると人々は思っているが、そこに至る過程もまた選択の連続なのだ。あのパチスロ店で吉田からの電話を取らなかったら、冨田ミヨと再会することも、この飛行機に乗ることもなかっただろう、野口はそう考えた。


 二本の映画、海外のエアラインで字幕が無かったので、野口は分かりやすそうなクライムアクションものと、3Dアニメーションものを見て、二回トイレに行き、最初の機内食はMeet、鶏肉のソテーに豆類のトマトソース煮込み、ポテトサラダ、ブレッド、次にFishの機内食、海老のグラタン、魲のカルパッチョ、チョコレートケーキを食べた。二回の間食、小袋に入ったナッツとオレンジジュースがあり、一眠りして、目を覚ますと、飛行機は現地の天候をモニターで知らせていた。


 西洋の島国は、短い夏の終わりを迎えていたが、今日は晴れて、摂氏二十一度で快適な天候だった。しかし、それは首都の気候で、野口たちが向かう島国の中部に位置する都市は、そこから電車で二時間北上した場所だ。冨田ミヨのこの島国出身の友達によると、この島国は北に向かうにつれ、天候がshit、つまり荒れるらしい。空港に降り立つ前にLandingcardが乗客に配られる。野口は冨田ミヨに教わりながら記入する。


「それにしても携帯でネットできて、映画まで観れる時代なのに、まだこんな安い紙にペンで手書きなんて、時代感覚が狂っちゃうね」

 冨田ミヨはそう言って苦笑いした。

「でも、データってログが残るから、これからは機密は紙で残されていくって、聞いたけど」

「新しい言語でね。そうなると思う。情報防衛システムの開発と維持にはすごく時間と資金がかかるし、ハッカーは後を断たないし。現に多くの国でネットは規制され、管理され始めたしね。隣国は政治体制の問題だけど、shoutterもできないんだって」

「へぇ。そう言えば、砂漠の国々で起きた革命のキッカケはfailbookで若者が焼身自殺した動画が、シェアされたことだったね」

「あれから結局、どの国も軍のクーデーターや新しい過激武装集団の出現で革命前より悲惨な状況になってしまったけど……。でもランディングカードくらいは携帯端末でネットにアクセスして申告すれば、済む話じゃない? テロの水際対策にもなるし。情報が漏洩したら大変だけど」

「だからじゃない?」

「そっか(笑)」


 着席とシートベルト着用の指示がアナウンスされ、飛行機は着陸態勢に入る。離陸時と、この時は何度体験しても慣れない、と冨田ミヨは野口に言った。飛行機の中も緊張感で満たされる。野口は気圧が下がると、耳から鼻から、口から体の穴という穴から空気が抜けるような感覚に陥り、頭が痛くなる。頭痛を耐える為に瞼を閉じた。主翼の後方内側に付いた、スポイラーが動き、機体の速度を落とす。機体が少し揺れながら降下し始める。主翼の後方外側に付いた補助翼である、エルロンがパタパタとはためき、地上が近づいてくる。大きな衝撃と供に野口は目を開いた。


 機体の中央やや後方に付いた車輪が滑走路と接し、火花が散る。主翼前方に付いたスポイラーが上がり、機体にブレーキをかけながら轟音と供に滑走路を進む。無事、着陸できた為、機内の緊張感は解け、機内で拍手が巻き起こる。機内のシートベルト着用要請ランプは点灯したままだが、せっかちな乗客はさっさとシートベルトを外し、座席上のシェルフから手荷物を取り出し始め、CAに注意されている。野口は小さな窓から見える外の景色を眺めた。コンクリートの滑走路と、整えられた芝生が広がっていた。どこの国も空港の景色は大して変わらないな、と思った。飛行機がターミナルに辿り着き、ボーディングブリッジの接続が確認されると、着席、シートベルト着用要請ランプが消灯し、乗客は一斉に立ち上がり通路は人で埋め尽くされる。


「着いたね」

 野口は暫く進みそうにない行列を横目に、座席に座ったまま隣の冨田ミヨに話しかけた。

「うん、無事で良かった。あ、ごめん、荷物取ってくれる?」

「了解」

 野口は立ち上がり、中腰気味に頭上のシェルフを開け、二人の手荷物を取り出した。冨田ミヨはハイブランドのボストンバッグ、野口はアウトドアブランドのリュックサックを手荷物として持ち込んでいた。

