第10話「約束を、もう一度」

 僕が野球部に入部した波乱だらけのあの日以来、僕は野球部の練習以外にも浩介のトレーニングメニューも日々熟し続けた。

 最初の頃は、メニューの半分も熟せず、そこでも浩介の凄さというものを改めて実感した。

 それでも、少しでも早く浩介に近づこうと、僕は必死にトレーニングして、三ヶ月が経つ頃には、そのメニューも熟せるようになっていた。

 ちなみに、あれ以来、野球部の連中とも良好で、特に松井とはいい関係を築けている。

 松井とは、最初は練習量や配給を巡って反発しあってばかりいたものだけれど、今では誰よりも信頼できるキャッチャーだ。

 入部したばかり頃の僕と松井の関係をしている者からすれば、きっと嘘ような光景だろう。

 そうして、練習を重ねる日々は続き――気づけば、七月。

 夏の甲子園に向けての県大会がついに始まる。

 もちろん、僕は先発ピッチャーとしてスタメン入りした。

 そして、与えられた背番号は『1』。そう監督から伝えられた時、彼女は喜んでいたが、僕はそんな気分にはなれかった。

 その背番号は浩介のものだ。だから、断ろうした。

 けれど、松井が、


「どうせ来年には浩介が付けてんだ。今回くらいしか付ける機会がないんだから、有難く受け取っとけ、バカ」


 なんて事を言うものだから、僕は監督や松井、そして部員の皆に感謝しつつ、背番号『1』を付けることした。

 こうして、僕は青蘭高校野球部のエースとして、県大会に赴くことになった。


 初戦の相手は、運良く青蘭高校と同じく進学校で、難なくコールド勝ちを収めることができた。

 その初戦を終えた後、僕と彼女は試合帰りに、マスターへの報告がてら『喫茶カープ』に寄った。


「ほう。まずは初戦突破か。ま、当然だな」


 僕らの報告にマスターは喜ぶ素振りなんて微塵も見せず、平然とした顔でそう言って、僕の前にブレンド珈琲が入ったカップを置く。


「冷たいなー、マスターは。復帰後初の公式戦を華々しく勝利出来たって言うのに」


「馬鹿言え。テメェ自身が復帰戦程度で喜ぶタマか。大体、嬉しくもちっともないって顔しておいて、他人には喜べってか? 大方、自分でも納得いく登板が出来なかったってところだろ?」


「うぐっ……」


 流石はマスター。

 痛いところを突いてくる。


「そんなことないよ! タッちゃん、ヒットは一本しか打たれてないんだから!」


「ヒット、は?」


 彼女の自信満々の反論に、マスターは訝しげな表情で返す。


「うん。初回に最初の二人にファーボール出して、その後、ヒット打たれた以外は――」


「ゆ、由香!」


 彼女が懇切丁寧にたった一本のヒットまでの経緯を説明し出したので、慌てて止めに入ったが、時既に遅し。

 マスターは僕をジロリと睨んできた。


「ほう。立ち上がり早々に二者連続フォーボールの後にヒットか。それはまた素晴らしい復帰戦だな? で? その回、点はいくつ入ったんだ?」


「……一点、デス」


 薄ら笑いを浮かべながらも、笑っていない目でマスターに尋ねられた僕は、片言で答える。


「弱小高校に一点、か。そらまた、大したエースだ。こりゃあ、今年も青蘭は早々に消えるかもなー」


「う、うぐぐ……」


 言われたい放題だが、反論しようもない。

 あの一点、言い訳しようもなく僕の責任によるものが大きい。


「で、でもでも、結局その一点だけで、後は全部打たせて取るか三振だったわけだし。そ、それに、その回の裏はタッちゃん自分で打って点を入れたんだよ?」


 マスターに責められる僕を見兼ねて、彼女がフォローを入れてくれている。

 けれど、マスターはそれでも手を緩めてくれない。


「由香ちゃん。コイツを甘やかしちゃあいけねぇ。エースなんだから、自分の不始末は自分で始末するのが当然だ。そうだよな、達也?」


「……そう、だね」


「タッちゃん……」


 僕がマスターの言う事に同意すると、彼女も少しだけ落ち込んだような様子を見せた。


「ま、どうせ、久々の公式戦で緊張したってところだろ?」


「う、うん。相変わらず鋭いね? よく分かるな……」


「バーカ、お前が分かりやすいんだ。もちょっとポーカーフェイスってのを身につけろ。じゃないと、打者からも読み取られるぞ」


「そ、そんなに分かりやすいの、僕!?」


 色々な人に分かりやすいと言われてきたけれど、そこまでとは思わなかった。

 考えている事が顔に出ているとすれば、ピッチャーとして致命的だ。

 これは本格的に対策を講じた方がいいだろうか。


「そういう機微が分かる奴には分かるもんだ。ま、そんな打者が早々いるとも思えんが……しっかりしろよ、達也。野球において、キャプテンはまとめ役や支え役ではあるが、支柱となるのはやっぱりエースだ。エースがしっかりしないと、チームも崩れる。それは嫌ってほど中学の頃に経験してるだろ?」


