第3話 イチノ 『カップと魚』

 誰も命令する者がいない浜辺で、彼女は波のない淡水の海を見つめていた。


 水面を?

 透きとおった水底の珊瑚を?

 違う。

 遙か遠く過去のものとなりつつある、己の意識に染みついた本来の居場所を、彼女は見ようとしていた。


 かつて、自分が繋がれていた軍艦。

 5人ぽっちのクルーに操られた、8等スループ艦ナライ号のパイロットスペース。

 ピンクの液体と生体チューブの束。

 星舟と繋がると、彼女は溶けるような一体感を得る。

 力強く。

 速く。

 凶暴になれる。

 そのとき彼女の脳神経の働きは、駆り立てられた競走馬のそれとよく似ていた。


 繋がれず久しい、忘れられつつある力への欲求。

「懐かしむ」という気持ちがあるのか?

 力が彼女を呼んでいるように感じたのか?

 無意識にか?



 彼女の正式名称は、パイロットスタンダードシリーズ型・1-A。

 シリアルナンバー・CN07080P8TR141X19213179333。


 あるとき、休戦中である敵方の遭難した騎士が、こう訊ねた。

「お前はクローン兵なのに名前があるんだな 誰がつけたんだ? どういう意味だ?」

 彼女は、回答することで休戦協定の第三項に抵触しないか、コンマ一秒かけて考えてから答えた。

「『イチノ』というのは 私の乗艦の艦長が 愛称としてつけてくれたものです 型番の1-Aを略したものだと言われました」


 その艦長がもう死んで存在しないことを、死因となった戦争の相手である騎士はナイーヴに感じ取り、口をつぐんだ。

 しかしイチノは、艦長の名を口にしても何も思わなかった。


 本当に?



