第十三節 ロ=ミアラーレと、臨時の家庭教師。






無料ただほど高い物はないのな。私室以外は監視付き。ここでの運動数値や身体・健康情報は、問答無用で採られるってよ」


 個人情報の流出への懸念。不安を残す言葉とは裏腹に、抱えるクッションの感触に心酔しているメディンサリだった。


 皮下脂肪が程良く付いた猫。そう言って離さない。


 もしかすると、彼の不安の払拭に貢献しているのでは。と、手元の色違いクッションの触れ心地を確認する礼衣は、涼しげな視線を戻し、冷静に評する。


「……ここは、曲がりなりにも、天下の大グランツァーク財団の施設。

 監督の口添えとは言え、簡単に世話になれる場所ではない。それくらいは、甘んじるべきだ」

「おれなんか、母ちゃんや姉ちゃんに羨ましい! って言われた~。

 運動機能の情報を収集して、各分野に貢献する施設だと聞いていたんだ。

 そしたら、美容整形とか、肉体改造で有名女優さんとか、お偉いさんが、コッソリ通ってるんだって~」

「大家の御子息は、勉強熱心で素晴らしい。説明の手間が省かれ、稀少な時間の浪費も無く、大変結構な事だ」


 入口付近から、聞き覚えがある蠱惑こわくの音律が流れ込む。

 士紅以外の全員が、音源へと顔を向け注目した。


 神出鬼没。文字通り現れる極上の美丈夫。士紅と同様、外圏の特異な彩りに染まる容貌は、彼らから見れば、人の領域をも超える存在にえる。


 同時に、湧き上がる誰何すいかの思い。


 頃合いかと、千丸は祖父の言葉を踏み越える決意を伴い、立ち上がる。寸分の乱れもない一礼を、白銀の美丈夫に捧げた。


「ご無礼承知で申し上げます。先方様は、我々をご存知のご様子。しかしながら、我々はいまだ、伺い知る術もございません。

 どうか、御身にある証しを示して頂けませんか」


 千丸の眠気眼と、美丈夫の極上の双眸が、一室の空間で点となって衝突する。


「士紅から、説明は無かったのか?」


 心無しか、鏡色の双眸に悲愴が一瞬走り抜けた。


深歳みとせからも?」


 強化組の御曹子達は、入口側の一人掛けソファーで、壁を飾る冷厳な夜の滝の風景画に注視する士紅。

 実は、美丈夫と共に入室していた深歳へと、それぞれに視線を散らす。


「わ、私は、丹布君を差し置いて、シグナ様を紹介するなんて出来ません。そんな、多い事ですよ!」


 相手の立場の強大さに遠慮すると言うより、下手に関わって分不相応な厄介事に巻き込まれたくない。より相応しい相手が居る。そんな雰囲気が、良い意味で丸見えだった。


 名前は判明した。こうなると、一室全員の視線は、誰にもかんばせを合わせ無い士紅に収束する。


「あれ。言って無かったか?」


 集まる意識が触ったのか、普段通りの不機嫌さを乗せた表情で士紅が仲間を見渡す。


 似紅にせべにを受けた仲間は、揃って否定の仕草をして見せる。


「イ=シグナ=セース。ロスカーリアに籍を置く、グランツァーク財団総本陣の総務長官だよ。

 多分、シグナと呼称しても大丈夫だ」


 御曹子達が、数拍の間を空け、仲良く同時に恐慌を起こしたのは言うまでもなかった。


 特に千丸は、縁が深く大恩の一角を前に動揺は大きい。


「諸々の礼は、来年頂戴する」


 流れにより、千丸は平伏の勢いで、当時救われた生命の礼を言葉に変換しようと息を整えた。

 だが、上手うわてを行くシグナは、形式が現れる前に白い手袋に包まれた極上の掌で制する。


 なおも食い下がろうとする千丸を遮断しゃだんしたのは、第三の来訪者。

 彼は、士紅とシグナにとって最大の功労者だった。


「遅れて、申し訳ありません。

 さあ、皆。期末考査に向けて勉強しようか」


 盛大に場を折ったのは、仕事終わりにも関わらず、濃灰色のスーツと姿勢を、一切崩さず推参した黒髪黒眼の青年。

 八住やずまかいと、その使命感を宿す、芯が入る爽快な声だった。




 ○●○




 待合室は、そのまま学習会場となった。


 嫌になるくらいの待合室の調度品の機能美は、士紅、シグナ、深歳、廻が軽く動くと、学習塾の配置と高さにしつらえられた。


 さらに驚愕させたのは、都長にシグナ。千丸に深歳。メディンサリに廻が張り付き、専属教師となった事だ。


「見て下さるの、シグナ様!? き、緊張して、手が震えるよ~!」

「こんな、体育会系美形王子に見られたら、照れるし劣等感で、集中出来ねェよ! 千丸、代わってくれ!」

