第11話「ずっと君を見ていたい」

 決勝戦、その序盤、僕の立ち上がりは上々だった。

 奪三振を増やしつつ、回を重ねていく。

 しかも、仲間から2点の援護も貰い、このままゲームセットまで投げ続けられるのではと淡い期待が脳裏を掠め始めていた。


 けれど、中盤に差し掛かった辺りから、状況が一変した。


 肩の違和感は中盤以降から明らかな痛みに変わっていった。

 そのせいで制球は定まらず、毎回打者を塁に出す。

 それでも、最終回に入るまでなんとか抑え続け、失点も1点だけに抑えることが出来た。


 そして、1点リードで迎えた最終回、その裏。

 肩の状態はさらに悪くなり、僕はボールを投げる度に激痛に襲われていた。

 制球は定まらず、ストライクが入らない。

 球速も落ちて、ヒットも打たれる。

 それでも、交代を監督に申し出るわけにはいかない。

 痛みを見せるなんてことはできない。

 ここで僕がマウンドの降りてしまっては、浩介との、そして彼女との約束が果たせなくなってしまう。

 それに、何よりも、エースとしてここでマウンドを降りることを自分自身が許さなかった。


 僕は苦しみながらなんとか投げ続け、そして、勝利まで、甲子園への切符を掴むまであと一人というところまで漕ぎつけた。

 けれども、状況は決して楽観できるものではない。

 立て続けのヒットとフォアボールで満塁。

 もう、一打も浴びることも、フォアボールを与えることも、できない。

 そして、最後の打者は、相手高校の四番。

 もう敬遠はできない。

 真向勝負あるのみだ。


 その初球、相手打者は思いっきり振って来た。

 キンという金属音と共にボールは高く舞い上がる。

 すぐさま僕はそのボールの行方を追った。

 ボールは、大きく左に切れて行った。


「ふぅ……」


 一瞬、ヒヤッとした。

 甘めに入ったボールだったから、打たれた瞬間、完全にホームランになる思った。

 それがファウルになったのは、ただの運だ。

 きっと制球が定まっていなかった故に起きた奇跡的な偶然。

 相手打者もそれが分かっているのか、悔しそうにバットの先を地面に叩き付けている。

 それでも奇跡は二度と起きない。

 僕はそう気を引き締めて、セットポジションに入る。


 二球目、三球目はボール。

 四球目はファウルチップになった。

 これでツーストライク。

 相手を追い詰めた。

 あと、一つ。あと一つストライクを取れば、僕達は勝てる。

 けれど、流石は決勝まで勝ち上がってきたチームの四番。

 簡単には勝たせてくれない。

 ストライクを取りに行った五球目、六球目はファウルにされた。

 七球目はボールになりそうだったけれど、追い詰められた相手が振ってくれて、またファウルになった。


 一球一球、心臓が止まりそうなほど緊張を強いられる。

 きっと、ちょっとでも気を抜けば、意識だって失いかねない。

 そう断言できるほどの極度の緊張感。

 それでも、そんな中にあっても、肩の痛みだけはハッキリとその主張を続けている。

 既に肩の回りも悪くなっている。

 もう、誰から見ても僕が問題を抱えているのは明らかだろう。


 それでも、僕はなにも言わず、三つ目のストライクを取りに、八球目を投じた。

 その瞬間――。


「あ、ぐ……!」


 これまでとは比べものにならいほどの激痛が左肩に走った。

 投じた球は、キャッチャーの松井が指定した所とは、まったく見当違いな所へ飛んでいく暴投になる。

 けれど、松井はそれを間一髪のところで捕球してくれた。

 松井のお陰で、なんとか一命は取り留めることできた。

 けれども、それはもう、僕にとって意味のないものだ。


 九回の裏、2死満塁。

 ボールカウントはツーストライク、スリーボールのフルカウント。

 スコアボードは2―1。


