第8話「君の笑顔を取り戻す為に」

 あの事故から二ヶ月が経った。

 あと一ヶ月もすれば、四月になれば、僕も彼女も、そして、浩介も高校二年生になる。


 浩介はとっくに退院している。

 けれど、あれ以来、学校には来ていない。

 いや、学校どころか、家の外にすら出ていないらしい。

 らしいと言うのには、うちの母親や彼女から聞いた話だからだ。


 僕はあれから浩介には会いに行っていない。

 あいつにどんな顔をして会いに行けばいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか分からず、その勇気が持てなかった。

 逆に彼女は足繁く浩介の家に通っている。

 だから、浩介の近況の大半は彼女から聞いていた。


 あれ以来、前ほど彼女と毎日会うこともなくなった。

 週末には、『喫茶カープ』で彼女と会うようにしていたけれど、以前と比べると、僕達の間柄はどこかよそよそしいものに変わってしまっている。

 何よりも、僕は彼女と二人きり会うことに、浩介に対して負い目を感じてしまっていた。

 彼女とそんな風になって、浩介がどれだけ僕や彼女にとって大切な存在だったのか初めて分かったような気がする。

 きっと浩介がいたから、僕も彼女も笑っていられたんだ。

 その浩介がいない現在、彼女との関係が変わってしまうのは当然の事だった。


 だけど、決して彼女に対する想いが変わってしまったわけではない。

 だから、浩介を支えようとする彼女を僕は支えたいと思っている。

 そして、それと同時に、彼女のことを心配していた。

 週末に度に会う彼女は、以前ほど元気がなくて、いつも顔色が優れなかったから。


「本当に……大丈夫かい? あんまり無理をしない方が……」


 いつものようにマスターが出してくれた紅茶を飲む彼女の顔色が、日に日に悪くなっているよう気がして、僕はやっぱり心配なって、そんな言葉を掛ける。

 けれど、それに対して彼女の反応はいつも通りだった。


「大丈夫だよ。心配しないで」


 そう言って、彼女は弱々しく微笑む。

 あの日から比べれば、少しだが彼女にも笑顔が戻った。

 だけど、それは彼女の本当の笑顔とは程遠い。

 どう見ても、無理して笑っているようにしか思えない。

 きっと、彼女が本当の笑顔を、あの眩しいくらいの笑顔を取り戻すには、浩介と同じように、まだまだ時間が掛かるのだろう。

 それでも、僕はせめて彼女には笑っていて欲しいと思っている。

 けれど、どうしたら彼女に本当の笑顔を取り戻せてあげられるのか僕には分からない。

 そんな自分がもどかしくて、情けなかった。



 ある日の放課後、その日は朝から雨が降っていて、憂鬱な気分だった僕はさっさと帰り支度を済ませ、教室を出ようと席を立つ。


「なあ、高杉ぃ。ちょっといいかぁ?」


 席を立つと同時に、気怠そうな上、軽薄そうな声が背後から聞こえてきた。

 僕にそんな態度で呼び掛けるなんて、誰なのか考えるまでもないけど、僕はあえて振り返って、誰なのかを確認する。


「……どうしたの? 坂田君」


 声を掛けてきたのは、当然だけど彼女と幼馴染の坂田君だった。


「帰るところ悪いんだけどさ、ちょっと時間いいかー? 話したいことがあるんだよねー」


「……うん、分かった」


 僕は二つ返事で了承する。

 本当は、あんまり誰かと話をする気分ではなかったのだけれど、坂田君の顔を見て気が変わった。

 坂田君は相変わらず軽い口調だったけれど、その顔は至って真剣だ。

 無下には出来ないと思った。


「話って言うのは……由香の事、だよね?」


「あ、やっぱ分かる?」


「うん」


 彼がこんなに真剣な表情をするのは、決まって彼女の事しかない。

 話というのも彼女の事以外しか考えられない。


「うん、だったら話が早いな。それでなんだが、ここ最近のアイツ、高杉はどう思う?」


「どうって……」


「分かるだろ? ここんところのアイツ、元気ねぇの」


「……うん」


 やっぱりその話だったかと思って、憂鬱だった気分が、さらに憂鬱になる。

 けれど、だからと言って、話を打ち切るなんてことはしない。

 彼のこれ程の真剣な表情は今までに見た事なかったし、何よりも彼女の話なら打ち切るなんてことはできない。


「正直さ、お前達に起こったことは、そりゃあ、不幸なことだと思うよ。けどさ、だからって、アイツがあんな辛そうな顔をし続けなきゃいけない理由なんてないだろ?」


「それは……うん……そう、だよね」


 坂田君の言いたい事は分かる。

 浩介の身に起きた事は確かに不幸な事だ。塞ぎ込み、家に引き籠ってしまうのも無理からぬことだと思う。

 だから、彼女はそんな浩介を支えたくて、時間を見つけては浩介の家を訪れている。

 だけど、浩介の精神状態はきっと良くなっていないのだろう。

 未だに家に引き籠って、学校に来ないことから考えれば、容易にそれが分かる。

 彼女はいまでも悩んでいるはずだ。

 どうすれば、浩介が以前のように元気で前向きな人柄に戻ってくれるのか、と。

 そして、それが彼女の心にも大きな負担にもなっている。

 彼女自身が潰れてしまいそうになるぐらいまで。


「なあ、高杉。だからさ、アイツをもう解放してやってくれないか? アイツは責任を感じているようだけど、あの事故はアイツのせいなんかじゃないはずだ」


「それは……でも、彼女は自分で……」


「分かってる。いま、アイツは誰に強制されてるわけでもなく、自分がそうしたくてやってるってことは。けどさ、オレはあんなアイツをもう見てられないんだわ。でも、アイツはオレなんかの言葉を聞きやしない。だから、頼むよ、高杉。お前から、アイツに言ってやってくれ。もう休んでいいだって。苦しまなくていいだって。そうすれば、もしかしたら……」