「……うん」


 そうだ。

 エースはチームの柱。

 エースが不甲斐ない姿を見せれば、チームは浮足立つ。

 エースがマウンドで堂々としているからこそ、投手の後ろを守る野手は守備に徹することができるのだ。

 それを僕は中学野球の時に嫌ってほど見てきたし、経験もしてきた。

 それを考えると、今日の僕はエース失格だ。

 あんな投球は、あんな姿は二度とチームメイトに見せてはいけない。


「大丈夫。もう二度と今回みたいなことにはならないよ。次からは、いつも通りだ」


 僕は決意を新たにしてマスターに宣言した。

 すると、マスターは納得したように口元を緩ませる。


「ならいいが。次、不甲斐ないピッチングしてみろ。テメェは出禁だ」


「ええ!? き、厳しいなー、マスターは……」


 僕の反応にマスターは意地悪そうにケラケラと笑い、彼女もクスクスと笑う。

 そして、マスターは笑いながらも尋ねてきた。


「それで、どうなんだ? 今年は行けそうか?」


 行けそうか。

 マスターがそう聞いているのは、もちろん甲子園に行けるかという意味だ。

 僕はそれにハッキリと答える。


「まだ分からないよ。でも……きっと行ってみせる。浩介のためにも!」


「浩介のためにも……か」


 僕の返答にマスターから少しだけ笑みが消えた。


「アイツは……どうしてる?」


「コウちゃんなら、相変わらず部屋に籠ってるよ……」


 マスターの問いに彼女が表情を曇らせながら答えた。

 それを聞いたマスターは溜息を吐く。


「でも、最近は私とも話をしてくれるようになったんだよ? この間なんて、久々に部屋にも入れてくれたんだ。コウちゃん、布団に潜って顔も見せてくれないけど、前みたいに出ていけって言わなくなったし……」


 彼女が言う事は事実だ。

 浩介は少しずつではあるが、元気を取り戻しつつある。

 僕もこの三ヶ月間で何度か浩介の部屋を訪れたが、僕に対しても声を聞かせくれる程度には回復している。

 けれど、それも以前の浩介と比べれば、天と地の程の差があるのだが。


「そうか……。由香ちゃん、アイツとはいつもどんな話をしてるんだ?」


「話? えっと……結構普通なことばかりだよ? その日学校で何があった事とか、野球部の近況とか……でも、うん、やっぱりコウちゃんは野球部の事が気になってるみたい。私がコウちゃんの部屋に行くと、大抵野球部の事か、タッちゃんの事を聞きたがるから」