 肩が上がらない。

 痛みで動かすこともできない。

 それは、僕の肩が限界に来たことを証明していて、僕が約束を果たせないことを告げていた。

 僕は、もう、投げられない。


 痛む左肩を右手で抑え、僕はマウンドの上で蹲る。


「おい、達也! 大丈夫か!?」


 蹲る僕にいち早く駆けつけてきたのは松井だった。


「お、お前、まさか肩が!? この、馬鹿野郎! どうして、もっと早くそれを言わねぇんだよ!」


 僕が左肩を抑えているの見て、松井は僕がどんな状態にあるのか察したのだろう。

 怒りを露わにしている。


「監督!」


 松井はすぐさま監督を呼んだ。

 ベンチの方に目を向けると、既に監督もベンチから出てきて、こっちに向かっていて来た。


 交代。

 その二文字が脳裏に過る。

 それが当然の判断だ。肩を痛めた投手をそのまま投げさせる監督なんていない。

 それでも監督は選手の意向をくみ取ってくれる人だ。

 投げさせてくれと言えば、続投できるかもしれない。


 けれど、それは無理だ。

 だって、もう僕は投げることができない。

 もう、腕だって上がらない。

 肩だって回らない。

 そんな僕がマウンドの上に立つことは許されない。


 勝利を目前にして、約束を果たすその直前で、僕は諦めるしかなかった。

 でも、きっと、それは当然の結果だったんだ。

 浩介がこの試合を観に来てくれているとは限らない。

 例え、観に来ていたとしても、浩介が僕の投げる姿を観て、立ち直ってくれるとも限らない。

 それなのに、肩を壊してまで投げるなんて、馬鹿のすることだ。

 馬鹿すぎて笑い話にすらならない。

 だけど、それでも僕は信じていた。

 この試合に勝てば、甲子園行きを決めれば、浩介がまた夢に向かってひた走る姿を取り戻せるって。

 そして、彼女も本当の笑顔を、僕の大好きだったあの眩しいくらいの笑顔を取り戻してくれるって。

 そんな可能性の低い希望を胸に僕は投げ続けてきた。


 けど、それも、もう終わりだ。

 僕はもう投げれない。

 もう、諦めるしかない。


 僕を心配するチームメイトの声が聞える。

 マウンドにやってきた監督が僕に何かを告げている。

 スタンドにいる観衆はなにが起きたのかと、どよめいている。

 それら全てが、もうどうでもよくて。

 僕は、夏の暑さと肩の痛みから朦朧としてきていた意識を、その流れのまま手放そうとした。

 けれど、その間際で――、


「諦めるなああああ! たつやああああああ……!」


 そんな叫び声が、僕の名を叫ぶ声が観客席から聞こえきて、僕の意識を呼び戻した。


 その声は、周りにいるチームメイトやスタンドにいる観衆の声を押しのけ、ハッキリと僕の耳に届いていた。

 声がする方を見る。

 一塁側のスタンド席、その最前列よりも前、フェンスにしがみつくようにして立っている人物が見える。

 その姿を僕は知っている。


「こう、すけ……?」


 その人物が浩介のなのだと分かった時、不思議にも混濁していた意識は呼び戻されていた。

 その目にはハッキリと浩介の姿を映している。

 そして、浩介の隣には彼女が彼を支えるように寄り添っている。

 遠目からでもハッキリと分かる。

 彼女は僕を心配そうに見ている。


 浩介が、彼女が、来てくれた。

 約束を守ってくれた。

 それが分かったのに、僕は嬉しくなんてなかった。

 だって、もう、僕は投げることができない。

 約束を守ることが出来ないのだ。

 それなのに、浩介は――。


「なに諦めてやがる、達也! お前が、証明して見せるって言ったんだろうが! 俺に証明して見せるって言い出したんだろうが! だったら、最後まで諦めるんじゃねぇ! こんなところで諦めやがったら、俺はお前を一生許さねぇぞ!」


