第9話「僕がエースになる」

 四月。

 浩介と約束して、一ヶ月が経った。


 高校二年生の春、僕は、一度はもう着ることのないと思っていたユニフォームに袖を通す。

 あの頃とは違うものだが、それでも懐かしいものを感じる。

 僕は靴をスパイクに履き替え、うちの高校のカラーである青い帽子を被る。

 そして、最後にグラブを持って、更衣室から外に出た。


 外に出ると、僕は迷うことなく真っ直ぐグラウンドに向かう。

 グラウンドに着くと、既に声が飛び交っており、そこには僕と同じユニフォームに身を包んだ多くの部員が白球を追いかけていた。

 僕はそんな彼らを見つつ、グラウンドの脇に立って同じく彼らをじっと見つめている男性へと歩いていく。

 男性は、がたいのいい体にスポーツウェアを着込み、その見た目は40代とは思えないほど若々しい。

 僕が近づいていくと、男性は僕に気づき、ニッコリと微笑んだ。


「やあ、来たね」


「はい。今日から宜しくお願いします、監督」


「うん、よろしく」


 僕が挨拶すると、男性も挨拶を返し、またニッコリと微笑んだ。

 相変わらず、教壇に立っている時と同様、優しそうな人だ。

 この優しげな男性の名前は相沢祐介さん。

 青蘭高校の数学教師で野球部の監督でもある。


 青蘭高校は進学校で、そこまで部活動には力を入れていない。

 だから、どの部でも外部から監督やコーチを招くことはなく、教師が兼任していることがほとんどだ。

 野球部もその例外ではない。

 そして、教師が兼任している場合、大抵その教師は顧問となったスポーツについて詳しくない。

 未経験で、知識もゼロということが往々としてあるらしいのだ。

 けれど、相沢監督は違う。

 野球のことも知っているし、技術も持っている。

 それは、以前、野球部の練習を覗き見た時に知っていたし、浩介からも聞かされていた。

 そう言った意味では、うちの野球部は弱小でありながら、恵まれていると言ってもいい。

 けど、まあ、知識と技術を持っているからと言って、名将であるかは別なのだが……。


「よし。皆、集まってくれ!」


 相沢監督は練習している部員に号令をかける。

 すると、部員たちは練習を中断し、監督のもとに集まって、横に並んで整列した。

 その一番端には体操着を着た彼女の姿があった。

 僕は相沢監督の横で、両手の指先を伸ばして直立不動の姿勢を取る。

 監督の前に並んだ部員たちはチラチラと僕の方を見てくる。

 その目は好奇なもの、訝るもの、不思議がるものと様々だ。そんな中で、彼女はニコリと微笑んでいた。

 相沢監督は一歩前に歩み出て、一度咳払いをした後に、口を開いた。


「さて、新入生が入ってくる前だけど、皆に新入部員を紹介したいと思う。知っている者もいると思うが、私の隣にいる二年生の高杉達也くんだ」


 その瞬間、部員たちがざわざわと騒ぎ始めた。


「なんで二年生がいまさら?」


「高杉、達也……?」


「どこかで聞いた名前だな?」


「嘘だろ……?」


「なんでアイツが……」


 様々な声が聞えてくる。

 当たり前の反応だ。

 二年生の僕が入部してくるなんて、おかしな事と思うだろうし、僕の経歴を知っている人間ならば、それがどれだけあり得ない事か分かるはずだ。

 けれど、僕はそのどの声も気にならなかった。

 なんせ、僕はこれからそれ以上にあり得ない事をするつもりでいるんだから。


 浩介と話したあの日、あの後、僕は彼女に電話して、野球部の顧問と二人で話がしたいと伝えた。

 彼女にそのパイプ役をお願いしたのだ。

 もちろん、そんな事をお願いした理由は、野球部に入るためだ。

 けれど、ただ野球部に入るためだけではない。


 部員たちの騒めきは収まる気配はなく続いている。


「静かに!」


 相沢監督が静まるように声を出す。

 すると、ピタッと部員たちの声が止んだ。

 それは監督の下でしっかりと統率が取れている証拠だ。


「高杉くん、自己紹介を」


 監督は僕に部員たちに対して挨拶をするように促す。

 僕は頷いてから、前に歩み出る。

 そして、整列をする部員たちを見渡し、最後に一番端にいる彼女と目があった。

 彼女は僕と目が合うと力強く頷いて見せてくれる。

 それだけで、これから僕がすることに勇気が持てた。

 僕はしっかりと前を見据え、そして、息を大きく吸い込んでから、一気に声にして吐き出した。


「二年の高杉達也です。これから皆さんとチームメイトにならせて頂きます。途中入部ということで、戸惑われているかもしれませんが、中学までは野球をやっていたので、経験はあります。諸事情で今迄野球から遠ざかっていましたが、改めて野球を再開したいと思い、入部させて頂きました。どうか、これから宜しくお願います。それと、入部にするにあたって皆さんに僕から言っておきたいことがあります」