「僕の?」


 思いもせず、彼女の口から僕の名前が出てきて訊き返してしまった。


「うん。コウちゃん、達也は野球部でどうしてるんだーっていつも聞いてくるよ。……あれ? タッちゃんは聞かれないの?」


「う、うん……」


 そもそも、その話は初耳だ。

 僕が浩介の部屋を訪れても、アイツはそんな事を一度も僕に尋ねてきたことなどない。


「ま、浩介なりのプライドって奴かもな。アイツはお前に色々と思うことがあるんだろーよ。お前の前では素直になれんのさ。ツンデレって奴だな」


 そう言ってマスターはガハハッと豪快に笑う。

 マスターがツンデレなんて言葉を使うと、気色悪いけれど、浩介の性格を考えれば、僕に素直に訊いてくるというは確かに考えにくい。


「そっか……どんなになっても、コウちゃんにとってタッちゃんはライバルなんだね……」


 彼女は彼女で、そんな事を言って嬉しそうに微笑んでいる。


「それじゃあ、コウちゃんへの今日の結果報告は私の方からした方がいいかなー」


 そう言って彼女はアイスティーを飲み干して立ち上がる。


「由香、これから浩介んちに行くの?」


「うん、そうだよ」


「ごめん。僕はこれから……」


「分かってるよ。トレーニング、だよね?」


「うん。それと……浩介には『あの事』は……」


「うん、大丈夫だよ。タッちゃんに言われた通り、ちゃんと伏せてあるから」


「ごめん、気を遣わせて……」


 僕が謝ると彼女は「大丈夫だよ」と笑顔で答えて、マスターに挨拶した後、喫茶店を出ていった。


「達也。あの事って、何の事だ?」


 彼女がいなくなった後、僕らがしていた会話が気になったのか、マスターが尋ねてきた。


「まあ、ちょっとね。僕にも色々と考えがあるんだよ」


「……そうかい」


「さて、それじゃあ、僕もそろそろ行こうかな」


 僕も珈琲を飲み干して立ち上がる。


「トレーニングか?」


「うん、毎日欠かさずやってるからね」


「……」


 僕の返答にマスターは信憑な顔をして黙ってしまう。


「どうしたのさ?」


「……いや、なんでもねぇ。あんまり、無理、すんじゃねぇぞ」


「え……」


 一瞬、聞き間違いではないかと思った。

 マスターにはこれまで色々と助言はしてもらったけれど、僕自身を心配した言葉なんて聞いたこともなかったから。

 それがどういう気まぐれかだったのか、僕には分からなかった。


「う、うん……ありがと……」


 僕は戸惑いつつも、マスターにお礼を言って、喫茶店を出た。


         ○


 甲子園に行くためには、県大会で6回勝利を収めなければならない。

 つまり、初戦を勝利した僕達は、後5回勝ち続ける必要があるわけだ。

 だが、野球において6連勝することがどれ程難しいかは、野球経験者でなくても分かる事だ。

 県から甲子園に出場できるのは、負けることなく、その6度の勝利を収めた一校のみ。

 そんな狭き門を通るには、実力もさることながら、運も必要となる。

 そう言った意味では、今年の青蘭高校は運が良かった。

 三回戦までは、強豪校と当たることのない組み合わせになっているからだ。

 それでも、強豪校とはとても言えない青蘭高校にとっては、二回戦、三回戦も気を抜いていい相手ではない。


 二回戦は、初戦と違い、僕の立ち上がりは上々で、その試合もコールド勝ちを収めることができた。


 三回戦の相手は、相手ピッチャーが中々の投手で、投げ合いとなった。

 こうなると、味方の援護と如何にエラーをしないかというのが勝敗を分ける。

 結果として、僕達が勝利を収めることができた。

 ヒット数では相手チームを上回り、エラー数が相手よりも少ないのが勝因だ。


 こうして僕達青蘭高校野球部はベスト8まで残る事が出来た。


 だが、ここからが本番だ。

 これまでは組み合わせ運が良かったから、強豪校とは当たらなかったが、ベスト8――準々決勝ともなるとそうはいかない。

 勝ち上がってきている高校はどこも強豪ばかりだ。より一層気を引き締めていかなければいけない。



 準々決勝、相手高校は予想通り難敵だった。

 試合は1点を争う熾烈なものとなり、序盤で僕達が1点を入れた以外は、スコアボードには0が並んだ。

 僕はその1点を守り抜くため、三振を積み上げていった。

 気づけば九回の裏、最後のバッターをも三振に取り、序盤で入れた1点を守り抜く形で、僕達は辛くも勝利をもぎ取った。


 ハードで危なげな試合ではあったが、奪三振を積み重ね、打てば走って塁に出る僕を監督やチームメイトは讃えてくれた。

 ただ一人、彼女だけは不安そうな顔で僕を見ていた。

 彼女が何故そんな顔をして僕を見てくるのかは、その試合の帰り道、二人で並んで歩いている時に分かることなった。


「ねえ、タッちゃん……」


 彼女は変わらず不安そうな顔をしている。


「どうしたの? 何か心配事?」


「ううん、そうじゃないけど……」


「じゃあ、なに?」


「うん。……タッちゃん、無理、しないでね?」


「え……」


 それは奇しくも初戦を終えた後、マスターが僕に言った言葉と同じだった。

 それに僕はドキリとしてしまう。


「ど、どうしたのさ? そんな急に……」


「その……言い難いんだけど、今のタッちゃん見てると、無理してるような気がして……。覚えてるよね? 私との約束……自分を犠牲にしないでって」


「う、うん。もちろんだよ。だから、別に無理なんて……」


「それは、ホント?」


「――」


 彼女の瞳は真っ直ぐ僕を見つめてくる。

 その瞳に僕はまたドキリとしてしまった。

 まるで僕の嘘が全て見破られているような気がして、怖かった。


「だ、大丈夫だよ。心配性だな、由香はー」


 僕は彼女に問いかけに笑って誤魔化す。

 それでも彼女の心配げな表情は消えていなかった。


「心配いらないよ、由香。約束は守るから。だから、その心配は浩介に向けてやってよ」


「タッちゃん……うん、分かった。ごめんね、変なこと言って」


 僕の返答に彼女は納得してくれたのか、微笑んだ。

 けれど、この時の彼女はきっと気づいていたんだと思う。

 僕がここに至るまで、どれだけ無茶と無理を重ねてきていたのかを。


 それが僕自身に分かる形となったのが、準決勝の最後の一球を投げた瞬間だった。


 準決勝は、準々決勝以上に熾烈を極める試合となった。

 相手チームのピッチャー、打者共に強力で、こちらは中々ヒットを打つことが出来ないのに対して、向こうは毎回ヒットを打って塁に出るという戦況で、僕達は常に劣勢に立たされる。