 初めての事だった。

 坂田君が僕に懇願するようにお願いしてきたのは。

 けれど、僕はそれにどう返答すればいいのか分からなかった。

 僕だって、彼女には元気で笑っていて欲しい。

 あの笑顔を取り戻せるなら、何だってしたい。

 だけど、それが彼女に浩介の事を諦めさせることなのかと考えると、それだけでは彼女の本当の笑顔は取り戻せないと思う。

 それは分かっているのに……。


 彼女に以前と同じように笑っていてもらうにはどうすればいいか。

 それを考えても、僕にはその答えが出せなかった。


         ○


 雨の中、坂田君に言われたことを考えながら、僕は一人自宅に向かって歩いていた。

 どんなに考えても、答えは出ず、ただただ陰鬱な気持ちになるばかりだ。

 そうやって悩みながら歩いているうちに気づけば自宅の近くまで帰ってきていた。

 けれど、僕は自宅に着く前に足を止める。

 なぜなら、僕の家の前に、雨が降っているのに傘も差さず佇む人影が見えたからだ。


「あれは……!」


 その人影が誰なのか、すぐに分かった。

 僕は慌ててその人に駆け寄って、呼び掛ける。


「何やってるんだ、由香!」


 僕の家の前に立っていたのは彼女だった。

 彼女は僕の呼びかけに顔だけをこちら向ける。


「……タッ……ちゃん……」


 彼女は弱々しく僕の名を呟いた後、申し訳なさそうに微笑んだ。

 この顔……雨の中、傘も差さず佇んでいるだけでも、普通な状態ではないのは明らかなのに、加えてこの顔だ。

 何かあったに違いない。

 けれど、それを気にするよりも前に、まずは彼女の体の方が心配だった。

 彼女は制服姿のまま雨でびっしょり濡れになっていた。


「バカッ! こんな雨の中傘も差さずに、何やってるんだよ!」


「ごめんね、タッちゃん……ごめんなさい……」


「由香……?」


 彼女が何に対して謝っているのか、僕には分からない。

 だけど、彼女は謝り続けた。


 辛そうに。

 申し訳なそうに。

 ごめんさないと。

 何度も。


 その顔は泣いていた。

 もしかすると、髪から滴る雨水がそう見えただけかもしれない。

 だけど、彼女の顔は泣いていたんだ。

 僕はそんな彼女の顔を直視することが出来なかった。


「ごめん、なさい」


「もういいから。もう謝らなくていいから。それよりも早くこっちに」


「あ……」


 僕は謝り続ける彼女の腕を強引に引き、家の中へと向かう。

 彼女から何か小さな声が漏れたけど、そんな事は気にせず、僕は彼女を家の中に連れ込んだ。


「かあさーん!」


 家に入ると同時に母親を呼んだ。

 だが、返事がない。

 僕は彼女を玄関に残し、家に上がって母親の姿を探す。

 けれど、母親はどこにもいなかった。


「出掛けてるのか……?」


 だとしても、家の鍵は開いていた。

 なんて不用心なんだ……。


「わるい、由香。ちょっとそこで待ってて」


 僕は廊下に顔だけ出して、玄関にいる彼女に言う。

 返事はなかったが、姿は見えていたので、僕はそのまま彼女の着替えやタオルを取りに行った。

 着替えについては、母親のものを借りることにした。

 後で母親からはあれこれと言われそうだが、うちには女性が母親しかいないし、ちゃんと事情を説明すれば問題ないだろう。


「あっと、その前にお風呂に入れた方がいいか」


 もう春が近いとはいえ、雨が降れば真冬並みに寒い。

 彼女がどれだけあの雨の中にいたのかは分からないが、濡れた体をタオルで拭くだけでは風邪を引き兼ねない。

 せめて、温かいお湯にでも浸かってもらわないと。


 僕はお風呂場に行って、浴槽にお湯を張る準備をしてから、彼女のもとに戻った。


「これで頭を拭いて」


 彼女にタオルを差し出すと、彼女はおずおずとそれを受け取り、髪を拭きだす。

 彼女が髪を拭いている間に、僕はこれからどうすべきか考える

 お風呂の湯が入り切るには、まだ十分くらいは掛かるだろう。

 けれど、幸いにも我が家のお風呂はシャワーの使用と湯船のお湯張りは同時にできる。

 彼女には、浴槽にお湯が入り切るまでシャワーで勘弁してもらおう。


 彼女が髪を拭き終わると、僕はお風呂場の脱衣所に彼女を連れて行く。


「もうすぐ、湯が貯まる思うから、ひとまずシャワーを浴びてて。それから、濡れた服は、そこの洗濯機に入れておいてくれればいいから。それから、これは着替えね。後、シャワーの使い方は……」