「監督、宜しくお願いします」


 隙も与えず、深歳と席を確保した千丸は、何を言われようと譲る気はない。全精力を傾けてまで知らしめる。


 臨時家庭教師の範疇から逃れた、青一郎、昂ノ介、礼衣、蓮蔵、士紅は、適当に席に着き、対策問題集に手を付け始めてしまった。


「心配するなよ。五分もあれば見慣れる。シグナも廻も、教え方は上手いぞ」


 往生際が悪い、都長とメディンサリに、士紅が現代国語の過去問に眼を落としながら語る。


「都長君。判かりやすい算術からこう」

「一番嫌いな奴から!? 許されるなら逃げたいよ~!」


 士紅の慰めの言葉も、シグナに苦手分野を選択され、都長の敬語も緊張感と共に飛んでしまう。


「大丈夫。間違えても殴ら無いから」

「怖いですって! その冗談!」


 メディンサリが指摘した通りの、爽やかで快活な笑顔に、廻は不穏な言葉を混ぜる。


「数学なんて、端末に数値を打ち込めば、人間より速く計算してくれますよ~。

 変な公式を覚えたって、将来何の役にも立たないじゃないですか~」


 敬語を思い出した都長は、雛鳥のように口を尖らせ、不満を言いつつ、シグナが広げた数学の過去問の前の席に着く。


「数学なんざ、一番簡単やろが。決められた所に数を放り込んで、言われた通りに計算すれば正解じゃ」

「千丸君は、昔から数字が出て来る教科は得意ですからね」


 付き合いも長い蓮蔵は、千丸の得意分野は把握済みだった。よしみの援護射撃に気を許した千丸は、つい苦手教科を吐露してしまう。


「確かにの~。国語、社会とかは苦手やの」

「銭勘定だけは得意な支配者って、怖過こわすぎるんだけど」

くちではなく、脳と手を動かせ」

「は、は~い」

「分かり……」

「……ましたァ」


 昂ノ介の一睨みと一声で、やや落ち零れ組は、消え入る返事を余儀なくされた。




 ○●○




 都長は、黒目がちな幼い瞳に疑いの色を浮かべていた。


「時間、掛かったけど解けた。全部」

「頭から、算術が嫌いで役に立たぬと、決め付ける部分が正解へ向かう意識を止めて居たのだな。

 基礎設問は、とどこおらずに解答に辿り着くが、応用に転じると混乱するようだ」

「ん~。途中で、どうして良いのか混乱しちゃうんです」

「成る程。その場合は……」


 都長の素朴な悩みに、シグナは対面でありながら、都長に向かって文字や図形を器用に書き込む。説明にしても、都長のうなずきが止まらない。


 千丸、メディンサリも、臨時家庭教師の魔法の言葉の導きで、見た事もない採点数に驚き、それぞれの長所、短所を自ら質問する程だった。


「本当に、お上手だね。勉強の手解き」

「何度かあった勉強会でも、注意するくらい集中力もなく、苦々しく向かっていたのに、質問までするとはな」


 青一郎の言葉に、三人組には手を焼いていた昂ノ介も、脱帽の思いを置く。


「やらされとるって気分が、駄目なんじゃろうなァ。

 何の意味があるんじゃ、こんなモン。とか、大人は誰も使つこォとらん。とか」


 ノート型の端末に情報を入力する廻は、千丸の発言に顔上げた。


「学校の勉強って、大切だぞ。学校へ通う事も重要だ。社会に出ると、必ず役に立つ。

 その環境に身を置いているのなら、行くべきだ」


 爽やかなつやと張りがある廻の声に、数名が手を止め、話しの内容へ若い耳を傾ける。


「学校の勉強や交流は、若い内に受けた方が善い。脳が成長するための刺激だし、難しい数式も、考えて文章を読み書きするのも、順を追って歴史を読み解くのも、そのためだ」


 目張めばりに似た、濃い輪郭を緩めると、廻は穏やかな大型犬の目元に変わる。


「集団生活。その中での会話。伝える手段。規則の遵守。個が集まり、集団となる。集団であるからこそ、個を把握する事が出来る。

 個が持つ生命、存在する尊厳を理解し、支え合う事が叶う」


 シグナ、深歳も、廻の言葉の連なりを静観する。


「学校の勉強からは、いくらでも逃げられるが、社会に出て、仕事を受け持つと〝はい、無理〟の即答で投げ出せ無い状況がある。

 苦手な科目も、環境も、考えて切り抜けると、社会に出ても、案外、何とかなるんだ」


 廻は、途中から記憶を辿る、遠い眼をして居る事に気付いた。





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