 ただ、塁に出るものも、運よくそれが得点に繋がることはなく、九回まで1点も取られることはなかった。


 そして、スコアボードは0のまま、延長戦に入る。

 夏の炎天下の中、九回まで投げ続けた両チームの投手は、既に限界が近い。

 それでもピッチャー交代がないという事は、それほど両チームとも自分達のエースに信頼を置いているという事を意味している。

 つまり、ここまでくれば、勝敗を分けるのは、技術や戦術の問題ではなく、気持ちの問題ということだ。


 延長に入っても得点が入ることはなかった。

 そして、運命の十五回の表、僕達の攻撃が始まる。

 高校野球の延長戦は十五回までだ。

 そこまで行っても勝敗が決まらなければ、翌日再試合となる。

 つまり、この表で得点を入れることが出来なければ、最高でも再試合にしかならないということだ。

 正直、翌日再試合はここまで消耗した僕らにとっては、決勝を見据えるならきつい話だ。

 ここで是が非でも点が欲しいと誰もが思っていた違いない。

 だから、キャプテンで四番の高木先輩に打順が回った時、僕は願わずにはいられなかった。

 勝敗を左右するような一発を。

 その思いが通じたように、高木先輩が振るったバットは、奇跡と思えるほどボールを捉えた。

 そして、ボールは宙を舞う。


「やったっ!」


 思わずベンチから身を乗り出して僕は叫んでいた。

 相手ピッチャーは後ろを振り返り、宙を舞うボールを呆然と見送っている。

 そして、そのままボールはバックスクリーンに吸い込まれた。

 それは奇跡の一発だった。

 誰もがこの奇跡に大喜びしていた。

 高木先輩はダイヤモンドを一周して、ホームベースを踏んだ後、ベンチに帰ってくる。

 それを僕もチームメイトも称賛とハイタッチで迎えた。


 やっと1点。

 されど、そのたった1点が勝敗を決するのだと誰もが分かっていた。

 その裏、僕は打者二人を打ち取り、最後の一人をツーストライクまで追い詰める。

 そして、これが最後だと、思いの限りボールを投げようとした時だった。

 それが起きたのは。


「ぐっ……!」


 投げようとした瞬間、左肩に突然痛みが走った。

 そのせいで、ボールは手からすっぽ抜け、球速のない高めのコースとなってしまう。

 ボールが手から離れた瞬間に「しまった」と思った。

 甘いコースな上に球速もないボールだ。

 確実に打たれる。

 その予想通り、相手バッターはそれを見逃さず、ボールを捉えた。

 打たれたボールは高く舞い上がる。

 その高く舞い上がったボールを見た時、僕は覚悟した。

 ホームランを。

 けれど――、


「え……」


 意外にもボールの飛距離は大したことなかった。

 ボールは外野への平凡なフライとなり、それを外野手は難なく捕球。ゲームセットとなった。


 整列して相手高校と挨拶を終えた後、チームメイト達は喜びを爆発させていた。

 当たり前だ。

 進学校の弱小野球部が県大会の決勝進出を決めるなど、今迄になかったことだ。

 しかも、甲子園まで後一勝だ。もう、甲子園がそう遠くない所にあるのだから、誰だって喜ぶだろう。

 けれど、チームメイトがそんな喜びに沸く中で、僕はそんな気分にはなれなかった。

 最後の一球を投げた時の左肩の痛み、そして、試合が終わって以降も左肩に残る違和感が僕にそれをさせてはくれなかった。


「おい、達也」


「え!?」


 呼び掛けられて、慌てて振り返るとそこには嬉しそうな顔をした松井が立っていた。


「ん? どうした? なんか顔色悪いぞ?」


 松井は僕の異変に気づき、それまでの嬉しさを表情から消して、真剣に尋ねてくる。


「そ、そうかな? う、うん、流石に今日は疲れたかもね」


「そうか……まあ、最大延長まで投げ切ったからな。当たり前か。そう言えば、最後の球はヒヤッとしたぜ」


「あ、ああ、うん、ごめん。やっぱり疲れかな。ボールがすっぽ抜けちゃって。フライになって運が良かったよ」


「まったくだ。決勝戦は明後日だ。明日はゆっくり休めよな」


「あ、ああ、そうするよ」


 会話が終わると、松井はまた嬉しそうな顔になって、僕の前から去っていく。

 どうやら、肩の事は気が付かれなくて済んだようだ。


 今は気づかれるわけにはいかない。

 決勝戦を終えるまでは誰にも。

 気づかれてしまえば、登板させてもらえなくなるかもしれない。

 それだけはダメだ。

 浩介に証明して見せてやるまでは、僕はマウンドを降りるわけにはいかないのだから。

 僕は、監督やチームメイトには悪いと思いつつ、左肩の違和感について口を噤んだ。


          ○


 球場から学校に戻ってくると、いつもなら夏休みのため閑散としているはずの校内がやけに賑わっていた。

 聞くところによると、僕達の準決勝の勝利をいち早く聞きつけた生徒、教師、そして近隣住民が僕達の出迎えに集まってくれたらしい。

 皆一様に帰ってきた僕達を讃えてくれて、まだ甲子園に行けると決まったわけでもないのに既に軽い祝勝会のようになっている。

 疲れと肩の違和感が気になる僕は、その騒ぎが少し面倒臭くて、少し離れた誰にも気づかれない所で遠巻きに見ていることにした。

 彼女は騒ぎの輪の中に入って、生徒や近隣住民と楽しげに話をしている。

 それをぼんやりと眺めていると、


「よお、高杉ぃ!」


 突然、呼び掛けられた。

 驚いて振り向くと、そこには坂田君がいた。


「や、やあ。もしかして、坂田君も出迎えにきてくれたの?」


「いんや、オレは単なる補習の帰り。帰ろうとしたら丁度この騒ぎでね。なんだろーって思って立ち寄ったってだけぇ」


「そっか……」


 補習帰りと聞いて、内心ほっとした。

 坂田君までもこの騒ぎの熱に浮かされていたら、きっと煩わしく思って会話をすることもなく、この場から立ち去っていただろうから。


「勝った……みたいだな?」


 坂田君は楽しげに騒ぐ人々をどこか冷めた目で見ながら僕に尋ねる。


「うん」


「あと一勝、か。どうだ? 勝てそうかい?」


「どうだろう……まだ、分からない」


「なんだよ? 頼りない返事だなー。そこは絶対に勝つって言うところだろーに」


 坂田君は呆れたように言うと、ケラケラと笑い飛ばす。

 出来れば僕も自信を持ってそう言いたいところではあるが、勝負の世界はそんなに甘いものではない。

 それに今の僕は……。


「勝てるさ。高杉なら」


 僕の心の中を見透かしたように坂田君は静かに言った。


「な、何を根拠に――」


 言い返そうとした時、僕の坂田君の表情にハッとして、言葉を飲み込んだ。

 彼は、先程までの冷めた目とは違い、優しげな眼差しで騒ぎを見つめている。

 その視線の先には楽しげに笑う彼女がいた。


「アイツ、いい顔で笑うよになったよねぇ」


「え……そ、そうかな?」


