第2話

 けたたましいアラーム音が部屋に鳴り響き僕は目を覚ました。いや覚ましてしまったと言うべきか。熟睡中に忙しなく叩き起こされた感じだ。

 眠気覚しに両手を上げて背筋を伸ばしてみるが心身の怠重さは拭えない。

 一体何時間寝ていたのだろうか。

 空色のカーテンの隙間からは既に木漏れ日の様な朝日が差し込んでいる。部屋全体が仄暗くて分からなかったがどうやら朝らしい。

 全身が虚脱感に襲われる中、僕は時刻を確認するためジーンズの右側のポケットに手を突っ込んだ。


 ——ん?


 逆かな。左側のポケットに突っ込んでみる。


 ——あれ?


 尻側のポケットも両方探したが携帯が見当たらない。


 ——……


 この場合あれだ。

『やってしまった』の一言に尽きる。

 どうやら僕は昨日携帯を忘れて帰って来てしまったらしい。


 原因は勿論この僕。昨日、喫茶店から帰ってくるや否や死んだ様にベットに突っ伏しそのまま気付かずに寝てしまったのが悪い。風呂すらも入っていないんだ。

 理由?——色々な意味で疲弊してたからかな。出来れば聞かないで欲しい。


 取り敢えず携帯の場所に検討がついていた僕は家の電話から例の喫茶店に電話した。躊躇いがなかったと言ったら嘘になるけど携帯なくしての一人暮らし生活は厳しいものがあるから仕方がない。仕方ないのに、結果は『携帯の届けはありません』とのことだった。門前払いをくらった気分だ。


 では、届いてないとなると残された奪還手段は二つ。警察に行くのが面倒な僕は僅かな可能性に賭けて自分の携帯に電話をかけてみた。

 すると駄目元だったが誰かが応答した。愉快犯かもしれない。


「はい、もしもし。どちら様でしょうか?」


 どう捻って試行錯誤して考えてもそれは明らかに可笑しい。聞きたいのは僕の方だ。微妙なレベルの突っ込みを僕にやらせないで欲しい。


「すみません橘と言います。その携帯、実は僕のなんです。昨日とある場所に置いてきてしまって。返して頂けないでしょうか?」


「これは私の携帯です」


 流石、愉快犯と言ったところか。人を弄ぶことに長けている。

 でもここでペースを乱してはいけない。


「いえ。それは昨日とある喫茶店で忘れてしまった僕の携帯なんです」


「そうなんですか。進駐お察しします」


「はい。だから僕の携帯を返して下さい」


「あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」


「聞いてますか?」


「もちろん聞いてるよ」


「じゃあ意味分かりますよね。返して頂けますか?」


「じゃあ私のは」


「はい?」


「私の話は?」


「はい?」


「君は昨日の私の話を聞いてくれてた?」


「なんのことですか?」


「昨日、喫茶店で私が君に言ったこと。その話を聞いてくれてた?」


 その刹那、僕の脳裏に昨日の出来事がフラッシュバックした。電話の相手は愉快犯などではない。昨日の彼女だ。何故かは分からないが彼女が僕の携帯を持っていた。


「取り敢えず来てよ。昨日の喫茶店に今いるからさ。携帯はそこで返すよ」


 彼女が異論は認めないとばかりに淡々とした口調でそう言いうと僕は従う以外出来なかった。もう二度と彼女と会うことはないと思っていたのに。

 人生何が幸で不幸かなんて分からないとは言ったものだ。もっとも僕にはそもそも論として『幸』がないのだけれど。


 再び彼女に会うと思うと僕は憂鬱だった。家から近くて便利な喫茶店をこんなに恨めしく思ったことは今までない。倦怠感に包まれる足取りは喫茶店に近付くにつれ自然と重くなる。鎖に足が繋がれているのかと錯覚するほどだった。


 その後十分程して入口に着いた僕は早る鼓動を落ち着かせるため一旦深呼吸した。掌に握る汗は今の心境を体現させている。大丈夫。大丈夫。問題ない。暗示をかける様に自分にそう言い聞かせた。


 ——いらっしゃいませ。一名様でしょうか?