 そこで僕は一度言葉を切る。

 これから宣言することは、きっと目の前にいる部員たちには受け入れ難いものだろう。

 もしかすると、快く思わない者もいるかもしれない。

 それでも僕は言う。

 それが僕の決意であり、目指すべき目標なのだから。


「僕はエースピッチャーとして青蘭高校野球部を今年の夏の大会で甲子園に連れていきたいと思っています!」


 その言葉を僕は声を大にして言い切った。

 その瞬間、目の前の部員たちは再び騒めき出した。


「こ、甲子園、だって!?」


「何言ってんだよ、こいつ……」


「本気か?」


「いや、それよりもエースピッチャーって……」


 聞えてくる声は予想通りのものだった。

 中には、僕の事を冷ややかな目で見てくる者もいる。

 徐々に騒めきの声は大きく、そして、多くなっていく。

 けれど、今度はそれを相沢監督は止めることをしなかった。

 監督が何も言わなかったのは、僕の演説に呆気に取られていたわけでも、部員たちのように驚いたり呆れたりしているわけでもない。

 そうするように前もって僕がお願いしていたからだ。


 僕がした決意表明、それはいまの野球部にとっては禁句とも言えるものだ。

 何故なら、僕が口にした言葉はきっとそのまま浩介が以前に口にした言葉であり、浩介を想起させるものだから。

 だから、僕はどんな反発も受け入れる覚悟でいた。

 そして、案の定、それは起きた。


「ふざけんな!」


 騒めく部員の中、ひときわ大きな声が飛んだ。

 そして、ユニフォーム姿の一人の部員が列からはみ出して、僕の方へと歩み寄ってきた。

 その部員は小太りな体格で、とても打って走るというタイプには見えない選手だった。

 僕は彼の事も知っている。

 彼の名前は松井祥太郎。

 浩介と一年の頃からバッテリーを組んできたキャッチャーだ。

 その松井は顔を真っ赤にして、今にも殴り掛かってきそうな勢いで僕へとにじり寄り、吊り上がった目で僕を睨んだ。


「エースピッチャーとして、だと!? ふざけたことぬかしてんじゃねぇよ!」


 松井は怒鳴ると同時に右手を伸ばし、僕の胸ぐらを掴む。


「てめぇ、自分が何言ってんのか分かってるのか!」


「……ああ、もちろんだよ」


 怒る松井の目を真っ直ぐ見ながら、僕は平然とした態度で答える。


「て、てめぇ……!」


 僕の態度が気に入らないのか、松井は左手を握り拳にして振り上げた。


「待って、松井く――」


 松井の暴挙を止めようと彼女が声を上げようとしたが、僕はそれを目で制した。

 彼女はとても不安げな表情をしたが、僕の気持ちを察して、もう声を上げるようなことはしなかった。


「やめろ、松井!」


 松井が拳を僕に振るおうとした瞬間、一人の部員が声を上げて、松井の後ろから振るおうとした腕を掴む。

 それを皮切りに、数人の部員が集まってきて、僕から松井を引き剝がした。


「止めないでください、キャプテン! コイツは……コイツだけは許せません!」


 最初に松井の拳を止めた部員を松井はキャプテンと呼んだ。

 どうやら、彼が現在の野球部の主将のようだ。


「落ち着け、松井。お前の気持ちは分からなくもないが、暴力はダメだ」


 キャプテンは落ち着いた声で松井を諫めようとする。

 けれど、松井の怒りは収まらない。


「けど……コイツ、エースピッチャーだなんてふざけたことを。浩介はまだ……アイツがうちのエースなのに!」


 松井はその思いの丈をぶつける。

 けれど、キャプテンはそれに答えなかった。

 いや、答えようがなかったのだろう。

 キャプテンだけじゃない。

 他の部員も松井の叫びに暗い顔をして、黙ってしまっている。

 それだけで、僕は分かってしまった。

 浩介が野球部にとってどれだけ重要な存在であったのかを。

 そして、野球部の誰もが、浩介の復帰はないと諦めてしまっていることを。


「おい、お前!」


 松井は僕をギロリと睨んで、声を荒げる。


「俺は認めねぇぞ。お前の入部なんて絶対に認めない!」


 怒りが収まらない松井は皆の前で僕を拒絶する言葉を吐き捨てるように言った。

 そして、それは拒絶の言葉だけに留まらなかった。


「それに俺は知ってるぞ。お前はもうピッチャーはできねぇ! 中学の時に肩を故障して、ピッチャーとして再起不能だってな! そんな奴がエースピッチャーだなんて、どの口で言いやがる!」