「きっと、高杉のお陰だね。やっぱ、お前に任せて正解だった」


「そ、そんなこと……」


「謙遜すんなって。実際、オレじゃあどうしようもなかった。お前が頑張ってくれたから、アイツは笑えるようになったんだよ」


 それはどうだろうか。

 坂田君は僕のお陰と言うけれど、それは単に彼女が強かっただけのような気がする。

 だって、僕はまだ何も成し遂げていない。

 まだ、約束を何一つ守れてはいないのだから。

 そんな僕の心情を知ってか知らずか、坂田君は思いもしないことを告げた。


「けど……高杉が取り戻したい笑顔はあんなもんじゃないんだろうな」


「え……」


 坂田君は果たして僕や彼女の事をどこまで分かっているのだろうか。

 彼は、まるで全てを見透かしたような目で僕を見てくる。


「勝てよ、高杉。それを、アイツも望んでる」


 そう言って、坂田君は微笑みながら右拳を前に突き出してくる。


「坂田君……うん、ありがとう」


 僕は彼が突き出した拳に自分の拳を合わせ、笑い合った。


「タッちゃーん!」


 坂田君とそんなやり取りをしていた丁度その時、僕を呼ぶ彼女の声が聞えてきた。見れば、彼女がこちらに向かって走ってきている。


「じゃあな、高杉。当日はオレも応援にいくからさ」


 坂田君はそう言って、彼女がやってくる前にさっさと姿を消してしまった。

 それと入れ替わるように彼女が僕のもとにやってくる。


「あれ? 今のって、もしかしてトシちゃん? 二人で何を話してたの?」


「うん? あ、ああ、まあ、色々だよ」


「色々? むぅ、気になるなー」


 彼女は納得いかなさげな表情をしている。


「そ、それより、どうしたの?」


「え? ああ、うん、実はね、色々あってまだ帰れそうにないの。片付けとかもあるし。だから、タッちゃんは先に帰っててもらっていいよって言いに来たの」


「そうなのか……だったら手伝おうか?」


「ううん。今日は大変な試合だったから、疲れてるでしょ? 先に帰って、しっかり休みなよ」


 彼女に先に帰るように言われて、どうしようかと迷ったが、僕はそのお言葉に甘えさせてもらうことにした。


「うん。それじゃあ、また」


「うん。またね、タッちゃん」


 笑顔で挨拶を交わし、僕らはその日別れた。



 彼女と別れた後、僕は真っ直ぐ家には戻らず、お馴染みの『喫茶カープ』に寄ることにした。

 店内に入ると、珍しくマスターの方から話し掛けてきた。


「お、青蘭のエースがご来店か。さあ、さっさと座んな。今日はサービスだ。好きなもん頼みな」


 マスターはご機嫌な様子で僕を迎い入れる。


「ど、どうしたさ、マスター……熱でもあるの?」


「テメェ……人の親切を……」


 急転直下。

 ご機嫌だったはずのマスターの機嫌は、額に青筋が浮かんでいるのではないかと思うほど悪くなった。

 いやだって、マスターの方から話し掛けてくるだけでも珍しいのに、サービスなんてどう考えてもおかしい。


「はあ……もういい。さっさと座れ。ブレンドでいいんだろ?」


「あ、う、うん、お願い。それと……なんか、ごめん」


 謝るとマスターはギロリと一睨みした後、珈琲の準備に取り掛かった。


「いよいよ、決勝だな?」


 マスターは珈琲を作りながら、話し掛けてくる。


「あれ? 結果、知ってたの?」


「そりゃあな。ラジオで聞いてたからな。それに、お前の顔見りゃあ、勝ったか負けたかなんて、すぐに分かる」


「それもそっか……」


 マスターの言う事は尤もだ。

 それに、そもそも負けていたら、こんな所には来なかっただろう。


「だが……素直に勝利を喜んでるって顔でもないな」


「え……」


 期せずして、またマスターにドキリとさせられてしまう。

 僕はそんな表情をしていただろうか?


「悩み事……ってわけじゃないな。何か不安なことでもあるってところか」


「べ、別に不安なことなんて……」


「浩介のことか? それとも……肩が限界にきてることか?」


「――」


 マスターの言葉に僕は驚いて、思わずマスターの顔を見てしまった。

 すると、マスターは溜息を吐いた後、深刻な表情になる。


「やっぱりそっちか……」


「マスター、どうして肩のこと……」


「馬鹿野郎。そんなの少し考えれば分かる事だ。テメェがピッチャーに復帰して、まだ三ヶ月ちょっと。それ以前に肩を作る時間があったとしても、ピッチャーになるって決めたのは浩介の事があってからだろう。どう考えても、その期間で延長十五回も投げ切る十分な肩を作れるとは思えん。なら、それなりの無茶をしてるって考えるのが当然だ」


 それはあくまでもマスターの想像にしか過ぎない。

 場合によっては、その短期間の内に強堅な肩を作ることもできるだろう。

 けれど、僕にはそれが出来なかった。

 だから、無茶と無理を押し通すしかなかった。

 結果として、決勝戦を明後日に控えておきながら、僕は肩を痛めている。

 けれど、僕の不安はそれだけではない。


「マスターの見識には敵わないな。その通りだよ。だけど、あと一試合ぐらいなら何とかもちそうだから、心配はいらないよ」


 それは強がりではあったけれど、嘘ではない。

 痛みを押して出場できないほどではなかった。


「だったら、何が不安だ?」


 マスターは出来上がった珈琲を僕の前に置いて尋ねてくる。


「それは……」


 その不安は、僕がこんな無茶をする羽目にとなった理由、つまりは僕の行動原理だ。


「僕は浩介に夢を諦めて欲しくなくて、どんな状況に置かれたって、諦めさえしなければ、夢は叶うんだってところを証明して見せてやりたくて、ピッチャーになって、決勝戦まで来たけど。でも、明後日の決勝戦、もし勝ったとして、浩介はそれで前にみたいに夢に向かって頑張れるようになるのかなって……。もしかしたら、僕がやってきたことは、やっぱり自分勝手な思い込みで、浩介には意味がない事なのかも……」


 僕は置かれた珈琲カップを見つめながらマスターに自分の不安を吐露していた。

 もし、優勝しても浩介が元気になってくれなかったら……そう考えると、怖くなってしまう。

 また彼女にあんな悲しい顔をさせてしまうのが、怖かった。


「馬鹿野郎!」


「っ……!」


 マスターの店内に響き渡る罵倒に、僕は顔を上げる。

 見れば、マスターは目を吊り上げて怒っていた。


「テメェ、今更なに泣き言いってやがる! 甘ったれるな! お前は青蘭のエースだろ! 浩介がなんだ。もうそんなもん関係あるか!」

「か、関係あるかって……そんなわけにはいかないよ! 僕がピッチャーになったのは浩介の為で……」

「それが甘ったれてるって言ってんだ! 自分がマウンドに上がる理由を浩介のせいにするな! お前は自分一人の想いの為だけにマウンドに上がってんじゃねぇんだぞ! お前はもう、青蘭の、チームメイトの、そして自分自身の夢の為に投げてんだ。それを自覚しろ!」