 声が聞える。

 幼馴染でライバルの声が。

 その彼が僕を鼓舞するように叫んでいる。

 大声なんて、もう出し方は忘れてしまうほど出してなかったはずなのに、その掠れ声で必死に叫んでいる。


「立てよ! 立って、証明して見せろよ! 勝って見せろよ! 勝って、見せてくれよ! 俺とお前の……皆の夢の続きを! 夢を、叶えろ、達也ぁああああ……!」


 夢。

 僕と浩介の夢。

 甲子園に行って、優勝すること。

 それが僕らの夢だった。

 いや、高校野球をやっている者なら、誰しもが一度は夢見て、目標とするものだ。

 けれど、遠い夢だ。

 遠すぎて、手が届かない夢。

 少なくとも、県大会の決勝戦のマウンドで膝を折っている僕には、遠すぎる。


「立てぇえええ! 高杉ぃいいい……!」


 今度はどこからともなく別の叫び声が聞えてきた。

 その声も聞き覚えのあるの声だ。

 その人がどこにいるのかは分からない。

 それでも僕には分かった。

 叫んでいるのは坂田君だ。


「取り戻すんだろ、アイツの笑顔を! だったら、立てよ! お前なら出来るはずだ! 立てぇえええ……!」


 取り戻す。

 そうだ。

 僕は取り戻したかった。

 彼女の本当の笑顔を。

 僕と浩介と彼女と一緒にいた頃の、あの眩しい笑顔を。

 あの輝かしい日々を。

 その為なら、僕はどんな事だってやるって決意したんだ。

 それなのに、結局僕は……。


「由香ぁ! お前もいるんだろ? 見てるんだろ? だったら、何か言ってやれよ!」


 坂田君は、今度は僕ではなく彼女に叫んで呼び掛けている。

 その声に僕はもう一度一塁側のスタンドを見た。

 浩介の隣に彼女は変わらず立っている。

 その顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 そして、彼女も叫んだ。


「もう、いいよ……!」


「え……」


 彼女の言葉に静粛が訪れた。

 聞えてきた彼女の叫びは、意外なものだった。

 きっと僕だけでなく、呼び掛けた坂田君も、隣にいる浩介さえも絶句していたと思う。

 でも、彼女を止める人はいなかった。

 だって、誰もが彼女の声に聞き入っていたから。

 まるで、入学式の時、新入生代表として登壇したときのように。

 彼女のその言葉は決して僕を冷たく突き放すわけでも、僕を励まそうとしているわけでもなく、ただ静かに優しく心に染み入るような声だった。


「もう、いいの。もう、大丈夫だから。もう私もコウちゃんも大丈夫だから。だから、もう無理しないで。もう無茶しないで。ただ、タッちゃんが笑って野球ができるなら、それで、いいから。それで、私も笑ってられるから。だからもう、私やコウちゃんの為に苦しまないで! お願いだから、タッちゃんの為の、自分の為の野球をして!」


 彼女の涙を流しながらの叫びは、誰の声に阻まれることなく、球場に響き渡る。

 静粛の中、彼女の必死な叫びは、僕にしっかりと届いていた。

 彼女のその叫びは、彼女の思いそのものだ。

 僕に無理をして欲しくない。

 無茶をして欲しくない。

 その一心で出た言葉に違いない。

 僕を鼓舞するわけでなく、ただ僕を心配しての言葉。

 けれど、その言葉に僕は……。


「ああ……そっか。そう、だったよね……」


 彼女の言葉に、僕は気付かされた。

 どうしてもう一度野球をやりたいと思ったのか、どうしてピッチャーになろうと思ったのか、その理由を。

 浩介の為だとか、夢の為だとか、そんな小難しいことは、きっとこじつけに過ぎない。

 そうした方が、格好がつくから、それを理由にして誤魔化していたんだ。

 僕はただなりたかったんだ。

 彼女を魅了して、彼女を変え、あの眩しい笑顔の原点となったピッチャーに。

 彼女にずっと見ていてもらえるようなピッチャーに。

 そんな不純で自分勝手な動機が僕の原動力だった。

 それに気づいた時、僕は不思議と活力が湧いてきて、体が軽くなった。


 痛みはある。

 もう体力も限界だ。

 けれど、何故だか体は、肩は、動いてくれた。

 まるで、背負っていた重い荷物を降ろしたような感覚だ。


 僕は、まだ、投げられる。


「……ったく、アイツら、恥ずかしげもなく、人の名前を連呼しやがって。こっちが恥ずかしくなるっていうの……」


 そんな悪態をつきながら僕は立ち上がる。

 そして、交代を審判に告げようとする監督に向かって言った。


「監督、あと一球、あと一球だけ投げさせてください」


 僕がそう言うと、監督は酷く驚いた顔を見せた。


「な、何を言っているだ!? もういい。高橋さんの言う通りだ。もう無理は――」


「違うんです、監督」


「え? 違う?」


「はい、違います。僕は僕の為に投げたいんです。誰の為でもなく、自分の為に。だから、最後に一球だけ投げたいんです。最初で最後の自分の為だけのボールを。お願いします!」