 松井の言葉に静まり返っていた部員たちが再び騒めきだす。

 僕の事を知らない人間は「マジで?」と、僕の事を知っている人間は「そうだ、その通りだ」と、口々に言い、冷ややか目を僕に向けてくる。


 松井の言う通り、僕の右肩は再起不能だ。

 野手ならともかく、ピッチャーなんて出来る状態にない。

 けれど、だからこそ、僕はピッチャーになることを決めたんだ。


「だったら、証明してやるよ。僕が投げられるってことを。それを証明して見せたら、入部を認めてくれるか?」


 僕は松井の言葉を受けて、そう提案を持ちかけた。


「証明してやる、だと? いいぜ、やってみろよ! けど、ただ投げられるところを見せただけじゃあ、認められねぇ!」


「……どうしろって言うのさ?」


「うちの四番を三振に取って見せたら、入部を認めてやる。どうだ? お前にそれができるか?」


 松井は僕がその四番打者を三振に取れるわけがないと思っているのか、不敵な笑みを零す。


「おい、松井! お前、何を勝手に決めてるんだ!」


 キャプテンは勝手に話を進めようとする松井を止めようと僕と松井の間に割って入ってくる。

 けれど、僕はそれを手で制した。


「た、高杉……?」


「僕は大丈夫です、キャプテン。それで皆が納得するなら、僕は構いません」


 僕はキャプテンに向かって言い切る。

 それにキャプテンは顔をしかめた。


 入部初日で生意気な事を言っているのは分かっている。

 それでも、ここでやらないときっと誰もが僕を認めてくれない。

 それに、こんな所で躓いていたら、僕のやろうとしている事はきっと成し遂げられない。


 そんな僕の覚悟が伝わったのか、キャプテンはややあってから溜息を吐いた。


「まったく……仕方ないな。監督、構いませんね?」


 キャプテンは監督の許可を得ようと尋ねる。

 すると、監督は何も言わず黙って頷いた。


「見ての通りだ。松井の言う条件での入部試験を許可する。だが、その結果に関しては、恨み言は一切言わず、受け入れること。もちろん、仕切り直しもなしだ。いいな?」


 僕と松井はキャプテンの言葉に頷く。


「それで? その四番ってのは誰なんだ?」


 僕は松井に向けて尋ねる。

 けれど、それに答えたのは、キャプテンだった。


「僕だよ、高杉」


 やや申し訳なさそうにキャプテンは僕に向けて言った。


「そうですか……宜しくお願いします」


「ああ、よろしく。言っておくが、手は抜かない。こっちとしても四番打者としてのプライドがある。手加減はできないよ?」


「もちろんです。こっちも全力で行かせて頂きます」


 僕とキャプテンは微笑み合いながら握手を交わす。

 そして、僕はボールとグラブを持ってマウンドに向かった。


「おい、松井。お前が高杉の球を受けろ」


「え! なんで俺が!?」


 キャプテンが言い放った命令に松井は嫌がる素振りを隠しもせず、仰天している。


「誰のせいでこうなったと思っているんだ! お前が言い出したことなんだから、それぐらいはやれ!」


「う……わ、分かりました……」


 キャプテンの言葉からは、拒否は認めないというハッキリとした意思が感じられる。

 それに松井も拒むことが出来なかった。

 松井は渋々ながら、キャッチャー用のプロテクターを付けていく。

 その頃、僕はマウンドに上がっていた。


 久々に上がるマウンド。

 スパイクで踏みしめるその土の感触は懐かしい。

 懐かしいのだけれど、何故かここに自分が立っているのことが自然なように思えた。


 僕がそんな感慨に耽っている内に、松井はキャッチャーマスクを被り、所定の位置で座る。

 一方、バッターボックスにはキャプテンがヘルメットを着けて立っていた。

 僕は二人が所定の位置に着いた事を確認すると、グラブを右手に嵌め、左手でボールを握る。

 その途端、僕とキャプテンの勝負をグラウンドの脇で見守る部員たちの中からどよめきが起きた。

 そして、座っていたはずの松井は、マスクを上げて立ち上がる。

 その顔は、また殴り掛かってきそうなほど怒っていた。


「て、てめぇ……舐めてんのか! 右利きの癖に左で投げようなんて、ふざけてんじゃねぇ! やる気あんのか!」


 松井の怒りは尤もだ。

 中学の頃の僕を知っている奴なら、僕が右投げの投手であることは誰でも知っていることだ。

 だというのに、真剣勝負を謳っておきながら、利き腕でない方でボールを投げようなんて、この勝負を舐めていると思われても仕方ない。

 けれど、右肩を使えない僕がピッチャーに返り咲くにはこれしかないのだ。


「煩いな。そんなの投げてみなきゃ分からないだろ。いいから、さっさと座れよ」


「くっ……!」


 松井は忌々しそうに僕を睨みながらマスクを被り直し、座った。

 漸くこれで準備が整った。

 僕の復帰後初の真剣勝負が、これから始まる。


 真剣勝負と言っても、これは正々堂々という状況とは言い難い。

 何故なら、今回の敵はバッターだけでなく、本来は投手の最大の味方であるはずのキャッチャーも敵方に回っている状況だからだ。

 僕と松井の間にはサインなんかの取り決めはもちろんないため、変化球なんて投げることはできない。