「皆の……僕、の……?」


 マスターに言われるまで気づきもしなかった。

 今迄、僕は浩介との、そして彼女との約束のために投げてきた。

 けれど、今大会に特別な想いを抱えているのは、きっと僕だけじゃない。

 今年の夏が最後となる三年生もいる。

 僕や浩介のように甲子園を夢見て練習を頑張ってきた部員だっているだろう。

 それなのに、僕は自分の事ばかりで……。


「目ぇ覚めたか。この馬鹿が」


「うん……」


「だったら、コイツを持って行きな」


 マスターはカウンターの上に数冊の雑誌を放り投げる。


「これは……?」


「今の浩介に必要な物だ。本当は浩介が自分からここに来れるようなったら、渡すつもりでいたんだが……そうも言ってられねぇみたいだからな」


「浩介に必要な物……?」


 僕はマスターの意図が理解できず、数冊の雑誌の内の一冊を手に取り、中身を確認する。


「こ、これって……!」


 雑誌の中に書いてあることに僕は驚いて、思わず声を上げていた。


「お前から浩介に渡してやれ。きっかけくらいにはなるだろ。後は……お前の頑張り次第だ」


「……うん。ありがとう、マスター。本当に、ありがとう」


 僕はマスターに感謝の言葉を口にするしかなかった。


         ○


 翌日、僕は浩介のもとを訪れた。


「浩介、僕だ。入るよ」


 ノック後にそう言って、僕はドアノブを回す。

 何時ぞやとは違い、浩介の部屋のドアに鍵は掛けられていない。

 ドアはすんなりと開いた。

 けれど、部屋の主は相変わらずベッドの中だった。

 浩介は布団に包まって、姿を見せようとしない。

 以前のようにドアに鍵を掛けて、誰もかれも締め出すなんてことはなくなったが、部屋に引き籠っているのは同じだ。

 浩介は自宅に戻ってきて以来、一度も部屋から出ていない。

 おまけに、あれ以来僕達には顔すら見せようともしないから、僕には今の浩介がどんな風体になっているかすら分からなかった。


「何しに……きた?」


 布団の中からくぐもった低い声が聞えてくる。

 何しに来たと問われれば、僕の答えは決まっている。

 僕はそれだけの為に今日ここに来たし、その為だけにこれまで頑張って来たとも言える。

 だから、それを浩介に告げる事に躊躇いなどなかった。


「今日はお前に言っておきたい事があるんだ」


「俺、に?」


「ああ。青蘭、決勝まで行ったのは聞いてるよね?」


「……ああ。昨日、由香からのメールで……」


「うん、なら話が早い。明日の決勝、観に来て欲しいんだ。由香と一緒に」


「は……?」


 僕の要求に浩介は惚けたような声を漏らす。

 そして、少ししてから、ベッドからもの凄い物音が聞えてきた。

 きっと、浩介が手でベッドを叩いたか殴ったかしたのだろう。


「お前は……お前はこんな俺に試合を観に来いって言うのか! お前らが楽しげに野球してる姿を観に来いって言うのかよ! ふざけんな! 誰が観に行くか!」


 浩介は激高して、怒鳴り散らす。

 その声も久しく大声なんて出すことがなかったためか掠れ気味だ。

 それでも、そこに僕に対しての確かな怒りの感情が見える。

 そんな浩介に、僕は安心した。

 まだ、浩介には怒るだけの感情が残っている。

 それは、浩介の中に野球に対しての未練が残っている証拠だから。

 僕は怒る浩介に怯むことなく、静かに問いかける。


「浩介。由香から僕の事は聞いてるよね?」


「ああ! 聞いてるさ! 知ってるさ! お前が野球部で、試合でどんな活躍をしてるかなんてな! 由香は……アイツはいつも嬉しそうに話してくれた。お前が打っただの、走っただの、そんな事ばかりを! それを聞いて、俺は……俺は……」