「し、しかし……」


 僕は頭を下げて監督に懇願する。

 それに監督は困惑していた。

 当然だ。

 試合に勝つことを考えれば、肩を怪我した投手よりも、二番手の投手の方が幾分勝機もある。

 それに僕自身の事も考えれば、投球を続けさせず、すぐに病院で診てもらう方が正しい選択だ。

 だから、僕の要求は受け入れ難いものだろう。


「僕は構いませんよ、監督。高杉に全て任せたいと思います。僕はエースを信じます」


 迷う監督の横で、そう言ったのはキャプテンの高木先輩だった。


「キャプテンがそう言うならオレも構いませんよ。大体、達也がいたからここまで来れたんだ。最後ぐらい、コイツの好きなようにさせてもいいじゃないですか?」


 高木先輩に続いて、松井も僕の後押しをしてくれる。

 すると、チームメイトから次々と声が上がった。


「そうですよ、監督! 高杉に任せましょう!」


「大丈夫。打たれたら打たれただ! エースが打たれて終わるなら、皆納得だ」


「その通りです、監督! それに打たれからって終わりじゃないですよ。俺達だっているんですから!」


 皆が僕の後押しをするように監督向かって口々に言う。

 誰もが勝ちたいはずなのに、それでも僕を信じて、僕の続投を望んでくれていた。


「やれやれ……しょうがないな、君達は……」


 監督はそう言って諦めたように溜息をついた。


「か、監督、それじゃあ……」


「ああ、続投を認めるよ。ただし、本当に一球だけだ。それ以上は監督としても、教師としても見過ごせない」


「ありがとうございます! 皆も、ありがとう!」


 僕はもう一度頭を下げ、監督とチームメイトに感謝にした。

 そして、監督はベンチに、チームメイトはそれぞれの持ち場に戻って行く。

 僕はマウンドの上で、もう一度浩介と彼女のいるスタンドを見た。

 二人とも、心配そうな顔で僕を見守っている。

 そんな二人に僕は微笑みを返す。


 大丈夫。

 僕はもう諦めない。

 途中で投げ出すなんてこともしない。

 だって、好きだから。

 野球が、ピッチャーが、僕を信じてくれる皆が。

 そして、君のことが大好きだから。

 もう、それだけは見失わない。

 それさえ、見失わなければ、僕は投げられる。


 試合は再会された。

 左手にボールを握り、バッターに相対する。

 もうお互いの手の内は分かっている。

 最後は知識も技術も関係ない。

 真っ向勝負あるのみだ。

 僕は渾身の力と思いを込めて、最後の一球をキャッチャーのミット目掛けて投げた。


 ボールが手から離れた瞬間、肩の痛みが限界に達したせいか、僕の視界は突然電源を切られたテレビのように真っ暗になる。

 きっと脳が意識を強制シャットダウンしたのだろう。

 ただ、その意識が消える間際、高い金属音が聞えたような気がした。


          ○


 目を覚ました時、最初に目に入ったのは、見知らぬ白い天井だった。


「ここ、は……?」


 自分が置かれている状況が理解できず、首だけを動かして辺りを確認する。

 そして、どうやら僕はどこかのベッドの上に横たわっているのだという事だけは理解できた。


「目を覚ましたか、高杉」


「ここは病院だよ」


 すぐ隣からそれぞれ別の声が聞えてきた。

 僕は視線を少し右上にずらす。

 そこには見知った顔があった。


「キャプテン……それに、監督も……。びょ、病院って……?」


 何故、キャプテンと監督が僕の傍にいるのか分からなかった。

 それ以前に、どうして僕が病院のベッドの上なんかで眠っていたのか、それすらも分からない。


「覚えてないかい? 君は試合中に倒れたんだ」


 監督が良く分からないことを口走っている。

 僕が試合中に倒れた?

 なんで?