 予告なしに変化球を投げたりして、松井にもしも怪我をさせてしまえば、勝負どころではなくなってしまう。

 尤も、今の僕には変化球なんてまだ無理なのだが。

 どちらにしろ、僕が投げることのできる球種はストレートのみだ。

 ストレートだけで、四番打者であるキャプテンを三振に取らなければならない。


 ボールを握る指先に力が籠る。

 自分の心臓が高鳴っているのが分かる。

 久方ぶりのマウンドで、失敗は許されない勝負だ。

 緊張しない方がおかしい。


 僕は不安と緊張で圧し潰されそうになっていた。

 そんな時、僕はチラリとグラウンド脇に控えている彼女を見た。

 彼女は、じっと僕を見つめていた。

 その目は、僕を応援し、僕が勝つと信じて疑わない目をしている。

 そんな彼女を見て、僕は自分を奮い立たせた。


 ここで負けるわけにはいかない。

 彼女の為にも、浩介の為にも、こんな所で躓いているわけにはいかないんだ。


 僕は大きく深呼吸をした後、松井が構えるミットを真っ直ぐと見据える。

 狙うはストライクゾーンど真ん中。

 そこに狙いを定め、僕は右足を上げ、前へと踏み出すと同時に左腕を思いの限り振るった。

 瞬間、ボールは僕の手を離れ、真っ直ぐキャッチャーミット目掛けて飛んでいく。

 けれど、キャプテンは僕の狙いを分かっていた。

 だから、彼は初球から思いっ切りバットを振ってきた。

 だが、そのバットは空を切り、ボールは松井が構えるミットに収まる。


 誰もがその瞬間を見て、唖然としていた。

 声も出さず、ただ呆然と起きた事を見つめている。

 バットを振るったキャプテンでさえ、バットを振り切った状態で固まっている。

 そんな中で唯一、キャッチャーの松井だけが呟いた。


「嘘……だろ?」


 松井は自分のミットに収まったボールを見つめ、信じられないという顔をしている。


 確かに、僕は右肩を怪我して、一度は野球を辞めてしまった。

 けれど、それでも僕は自分の夢を未練がましく捨てきれなかった。

 いつかは、医療の進歩とかでこの右肩が完治して、選手として、ピッチャーとして、復帰できるかもしれない。

 そんな淡い期待を抱いていた。

 だから、『日課』と称して、体だけは鍛えていた。

 そんな事、恥ずかしくて誰にも言えなかったし、二度と野球なんてやらないと意地を張った手前、周りに隠していたけれど。

 けど、それが変わったのが、あの時だ。

 彼女にもう一度野球をやると素直に言った時、僕は自分の可能性に賭けてみたくなった。

 そして、『日課』と称したトレーニングに、左腕でボールを投げる事を追加した。

 でも、その時はまだ、あくまでも野手として、外野からでも問題なくホームベースまで投げられる程度と考えてのことだった。

 それがさらに変わったのは、浩介と約束した日からだ。

 僕はサウスポーのピッチャーとなるべく、あの日から一ヶ月、僕は『日課』の中で、ただひたすら左腕での投球練習を重ねてきた。

 そして、それが今日、やっと実を結ぼうとしている。


「こ、こんなのまぐれだ! そうに決まってる!」


 松井は狼狽えた様子でそう言うと、僕にボールを投げ返す。


「さて、それはどうかな?」


「こ、このぉ……!」


 悔しそうな声を上げて、松井は座り直す。キャプテンもバットを構え直した。


 二球目は、タイミングは合っていなかったが、四番打者に対して流石に同じコースには投げられないので、バッターの胸辺り、内角いっぱいのストレートを投げた。

 キャプテンは最初の球で慎重になったのか、それを見送り、ツーストライク。


 三球目、僕は勝負に出ることにした。

 この勝負、僕の入部をただ認めてもらうだけのものではない。

 この勝負で、三球三振に取って見せなければ、今後エースとしても認めてもらうことはないだろう。

 だから、僕は渾身の限りでボールを投げた。

 投げたのは、外角へのストレート。キャプテンもそれを読んでいたのか、タイミングを合わせて、バットを振ってくる。


「もらっ――え?」


 キャプテンは完全にボールを捉えたと確信し、声を上げようとしたけれど、それは途中で疑問の声に変わった。

 何故なら、キャプテンの振るったバットがまたも空を切ったためだ。

 僕が投げた球は、バットが届かないギリギリをいくボール球だった。


「やったー! 三振だよ、タッちゃん!」


 ミットにボールが収まった瞬間、彼女が誰の目も憚ることなく、喜びの声を上げる。

 その声を皮切りに、他の部員からもどよめきが起こり、そして、それは次第に歓声に変わっていく。

 僕はそれを放心状態で見ていることしかできなかった。

 すると、そこにキャプテンがやって来た。


「おめでとう、高杉。これで、君は正式に野球部員だ」


 キャプテンはそう言って、ニッコリと微笑む。


「あ、ありがとう、ございます」


「ん? なんだ? あんまり嬉しそうじゃないね?」


「い、いえ、そんなことないです!」


「そうかい? なら良かったよ!」


 キャプテンは僕の返事に嬉しそうに笑う。


「しかし、やられたよ。まさか、あそこでボール球とはね。二球目で内角を攻めて、僕の状態を逸らして、外角のボール球を振らせる。四番打者に対して思い切った戦法だ。恐れ入ったよ!」