「あれ、意外に軽いね」

「ありがと。うん、必要なものは、こっちで買えばいいし、お土産、たくさん買って帰りたいから(笑)」

「そっか、こっちで買えばいいんだ」

 野口は、冨田ミヨが旅慣れしていることに改めて感心した。CAに見送られながら飛行機を降り、ボーディングブリッジを渡り、ターミナルに入る。ターミナルの中もあまり変わりばえしないもので、野口はもしかしたら世界中の空港は同じ建築家がデザインしているのではないか、と思った。ただデザインより、便宜上こうなっただけかもしれない。入国ゲートはやはり行列ができていた。


 この島国は大陸の国々と経済・政治共同体を組んでおり、その共同体に属する国の国籍を有する者は簡易な審査で入国でき、その共同体のゲートとその他の国々のゲートは分かれていた。野口たちの並ぶゲートは長蛇の列が遅々として進まずにいた。

「あー、やっぱり早く降りるべきだったかなぁ」

 その状況に冨田ミヨは愚痴った。

「電車移動もあるしね……」

 隣国に入国した時とはまた違った人種が並んでいて、野口は本当に遠くまで来たんだなぁ、と感じた。野口たちの番がきて、思っていたよりすんなり通された。二回目だと慣れたこともあるが、さすがの入国審査官もあの長蛇の列にゲンナリしていた様子ではあった。ゲートを抜け、二人は荷物受取所で荷物が来るのを待った。沢山のトランクや、ボストンバッグがベルトコンベヤーに乗って流れてくる。

「あ、来た!」

 冨田ミヨが、大陸の工業国の黒いジェラルミン製の高級スーツケースを指差した。すぐ後ろに野口の隣国製の安物のトランクも流されてきた。それぞれの荷物を取り、二人はそのフロアの端にある両替所でトラベラーズチェックを現金化して、空港の出口に向かった。ロビーに出ると、出迎えの人々がそれぞれの待ち人を待っていた。彼らを横目に二人は街の中心部に向かう列車の駅に降りた。駅は空港内から地下に下った所にある。そこから中心部の駅に行き、北に向かう列車に乗り換える。この国の地下鉄は座席より通路の方が広く造られていた。空港は始発に近く、二人は難なく席に着けた。空港を出ると赤煉瓦の家々と、田園風景が車窓の外に望まれた。何故か、野口はノスタルジックな気持ちを覚えた。


 街の中心部には一時間弱で辿り着いた。ここから北の街に向かう列車に乗り換える。チケットはあらかじめ冨田ミヨがインターネットで購入していたらしく、彼女が自動発券機でチケットを取りに行き、野口は駅の売店で二人分の軽食と飲料を買いに行った。相場が全く分からないし、そもそも本国で見慣れたものは一つもなかったので、とにかく野口は美味しそうに見えるものを買うことにした。


 野口は列車の発着地の近くのベンチに腰掛けて、冨田ミヨを待った。昔、童話で読んだような光景が目の前に広がっていた。もちろん、蒸気機関車はないが、ホームに列車が何台も列なり、今にも話し出しそうな雰囲気で乗客と貨物を待っている。野口は子供の頃テレビで見た、あの童話の原作者も同じようにホームで列車を眺めたんだろうか、と考えた。


「お待たせ」

 冨田ミヨが野口の隣に腰掛けた。

「ちょっと好みとか分からなかったけど、好きな方選んで」

 野口はプラスティックバッグからサーモンとチーズのサンドウィッチと、海老とアボカドのマヨネーズ和えのサンドウィッチを取り出した。

「ありがとう、こっちにする」

 冨田ミヨは海老とアボカドの方を手に取った。

「12番ホームだから奥の方だね」

 そう言って冨田ミヨは立ち上がった。野口も彼女に続いて12番ホームに向かった。真ん中の車両に入り、席に着く。

「意外にすんなりいったね」

 野口はミネラル水のペットボトルを冨田ミヨに手渡しながら言った。

「うん、何とか暗くなる前に着けそうだね」

 冨田ミヨはペットボトルを受け取り、サンドウィッチの入った紙製のケースのパッケージを開けながら応えた。

「こんな長旅、吉田は一人で来たのかな?」

「うん、あの人、結構思いついたらすぐに行動する人だったから」

「そう? 知らなかったな……」

「そういうところが好きだったの」

 何やらアナウンスが入り、列車が走り出す。駅の構内を出て加速する列車の車窓に、異国の街並みが映る。その向こうを冨田ミヨは悲しげな目で眺めていた。その整った顔立ちに浮かぶ悲哀の色とこの異国の地の街並みは不思議と溶け合っていた。その光景を見て、野口は胸の奥が苦しくなった。

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