 僕は手早く説明していく。

 彼女はそれを黙って聞いていた。


「えっと……何か分からないことは、ある?」


「……ううん。大丈夫」


「そっか。じゃあ、体をしっかりと温めてから出ること。いいね?」


「……うん」


 僕は彼女の返事を聞いてから、脱衣所から出ようした。


「あの、タッちゃん!」


 脱衣所から出ようとすると、彼女に呼び止められた。


「どうしたの? やっぱり、何か分からない事がある?」


「ううん、そうじゃなくて……あ、あのね、ありがとう。それと……ごめんね」


 ありがとう。

 そのお礼の言葉は、きっといまの状況についてだろう。

 だけど、ごめんねという言葉は、その謝罪は、何に対してのことなのか。

 彼女は家の前で僕と会ってから謝ってばかりだ。

 彼女が受けている責め苦が何か、それは大体予想がつく。

 けど、少なくとも、それは彼女が負うようなものではない。

 だから僕は……。


「ん。お礼だけは丁重に受け取っておくよ」


「え……」


「由香は謝らないといけないような事は何もしてないよ。だから、謝罪は受け取らない」


「タッちゃん……」


「お風呂、ゆっくりね」


 僕は今度こそ脱衣所から出る。

 僕はなんて不甲斐ない奴なんだろう。

 出来ることなら、彼女が抱えている苦しみを取り除いてあげたい。

 だけど、いま彼女に掛けてあげられる言葉は、あれで精一杯だった。

 それだけに、僕は自分が不甲斐なくて、情けない。



 彼女がお風呂から出るまで、僕は居間に座って母親の帰りを待った。

 けれど、結局母親は彼女がお風呂から上がるようになっても帰って来なかった。


「タッちゃん……」


 居間でひたすら待っていると、背後から呼び掛けられる。

 振り向くと、そこには母親の衣服に身を包んだ彼女が立っていた。


「お風呂、どうだった?」


「とっても温かったよ。ありがとう」


 彼女は弱々しい微笑みとともに僕にお礼を言って、隣に座る。


 どうやら、お風呂に入れたのは正解だったようだ。

 あの雨の中にいた時は、錯乱していたし、顔色も悪かった。

 だけど、いまは落ち着きを取り戻しているし、顔にも赤みがさしている。


「でも……服、ちょっと大きいかな……」


 そう言って、彼女は恥ずかしそうにする。

 言われて気づいたけど、彼女と僕の母親では、体格が大きく異なるのだろう。

 襟元はダボダボで弛みきっているし、裾も長くて、手足が隠れている。


「ご、ごめんね。うち、女は母さんしかいないから、それぐらしかなくて。服は洗って乾燥機に掛けてるから、乾くまでそれで辛抱してもらっていいかな?」


「うん、大丈夫だよ。それより、おばさんは? 服借りてるし、お礼を言っておきたいんだけど……」


「あー……ごめん。まだ帰ってきてないんだ」


「そ、そうなんだ……」


「う、うん」


 母親がいない事を伝えると、彼女が突然ぎこちなくなるのを感じた。

 僕もそれにつられてしまう。

 彼女がぎこちなくなった理由は、鈍いと多方面から言われ続けている僕でも想像がつく。

 年頃の男女が一つ屋根の下、二人っきりでいるのだ。

 ぎこちなくならない方がおかしい。


 正直、この瞬間だけは、流石の僕も意識してしまっていた。

 けれど、二人っきりというワードが頭に浮かんだ瞬間、その先に浩介の顔がちらついて、急速に僕からその熱を引かせていった。

 そんな僕に彼女も気づいたのだろう。

 僕と目が合った瞬間、彼女も少しだけ悲しそうな顔になった。

 そうなると、それまでとは違う重苦しい空気が僕と彼女の間で流れ始め、自然と僕も彼女も押し黙ってしまう。


 だけど、そのままではダメだということも僕には分かっていた。

 僕にはどうして彼女から訊いておきたいことがある。


「……ねえ、由香」


「……ッ!」


 僕が呼び掛けると彼女はビクリと肩を震わせる。

 きっとこれから僕が何を問いかけようとしているのか分かったのだろう。

 だけど、訊いておかないといけない。

 あんな彼女を僕は今迄見たことがなかった。

 だから、その理由をちゃんと聞いておかないと後悔すると思った。


「無理に話そうとしなくてもいいよ。だけど、出来たら聞かせ欲しいんだ。どうして、雨の中、傘も差さずにいたの?」


「…………」


 僕の問いかけに彼女は表情をさらに暗くして、黙ってしまう。

 それだけで、余程辛いことがあったのだと分かった。


 辛いことを無理矢理話させてならない。

 そんな事をすれば、彼女が壊れてしまうと思った。

 それほど、今の彼女は触れただけで壊れてしまう、そんな弱くて脆い壊れ物のように見えた。

 だから、僕もそれ以上追及することはしなかった。


 時間だけが虚しく流れていく。

 このまま、母親が返ってくるまでこの状態が続くと思われた。

 けれど……。


「コウ、ちゃん、が……」


「え……」


 彼女が唐突にその口を開き、浩介の名前を口にした。

 見れば、彼女の口元は何か喋ろうとして微かだが動いている。

 彼女は何かを僕に伝えようと必死に話さそうとしているのだ。


「こ、浩介がどうしたの?」


 僕は必死に話そうとする健気な彼女の姿を見て、居ても立っても居られず、促すように尋ねる。

 すると、彼女は続きを語りだした。


「コウちゃんが、ね……、もう、来るなって……」


「え……」


 それはあまりにも衝撃な言葉だった。衝撃的過ぎて、自分の耳を疑った。


「俺なんかに構って、高校生活を無駄にするなって。どうせ、俺はもう何もできないんだから、構うだけ無駄って。約束の事も……忘れて、くれ……って。だから……もう二度と……、来ないで、くれ……って」


 彼女は言葉に詰まりながら、泣きそうになりながら、それを僕に伝えてくれた。

 それを聞いた時、僕はそれが現実の事とは思えなかった。

 あの浩介が彼女にそんな事を言うなんて、信じられなかったんだ。


「タッちゃん……私、どうしたらいいの?」


「由香……」


 彼女の目から頬を伝う一筋の涙が零れ落ちる。

 それは感情が溢れ出す一歩手前だった。


「私……どうしたらいいか、もう分かんないよ! どうしたらコウちゃんは元気なってくるの? どうしたら前にみたいに笑ってくれるの? 私……私……どうしたら……。タッちゃん……どうしたらいいの? 教えてよ、タッちゃん!」