「す、すみません! その、あーするしかないと思って……」


「いやいや、謝る必要なんてないよ。真剣勝負だったんだからね」


「そ、そう言ってもらえると助かります」


 僕は冷や汗を掻きながら、ほっと胸を撫でおろす。


「それにしても……うん、君は本当に凄いな。あんな球、僕は名倉以外で見たことない。もしかしたら、君なら本当に成し遂げられるかもな」


「キャプテン……」


 それは僕がキャプテンに野球部員として、エースとして認められた瞬間だった。


「改めて、自己紹介しようか。僕はキャプテンを務める三年の高木だ。宜しくね」


「はい! 二年の高杉です。宜しくお願いします!」


 僕と高木先輩は、勝負前と同様、笑顔で握手を交わす。

 その瞬間、どっとグラウンド脇が湧いた。

 見れば、監督や部員たち、そして、彼女が僕と高木先輩に拍手を贈ってくれていた。

 そして、部員たちから、次々と僕を称賛の声が聞えてくる。

 けれど、そんな中で……。


「み、認めねぇ! こんなの、認められるか!」


 称賛する声の中、松井だけが声を荒げ、僕を睨んできた。


「松井、恨み言はなしと言ったはずだぞ」


 高木先輩が松井を諭すように言う。


「う……く、くそっ!」


 流石の松井もキャプテンからの言葉には逆らえず、それ以上は何も言って来なかった。

 けれど、その日の練習が終わるまで、松井は僕の事を親の仇を見るような目で睨んでいた。


           ○


 その日、異様な雰囲気の中ではあったが、無事練習を終えた。

 入部初日から色々と問題は起きたが、それでも、僕は自身の目標に向かって、その一歩を踏み出すができた。

 そんな充足感の中、練習後更衣室で制服に着替えていると、僕の目にあるものが飛び込んできた。

 それは『名倉』と書かれた名札が付いたロッカーだった。

 浩介のロッカーだ。


 着替え終わって次々と更衣室から出ていく部員たちを尻目に、僕は浩介のロッカーが気に掛かり、気づけば、更衣室には僕だけになっていた。

 僕は誰もいない更衣室の中、浩介のロッカーに近づき、手を掛ける。

 ロッカーには鍵は掛かっておらず、すんなりと扉は開いた。

 僕は恐る恐るロッカーの中を覗く。その中には、背番号『1』のユニフォームと、グラブ、そして一冊のノートが置かれていた。


「このノートは……?」


 僕は気が引ける思いがしながらも、そのノートを手に取り、ロッカーから取り出す。

 ノートの表紙には『トレーニングメニュー』と書かれている。

 どうやら、このノートは浩介がトレーニングために作ったトレーニングメニューノートのようだ。

 僕はそのノートの表紙を捲り、中身を確認する。


「え……なんだこれ!?」


 ノートに記載されていたメニュー内容を目にして、僕は度肝を抜かれた。

 それは、とても高校生が行うものとは思えないほど高度な内容だった。


 まずは筋力を高めるためのウエイトトレーニング。

 トレーニング方法に加え、重量、回数、そして休憩時間が細かく書かれている。


 次に、体幹トレーニング。

 こちらも、そのトレーニング方法と回数などが詳細に記載されている。


 さらに、ロードワーク。コースや距離が書かれている。

 そして、最後に投げ込み。球種と投球数が決めてあった。


 これらのトレーニングが一ヶ月分日単位で詳細に組まれている。

 それだけならまだいいが、その日その日のカロリー摂取量まで決めてあった。


「こ、浩介の奴……野球部の練習以外にこんな事を……」


 唖然とした。

 浩介が努力家なのは分かっていたけれど、まさかここまでやっていたとは知らなかった。

 僕の前ではこんな事を話題にしたこともなかったし、その素振りすらも見せたことがない。

 分かっていた事だけれど、浩介は、青蘭高校野球部のエースとして、本当にチームを甲子園に連れて行こうとしていたのだ。

 僕が浩介のノートを食い入るように見ていると、更衣室のドアがガチャリと開く音がした。

 その音に驚いて振り返ると、そこには松井が立っていた。

 松井は僕と目が合うと、しかめっ面になる。

 けれど、その視線が僕の手の中にノートに向いた瞬間、彼は鬼の形相になった。


「てめぇ、何勝手に浩介のノートの見てんだ!」


 松井はそう怒鳴りながら近づいてきて、僕の手からノートをかっさらう。

 そして、激怒した表情のまま、僕の胸ぐらを掴んできた。


「これはな、お前みたいな半端もんが見ていいものじゃないんだよ!」


「う、ぐっ……!」


 松井は怒りからか、僕の胸ぐらを掴む手に力が籠っている。

 そのせいで、少しだけ苦しかった。


「アイツは、甲子園に行くために、甲子園で優勝するって目標のために必死に努力してたんだ! お前のように今迄フラフラしてたバカと違うんだよ! それなのに……それなのにお前は……!」