 出迎えたのはやはり白髪頭の男性店員だった。相変わらずダンディーである。


「いえ。待ち合わせをしています」


 店の奥に彼女の姿を見つけた僕は男性店員にその旨を伝え、彼女の元へと向かった。今日の彼女はワインレッドのニットに胸まで伸びるアクセサリーを装飾していた。


 手を伸ばせば彼女に触れられる距離まで僕は近寄ると、


「あの………………。昨日の者です。携帯を取りに来ました」


 彼女の華奢な肩を指先で二回叩いて伝えた。手には彼女の温もりが感じられた。


「ああ来たね。おはよう!取り敢えず座りなよ」


「あ、うん」


 面接官の様な口振りの彼女に強張った体が勝手に反応したのか、僕は言う通りに座った。椅子に腰かけると小洒落た眼鏡をかける彼女を真っ直ぐに見た。


 そして次の瞬間。


「ねぇ。私と友達になろうよ」


 彼女は唐突に言った。

 脈絡のない話をすること。それが彼女の特徴か癖か何かであることに今更驚きはしない。

 けれど今回ばかりは返答に困る。昨日あんなことを言われてしまっては……。

 何て言うべきか。どうしたら良いのか。僕がまごついていると——


「昨日のことは忘れて!ほら、二回会ったら友達って言うじゃん!私は夏紀なつき奈津なつ、20歳。因みに誕生日は今日なんだ!あははは」


 笑いながら手でVサインをする彼女に僕は、


「ごめん」


「え、駄目なの?私の友人申込申請は却下?橘君との相性悪くないと思うんだけどな」


 彼女はさり気なく胸に手を当てて言った。


「いや、そうじゃなくて…………」


 ——そうじゃなくて

 ——ああああああ

 ——えっと……


「昨日君が告白したのは僕を揶揄ったのかとかと思って……。その昨日はいきなり帰ったりしてごめん」


「なんのこと?」


「え?」


「いきなりどうしたの?」


「え。ほら昨日は君に悪いことしたから謝罪しないとと思って…………」


「あははははははははははははははは。違う違う違う。違うよ?」


「え?」


「橘君は面白い人だね!」


 彼女は破顔しながら、


「橘君、君は実に面白いよ!」


 と眼鏡を中指でクイッとあげて言った。僕は訳が分からず釈然としないでいると彼女は小洒落た眼鏡を外して、


「ほら考えてみて。昨日は四月一日だよ。エイプリルフールだよ」


 僕は暫く思案する。言葉にならない感情が心の中で渦巻く感じがした。いや違うか。僕がただ大きな勘違いをしていたのか。


 すると何が可笑しいのか彼女は豊かな表情を駆使して『微笑』の顔を示した。そして彼女は笑顔で言った。


「何か早とちりしたでしょ。駄目だよ人の話は最後までしっかり聞かないと」


 あくまで客観的意見としてだけど、あれは勘違いしない方が無理だと思う。あざとくはないのか。大体エイプリルフールって午前中のみしか効果をなさない筈だけど。僕は彼女に問いてみた。


「あはははははは。面白いね橘君!でも残念ながらそれは違うよ。私の中ではまだ午前中だったからエイプリルフールの効果は適用されるんだよ」


 機嫌良く笑いながら、腕を前に突き出して人さし指を左右に振りながら『チッチッチッ』とダサいジェスチャーをして見せた。

 その所作はもうアニメか漫画界でしか見れないと思ってたけど実際にも存在したらしい。何と言っても『ダサい』

 あくまで客観的意見だけど『ダサい』

 そんな昭和臭い彼女が愉快痛快に話をす姿を見て僕は安堵した。胸に蟠るモヤモヤが少し晴れたのかもしれない。


「じゃあ、あれは冗談だったんだね?」


 ——お待たせしました。


 僕が彼女に再確認を試みたその刹那、何かを注文していたのか店員がやって来た。ココアを大袈裟に感激しながら受け取った彼女はどうやら気付かなかったらしい。


「うわー、甘くておいしい!」


 彼女とは会話が噛み合わないことを再確認した瞬間だった。

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