クッキー
春風がささやかに吹き込む喫茶店の中。
「おそるおそるじゃなくてもっと力込めて!」
「わ、わかった!」
「のばすときは均等に。ほら、こっち薄くなってるよ!」
「す、すまない」
「あとは型でぬくだけだから、もう少し頑張ろうね」
「あぁ! 頑張る!」
おそるおそる、すまなそうな、張り切ったコトリの声が喫茶店の中に響く。
入ってきた午後の春風もどこか遠慮がちに窓辺にまとめられているレースのカーテンを揺らすだけで出ていってしまった。そんな風も慮る2人はせっせとカウンターの中で手を動かしていた。
なにをしているかと言われれば、お菓子教室である。作っているのは初心者の強い味方、型ぬきクッキー。
ぐっぐっと力をこめて型ぬきしては。それを丁寧に大きな天板に並べているコトリに、クロエは満足げにゆっくり頷く。生徒の出来が良くて何よりである。
腕が長めのクマの形をした生地を、腹に手を当てるように腕を折りながらふとコトリは疑問を呈した。
「そなた、なぜこのクマは腹を押さえているんだ? 痛いのかね?」
「違うよ、悪趣味すぎんだろ。本当は『だっこクマクッキー』って言ってなにか抱えさせるんだけど。紅茶クッキーだしなぁ・・・あ」
「あ?」
言葉を途切れさせたクロエに、コトリが首を傾げて復唱する。
「お菓子用の溶けないチョコタブレットがあったはずだから、それでも抱えさせてみる? ホワイトとブラック両方あったはず」
「いいのかね!?」
「その方が美味しいしね。その前に」
嬉しそうに微笑むコトリはさておいて。一旦会話を切って、システムキッチンの収納庫から竹串を取り出すと。クロエはコトリが型ぬき、天板に並べただっこクマクッキーの前にかがみ込んで。
ぶすり。
「あぁ!?」
「コト、静かにして」
「そそそそそなた、何をしておるのだ! ク、クマが!」
「顔描いてるんだよ」
「え?」
「ほら」
「あ、可愛い・・・」
「だろ?」
身体をずらし背後に立っているてコトリに描かれた顔を見せると、振り返って。にっと笑うとクロエは次々と顔と耳の穴を描いていったのだ。その数、大きい天板4枚分。クッキーの数、約200枚。
それを見守るコトリは、顔が描かれるたびにはしゃいだ声を上げてクロエは苦笑するのだった。最後にチョコタブレットをクマに抱えさせて。オーブンに入れ。
午後の時間はゆっくり過ぎていき。
「焼けたよー」
「ふああ、こ、これがだっこクマくっきー!」
「そうそう、しかもコトの初めての手作り」
「て、手作りといっても、ほとんどそなたの指示に従っていただけなんだが・・・」
「材料の計量からやったでしょ。初心者はそんなもんなの」
「そういう、ものなのか」
「そうだよ」
余熱で焼けるという、まだほんのり白い紅茶の茶葉でまだらになったクマのクッキーたちが。オーブンから引き出すクロエが天板ごとケーキクーラーの上に乗せられぞくぞくと姿を見せる。
くん、とコトリが無意識に鼻をひくつかせれば、香ばしい小麦と豊満なバターと砂糖の香り。なにより強く香るのは生地に練り込まれたオレンジやローリエで香りづけされているアールグレイの匂い。紅茶を飲んでいるわけでもないのに、以前おやつの時に出されたことのある紅茶を想像して、コトリの口の中がしっとりと濡れる。ぱあああっと顔を輝かせてクッキーたちを見るコトリに、クロエは口元を緩めた。
まったく、美味しいものを目の前にするとコトリの表情はいつも素直だ。普段も素直じゃないわけではないが、遠慮しすぎるほどの遠慮しいが率直になる。しかもそれが自分の作るもので。この変な優越感が心にわき上がるうちは、このおやつ前の味見はやめられそうにもなかった。