 * * *



 一日の内、イチノがパイロットブースの中にいる時間より外にいるほうが長くなるのは寄港中のときだけだ。

 イチノはお茶の時間、ミース艦長に休憩室へ呼ばれた。

 コトフ掌砲長、イルダ航宙長、ショーヤ、マレッタ…。

 クルー全員そろってのお茶だ。

 航宙中は勤務時間のずれがあり、クルー全員がブリッジ以外で顔を揃えることはない。

 寄港中はめいめい自由行動が多くお茶の時間にクルーがそろって休憩室に集うということも、めったにないことだった。

 ミース艦長はイチノの前に紙包みを置いて、開けるように言った。

 イチノが丁寧に紙を剥がしていくと、それは円筒型のカップだった。

「お前の専用カップだ」

 ミース艦長は微笑んだ。

 イチノは少し意味を考えるようにカップを見てから、黙ってうなずいた。

 ナライ号に配属されて2年、ときどきこの艦長の気まぐれの親切に戸惑うこともあったが、もう今はその厚意を黙って受け止ればいいのだと理解している。

「そのカップはちょっと珍しいんだぞ。模様に見えるのは象形文字なんだ」

 艦長自ら全員にお茶を注ぎながら、港の土産物屋で買ったイチノのカップの解説を始めた。

「へー、どんな意味なんですか」

 マレッタがテーブルに顔をへばりつけるようにしてカップに書かれた文字を見る。

「魚の種類が羅列されているんだそうだ。買った店で少し読み方を教えてくれた。例えば、これ、『鰯』はイワシ。それからこの『鰹』という字はカツオのことだ」

 艦長が一つ一つ指をさす。

「イチノ、魚って知ってるか?」

 と、コトフ掌砲長。

「レーションのメニューの一つです」

「いや、そうだけど、泳いでるの見たことないだろ?」

「およいで……?」

 イチノは不審げにコトフ掌砲長をジッと見た。

「魚ってのは食べ物以前に海とか川で泳いでる生き物だ。イワシってのはすごい群れで泳いでて、カツオはデカくてとんがってるんだぜ」

 イチノはうなずかずに無言のままカップを見た。

 その魚という生き物と、このカップの模様の因果関係がよくわからない、というところだろうか。

「あ、みんな左側の模様が同じですよ? ほら」

 さっきからジッとカップを見ていたマレッタがめざとく指摘する。

「いいところに気がついたぞ。それがこの象形文字の法則だ。左側の模様がこれと同じ場合、その文字は魚の種類を示しているという印なんだ」

 得意げに言って聞かせる艦長は、実は、イチノから何か喜びの反応を引き出したがっていた。

 だが、イチノはいつも無感動だ。

 名前を「イチノ」と初めて呼ばれ、その由来とその愛称を継続的なものとすることを宣言されたときも、ただうなずいただけだった。

 このカップのときも似たようなものだった。

 カップをしばらく観察してから、イチノは、

「この一番大きく書かれている『鮨』とはどんな魚でしょうか?」

 と尋ねた。

「え? ……さ、さあてな?」

 と、わからず困ってしまった艦長をしばらく見ていたイチノは、それからお茶をすすって、二度とカップの話題に触れなかった。



 * * *



 イチノは献身的で自ら使命を求める。

 しかし、走れず、泳げない。

 そのいくつかの性質・能力特性は別にして、人類に可視の電磁波長によって認められる彼女の外観は、おおよそこう表現されるだろう。

「かわいい」

 こうも言うかもしれない。

「大人しくて いい子だ」

 ありきたりの言葉で片づけられる、普通の少女。

 その印象と、イチノの存在目的はどれほど遠いものだろうか。


 強力なジャミング装置で人為的に発生させられた認識領域の空白範囲は「モヤ」と呼ばれる。

 モヤの中では、誘導兵器・無線通信、あらゆる索敵手段が使えず、光学的に観測できないものは認識できない。


 モヤの中の索敵と機雷による打撃を同時に行う高速雷撃戦。

 光学観測器で捉えるまで、近づかなければ敵も味方も確認できない状況の中、高速でモヤに突入し敵艦隊実体の前方をかすめ、突っ切り、速度に乗せた機雷を放ち一気に離脱する。


 宇宙空間の進路変更が容易ではないことを前提に、敵の予測軌道範囲を攻撃する宇宙戦闘は、ポジションとタイミングを奪いあい、潰しあう戦いとなる。

 スピードによってそのポジションを優位に取ろうとする高速雷撃戦という戦術の判断材料となるのは、光学的に認識された観測データだけだ。

 一隻の星舟で観測できる情報量は大した物ではないが、多数の星舟がそれを相互に保有できればどうか。

 無線通信を断たれたモヤの中で、唯一それを可能にするのが糸より細く長い通信ケーブル。

 アンカーシステムと、エネルギーの糸車によって紡がれるケーブルが艦隊に張り巡らされ物理的に繋ぐ。

 機雷を打つ手とケーブルの連携保持。

 宇宙空間戦術は囲碁と似ていた。

 星の盤面で定石は無限だ。


 イチノと同型のクローン兵、パイロットスタンダードシリーズタイプ・1-Aは、5等フリゲート艦までなら一人で制御が可能だ。

 大量の機雷制御を求められる戦列艦においては、一人で雷撃戦のエキスパート砲手40人分の働きをする。

 彼女たちこそ、起源王朝時代に封じられ千年の時を経て復活させられた、個の経験の蓄積を移し替え全体のものにする技術の賜。

 軍隊という戦争遂行機関においてそれを構成し、代替の利くパーツである兵の理想。

 全てで一つの群体。

 同じ顔かたちをした無感動な殺戮者たち。


 高速雷撃戦のさなか、イチノは、人には真似することのできないスピードで航宙プランの書き換えと機雷制御を処理する。

 無表情のその奥で、獰猛な神経の高ぶりの中、人の命は数値化され、その意味は薄れる。

 特に敵のそれは減数させること以外に価値はない。

 イチノ自身に、その価値を考えなおすことは制限されている。


 しかし、彼女の脳神経活動をある範囲で制限する処理は、使役者の都合だけではない。

 軍艦をコントロールしながら大量の情報処理を脳で行う秘法は、彼女の脳に常駐させた微小の機械による技だ。

 脳神経に作用する秘法の類が大量に詰まったイチノの脳に、どれだけの負担があるのか。

 機能が衝突する秘法。相性の悪い秘法。それらを調整するための秘法。

 秘法という秘法。

 秘法のための秘法。

 それらを駆使するためには、人本来の脳神経活動は制限させる必要があるだろう。

 イチノは、脳で秘法が引き起こす機能障害を予防するための薬を大量に飲み続ける。

 それすらも、イチノの脳で秘法の意志が命ずるまま。


 彼女の寝床であるカルティベーションシステムは、かのパイロットスペースにも似ているが、身体の維持を補助するだけのもので、あの修羅の如き働きをする場所ではない。

 それでも、彼女はそこへ定期的に籠もることなくして存在することはできない。

 彼女は最初から最後まで軍隊の備品であり、軍隊から離れることはありえない。

 軍艦のように、軍隊に繋がれて。

 水兵には除隊があるが、クローン兵は死ぬまで戦争の道具として使われる。

 死ぬまで。

 彼女たちの地獄とは、この現世のことかもしれない。


 運命とは、無条件に受け入れなければならないものなのか?

 当分の無駄な、残酷な時間。

 ただ海を眺め、命令されることを待ちわびている。

 彼女の望むものは任務とその達成のみ。

 それは、彼女の脳神経に作用する秘法が為したことだろう。


 だが本当に?



 降りたことのなかった地上。

 太陽の下。砂浜。澄んだ海。

 溶けるような夕日。

 見たこともない緋色に輝く星形の花。

 流れる水、鳥、魚。

 走り、転び、鼻血を流す。

 彼女に残された時間は、彼女がこれまでしたことのないことばかりにあてられる。



* * *



「イチノ、魚を見てるの?」

「……あのカップに書かれた『鮨』という魚はどれでしょうか?」

 彼女はあの疑問を、まだ、持っている。


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