 堰を切ったように彼女はその心情を僕にぶつけてくる。

 溢れ出る涙を拭うことなく、ただ僕に助けを求めてきた。


 そうして僕は気づいた。

 ここまで彼女が疲弊してしまった理由も。彼女が僕に何度も謝っている理由も。

 僕は勘違いをしていたんだ。

 どうしてもっと早くそれに気づいてあげられなかったんだろう。


 彼女はとっくに限界だったんだ。

 それなのに、僕はそれに気づかない振りをして、一番つらいことを彼女に押し付けてきた。

 きっと、誰よりも先に僕がやらないといけない事だったのに、それなのに僕は逃げたんだ。

 たった一回拒絶されただけなのに、浩介からそれ以上拒絶されるのが怖くて、全部彼女に押し付けてしまっていた。

 なんて僕は弱くて、自分勝手で、卑怯で、最低な奴なんだろう。

 彼女はそんな僕を傷つけたくなくて、一人で必死になって浩介を支えようとしていたというのに。

 それなのに僕は……。


「ごめん、由香……ごめんよ!」


「た、タッちゃん……?」


 無意識だったけれど、僕は彼女を抱き寄せて謝っていた。


 謝るのは彼女の方じゃない。

 謝らなければいけなかったのは、僕の方だ。

 あんな辛いことを彼女一人に背負わせた僕の方だったんだ。


「ごめんね、いままで。これからは僕が頑張るから。だから、もういいんだよ」


 それが最後の引き金となった。

 彼女は僕の胸に顔を押し付けて、感情を爆発させる。


「ひ、ぐ……うう、うああああぁぁぁぁっっ……!」


 ただ子供のように彼女は泣きじゃくる。

 僕はそんな彼女を強く抱きしめて、その頭を撫でてあげることしかできなかった。


 だけど、僕は誓った。

 僕の胸の中で泣く彼女を見て、これが彼女の流す最後の涙にしてみせると。

 こんな悲しい涙を、彼女にもう二度と流させないと。

 そう誓ったんだ。




------------------------- 第34部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

#8-3


【前書き】

後書きに本編とは全く関係のないおまけのお話があります。

作者のお遊びと思って、生温かい気持ちで読んでやってください。


【本文】


 彼女が泣き止むまで僕は彼女の頭を撫で続けた。

 けど、泣き止んで落ち着いてくると、彼女は僕の胸からゆっくりと顔を離した。

 そして、彼女は泣き腫らした目で僕は見つめてくる。


「ゆ、由香……?」


「えへへ……タッちゃんは、優しいね」


「え……いや、そんなこと……」


「ううん、優しいよ。だって、抱きしめられて、すっごく安心できたもの。……ありがとう」


 そう言って微笑みながら、彼女は真っ赤に充血した目で僕を見てくる。

 その目を見ていると、引き込まれそうになる。

 さっきまで密着していたから、それだけでも彼女の顔は凄く近くにあったのに、今はすぐ間近にあるように感じる。

 もう、彼女の吐息や胸の鼓動すらも聞こえてきそうだ。


「由香……」


「タッちゃん……」


 彼女はゆっくりと目を閉じる。

 こんな事はダメだと分かっていても、止めることができない。体が勝手に動いていく。

 そして、僕は彼女の唇に――。


「ただいまー」


 突然、そんな声が聞えて、僕はハッとする。

 それは彼女も同じで、驚いて目を見開いていた。

 声の主が誰なのか僕にはすぐに分かった。

 間違いなく母さんだ。


「あら? 達也、帰ってるのー?」


 玄関先から僕を呼ぶ母親の声が聞えてくる。

 僕はその声で我に返って慌てて彼女を引き離す。


「達也ー、いるのー?」


 再度、僕を呼ぶ声が聞える。

 そして、足音も聞こえてくる。

 その母親の声も足音も、真っ直ぐ僕らのいる居間に向かってきていた。


「あ、ああ、帰ってるよ!」


 僕は母親の声に応じながら、立ち上がり、居間から廊下に出て姿を見せる。

 けれど、廊下に出た瞬間、母親と鉢合わせた。


「なんだ、そこにいたのね」


「う、うん」


「あら? 誰か来ているの?」


 母さんは居間を覗き見て、誰かいることに気づき、訝しげに尋ねてくる。


「あ、ああ、うん、そうなんだ。友達が……」


「あら、あなた……」


 彼女の姿が見た母親は、少し驚いたような顔をした後、すぐに笑顔を見せた。


「なんだ、由香ちゃんじゃない」


 母さんは馴れ馴れしく彼女の名前を口にする。

 あの事故以来、うちの母親と彼女は浩介の事である程度交流を持っていた。


「お、お邪魔してます、おばさん。少し、雨宿りさせてもらってます」


「ううん、いいのよ、そんな気を遣わなくても。それよりも、由香ちゃんがうちに来るなんて珍しい――」


 彼女の尤もらしい言い訳に母さんは社交的な笑顔で答える。

 けれど、途中でその表情は固まった。

 そして、見る見るうちに深刻な顔になっていく。


「由香ちゃん……その顔、どうしたの?」


「え!?」

「あ」


 母さんに指摘されるまですっかり忘れていた。

 彼女の目は赤く腫れていて、どう見ても泣いた後だ。


「た、達也……? これは、何?」


 母さんはまるでゼンマイが壊れたおもちゃのようにゆっくりと顔をこちらに向けてくる。

 その目はひどく虚ろで、まるで幽霊のようで怖かった。

 どう考えても、母さんはこの状況をあらぬ方向に勘違いしている。


「ち、違う。違うんだ、母さん!」


「違う……? 何が、違うの?」


 僕が誤解を解こうと声を上げた瞬間、母さんは表情一変させた。

 それはまるで鬼の形相だ。


「どういうことなの、達也! なんで由香ちゃんが泣いているのよ! それによく見たら、由香ちゃんの着ている服、私のじゃない! どういうことかちゃんと説明しなさい! 事と次第によっては――」