「あ、ぐ……や、やめ、ろ……」


 やばい。

 松井の奴、頭に血が上りすぎて力が自制できてない。

 このままだと……。


「何してるの、二人とも!?」


 危機感を感じたまさにその時、更衣室内に声が飛んだ。

 その声の聞こえきた方を見ると、更衣室の出入り口に彼女が硬い表情をして立っていた。


「ゆ、由香ちゃん!?」


 松井も声に振り返り、彼女の存在に気づくと、僕の胸ぐらを掴んでいた手から力が抜けていった。

 だが、彼女は状況が把握できたのか、顔から血の気が引いていき、青い顔に変わる。


「ま、松井君……なに、してるの?」


「い、いや、これは……」


 松井は彼女に問い詰められ、慌てて僕から手を離した。

 けれど、彼女は松井をキッと睨み、見たこともないような怖い顔をしている。

 そんな彼女は、声を掛ける事すらも憚られるような雰囲気を纏っている。

 こんな彼女を見るのは、あの二人でのデート以来だ。

 松井も彼女の雰囲気に完全に気圧されて、先程までの怒りなど何処か行ってしまったかのように、意気消沈している。


「松井君、どういうことか説明して」


「いや、これは、高杉が浩介のトレーニングメニューを勝手に見てたから……」


「トレーニングメニュー……?」


 松井の言い訳に、彼女は彼が手に持っているノートに気づき、それに視線を移した。

 すると、彼女は表情を少しだけ翳らせる。


「そっか……コウちゃんのロッカーにあったんだね、そのノート」


 彼女はどこか懐かしむようにそう言って、松井が持つノートに手を伸ばす。

 松井は抵抗することなく彼女にノートを渡した。

 彼女はノートを取ると、暫しノートの表紙を見つめてから、顔を上げる。

 その顔は何か決意したように僕には見えた。

 彼女はノートを手にしたまま、松井に言った。


「松井君。このノート、タッちゃんに貸してあげてくれないかな?」


「え!?」


 僕と松井は、彼女の唐突な提案に驚愕の声を上げる。


「な、何言ってんだよ、由香ちゃん! コイツに浩介のノートを貸すなんて、出来るわけないじゃないか!」


 松井は彼女の提案を全力で拒否した。

 それが当然の反応だと僕は思った。


「松井君のコウちゃんへの思いも、タッちゃんに怒る訳も分かるよ。だけどね……」


「ダメだ! ダメだダメだ! いくら由香ちゃんの頼みでも、それだけは絶対にダメだ! こんな、ちょっと怪我したくらいで野球を投げ出すような奴に、そんな半端な奴に浩介のノートを貸すなんて絶対に嫌だ! 由香ちゃんは分かってないんだよ。どうせコイツは浩介がいなくなった今ならエースになれるとでも思って、野球部に入ってきたに決まってる!」


 松井は僕に対しての嫌悪をこれでもかと言葉にして彼女に伝える。

 それは、半分は事実で、もう半分は事実と反したものだ。

 松井の言う事には反論したい気持ちはあったけれど、そう思われていても仕方ないと僕は思って、反論しなかった。

 けれど、彼女は違っていた。


「違うよ!」


 彼女は僕の心の声を代弁するように声を上げる。

 その声は聞いたこともないほど、大きな声だった。


「違うんだよ! タッちゃんは――」


「由香!」


 まずいと思って、僕は彼女の名前を叫んだ。

 そのおかげで彼女の言葉は途中で止まってくれた。


「で、でも、タッちゃん!」


「いいんだ、由香。僕は気にしてないから。だから……」


 「その先は言わないでくれ」と僕は彼女に目で伝える。

 すると、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。


 これでいい。

 僕は誤解されたままでも別に構わない。

 どんなに取り繕ったって、僕のしていることは、僕自身の夢に近づく行為に他ならない。

 だから、どんな説明をしたところで、きっと当事者でない他人には分からないだろう。

 そう思って、諦めていた。


 けれど、僕は間違っていたんだ。

 それは僕の自己満足で、周りを、彼女を傷つけていることだって分かってなかった。

 次の瞬間、彼女が涙目になって、叫ぶまでは。


「でも……それでも、私は嫌だよ! タッちゃんが周りから誤解されたままなんて絶対に嫌だよ……!」


 彼女は必死になって訴えていた。

 その目には光るものがある。

 この時になって、漸く僕は自分の犯した間違いに気づいた。

 もう泣かせないと、彼女には悲しい涙は流させないと誓ったはずなのに、僕はまた彼女の気持ちも考えず、自分勝手な意地だけで彼女を傷つけてしまった。


「おい……誤解って、何のことだよ?」


 松井は事態が分からず、それでもその重大性だけには気づいたのか、真剣な顔で僕に尋ねてくる。

 そうなって、僕は漸く松井にも本当の事を話すに気になれた。


「由香……ごめんね。話すから。僕からちゃんと。だから、泣かないで」


「……う、うん」


 なるべく優しく語り掛けるように言うと、彼女は涙を袖で拭いて、少しだけ微笑んだ。

 その目はまだ赤かったが、もう涙を流してはいなかった。


「話すよ、松井。お前にだけには、僕が野球部に入った本当の理由を話しておく」


「な、なんだよ……本当の理由って……?」


 松井は僕があまりにも真剣な顔をしていたからなのか、戸惑っていた。

 けれど、これから話すことは、きっとそれ以上に彼にを戸惑わせるものだ。

 だから、僕は構わず話した。


「僕は、浩介を野球部に戻したいって思ってる」


「え……」


 僕の言葉に松井は面食らった表情で固まる。

 それでも、僕は構わず話し続けた。


「けど、あいつはいま、自分の置かれている状況に絶望して、前に踏み出せなくなってる。左足を失って、前みたいに野球ができなくなってしまった恐れで、前に踏み出す勇気が持てなくなってしまっているんだ。だから、僕は浩介に見せてやりたい。どんなハンディがあったって、夢は追い続ければ、叶うもんなんだって。それを証明してやりたいんだ。この左腕で」


