第4話

 帰国してから、野口と冨田ミヨは残りの写真について情報を集め続けた。野口はやはり吉田は自殺したんじゃないか、と思い直していた。帰国の便の中で野口は映画を観た。海外のもので、余命半年を宣告された癌の父親が突然自分がゲイであることを告白し、恋人と同棲を始め、翻弄される主人公自身もその中で改めて人生を見つめ直すという、ヒューマンドラマだった。野口はその映画を観て、吉田は死を決意して写真の場所へ赴いていたのではないか、と考えていた。吉田が一人で海を渡るなんて、野口のそれまで知っていた吉田とはまるで別人のように思えた。そして、あの丘の上から隣国のビル街に沈む夕日を見た時、野口はとても自分自身の人生が無意味で空虚なものだと、改めて感じてしまった。そのまま沈む夕日と供に消えてしまいたい衝動に突き動かされた。日が沈み、何処からともなく現れる暗闇にそのまま自分も飲み込まれて、消えてしまいたい、そう野口は願っていた。もし、冨田ミヨが隣に居なかったら、「野口くん、大丈夫?」と声をかけてくれなかったら、そのまま気が狂ってしまったかもしれない。


 以前、海外の音楽フェスを渡り歩いていた大学の友人が、LSDをキメた際、どうしようもない自己嫌悪感に襲われ、文字通り、Lowになってしまったときに、あちら側からこちらの現実の世界に連れ戻してくれる人間がいて、その人は一生大事にすべきで、そういう仲間といるときにしかヤクはキメちゃいけない、と言っていた。ドラッグの話と混同しちゃまずいか、いや、名だたる世界の偉人はドラッグによる精神世界を通過している、野口はそう考えた。とにかく、自分はまだこうしてこの現実の世界に生きている、前に進まなくてはならない。野口はノートパソコンを開き、もう一度フォルダの写真を見直した。写真の中の吉田が、野口の知る吉田じゃない別の男の様に見えてきた。野口はパソコンのミュージックプレイヤーを開いき、世界的人気を誇るロックバンドの11thのスタジオアルバムを再生した。これは最近、デジタルリマスターされた音源だ。このアルバムを製作する時には事実上バンドは解散状態であったそうだ。


 ノートパソコンのスピーカーから小気味良いベース音が響き、ドラムのクラッシュシンバルがベースラインに乗る。人の息使いのアレンジが不気味に響き、ボーカルのメロディーが始まる。やはり、いいスピーカーを取り付けないとリマスターの意味が無いな、そもそも、CD自体音源としては劣化しているし、デジタルファイルなんて更に圧縮するんだから、以ての外だ。今はハイレゾなんて呼ばれる高音質のファイルがあるんだから、もはや音源を物質化すること自体、意味がない。少し前にヴァイナルの人気が復活していたが、あくまで限定生産、ジャケット収集家の趣向品としての価値しかない。


 そんな業界事情を、ネットの知識だけでグダグダ考えながら、野口はキッチンに立ち、コーヒーを淹れた。そういえば、吉田がこのCDを貸してくれた。このアルバムに関するトリビアも、吉田が教えてくれた。ジャケットの写真は、実際にバンドが使っていたスタジオの前の通りでメンバーが横断歩道を横断する姿が撮影されたもので、今では、同じ写真を撮るために多くのファンが訪れ、交通事故も起こるそうだ。遂にはその横断歩道は文化遺産になった。建造物以外が遺産となったのは、その国では初めてだそうだ。野口はコーヒーカップを片手にもう一度、フォルダの写真を見た。その中の外国の風景らしき写真がそのバンドの出身国の雰囲気に似ている、そう思った。野口は冨田ミヨに急いでそのことを電話した。しかし、冨田ミヨは出なかったので、電子メールで知らせることにした。

 その日の夜に冨田ミヨから返信があった。


 Re:写真の件

 久しぶり。今日は電話出れなくてゴメン。

 なるほど、そう言われてみれば、異国情緒溢れているね。和真、本当にあのバンド好きだったな。もう随分前に解散しちゃったし、メンバーも二人亡くなってるけど。あのベースの人のライブも一緒に行ったんだよ! 名前ど忘れしちゃった(笑)