「あ、いや、ちが、これは、その……」


 母さんの並々ならぬ剣幕に押され、僕は説明するどころか、しどろもどろになって上手く喋れずにいた。

 そんな僕の様子に母さんはさらに顔を強張らせる。


「あ、あんた、まさか――」


「違うんです、おばさん!」


 母親の僕への信頼が完全に失墜しかけた時、彼女が立ち上がって声を上げた。


「え……由香、ちゃん……?」


 彼女の声に再び母さんの表情が固まる。


「違うんです。タッちゃん、達也君は何も悪くないんです!」


 彼女は瞳を潤ませて必死に母さんに呼び掛ける。

 けれど、悪いのだが、それでは逆効果だ。

 そんな表情で、そんな誤解がさらなぬ誤解を生むような発言をしてしまっては、解ける誤解も解けない。


「……由香ちゃん、あなたはなんて優しいの」


「え?」


「いいのよ、我慢しなくて。辛かったら辛いって言っていいんだからね? 私は大丈夫だから」


 母さんは彼女にそう言い聞かせて、彼女を優しく抱きしめた。

 それに彼女は不思議そうな顔をしている。


「ええっと……おばさん?」


「いいの。私はあの子の母親だから。子の間違いを正すことも親の務めだから」


 母さんは目を瞑りなら、自分に言い聞かせるように言った。

 やはりというか、予想通りだった。

 どう考えても、母さんの発言は誤解が解けているものではない。

 母さんは彼女から離れると、キッと僕を睨んでくる。


「覚悟はできてるんでしょうね、達也!」


「だから、誤解なんだってばー!」


 謂れのない疑いを掛けられた挙句、弁解の余地もなく死刑宣告をされ、僕は悲鳴を上げた。


 付け足しておくと、この後、母さんからぶたれそうになり、それを彼女が必死に止めてくれた。

 それから、僕と彼女で事の成り行きを必死に説明して、なんとか母さんの怒りを鎮めるのに成功したのだった。


 真実を知って、安堵すると同時に小恥ずかしそうにしていた母さんの表情は、疑いを掛けられた僕としては、何とも複雑な心境だった。

 だって、もし、あの時母さんが帰って来なかったから、どうなっていたか分からない。

 もしかしたら、母さんが誤解していたような事になっていたかもしれない。

 そんな事になったら、母親だけじゃなく、もう浩介にも顔向けできなくなって、僕は僕は一生後悔していただろう。

 あんな事はもう二度とないようにしないといけない。

 そんな僕の心情を知ってか知らずか、彼女は服が乾いて、家まで送ってもらうために母さんが運転する車に乗り込むまで一言も僕と言葉を交わさなかった。


「そ、それじゃあ、また明日。家に帰ったらゆっくり休んでね」


「うん……ありがとう、タッちゃん。またね」


 別れ際、それだけしか言葉を交わさなかったけれど、彼女は少しだけ元気なった微笑みを見せてくれた。

 それだけで僕は安心できた。


 ついでにこれは余談なのだが、彼女を送っていった母親は帰ってくると、自分の部屋にいた僕を呼び出した。

 嫌な予感がしつつも、それに大人しく従うと、案の定、説教だった。

 どんな理由であれ、親のいない家に女の子を連れ込むようなこと自体が誤解を招く行為だと説教された。

 母親の言う事は尤もな事だったので、僕は素直に反省して謝った。

 すると、説教の終わりしなに母さんは言った。


「あの子を支えると決めたなら、今度は最後までやりきりなさい。分かってると思うけど、あの子を支えるってことは、浩介君も支えるってことよ。それは、並大抵のことじゃできないわ。だけど、途中で投げ出すなんて事は絶対にダメよ。そんな事したら、母さん、あんたの事絶対に許さないからね」