 それが、僕が野球部に入って、エースピッチャーになると決意した本当の理由だった。

 あの時、浩介を立ち直らせるには、それしかないと思った。

 どんなハンディを抱えていても、全力でプレーできなくても、それでも人は努力でそれを補えるんだってところを浩介に見せてやれば、きっと浩介だって……。


 僕の話を聞き終えた松井は、何を思っているのか、暫く俯いていた。


「ま、松井、くん?」


 彼女はそんな松井を心配してか、不安そうに彼に声を掛ける。

 すると、松井はバッと顔を上げた。


「分かった。そのノートは高杉に預けておく」


「え……」


 それは僕からしてみれば意外な言葉だった。

 どんな事を話しても、松井は信じてくれないと思っていたから。


「か、勘違いするなよ! ゆ、由香ちゃんがお前を信じてるから、俺も信じてやるってだけだ。じゃなきゃ、お前の話なんか信じてやるもんか!」


 松井は恥ずかしそうに顔を逸らしながら言う。

 その言葉はとてもぶっきらぼうだったけど、僕には嬉しい言葉だった。


「ありがとう……松井」


 ただ嬉しくて、僕は素直に松井にお礼を言っていた。

 でも、松井の方は素直なんかにならず、


「ふ、ふん! お前にお礼を言われる筋合いなんてないね! じゃあ、俺は帰るけど、戸締り忘れんなよ、新人! あと、もう遅いからちゃんと由香ちゃんを送って行けよ! 分かったな、バカ新人!」


 そんな風に口を荒らして更衣室から出て行った。

 僕と由香は、そんな松井の姿を見送りながら微笑み合った。


          ○


 すっかり暗くなってしまった夜道、僕は彼女を家まで送り届けるため、彼女と二人並んで道を歩く。


「でもさ、なんで僕に浩介のノートを?」


 道すがら、僕は彼女に疑問に思っていた事を尋ねた。

 すると、彼女は少しだけ申し訳なさそうな顔で微笑んで答えてくれた。


「一人で練習する時にきっと必要になると思ったから」


「え……」


 僕は思わず足を止めた。

 彼女のその言葉には確信めいたものがある。

 それが何であるかは考えるまでもなかった。


「……知ってたの?」


 先を進む彼女に僕は尋ねる。

 すると、彼女も立ち止まって振り返った。


「うん。と言っても、知ってたのはコウちゃんだよ。タッちゃんが一人でずっと頑張ってたこと、コウちゃんが怪我する少し前に教えてくれたの」


「こ、浩介が……?」


「うん。でも、コウちゃん、この事は黙っとけって。タッちゃんは誰にも知られたくないみたいだから、知らない振りしてろって言われてて」


「そ、そうだったのか……」


 知らなかった。

 まさか、浩介に『日課』の事がバレていたなんて……。

 あいつ、そんな素振りなんて一つも見せなかったから、てっきり気づいてないと思ってたのに。


「ごめんね。本当は言うつもりはなかったんだけど……一人で頑張ってるタッちゃん見ていると、何か私もしたくなっちゃって……迷惑、だったかな?」


 上目遣いで僕の様子を伺いながら、彼女は尋ねる。

 僕はそれにすぐに答えず、彼女の横に並んで右手を彼女の頭の上に撫でるように乗せる。


「……バカだな。そんなわけないじゃないか」


 それだけ言って、僕はすぐに右手を放し、彼女を追い抜いた。


「え、えへへ……やっぱり、タッちゃんは優しいね!」


 彼女はすぐに僕の横に並び、嬉しそうに笑う。

 僕にはそれが少しだけ恥ずかしかった。


「でも、凄かったなー! 今日のタッちゃん」


 不意に彼女はそんなことを言ってきた。


「そ、そうかな?」


「うん、凄かったよ! 高木先輩を本当に三振に取っちゃんうんだもん。それもたった三球で。私、感動しちゃった。ボールを投げてる時のタッちゃん、まるであの時みたいで――」