 とりま、そのていで調べてみるね。ありがとう(^_^)


 野口もそのバンドと所縁の地でネット検索すると、風景の写真がその地であることを確信した。その地域は少し寒いが、地震や台風、ハリケーンといった天災に見舞われることはほぼ無く、街自体が何百年という歴史をそのままの形で残っている。フロントマンの一人が通った地ビールの美味いパブ、曲名になった通り、二人のフロントマンが邂逅を果たした教会、バンドが初めてライブを行ったクラブ……


 ネットで情報が集まらなかったのは、吉田のアングルが、あまりにユニークだったからだろう。ネット検索で上がってくる画像と吉田の写真を見比べても、一目で同じ場所とは全く分からない。所縁の地というより、時間の流れを写した様な、そんな感じが野口にはした。


「この曲のタイトルは孤児院の名前なんだよ。彼が幼少期によく遊んでいた場所らしい。本人はそれとは関係ないと言っていたらしいけど。でもファンにはその場所は聖地になっていて、今でも訪れる人が絶えないんだ、孤児院自体は無くなっているんだけど。その辺りはまあ、彼らの出身地だし、その街自体が聖地みたいなもんだけどね。ツアーバスもあるし、夏には街の所縁の地で世界中からトリビュートバンドが演奏するフェスがあるんだ。行ってみたいなぁ」


 吉田がこのCDを貸してくれた時、そんな話をしていたことを野口は思い出した。ネットでフェスティバルのことを検索してみた。八月末に、その街で一週間に渡って開催されるらしい。野口はフォルダの写真の日付けを確認した。二年前の八月二三日から二五日の間に撮られたものだ。野口は二年前のフェスティバルを画像で検索した。街中に設置されたステージで思い思いのコスプレをした異国の人々が演奏している写真がたくさん上がってきた。


 ノートパソコンの音楽プレイヤーはアルバムの七曲目、ギターリフが印象的で、心地良いメロディーが乗る、このバンドのリードギタリストがボーカルを務める曲を再生していた。ヴァイナルでいうところのB面の始めの曲だ。フロントマンの一人にはジャンクだとこき下ろされたB面だが、B面の評価はファンの間では高いと、吉田は力説していた。特にこの曲が吉田は好きで、繰り返し何度も聴いていると言っていた。全てが上手くいくという、楽観的な歌詞で終始するその曲を聴いていると、野口の頬には大粒の涙が流れていた。


 野口が次に冨田ミヨに会ったのは、それから二週間後だった。二人は街の駅前にある、喫茶店の二階で待ち合わせた。野口はよく行く店で、欧風カレーが絶品だ。野口はアパートから歩いて向かった。昨日降った雨と共に夏の酷暑は過ぎ去り、空に浮かぶ切れ切れの雲と、そよぐ風が秋の到来を告げていた。


 野口は店に先に着いた。冨田ミヨから少し遅れる旨のメールが入ったので、野口はウィンナーコーヒーを注文して、一服することにした。喫茶店の一階は全席禁煙だが、二階は分煙になっていて、ガラス戸で仕切られた喫煙席がある。野口は注文時に運ばれてきた氷水を一口飲み、ポケットからボックスのタバコを取り出し、口を開け、一本そこから右手の親指と人指し指で抜き取り、口に入れ緑色の百円ライターで火を付けた。肺に煙を入れ、タバコを口から離すと同時に煙を吐き出す。野口は自分の前に舞い上がる煙を暫く眺めて、再びタバコを咥えた。丁度一本のタバコを吸い終わるくらいに、ウィンナーコーヒーをウェイトレスが運んで来た。野口はタバコの火をステンレスの灰皿に押し付け消し、コーヒーソーサから銀のスプーンを取り、コーヒーの上に盛られた生クリームを掬うように掻き混ぜた。その時、野口の携帯電話が震えた。すぐ収まったのでメールだ。野口はジーンズの右ポケットから携帯を取り出し、受信ボックスを開いた。冨田ミヨからだった。


 件名:なし

 もう着くよ。二階だよね?