 それは厳しい言葉だった。

 けれど、その言葉聞いた時、僕は胸が熱くなるのを感じていた。

 それは、この人が僕の母親で本当で良かったと思った瞬間だった。


          ○


 彼女を、そして浩介を支えると決めた。

 けれど、それは簡単な話ではない。

 そもそも、どうすれば浩介が立ち直ってくれるのか、僕にも分からない。

 僕はその答えを求め、ある人に助けを請うことにした。


 僕は扉に手をかけ、押し開ける。

 カランコロンという鐘の音を聞きながら、僕は店内に入った。

 鐘の音は店内にも響いていたから、気づいているはずだが、相変わらずお客を出迎える声は聞こえてこない。

 当たり前だけど、他にお客もいなかった。


 僕はカウンターの中で新聞を広げている店主の前に座る。

 すると、店主は新聞を下ろして、顔を見せた。


「やあ、マスター」


 僕は気さくに挨拶をする。

 すると、『喫茶カープ』のマスターは辺りを見渡した後、顔をしかめた。


「なんだ、今日はお前一人か?」


「そうだけど……何か、問題ある?」


「……いや、珈琲、ブレンドでいいんだよな?」


「そ、そうだけど――」


 マスターは、僕が返事をする前に立ち上がり、さっさと珈琲の準備に取り掛かってしまった。

 もしかすると、マスターはもう僕がここに来た理由が分かっているのかもしれない。

 僕がここに一人で来る時は何かしら悩みを抱えている時だと、以前マスター自身が言っていた。

 もう、察していても不思議ではない。


「ほら、ブレンド珈琲だ」


 マスターは僕の前に出来立ての珈琲が入ったカップを置く。

 僕はそのカップの取っ手を持って、口に運んだ。


「……うん、今日もおいしいよ」


 それはお世辞ではなく、本当にそう思っての言葉だった。

 けれど、マスターはそれが聞こえなかったように無視する。

 いつもなら、ここで「当たり前だ」とか言ってきそうなものだ。

 なんだか今日のマスターはいつも以上に無愛想というか、無口だ。もしかして、機嫌が悪いのだろうか?

 そう思って、マスターの表情を覗き見た。


「――」


 マスターの顔を見て、僕は息を飲んだ。

 マスターは真面目な顔でじっと僕を見ていた。

 けれど、その目は怒っているわけでも、何かを訴えようとしているわけでもない。

 ただ、じっと僕を見ている。


「マ、マスター……あの……」


「オレはお前の都合のいい相談役じゃねぇ」


「え……」


 先手を打つようにマスターから漏れた言葉は明らかに僕を突き放すものだった。

 それに僕は愕然とする。


「だが、まあ、ガキが迷ったら導いてやるのも大人の仕事だ」


 そう言って、マスターはニヤリと笑う。

 そんな言葉とマスターの表情に、僕はほっと胸を撫でおろした。


「マ、マスター……驚かさないでよ……」


「バカ。さっき言ったことも本当の事だ。何かあったらオレに頼ればいいなんて思われても敵わん。少しは自分の頭で考えることも必要だって話だ。他人に出してもらった答えなんぞ、何の価値がある」


「う……」


 マスターの言う事は的を射ている。

 確かに僕は自分の力ではどうにもならないことだからと、マスターに頼ろうとしていた。

 自分で出せない答えなら、他人に出してもらおうとしていた。

 それでは意味がないとマスターは言っているのだ。


「ま、そういうわけだから、オレがしてやれることたぁ、テメェでその答えを出す手助け程度だ。それでいいなら、相談に乗ってやらんこともない」


「マスター……いつも、ありがとう。それと、気を遣わせてばかりで、ごめん」


「ふん。そう思うなら、さっさっとテメェの事はテメェで解決できるような一人前の男になるよう努力しやがれ」


「う、うん、そうだね」


 そうだ。その通りなのだ。

 マスターの言うように僕がしっかりしなくちゃいけない。

 僕が彼女を支え、そして、浩介を立ち直らせなければいけないんだ。

 いま、その思いが一層に強くなった。


「それで? 相談事ってのは、浩介の事だな?」


「……うん、そうなんだ」


「そうか……」


 それまでの空気が嘘のように、僕とマスターの間に流れる空気が一気に重くなるのを感じる。

 マスターもそれを感じ取ったのか、険しい顔つきになった。


「ひとまず話せ。お前が重い腰を上げたってこたぁ、そんだけの事が起きたって事だろ」


「うん……実は……」


 僕はマスターに促されるまま、これまでにあった事を離した。

 浩介が部屋に引き籠り、立ち直る気配がないこと。

 そんな浩介を支えようとしていた彼女を浩介が拒絶してしまったこと。

 そして、それを受けて、彼女も限界が来てしまったこと。

 ついでに、自分がこれまでどれだけ自分勝手で馬鹿だったことかに気が付かされたことも付け加えた。


「なるほどな。それで、今度はテメェが浩介を支えようってわけか」


 僕の話を聞き終えたマスターは深い溜め息と共にそう言った。


「うん……けど、どうしたら浩介が立ち直ってくれるのか分からなくて……」


「ま、そうだろうな。馬鹿なお前が、一人でいくら考えようが分かりっこねぇだろ」


「う……何もそこまで言わなくても……」


「あ? お前が自分で自分を馬鹿だって先に言ったんだろうが」


「それはそうだけど……」


 そんなにストレートに言われてしまうと、正直、傷つく。


「ま、自分で自分を賢いって思ってる奴よりは、自分で馬鹿だと気づいてる奴の方が幾分かマシだがな」


 僕ががっくりと肩を落としていると、マスターがそんな事を言ってきた。


「それ、フォローのつもりなの?」


「ふん、そんなじゃねぇ!」


 マスターはプイッと顔を逸らす。

 やっぱりフォローのつもりだったらしい。

 幾分か棘はあるが、マスターらしい優しさだ。

 その優しさがちょっぴり嬉しくて、僕は口元を緩ませる。

 すると、マスターはコホンと一度咳ばらいをした後、真面目な顔に戻った。


「だが、いまの浩介を立ち直らせるのは一朝一夕に行くもんじゃねぇ。それを分かった上なんだろうな?」


「うん……覚悟はできてるよ」


 僕はマスターの目を真っ直ぐに見据えながら答える。

 そもそも、こんな事、半端な覚悟で言い出せるものでもない。


「愚問だったな。なら、後は何をすればいいかだが……正直言って、オレは当事者じゃねぇから分からん。オレはお前でも、浩介でもねぇからな」


「ちょ、ちょっと待ってよ! それじゃあ、相談してる意味がないじゃないか」


「バカ。オレが言ってるのは当事者同士にしか分からない事もあるってことだ。それが何よりも大切なんだよ」


「当事者同士にしか……? どういうこと?」


 僕が尋ねると、マスターは溜息を吐いて、やれやれと頭を振る。


「お前、いま浩介がどういう気持ちでいるか分かるか? 落ち込んでるとか、悲しいとかそういう事じゃねぇぞ。もっと具体的な事だ。アイツがいま自分の置かれている状況をどう受け止めてるかとかだ」