 そんな疑問が湧いて、僕は僕の中に残る最後の記憶を辿る。

 すると、それはすぐに思い出せた。


「そうだ……試合……! 試合は……決勝戦はどうなり――づっ!」


 決勝戦の事を思い出して、勢いよくベッドから起き上がろうとすると、左肩に痛みが走った。

 その痛みで、またも僕は自分が忘れていた事実を思い出す。


「こらこら、安静にしてないとダメだ。突然動いたりしたら、肩に響く」


 監督は僕を諭すようにそう言って、僕をゆっくりと起き上がらせてくれた。


 肩。

 そうだ、僕は左肩を痛めていたんだった。


 気になって左肩を動かそうとしたけれど、何かテーピングのようなものでガチガチに固められていて、動かすことも出来なかった。

 けれど、今はそれどころではない。

 決勝戦の行方、僕が投じた最後の一投がどうなったのか、それを訊かないと。


「決勝戦は……どうなったんですか?」


 僕は監督とキャプテンに再度尋ねる。

 すると、彼らは一様に暗い表情を見せた。

 それだけで、僕は全てを悟った。


「負けた……そう、なんですね?」


 そう尋ねると、監督は黙って頷いた。


 負けた。

 決勝戦、負けてしまった。

 僕のせいで。

 僕が打たれたせいで。

 負けてしまった。

 その事実が僕に重くのしかかってくる。

 結局、僕は約束を守れなかった。


「すまない、高杉」


 自責の念に駆られていると、何故だかキャプテンの方が僕に謝ってきた。


「ど、どうしてキャプテンが謝るんですか! 打たれたのは僕の責任で、キャプテンのせいなんかじゃ……」


「違うんだ、高杉。負けたのは、君のせいじゃない。お前は、最後の一球、最高の球を投げてくれた」


「え……どういうことですか?」


 困惑する僕に、監督とキャプテンが、僕が意識を飛ばした後の事、試合の行方を詳しく説明してくれた。

 結果から言うと、僕が投じた最後の一球は、相手の四番打者に打たれた。

 ただ、打たれたと言っても、ショートへのゴロという凡打だったそうだ。

 それをショートが取って、二塁に投げればゲームセット。

 青蘭高校は優勝と、誰もがそう思って喜びかけた時、ショート手前でボールがイレギュラーなバウンドをした。

 ショートはそれに対応できず、ボールを後ろに逃し、その間に二塁、三塁にいた走者がホームベースに帰還。

 青蘭は逆転サヨナラ負けを喫したとの事だった。


「だから、負けたのは君のせいじゃない。君は最後までよく頑張ったよ」


 キャプテンはそう言って僕を慰める。

 けれど、僕はそれを素直に受け取れなかった。


「そんなことないですよ、キャプテン。やっぱり、負けたのは僕のせいです。僕が三振に取れていれば……」


「いや、高杉、そうじゃなくて……」


「いいえ、僕のせいです! エースなら、あの場面、打たれたらダメなんです。エースなら……アイツなら……浩介なら、きっと打たれなかった!」


 そうだ。

 浩介が投げていれば、きっと打たれなかった。

 アイツなら、最後の打者を三振に取って、優勝していたはずなんだ。

 けど、僕にはそれが出来なかった。

 それは僕にその力が、エースとしての資格がなかったからだ。


「それは違うぞ、達也!」


「え……」


 突然、否定される言葉と共に名前を呼ばれ、その声に驚いて正面を向く。

 すると、病室の入り口に左手に松葉杖をもった浩介が立っていた。


「こ、浩介!?」


「よお、達也。思ったより元気そうで安心したぜ」


 浩介は微笑みながら右手を上げて、そうするのが当然のように気軽に挨拶をしてくる。

 けれど、僕はその挨拶に返すことが出来ない。

 いや、浩介の顔を見る事すらもできなかった。


「浩介……僕、お前との約束、守れなかったよ……」


「はあ!? お前、何言ってんだ?」


「え……」


 思いもよらぬ浩介の反応に顔を上げると、浩介はやれやれと首を振って呆れたような表情をしていた。


「お前、何か勘違いしてないか? 絶対に打たれないピッチャーなんて、この世にはいないんだぜ?」


「そ、それはそうだけど……だけど、あの場面で打たれたのは、僕に力が足らなかったからで……」


「それが勘違いだって言ってんだ!」


 浩介は病院の中だというのに大声を出して否定した。

 その目から少しだけ怒りに似たものを感じる。


「お前が最後に投げた一球、あれはな、あの試合で投げたどの球よりも、最高の一球だった。並みの打者なら、空振りに終わってたはずだ。それを当てただけでも、向こうの四番を褒めてやりたいぐらいだ。それなのに、お前は自分に力がなかったなんて言いやがって……それは相手を侮辱しているのと同じだぞ!」


 浩介はただ怒っていた。

 僕の間違いを正そうと、叱りつけようとしているように僕には見えた。

 そんな浩介は、やせ細って頬もこけているけれど、以前僕と言い争いばかりしていた頃の浩介と重なるものがある。


「青蘭が負けたのは、お前のせいでも、ましてや、ボールを取り逃したショートのせいでもねぇ。ただ、運がなかった。それだけのことだ。だから、お前は……もうちょっと……」


「浩介……?」


 浩介は途中で言葉を詰まらせ、何か言いづらそうにしている。


「胸を張れってことだろ? 名倉」


 キャプテンが浩介の言葉を引き継ぐようにそう口にした。

 すると、浩介は恥ずかしそうに少しだけ顔を赤くして、


「ああ、そうだよ! お前は、エースとして立派に役目を果たした! 俺が嫉妬しちまうぐらいにな! だから、もっと胸を張りやがれ!」


 そんな風に口を荒らしながらも、僕を称賛してくれる。


「高杉、名倉の言う通りだ。その証拠に野球部には誰も君を責める奴なんていない。今回の事について、誰かが誰かを責めるようなことはしない。そう野球部の皆と決めたんだ」


「けど、キャプテン……キャプテン達は……」


 三年生はこの夏で引退だ。

 この夏の大会が最後の試合だったのに、今まで甲子園を目指して、頑張ってきたのに、あのたった一球でそれが終わってしまった。

 僕の身勝手な思いだけで、終わらせてしまったのに……。


「高杉。僕はね、君に感謝してるんだ」


「え……?」


「僕だけじゃない。三年生全員、同じ思いだ。エースだった名倉が怪我で離脱して、僕達は半ば諦めていた。そんな時に君が野球部に来てくれて、僕らは助けられた。そして、君に気づかされた。諦めなければ、夢はいつまでも追い続けられるって事に。だから、僕達は君に感謝することはあれど、恨むことなんて何一つないよ」