 浩介は今にも泣きだしそうな声で喋っている。

 顔が見えないから、もしかすると本当に泣いているのかもしれない。

 もし泣いているとするなら、その涙は、きっと悔し涙だ。

 僕が野球で活躍している、頑張っている話を聞かされて、自分がそこにいない事への悔しさからくるものだ。

 それが僕には痛いほど分かる。

 けれど、僕は浩介の言葉を聞いて、また安心していた。

 どうやら、彼女は僕との約束を、この時の為の約束を守ってくれていたようだから。


「浩介さ、僕がどのポジションをやってるか知ってる?」


 その質問をする事が怖くはあった。


 現代はネット社会。

 知ろうと思えば、なんだってネットから情報を得られてしまう。

 だけど、これは賭けだった。

 いまの浩介なら、それすらも怖くてきっとしないだろうと思ったから。

 その賭けに勝つか負けるか、それは僕がした質問に浩介がこれからする返答で決まる。


「……知らねぇよ。由香の奴、それだけは教えてくれなかった。どこなんだ? ファーストか? サードか? それとも、外野か? まさか、キャッチャーって事はねぇだろ」


 その返答を聞いて、僕はほっと胸を撫でおろした。

 どうやら僕は賭けに勝てたらしい。


「そっか。そんなに知りたいなら教えてやるよ。僕のポジションは…………ピッチャーだ」


「え……」


 僕がピッチャーだと告げたことは、浩介にとっては思いがけないことだったのだろう。

 浩介は驚きのあまり起き上がっていた。

 その拍子で、包まっていた布団はズルリと垂れ落ち、浩介の顔が露わになる。


 久々に見る浩介の顔は、以前とは全く違うものだった。

 やつれて、頬もこけている。

 顔だけではない。体の方もやせ細っている。

 その姿は、もう僕の知っている浩介ではなかった。

 けれど、僕はそんな事は気にしなかった。

 そんなものは、これから幾らでも取り戻せる。

 それよりも、真実を知った浩介がどんな反応を示すかが重要だ。


 浩介の顔は驚いた表情のまま固まっていた。


「ピ、ピッチャー……? お前が……?」


「ああ、そうだよ。僕が投げてる。エースとして」


「エ、エース? う、嘘だろ……だって、お前はもう……」


 浩介は戸惑っていた。

 当然の反応だ。

 僕がピッチャーをやっている事は、本来ならあり得ないことのなのだから。


「うん。右肩は無理だよ。だけど……」


 僕は右手で左肩を掴んでみせる。


「ひ、左肩、だと? ま、まさか、お前……左、で……?」


「うん。左投げでピッチャーをやってるよ。昨日もこれで延長十五回まで投げたんだ」


「う、嘘……だろ?」


「嘘じゃないよ。知ってるだろ? 僕は右じゃあボールは投げられない。だから、左で投げる練習もしていたじゃないか」


「だ、だけど……それは野手としてで……」


「うん。最初はそのつもりだった。だけどさ、やっぱり僕はピッチャーを捨てきれなかったよ、浩介。確かに、以前のような剛速球は投げられない。だけど、左でピッチャーができるなら、それに賭けてみたくなったんだ。だから、必死に練習した。右利きで右投げだった僕が、右肩が使えないハンディを克服するために、ね」


「そん、な……」


 僕がどうやってピッチャーになったかを伝えると、浩介は愕然としていた。

 未だ、僕の言ったことが信じられないような表情をしている。

 だけど、後一押しのようにも感じる。

 後は……。


「浩介。僕、言ったよね? 夢は諦めなければ追い続けていけるもので、諦めさえしなければ叶うものだって」


「……ああ」


「それを明日、証明してみせるよ。だから、明日の決勝戦には必ず来て欲しい」


 僕は浩介の目を真っ直ぐと見据えて、ここに来て最初に告げた言葉をもう一度言う。

 けれど、浩介は黙ったまま俯き、それには答えてくれなかった。

 僕から口で伝えられる事は全て伝えた。

 後はマスターから渡された物に頼る他ない。


「試合を観に来るかどうか、決めるのはお前自身だ。だけど、少しでも迷っているなら、これを読んでから決めてくれ」


 僕はマスターから渡された雑誌を浩介に渡す。

 浩介はそれを手に取ると、訝しげな顔をする。


「これは……野球雑誌……?」


「ああ。きっといまの浩介に必要なものだと思ったから……」


「俺、に……?」


 僕の言った言葉に何か思うことがあったのか、浩介は雑誌の表紙に目を落とす。

 まんまマスターの言葉を借りただけだが、浩介には効き目があったようだ。


「浩介。明日、球場で待ってるよ」


 僕は最後にそれだけ告げて、部屋を出た。


         ○


 僕から浩介に掛ける言葉はもうない。

 後は、明日の決勝で証明してみせるしかない。

 僕はそう改めて決意して、浩介の家を出る。

 すると、浩介の家の前に彼女が背を向けて立っているのが見えた。

 ただ、浩介の家に入る素振りはなく、佇んでいるだけだ。


「由香……?」


 僕は彼女の様子が気になって声を掛ける。

 すると、彼女はこちらに振り向いた。


「え……」


 振り向いた彼女の顔を見て、僕は息を飲んだ。

 彼女は、その目に涙を溜めていた。


「ゆ、由香? ど、どうしたの?」


「タッちゃん……」


 彼女は僕の名を口にし、潤んだ瞳で悲しげに僕を見つめてくる。

 そんな彼女を見て、僕は戸惑った。

 彼女が何故そんな表情で僕を見つめてくるのか、僕には分からない。

 けれど、彼女を悲しませているのはきっと僕なんだろうという事だけは分かった。


「タッちゃん……お願い。明日の試合、登板しないで!」


「な!?」


 彼女の突然の申し出に僕は驚愕するしかない。


 何を言っているんだと思った。

 僕の聞き間違いでなければ、彼女は僕に明日の試合に出るなと言っている。

 どうして、そんな……。


「な、何を言ってるんだよ! ど、どうしてそんな馬鹿なこと……!」


「馬鹿な事じゃないよ! 悪いとは思ったけど、部屋の前でコウちゃんとの会話を全部聞かせてもらったよ。けど、それでも、私はタッちゃんに明日の決勝には出場して欲しくないって思ったの!」