「あの時? それって……」


「え!? あ、あはははっ! う、うん、まるでコウちゃんが投げてる時みたいだったなーって」


 その時の彼女は明らかに狼狽えていて、何かを誤魔化そうとしているようだった。

 僕には彼女が何を誤魔化そうとしているのか、一つだけ思い当たる節があった。


「ね、ねえ、もしかしてだけど――」


「あ、そういえばね、皆もタッちゃんのこと見直してたよ。凄いって言ってた。だからね、私言ったの。タッちゃんはその気になれば、もっと凄いんだからって」


「おいおい……」


 明らかに話題を変えられた感はあるが、それにしたって言い過ぎだ。

 あんまり僕の事を過大評価されても困る。


「心配ないよ。タッちゃんはエースなんだから! エースは皆の期待に応えるものでしょ?」


「それはそうだけど……」


 彼女の言う通り、エースは皆の期待を背負って投げるものだ。

 けれど、まだ僕はそんな期待に応えることができるか心配だった。

 そんな僕の不安を察して、彼女は笑顔で励ましてくれる。


「大丈夫だよ、タッちゃん! もっと自分を信じて。きっと、タッちゃんならできるから。私もタッちゃんのこと頑張って応援するからね!」


 彼女のその言葉は、何故だか僕に勇気を与えてくれる。

 その言葉だけで、僕は何でも出来そうな気分になってくるのだから不思議だ。


「うん、頑張るよ。ありがとう! けどさ……」


 けれど、僕にはどうしても一つだけ気掛かりな事があった。


「ん? どうしたの?」


「あー、いや、その……今更なんだけどさ、その『タッちゃん』ってのは、やめてくれないか?」


「えー! どうして!?」


 彼女は驚いた様子で僕に聞き返してくる。

 そんな彼女に僕は素直に告げた。


「ど、どうしても何も、恥ずかしいからだよ!」


 恥ずかしい以外に理由なんてあるわけがない。

 そもそもあの呼ばれ方は心臓に悪い。

 いままでは、浩介やマスターの前だけだったから良かったものの、野球部の皆の前であんな呼ばれ方されたら、色々と問題があるし、あの漫画を知っている奴なら、失笑するに違いない。

 けれど、そんな僕の思いをよそに彼女は不満そうに頬を膨らませている。


「むぅ! なんだか酷いよ。いままで許してくれたのに、突然そんな事を言うなんて!」


 不満そうにするどころか、彼女は怒っていた。

 困ったな……まさか、呼び方一つでこんなに怒るなんて思わなかった。


「はあ……分かったよ。じゃあ、二人でいる時とマスターの前ではいままで通りでいいから。せめて、野球部の中では達也とかしてくれないかな?」


「むー。分かったよ……そこまで言うなら、そうしてあげるよ」


 そう言いつつ、未だ彼女は不満そうにしているが、それでもこの譲歩策でなんとか納得してくれたようだった。


 そんな会話をしている間に、僕らは彼女の家の前に到着していた。


「それじゃあ、由香。また明日ね」


 そう言って別れようとした時だった。


「タ、タッちゃん……!」


 彼女は僕の名前を呼んで、不安げな顔を向けてくる。


「ど、どうしたの?」


 僕は突然のことで訊き返すことしかできなかった。


「あ、あのね……タッちゃん、無理、してない?」


「え……」


 彼女のその言葉に僕は困惑した。

 無理してないか。

 そんな事をどうして尋ねてくるのか分からなかった。


「あのね……あの時、私、タッちゃんに泣きついちゃったけど、それでタッちゃんに重荷を背負わせて、苦しめるようなことになっちゃったんじゃないのかって……」


 彼女はその不安を吐露する。

 そんな彼女に僕は……。


「……バカだな、由香は」


「え……バカって、酷いよぅ……。私、本当に心配して……」


「だから、バカだって言ってるんだよ」


 いじけるような表情をする彼女に僕は微笑みながら言った。


 本当に、バカだ。

 あんなに浩介の事で潰れそうになるまで傷ついて苦しんだのに、僕の事まで心配するなんて……。

 君は優しすぎるんだよ。

 その優しさは今の僕には毒だ。

 寄りかかって、また君に色んなもの背負わせて、きっと苦しめてしまうから。


 だから、僕はそんな彼女の優しさに寄りかかることなく、自分の足で立つことを選んだ。


「大丈夫だよ、由香。僕の事は何の心配もいらない。だから、由香は浩介の事でも心配してあげてよ」

「タッちゃん……」


 僕の答えを聞いた彼女は少しだけ戸惑った表情をする。

 それは「本当にそれでいいの?」と訊いているようだった。

 けれど、それはほんのひと時のことで、彼女は真面目な表情になって、僕の目を見て言った。


「だったら、約束して?」


「なにを?」


「私やコウちゃんの為に自分を犠牲にするような事は絶対にしないって。約束、してくれる?」


「それは……」


 彼女は返事を待つようにジッと僕の目を見てくる。

 その目を見ていると、どんな嘘や誤魔化しもできないような気がした。

 それなのに僕は笑って、


「分かった。約束するよ」


 そんな心にもないことを言った。

 彼女はそんな僕の返事を聞いて、信じてくれたのか、安心したように笑ってくれた。

 そうして、僕達はその日は別れた。


 これでいい。

 彼女が笑ってくれるなら、浩介が立ち直ってくれるなら、僕はどんな辛い事だって耐えてみせる。

 どんなことだってやってみせる。

 どんな苦難だろうと、乗り越えてみせる。

 それで例え、僕が壊れてしまっても、あの笑顔を守れるなら、あの笑顔を取り戻せるなら、僕は構わない。


 ごめんね……。

 嘘を吐いた事を心の中で彼女に謝りつつ、僕は決意を強くした。

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