 野口はそうだ、二階の窓際の席にいると返信して携帯電話を閉じた。そして一口ウィンナーコーヒーを飲み、それを持って喫煙室から出た。

 店内の階段入り口に立っていたウェイターにもう一人くるから窓際の席に移動したい旨を伝えて、窓際のテーブル席に着いた。野口がウィンナーコーヒーを飲み終わる頃、冨田ミヨが現れた。紺色の光沢のある素材のつなぎを着て、上に白い薄手の半袖のカーディガンを羽織っていた。手には丸い金色のボタン一つ付いた、黒い革のハンドバッグを持ち、足元は黒いサンダルで低いヒールが付いていた。足の指には赤いペディキュアが塗られていた。

「ごめん、色々分かったんだけど、ずっと忙しくて知らせられなかった」

 そう言いながら、冨田ミヨは持っていたハンドバッグからスマートフォンを取り出し、テーブルに置いて野口の前の空いた席に着いた。それから、側にいたウェイターにブレンドコーヒーを注文した。


「いいよ、気にしないで。あの写真の場所はこの前と違って、どうも気軽に行けそうな場所じゃないみたいだし」

「野口くん、あの場所分かったんだ?」

「え? あ、うん。ミヨちゃんも、もう分かってるでしょ?あのバンドの出身地」

「うん、和真がずっと行きたいって言ってた。本当に行ってたんだね……」

「ミヨちゃんも知らなかったんだ?」

「うん」

「行ったことは?」

「大陸の西の方は何度か。でもあの島国はないな」

「そうなんだ、どうする、行く?」

 先程注文を受けたウェイターがブレンドコーヒーを運んで来て、テーブルの上に置いた。冨田ミヨは笑顔で軽く会釈した。そしてソーサーからカップを取り、コーヒーを一口啜った。

「もちろん。もうチケットも取ってる」

「ええ⁈ 早い。…ってことはやっぱりあのフェスに行くってことだよね?」

「うん。野口くんも急だけど、休みが取れれば一緒に行ってくれると嬉しいな。もちろん、旅費は出すよ」

「え? いや、そんなにパッと出せる金額じゃないよ」

「いいの。これは私が野口くんを巻き込んだことだし。それに実はわたし、いくつか仕事で特許も取ってるから、野口くんの想像より裕福なの(笑)」

「そういうの自分で言わないよ(笑)。そうなんだ。ミヨちゃんが頭いいのはfailbookで知ってたけど、そんなに有能なんだ、凄いね。コンピューター工学か何か?」

「そうだね、人工知能の分野で研究してる」

「そうなんだ、全く分からないけど、そういう映画でA.I.を持つロボットが、感情まで持って苦悩するってのがあったね」

「うん。A.I.がモチーフになったSF映画は沢山あるけど、実際にもうA.I.は人と会話するこができるまでになったし、ああいう話が現実になっても何の不思議もないと思う」

「サイボーグの公安警察のアニメとか好きだったけど、今じゃ本当に義足のアスリートの方が健常者より速く走れる時代だしね」

「二〇年くらい前にネットの世界と脳を直接繋いで、現実の世界を仮想現実の世界の中から天才ハッカーが救済する映画がヒットしたけど、実際にもう脳波に反応するプログラムは存在するしね。あのアニメのようにネットにダイブする世界は現実になりつつあるの。こんなに技術が進化しても、未だにスピリチュアルなものを信じたり、恐れたりするのって不思議ね」

「そうだね。人間は自分が制御出来ないものを恐れるんじゃないかな? 天災とか、神風なんて言うし」

「うん。技術の進歩って、結局、管理できないものを如何に管理可能にするかってことでしかないからね」

 冨田ミヨは淋しそうな顔でコーヒーを飲んだ。

「なるほど……」

 野口は冨田ミヨも、やはり吉田がもうこの現実世界にいないと思っているのではないかと考えた。

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