 そう言って微笑むキャプテンの顔を僕はもう見ることが出来なかった。

 キャプテンの言葉は、純粋に嬉しかった。

 こんな問題ばかりを野球部に持ち込んだ僕にキャプテンは感謝してくれている。

 それだけで、僕は救われた。

 きっと、感謝すべきは僕の方だ。

 だから、自然とその言葉が口から零れ出ていた。


「ありがとう、ございます……キャプテン!」


 その言葉と共に、目から熱いもの流れ落ちていた。

 この時の事は、どんなに時間が流れても、きっと僕は一生忘れないだろう。



「さて、僕らはそろそろお暇しようか、高木君」


 僕が落ち着くの見計らって、監督がそう切り出してくる。

 それは、僕と浩介に気を利かせての事だとすぐに分かった。

 そして、病室には僕と浩介だけになる。

 二人っきりになった途端、場が一気に気まずくなった。

 そんな中、最初に切り出してきたのは浩介の方だった。


「肩の……具合はどうだ?」


「え? あ、ああ……うん、今はそんなに痛まないよ。けど……」


 野球がまた出来るかどうか、それは怪しい。

 もしかしたら、右肩と同じように……。


「心配すんな。精密検査はまだだが、医者の見立てじゃあ、腱を痛めて炎症を起こしているだけだそうだ。時間を掛けて、しっかり治して、リハビリすれば、また投げられるようになるってよ。良かったな?」


「そう、なのか……?」


 意外だった。

 痛めた挙句、あんなにも酷使したのに、その程度だと思わなかった。

 けれど、浩介は怖い顔をして、僕の考えを否定する。


「勘違いするなよ? 楽観できるような状態じゃない。ちゃんと治して、リハビリしないと、以前のようには投げられないとも医者は言ってたからな。今度は壊れないようにちゃんと肩を作れよ?」

「う、うん……」


 浩介があんまりにも怖い顔で真面目に言うものだから、僕は素直に返事するしかなかった。

 すると、浩介は少し恥ずかしげにして言う。


「まあ……リハビリに時間が掛かるのは、俺も同じなんだが、な」


「え……リハビリ……? それって……」


「あー、いや、その、なんだ。だ、だからだな……」


 浩介はしばし言いづらそうにした後、意を決したように真面目な顔をして、僕を真正面から見据えてきた。


「いままで、色々と心配かけて悪かったな、達也。その……球場で由香が言った通りだ。俺はもう、大丈夫だから」


「浩介……それ、本当に……?」


「ば、馬鹿! こんな事、冗談で言うか!」


「だ、だけど……僕は約束を……」


 僕は浩介との約束を守れなかった。

 それなのに浩介は……。


「違うぜ、達也。お前は約束をちゃんと守ったさ」


「え……? で、でも、試合に負けたのに……」


「馬鹿。お前が俺としてくれた約束はもっと別のものだろうが。……お前は俺に証明してみせてくれた。どんなハンディを背負っていようが、諦めなければ夢は追い続けられるってな。それにな、そもそも、お前は試合に絶対勝つ、なんて約束はしなかっただろう?」


「あ……」


 そうだ。

 僕は浩介に立ち直って欲しくて、約束した。

 それには優勝することが必要だと思っていたけれど、それは大きな間違いだ。

 浩介が立ち直るのに勝利は必要ない。

 必要だったのは、夢に向かって諦めない姿。

 それを見せる事だったはずで……。


「そっか……そうだったんだ……馬鹿だなぁ、僕は……」


「やっと気づいたのか? 俺はお前が昔から大馬鹿だって知ってたぜ」


「はは……ひ、ひどい、なぁ……浩介は……」


「へへ……本気に……すんな、よ。……じょ、冗談……だって、の……」


 おかしいな。

 なんだか、視界が歪んで前が見え辛い上に、浩介の声もくぐもって聞こえる。

 まだ、試合の疲れが残っているのかな……?