「さて、クッキー冷ましてる間に俺たちもひと息入れようか。アールグレイのアイスティーなんてどう?」
「頼む! あ、味見はどうなるのかね?」
「・・・作ったもんが全部まずくなるなんていう特殊能力がなきゃ味見なんて必要ないくらいだけどね」
「え!? 味見しないのかい?」
しょんとコトリの肩と眉が下がる。
「そんな顔しないの。いいよ2、3枚なら。たくさん焼いたしね」
「で、でも・・・」
「うちには食い物を飲むように消費する奴がいるからね、それと比べたら2、3枚なんて誤差でしょ」
「ほ、本当にいいのか・・・? うん!」
「よし、いい子」
天板を掴むためにつけていたミトンを外したクロエは、そのままの手でコトリの頭をわしゃわしゃと撫でた。嬉しそうに自ら頭を差し出しそれを受けているコトリがはにかんでいると。そんな2人の視界の端で、居住区である塔へと通じる扉が鈍い音を立てて開く。
自然と2人の視線をそちらへと向かう。
「いい匂いなの、ねー」
高く、幼い少女の声がして。まだ6、7歳くらいの幼女が姿を現した。
白いケープに、時代遅れの古めかしい黒いワンピース。白いタイツに茶色いブーツをはいた、右目の下に抉ったような傷と左目の下に縫い跡。顔に傷のある子どもだった。
前髪の一部を三つ編みにして、赤いリボンで留めているところが女の子らしい。
店の中に入ってきて、ぱたんと扉を閉めると。クロエとコトリの方を見て、こてんと首を傾げる。
そしてゆっくりと目を細めた。その行為が、表情の変えられない彼女の笑顔と同等だということを知っているクロエは。じゃれていた手を下ろして、にっこりと最上級の笑みを少女・咲也子に返した。
コトリもそれに倣ってにこっと笑う。クロエが笑っているならそれだけで嬉しいといわんばかりに。
「ごきげんよう、我が主よ」
「こ、こんにちは! ご主人殿」
「こんにち、は。クロもコトさんも今日もありがとう、ね」
「そ、そんな。ご主人殿に礼を言われるようなことは!」
わたわたと胸の前で手を振り、とんでもないとジェスチャーするコトリ。おそらくジェスチャーの意味はわかっていないだろうが、言いたいことはわかる。そんなコトリに同意を示すクロエ。
「コトの言う通りですよ。俺たちが好きでやっていることですから」
「でも、毎日美味しいおかし食べられるの、2人のおかげ、よ。だからありがと、ね」
「我が主・・・」
「ご主人殿・・・」
手を胸の辺りで握り、一生懸命に感謝を伝えてくる咲也子に。クロエは花も恥じらうほどの笑みを見せた。その視線の先には咲也子がいて、咲也子もしっかりクロエを見返している。強い絆を感じさせるその光景に、どうしても自分は混じれないことを知っているコトリは。ちょっと居心地悪そうにもぞもぞと身体を動かした。
ふと、それに気づいたクロエがわしゃわしゃとまた、コトリの頭を撫でまわしたことで、へにゃりとコトリの顔が崩れる。
そんな2人を微笑ましそうに目を細めて見ていた咲也子の、やさしい眼差しに。少し頬を赤らめさせながら、こほんと咳払いをするコトリ。離れていく手に少し寂しそうな顔をしつつも口を開く。
「きょ、今日の紅茶くっきーは私が作ったのだ! よかったらご主人殿、感想をもらえないだろうか?」
「ちょ、コト」
味見もしていないクッキーを、敬愛する主に出すわけにはいかないとクロエは一瞬焦る。しかし
「いい、の?」
「もちろんだとも」
「わー、い。おれ、紅茶のクッキー好き、よー」
「我が主が喜んでるならいいか・・・。ちょうどよく冷めたくらいですよ」
「焼きたてじゃなくてすまないな」
