ピーチパイ
最初に現れたのは香りだったと、コトリは記憶している。
オーブンの中で眠りながらも、ふわりどころか空間を包み込む勢いでカウンター席に座るコトリのもとに、甘く香ばしい香りが漂ってきたと。
とろりと甘い桃とバターのどこか品があるそれに、舌からじわりと唾液の玉がにじみ出て口内が潤っていく。
それでも、クロエから「待ってて」と言われたコトリは忠犬のように香りの誘惑を振り払って、ぷるぷる震えながらも席を立とうとはしなかった。別にカウンターからのぞき込むくらいだったら、クロエも怒らなかったと思うが。
「ふわああああ」
そうして今。
クロエがカウンターの中から出てきて、ことっとコトリの前に白い皿を置いた。その皿に乗っているものに、コトリの視線は釘づけだった。
上は網目に生地がかかっていてこんがりと焼き目がついている。その焼き目の上には艶々と艶やかに輝く杏ジャムが塗られていて。すうっと息を吸い込めば、バターと桃の甘い香りの他に杏の甘酸っぱい匂いが鼻から舌に「これは美味しいものだ」と伝えてくる。じんわりと濡れた口内にたまった唾液をごくんと呑みこむ。
いまだじゅくじゅくと音を立てて、時折気泡をはらんでは弾けさせるその温度を思うと舌が震えた。
三角に切られた断面にはぎっしりと黄桃が詰まっていて、杏ジャムが塗られた上とナイフを入れられたときにだろう桃の果汁に濡れた断面が店内に差し込む春の陽光にきらめいていた。
その横にはぽこんと丸いバニラアイスがおかれ、上にはミントの葉が1枚。まだ熱いパイの横に乗せられた冷たいバニラアイスが、その温度にとろりと柔らかくなって溶けだしているのが魅力的だった。また、皿にはチョコソースで円を描くように絵が描かれている。
そんな皿から目を離せないコトリを、クロエが笑う。
「どうしたの、そんなに目ぇきらきらさせて」
「こ、これがぴーちぱいなのかと思ってな! 見てくれ、網目のところがぷくぷくしているぞ!」
「まだ焼き立てだからねー」
「うう・・・なあ、そなた。これは味見しないのかね?」
「もちろんしない」
「え・・・」
「わけないよね」
あげて落とせば、しないといった時にはしゅんと下がった肩が面白いくらいに跳ね上がる。ばっと上がった顔がきらきらと輝いてクロエを見る。
「っていうかそれ、あんたのだよ?」
「え」
「いや、目の前に切り分けてアイスものせてチョコソースで飾り付けまで済ませたピーチパイだしといて、それ俺のですとかないだろ。俺は鬼畜かなんかかよ」
「そ、そなたは鬼畜じゃないぞ!」
あわあわと胸の前で手を振って、クロエの言葉に反論するコトリ。からかいがいのある反応にふきだしながら、クロエはアイスの溶け始めたピーチパイの乗った皿を指さしてコトリに言った。
「じゃあそれ、あんたのだからね。アイス溶けちゃうから早く食べて。感想よろしくね」
「あいわかった。このコトリ・アイゼン、その大役任されよう!」
「ふはっ、あんたっておおげさだよね」
コトリから顔を背け、カウンターから出てきて柱に身を預けながらくっくっくと喉の奥で笑っているクロエはとりあえず置いといて。
(コトリ・アイゼン、いざ参る!)
さくりと銀フォークをピーチパイに差し込むと、遠慮がちに小さく切り取る。勢いを込めたわりには小心だった。力をこめると果汁に艶めいた中身の黄桃が力に押し出されて出てきたところを、パイ生地と一緒にフォークでさして口の中に放り込む。
と。
何層ものパイ生地はバターと小麦の香ばしさを残してさっくりとほどけ、舌で押せば潰せるほどにやわらかい桃が顔を出す。それを噛めばとろんとした桃の甘さにバターと小麦の香ばしさ、杏ジャムの甘酸っぱさが合わさって熱く口の中に広がる。口の中で踊り狂うように暴れるそれらに、コトリはほうっと幸せなため息をついた。
舌に触れる甘さに、味に幸福感を感じながらコトリはついでバニラアイスにもフォークを伸ばす。とろけかけたそれをフォークでなぞるようにそぐように柔らかい部分をすくい取って1口含むと。
バニラビーンズの甘い香り、濃厚でありながらも甘すぎずしつこすぎず。舌の上を流れていくミルクのたっぷりとしたコクがピーチパイで熱くなった口腔を冷やしては潔く溶けて消えていった。後味の残らない、さっぱりとしたそれに、ふにゃりとコトリの顔が幸せそうに緩む。
そしてそんなコトリを見ていたクロエはすっと優しく目を細めた。
口でどんなに言葉を尽くすよりも、その表情が如実に伝えるものがある。それはどんなに飾った言葉よりも人に響く。そう、例えば全力で「おいしい!」と伝えてくるコトリの笑顔とか。
にこにこしながら自分を見つめるクロエには気づかず、コトリは目の前のピーチパイに夢中だった。
(ぴーちぱいと、ばにらあいす。これ1つずつでこんなに美味なのだから・・・)
2つ合わせたら最強なのではないかと、いそいそバニラアイスをそぎ取ってまだ熱いピーチパイに乗せる。アイスがさらに溶けだして、ピーチパイに垂れかかっているのがまた、たまらなく美味しそうで。
こきゅんとコトリは見ただけで口の中を満たした甘い唾液を飲み干す。
そのまま震えるフォークの先でアイスののったピーチパイを持ち上げ、口に含む。
(さ、最強・・・!)
舌で壊したまだ熱い生地、それをほどいて黄桃を出せばそれはとろりと舌に絡みついて。その上から冷たく濃厚な溶けたバニラアイスが降り注いで口の中を程よく冷やす。パイ生地のさくさく食感にバターと小麦の香ばしい甘み、桃のとろける芳醇な甘さが競争している。また、皿に描かれた苦めのチョコソースを加えたりなんかすれば、走りによりいっそう華やかさがプラスされる。
つまり、何が言いたいかというと。
「美味だ! 桃がとろとろに柔らかくて、ばにらあいすも冷たくて・・・こう、濃厚で!」
「まじか、よかったー。桃缶からピーチパイ作るの初めてだから不安だったんだよね」
「うまいぞ!」
「そっか、ありがと。じゃ、俺片付けするからゆっくり食べな」
「わかった!」
ぱくり。
返事と共にピーチパイを口の中に入れて、その幸せな味にうっとりとコトリは目をつぶったのだった。
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