 そんな風に思っていると、また頬を伝う温かいものを感じる。

 ああ、なんだ。

 前が見え辛いのは、僕が泣いているからだ。

 浩介の言葉を聞いて、恥ずかしげもなく、僕は浩介の前で涙してしまっていた。

 それに気が付いた僕は恥ずかしくなって、急いで右袖で涙を拭う。


「こ、浩介、これはあれだ、違うんだ! 忘れてくれ!」


「あ? な、何がだよ? 悪いが、今は……」


「え……?」


 浩介の返答を奇妙に思って、僕は涙を拭ってから浩介を見る。

 浩介は俯いて、肩を震わせていた。

 浩介も、泣いていた。

 僕はそれに気づいて、浩介を見ないように浩介と同じように下を向いた。



 お互いがまともに会話できるようになったのは、それから五分くらいしてからのことだった。

 浩介はまだ目が赤いながらも「恥ずかしいところ見られちまったな」と恥ずかしそうに笑うから、僕は「お互い様だよ」と返した。

 そうして、僕らは笑い合って、やっとこれからの事を話せるようになった。


 僕には浩介にどうしてもちゃんと訊いておきたい事がある。


「野球部には、戻ってくるんだよね?」


「ああ、そのつもりだ。けど、まずは義足を付けて歩けるようにならないとな。野球部への復帰はそれからだ」


 浩介はハッキリとした口調で強い意志を見せてくれる。

 そんな浩介を目にして、僕は安堵した。

 以前のあの力強い目をした浩介が戻ってきてくれたから。


「良かったよ……」


「まあ、そんな風に思えるようなったのも、お前のお陰だけどな」


「そ、そんなこと……」


「謙遜すんなよ。事実だぜ。お前の投げてる姿を見て、そう思えたんだ。それに、お前が持って来た野球雑誌を読んで、俺も少しは希望が持てたしな」


「野球雑誌……そっか、あれ、ちゃんと役に立ったんだ……」


 マスターから僕に託され、僕から浩介の手に渡った三冊の野球雑誌。

 あれは浩介が言うように、浩介にとって『希望』となるものだ。


 あの雑誌はどこにでもありふれた野球雑誌だ。

 けれど、あの三冊の中には、ある特集記事が組まれている。


 一冊目には、過去、隻腕ながらもメジャーリーグで活躍した野手の特集記事。

 そのメジャーリーガーが片腕ながらもどうやって野球選手となりメジャーまで上り詰めたのか、その半生が語られている。


 二冊目には、僕達と同じ、とある高校球児の特集記事。

 その球児は、片足が義足ながらも、レギュラー入りを果たし、実際に甲子園の土まで踏んだ。

 そんな球児の野球への熱い想いが雑誌の中では語られている。


 二冊とも、浩介にとって正しく『希望』を与えてくれるものだ。


 そして、三冊目は――。


「しかし、あれだ……流石にあれはないだろ、達也? あんなので俺に発破をかけたつもりか?」


「え……」


 浩介はジト目を向けて、僕を責めるように見ている。


「ええっと……な、何の事かな……?」


「惚けんな! 何だったら、ここで読んでやろうか?」


 浩介はそう言うと、何処からか取り出したのか、一冊の雑誌を僕に見えるように広げた。


「げっ! そ、それは……!?」


「はっはっはっ! 今更気づいても遅いわ! なになに……『肩の負傷により選手生命を絶たれた悲劇の元全中天才右腕、サウスポーとなって、高校野球にまさかの復活!』だってよ。すげーなー。誰の事だろうなー?」


 浩介は意地悪そうな笑みを零しつつ、その台詞とは裏腹に感情の籠っていない声で尋ねてくる。


「あ、いや……それは、さ……」


 サーっと血の気が引いていくのが分かる。

 その記事の見出しになっている人物は間違いなく、僕だ。


「いやあ……流石にこれを見た時は殺意を覚えたぜ、俺は。なんだ? 自慢でもしたかったのか?」


「ち、違うよ! そんなつもりでその雑誌を渡したんじゃ――」


「ないってか? まあ、そうだろうな……」


「え……」


 浩介の顔を見ると、そこにはさっきまであった意地の悪そうな顔はなくなっていた。

 あったのは、少しだけ嬉しそうに微笑む顔だった。


「このピッチャーは、試合後のインタビューで、どうして左投手になろうと思ったのかって訊かれて、生意気にもこう答えてる。『僕は一度野球を諦めました。怪我のせいにして辞めてしまったんです。大好きだったはずの野球を大嫌いだって言って自分から遠ざけて、自分の殻に閉じこもったんです。だけど、二人の友人が気づかせてくれました。好きな事を好きだと言える勇気を。僕はやっぱり野球が好きなんだってことを気づかせてくれたんです。だけど、現在その友人の一人は僕なんかよりも酷い怪我をして、自分の夢を諦めようしています。だから、僕はその友人に見せてあげたいんです。こんな僕でも、左腕でしか投げられない僕でも、例え全力でプレーできなくても、夢は追い続けられるんだってところを』ってな。……すげーよな、コイツ。人前でこんな事言えるなんてよ」


「……」


 インタビューの内容を読み上げられて、恥ずかしかった。

 恥ずかしくて、顔から火が出そうで、何も言えなかった。


 マスターがこの雑誌をどういうつもりで僕に託したのかは、分からない。

 だから、浩介に渡すかどうかは直前まで悩んだ。

 でも、僕もこの記事を浩介に読んで欲しくて、僕の思いを伝えたくて、そのまま渡してしまった。

 だけど、まさか、僕のいる前で浩介に読み上げられるなんて思ってもみなかった。

 こんなの、羞恥心で死んでしまいそうだ。


「ありがとな、達也」


「……へ?」


 浩介から思わぬ言葉が飛び出してきて、僕は間抜けな声を出していた。


「由香がな、この記事を読んだ後、教えてくれたんだ。お前が俺の為にどれだけ頑張ったのか。入部するために松井とやりやったとか、俺の作った練習メニューを毎日欠かさず熟していたとか……そんな話を聞かされた」