すまなそうにへにょんと眉を下げて謝るコトリに、クロエと咲也子はきょとんと眼を瞬かせる。まるで珍妙なことを聞いた、と言わんばかりの反応にコトリも目を丸くする。
・・・。少しばかりの沈黙があって、咲也子が小首をかしげる。
つられたように首を傾げたクロエが、ああ! と手を打つ。
「コト、クッキーは焼きたてだと柔らかいから。少し冷めたくらいが美味しいんだよ」
「そう、よー」
「そうなのかね? みな、作りたてが一番美味だと思っていた」
「ま、大多数はねそうだけど。・・・我が主、いかがですか」
コトリがまだ熱い天板から、外側が茶色くなり、真ん中はうっすらと白いクッキーを1枚手に取り。咲也子にそれを渡した。小さい手のひらで赤ちゃんの手のひらほどもあるだっこクマクッキーを受け取った咲也子が、口に入れ咀嚼するのを見守りながら。呑みこんだのを確認して、クロエは咲也子に声をかけた。
コトリはどきどきと胸の前で手を組んで、咲也子の変わらない表情をじっと見ていた。
ほのぼのした喫茶店内の空気が緊張をはらむ一瞬だった。
こくりとゆっくりと呑みこんだ咲也子が、またこてっと首を傾げる。
「ん。おいしいの、よ。ちゃんと紅茶が生きてるし、バターたっぷりでさくさくほろほろ、で。おいしい、の」
「・・・成功かな?」
「成功だね」
「よかった!」
「はい、おめでとうコト。じゃ、俺たちも味見しちゃおうか」
嬉しさのあまりクロエに抱きついてきたコトリをなだめるように、白い頭を丁寧に撫でるクロエ。それはどこかご褒美的なものも兼ねているような優しい手つきで。喜びに満ちた明るい感情が心の底からせりあがってくるのをコトリは感じた。
しばらく撫でられたあと、クロエはまだ熱い天板からひょいっとだっこクマクッキーを2枚とる。
「はい、あーん」
「あーん」
ぱくり。
まず最初に、舌の上に乗せた途端ふわりと紅茶とバターの芳醇な香りがはじける。その爆弾ともいえる破裂の仕方に、コトリは舌が跳ねるのを感じた。
舌に力を籠めればまだ温かいクッキーは簡単にさっくりと壊れる。それほどに繊細なそれは、ふわっと軽い。けれど上に乗ったチョコレート、小麦とバターと砂糖の甘さがとろっと濃厚でそれらが鼻を抜けると。後追いするように苦みと渋みがしっかりきいた茶葉がクッキーがとろけるのと同時にやってくる。まるで、紅茶そのものを飲んでいるかのような濃密さが追いかけてくる。
うっとりと目を閉じれば、視界がなくなったぶんだけ強くクッキーの濃厚と紅茶の香りを感じた。
いくつ食べても紅茶の渋みがすっきりと流してくれるおかげで、いくらでも食べられそうだ。と、コトリは閉じた目をぱっちり開く。
思わずもう1枚と伸ばしかけたコトリの手をめっ、と幼子を叱る口調でクロエが軽くはたく。
「う・・・美味なのに」
「あとはおやつにしな」
「わかった・・・」
「ほら、頃合いだし皿に盛ったらおやつにするからさ」
「うん・・・」
「美味しかったよ、コト」
「うん! えへへ」
クロエに褒められてあっさりと元気になるコトリ。今泣いた烏がなんとやらというが、まさしくそれだった。先人の言葉とは偉大である。
ちょっと苦笑して、クロエはコトリと咲也子に言った。
「じゃ、ちょっと早いけどおやつの準備するか」
「おれ、紅茶淹れるの、よ」
「コト、この大皿にクッキーのせて、向こうに持ってって。俺、弟妹呼んでくるから。あとはよろしくお願いしますね、我が主よ」
「ん」
「承知!」
こっくりと頷いた咲也子、コトリの元気な声を背後に。クロエはおやつの時間を告げるため、咲也子の入ってきた扉を開けた。
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