「そ、それは……たぶん……」


 浩介は彼女に自分は何もできないと語った。

 それは浩介が自分自身をそのように捉えているということだろう。

 僕はそれをマスターに話す。

 すると、マスターは吐き捨ているように言い放った。


「お前はほんっと馬鹿だな。それは由香ちゃんから聞いた話だろ。お前が感じ取ったことじゃねぇ!」


「え……」


「言ったはずだ。当事者同士にしか分からないことがあるってな。お前自身が感じ取ったものがなけりゃあ意味がねぇんだ」


「僕自身が感じ取ったもの……」


「そうだ。お前は浩介が由香ちゃんに言ったことが本心だと思うか? それをアイツが本気で望んだと思うか?」


「それは……違うと、思う……」


 きっと浩介は彼女に言ったことを本気で望んでいなかったと思う。

 けれど、自分が置かれている状況に苦しくて、耐えられなくて、絶望してしまった結果、あんな言葉が出たに違いない。


「じゃあ、アイツが本当に望んでいることが何だか分かるか?」


「……」


 僕は黙るしかなかった。

 そもそも、それが分かっていれば、きっとこんなに悩むこともない。


「ふん、話にならねぇな。アイツが望んでいることを、どうしたいと思っているのか、どうなりたいと思っているのかも知らないで力になれるわけねぇだろ」


 突き放すようなマスターの言葉が痛いほど胸に刺さる。

 マスターの言う通りだ。

 浩介が何を望んでいるかも知りもしないで、あいつを支えるなんて出来るわけがなかった。


「いいか、達也。浩介が本当に望んでいることを知るには、アイツと言葉を交わすだけじゃダメだ。アイツはいま暗闇の中にいる。どこに行けばいいのかも分からないで、心を閉ざしてる。そんな奴に言葉だけじゃ何も届かない。アイツの本心を引き出すには、心まで通わさないとな」