「ど、どうして――ま、まさか!?」


 どうしてそんな事を言うのか、そう投げかけようとした時、僕はその理由に気づいてしまった。

 彼女は僕の考えていることを察して、静かに頷き、教えてくれた。


「マスターから聞いたの。左肩、痛めてるんだよね?」


「そ、それは……」


 マスターから聞いたと言われた以上、否定は出来ない。

 あの人はそういった事を勘違いする人では出ないし、ましてや、そんな嘘を吐く人でもない事を彼女は良く知っている。

 だからこそ、僕はマスターを恨んだ。

 こんな土壇場になって、どうして肩の事を彼女に話してしまうのか、どうして僕を困らせるような事をするのか、と。


「タッちゃんの嘘つき! 約束したのに! 私やコウちゃんの為に無理はしないって約束したのに、どうして破るの!?」


 彼女の言葉が胸に突き刺さる。

 彼女は泣きそうになりながら、僕を睨み、怒っていた。

 そんな彼女の言葉に僕は反論しようもなかった。僕が彼女との約束を反古にしているのは事実だ。

 それがバレた以上、今更取り繕っても意味がない。

 そんな事をしても、余計彼女を悲しませるだけだ。


「……ごめん、由香」


 僕は謝ることしか出来なかった。

 それで許してもらえるとは思えないけれど、その言葉しか思いつかなかった。

 けれど、彼女は僕の謝罪を聞くと、表情から怒りだけを消していく。


「ねえ、タッちゃん。今から病院に行こ? 肩、ちゃんと診てもらおう?」


 そして、彼女は懇願するように、そんな事を言ってきた。

 その表情は悲痛に歪んでいる。

 彼女にそんな顔をさせている原因は自分だと分かっているけれど、それでも僕にはその言葉を受け入れることはできない。


「それは……出来ない」


「ど、どうして……」


 僕がハッキリと拒むと、彼女はさらに悲痛な面持ちになった。


「どうして!? そのまま明日登板したら、タッちゃん、また肩壊しちゃうかもしれないんだよ!? そんな事になったら、タッちゃん、本当に野球出来なくなって……そんなの……そんなの私、堪えられないよ!」


 彼女の目からはぽろぽろと涙が零れている。


 結局、僕はいつも彼女を泣かせてばかりだ。

 もう二度と彼女には悲しい涙が流させないと決意したはずなのに、僕はいつも彼女に辛くて悲しい思いをさせてばかり。

 僕はなに一つとして彼女が笑顔になれるような事なんて出来てない。

 そんな自分がどうしようもなく情けなくて、そんな僕を信じてくれていた彼女に申し訳がなかった。

 けれど、それでも僕は諦めるわけにはいかない。


 そんな僕の決意を察してなのか、彼女は自身の想いを伝えようとする。


「私……タッちゃんには、これからもずっと野球を続けてて欲しいの。だって、タッちゃんは私にとって――」


「由香!」


 僕は彼女の言葉を遮った。

 その先を言わせないようにするために。


 彼女の想いは凄く嬉しかった。

 けれど、その先の聞いてしまうわけにはいかない。

 それを聞いてしまったら、僕は浩介とのもう一つの約束も破ってしまうことになる。

 それに、いま聞いてしまえば、本当に明日のマウンドに立てなくなってしまう。


「タッちゃん……?」


 途中で言葉を遮られた彼女は呆然とした表情で僕を見てくる。

 その目からは未だに止めどなく涙が流れている。


「ごめん、由香。でも、僕にはまだその先を聞く資格はないと思う」


「そ、そんなことないよ! 私、タッちゃんのこと……」


「ううん。ダメなんだ。まだ聞けない。聞くわけには行かない。僕はまだなに一つ成し遂げてない。だから、聞くわけにはいかないんだ」


「なんで……どうして、そこまで……」


「約束したろ? 君を甲子園に連れて行くって。それが果たせない内は、聞くわけには……ううん、聞くなんて立場が逆だ。僕から言わないと。だけど、やっぱりそれはちゃんと約束が果たせた後だよ」


「タッちゃん……」


 僕の言葉を聞いて、彼女がどう思ったかは分からない。

 けれど、きっと分かってくれたんだと思う。

 彼女の涙は、止まろうとしていた。


「それに、僕はもう、君や浩介の為だけに投げてるんじゃないんだ」


「え……じゃあ、誰の為に……?」


 彼女から尋ねられ、僕は目を瞑る。

 すると、その瞼には色々な人達の顔が浮かんでくる。

 監督とチームメイト、僕と浩介の両親、マスター、坂田君、浩介、そして、彼女。

 その人達の顔を目に焼き付けてから目を開き、彼女の問いに答える。


「僕は、僕を信じてくれている人達の為に明日のマウンドに上がる。青蘭高校野球部のエースとしてね」


 昨日、マスターに言われた通りだ。

 僕は色々な人の想いを背負っている。

 けれど、ただ背負っているわけじゃない。

 僕は今迄その人達の想いに助けられてきた。

 その人達がいたから、ここまで来れた。

 だから、今度は僕がその人達の力にならないと。

 それを果たせないまま途中で投げ出すなんて出来ない。


「見ててね、由香。僕は明日、君や浩介、皆の為に投げるよ。そして、今度こそ皆の期待に応えてみせるから。大丈夫。肩のことなら心配はいらない。あと一試合ぐらいはもたせてみせるさ。だから、見てて欲しい。最後まで、浩介と一緒に」


 僕は微笑みながら、今の自分ができる精一杯の想いを彼女に伝えた。

 それに彼女は悲しげに微笑みながら応えてくれる。


「……分かったよ、タッちゃん。ごめんね、大事な試合の前に変な事、言って……」


 そう言ってから、彼女は悲しみを振り切るように笑顔を弾けさせた。


「明日は、私も全力で応援するね!」


「ありがとう、由香。明日、球場で待ってるよ」


「うん、絶対に行くよ! コウちゃんを連れて、絶対に! 約束するよ!」


「うん。浩介の事、頼むよ」


 彼女は僕の言葉を信じ、僕も彼女の言葉を信じて、互いに約束を交わた。


 翌日、僕は球場前で彼女と浩介が来るのをギリギリまで待ったが、結局姿を現さなかった。

 それでも、僕は必ず来てくれると信じ、決勝戦のマウンドに上がる。

 もう、迷いなんてない。

 後はただ浩介が来てくれていると信じて投げるだけだ。


 けれど、不安はある。

 昨日は安静にしていたにも関わらず、左肩の違和感は消えておらず、悪い予感はあった。

 そして、その予感は、最後の最後、一番大事な場面で、最悪の形で現実のものとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る