「心を……。できるかな、僕に……そんなこと……」


 いまの浩介と心を通わせるなんて、本当にできるだろうか。僕みたいな馬鹿で自分勝手な人間に……。


「オレはお前ほどアイツの気持ちを分かってやれる奴はいねぇと思うがな」


「どうして、そう思うの?」


「そりゃあ、お前が、浩介の幼馴染で、浩介と同じで野球好きで、そして、一度は野球を諦めた事のある奴だからだ」


 幼馴染。

 野球好き。

 一度は野球を諦めた事がある。

 それらは僕と浩介を今迄結びつけてきたものだ。


「それと、もう一つ。お前達は同じ女の子を好きになった者同士だ。これほどお互いの事が分かる間柄なんてないとオレは思うがな」


 マスターの言葉を聞いて、目から鱗が落ちるようだった。


「ああ……そっか。そうだったね」


 こんな事に今迄気づかなかったなんて、本当に僕は馬鹿だ。

 これは僕にしかできない事だったのに。

 漸く、僕は自分のすべきことが分かった。


「ありがとう、マスター!」


 僕は決意を胸に立ち上がる。


「行くのか?」


「うん。浩介に会ってくるよ」


「そうか……ま、せいぜい頑張れや」


 それだけ言って、マスターは僕がここを訪れた時と同じように、新聞を顔の前に広げた。

 僕はマスターからの激励を有難くいただいて、店を出る。

 そこに、もう迷いなんてなかった。


          ○


 喫茶店を出た僕はその足で浩介の家に向かった。

 浩介の家に着くと、僕はおばさんに浩介と話がしたいと素直に告げた。

 すると、おばさんは一瞬当惑した様子を見せたけれど、快諾してくれた。

 僕は家に上がり込むと、そのまま浩介の部屋がある二階に上がる。

 浩介の部屋の前まで来て、僕は躊躇うことなくドアを二度ノックした。

 けれど、部屋の中にいるはずの浩介からは返事がない。


「浩介、僕だ。達也だ。中にいるんだろ? 入るよ」


 僕はそう言ってから、ドアノブを回した。

 けれど、鍵が掛かっていて、ドアは開かない。


「なあ、鍵、開けてくれないか?」


 鍵を開けるように呼び掛けるが、やはり返事はないし、鍵が開く気配もない。

 部屋の中に浩介はいるはずのなのに、まるで誰もいないようだ。

 けど、確かにこの中にはいるんだ、浩介が。


「おい、浩介。返事ぐらいしたらどうだ? 幼馴染が訪ねてきてるんだから、声ぐらい聞かせろよ。それとも、寝てるのか?」


「…………せぇ」


 くぐもった声がドア越しに聞こえてくる。

 何を言っているのかはっきりと聞えなかっだが、それは確かに浩介の声だった。


「なんだ、起きてるじゃないか。だったら、早くここを――」


「うるせぇって言ってんだよ!」


 浩介の突然の怒鳴り声に僕の声は遮られた。


「今更、俺なんかの所に何しに来やがった!」


「……今日はお前と話をするとために来たんだ」


 僕は素直に目的を告げる。

 浩介と話をする。

 たったそれだけの事が僕の目的だった。

 以前ならなんて事のない、普通の事だ。

 けれど……。


「話? 俺と? ハッ、俺はお前と話すことなんてねぇよ! だから、さっさと帰れ! もう俺に構うな!」


「……ッ!」


 吐き捨てるような言葉にチクリと胸が痛む。

 分かっていた事だ。

 こうやって拒絶されるのは、予想できていた。

 それでも、こう明確に拒絶されると堪えるものがある。

 けれど、この程度で逃げ出すわけにはいかない。

 僕はもう二度と逃げないと決めたんだ。


「分かった。じゃあ、中に入れてくれなくてもいいし、話をしてくれとも言わない。だから、これから話すことは僕の独り言だ。なんだったら、聞き流してくれても構わない」


「お、お前は……!」


 ドア越しでも、ハッキリと浩介の怒りが分かる。

 それ程、今の浩介は感情を剥き出しにして、すべてを拒絶していた。

 それでも、僕は話し始める。

 僕自身の思いを、心を。


「浩介。僕はね、右肩を怪我して、もうピッチャーが出来なくなったって知った時、目指していたものを失って、目の前が真っ暗になったんだ。真っ暗で、何も見えなくて、聞えてくるのは嫌な言葉ばかりで、どうして自分ばかりがって呪った。呪って、全部周りのせいにして、諦めたんだ。でもさ、本当は違ったんだ。僕が見ようと、聞こうとしてなかっただけで、暗闇の中、僕に手を差し伸べてくれる人がいた。僕に声を掛け続けてくれる人がいた。僕を助けようとしてくる人達がいたんだ。自分の殻に籠ってた僕はそれに気づけなかった。でも、それに気づかせてくれた人がいた。誰だか分かるか?」


 ドアに向けて尋ねるが返答はない。

 当たり前だ。

 これは僕の独り言なんだから。

 だから、僕は返答を待たず、その独り言を続けた。


「由香と……お前だよ、浩介。お前がずっと僕を気に掛けてくれてたから、僕は気づけた。僕自身が本当はどうしたかったのかを。お前がいたから、僕は野球をもう一度やろうって思えたんだ。怪我で右肩が使えなくても、前のようにプレイできなくても、それでも諦めなかったら夢は追い続けられるって気づけたんだ」


 そう、例え、彼女の存在があったとしても、浩介がいなければ、僕は野球をもう一度やろうなんて考えもしなかっただろう。

 きっと、夢を諦め、ただ惰性で毎日を送る日々だった。

 浩介が僕を見守り続けてくれたから、僕に声を掛け続けてくれていたから、僕はもう一度歩き出すことができたんだ。

 だから……。


「浩介。僕はね、お前にも諦めて欲しくない。自分の夢を、諦めて欲しくないんだ」


 その思いを口にする。

 これを浩介がどんな気持ちで聞いているか分からない。


 以前、病室で僕は浩介に、彼女との、僕との約束はどうするんだと尋ねた。

 いま思えば、それは浩介の事を何も考えていない自分勝手な言葉だ。


 だけど、今回は違う。

 僕の言ったことは、浩介の思いでも、願いでもなく、自分の思いだけど、それでも、浩介だってきっと……。


「……なんでだよ?」


「え?」


 不意にドアの向こうから浩介の声が聞えてきた。


「なんでお前は俺に構うんだよ! なんで……なんでこんな俺なんかを……」


 何故と浩介は問うてくる。

 何故、何もかも失くした自分なんかに構うのかと。

 でも、そんな事、浩介だって分かっているはずなんだ。


「そんなの決まってるだろ。お前は僕の幼馴染で、同じ夢を持った親友で、そして、同じ人を好きになったライバルだからだ。だから、お前に何を言われようと、僕はお前に構い続けるよ」


「お前……」


 簡単な事だ。

 幼馴染が、親友が、ライバルが苦しんでいるなら、手を差し伸べる。

 だって、幼馴染も親友もライバルも、そいつの事が好きじゃなきゃ続けられない。

 そして、好きな奴には笑っていて欲しい。

 前を向いていて欲しい。

 そういう姿をずっと見ていたいと思うのが当たり前の事だ。

 難しいことなんてない。

 ただそれだけなんだ。


「俺は……」


 ドア越しからこれまでよりハッキリと声が聞えてくる。

 浩介の声が。


「俺だって……けど、どうしようもないんだ! 俺とお前じゃ違う。こんな体で夢なんて追い続けられるわけがない! 俺は……俺だって……」


 俺だって。

 そう浩介は繰り返した。

 悔しそうな声で。


 その言葉だけで十分だった。

 それだけ聞ければ、浩介が何を望んでいるのか分かった。

 僕はやっと浩介の気持ちに触れられたんだ。

 浩介は夢を諦めきれていない。

 それは裏を返せば、夢をまだ諦めていないということだ。

 ただ、自分の置かれている状況から、夢を追い続ける勇気が持てないだけだ。

 追い続けても苦しいだけで、叶いっこないって思えてしまうから。


 なら、僕が浩介にしてやれることなんて、一つしかない。

 それが僕にしかできない唯一のことだと知って、僕は決意した。


「分かった。だったら――だったら、僕が証明してやるよ。夢は諦めなければ、追い続けていけるものなんだって。諦めさえしなければ、叶うんだってことを」


「お、お前……一体何を……?」


「さて、それは後のお楽しみってことにしておいてよ。でも、これだけは約束するよ。僕はさっき言ったことを絶対に証明してみせる。僕自身の手でね」


 僕は浩介にそれだけを伝え、ドアの前から離れた。



 この日、僕はある決断した。

 その決断は、きっと誰から見ても無謀と思えるものかもしれない。

 けれど、僕はそれを実行に移すと決めた。それが、浩介が立ち直るきっかけになると信じて。

 そして、その手始めに、僕は彼女にある頼み事をするため、電話を入れたのだった。

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