「ゆ、由香が……?」


「ああ。それを聞いたらさ、もう止められなかったよ。お前がマウンドに立つ姿を見たくて、自分の気持ちを直接伝えたくて、時間は過ぎてたけど、自然と球場に向かってた。だから、ありがとな」


「浩介……」


 浩介の言葉に、僕はまた泣いてしまそうになって俯く。


「なんだ? もしかして、感動のあまり、また泣いてんのか?」


「ば、馬鹿野郎! そんなんじゃ……ないよ!」


 浩介の冷やかしに間髪入れず反論してみたものも、涙腺は弱まっている。


 こんなのずるい。

 羞恥心を煽られてからの、心を揺さぶる言葉だ。

 泣くなという方が無理だ。


「ははっ! わるいわるい。まさか、お礼言ったぐらいで、泣くとは思ってなかったからよ」


「だから、泣いてないってば!」


 僕が反発すると浩介はケラケラと笑う。

 けれど、それに悪い気はしなかった。浩介の笑顔が見られた事が嬉しかったから。


 でも、それは別にして、からかわれて良い気分になる人間なんていない。

 僕は、浩介には少しお灸を据えてやりたくなった。


「浩介さ、お礼を言うなら、僕にだけじゃなくて、由香とマスターにもちゃんと言いなよ?」


「ん? 由香は分かるが、どうして、マスターに?」


「あの雑誌、見つけてきたのはマスターなんだ。お前に直接渡すつもりだったらしいんだけど、お前がいつまで経っても部屋から出て来ないから、僕が渡す羽目になったんだよ」


「お、おう……そ、そうだったのか……。それはマスターにも悪いことしたな。今度、挨拶がてら、お礼と謝罪を……」


「謝るのはマスターにだけじゃないだろ? お前、前に由香に酷いこと言ったそうじゃないか? ちゃんと謝ったのかよ?」


「う、うぐっ……そ、そう言えば……まだだった……」


 浩介はきまりが悪そうにして、目に見えるほど落ち込んでいく。

 そんな浩介を見て、ちょっと可哀想な気がしたけど、僕の腹の虫はまだ治まらない。


「あの時の由香、すごく落ち込んで、泣いてたなー。ま、僕がしっかりフォローしておいたから、大丈夫だったけど」


「ちょ、ちょっと待て! な、泣いてただって!? そ、それになんだ、そのフォローってのは!?」


「さあ? でも、これだけは言えるよ。いまは僕の方が一歩リードしてるってことだよ」


「ぐっ……!」


 僕が勝ち誇るように笑って見せると、浩介は悔しそうに顔を歪めた。

 その顔を見て、少し虐めすぎただろうかと思っていると、浩介は顔から力を抜いて、ふぅっと息を吐いた後、項垂れた。


「ま、それは知ってたけどさ……」


「え……」


「そりゃそうだよな。半年以上も部屋に引き籠って、ウジウジしてりゃあ、そうなるわな……。ダメだなぁ、俺って……」


「こ、浩介……?」


 なんだか浩介の様子がおかしい。

 完全にしょげかえってしまっている。


 まずい。

 やりすぎてしまった。

 折角、立ち直ってくれたに、こんな事で落ち込まれては困る。


「お、おい、浩介、あのな……」


「くっ……くくっ!」


「え……あれ?」


「くくく……くははははっ!」


「お、おい……」


 突然、浩介は大笑いを始めて、僕には何が何だか分からない。


「ひー、苦し。相変わらず、馬鹿正直だな、達也は!」


「な!? だ、騙したな、お前!」


「簡単に騙される方が悪いっての!」


「お、お前ね……」


 睨む僕を尻目に浩介は腹を抱えて笑い続ける。


 ちょっとでも心配した僕が馬鹿だった。

 そもそも、浩介はあの程度の事で落ち込むような人間ではない。

 それを忘れていた。


「ち、ちくしょう……け、けど、僕の方が一歩リードしてるのは、本当の事だからな!」


「ああ、分かってる分かってる。けど、それもなー、どうなんだろうな? もしかしたら、俺がすぐに追い抜いちまうかもよ?」


「な、なんだよ、それ……」


 形勢逆転と言わんばかりに、今度は浩介が不敵な笑みを零す。

 それに僕は嫌な予感がした。


「お前さ、ここに俺だけで来てること、疑問に思わないわけ?」


「え……あ! そ、そうだ! ゆ、由香は!?」


 そうだった。

 浩介がここにいるのに、彼女がいないのはおかしい。

 あの彼女なら、浩介の傍を離れたりしないはずだ。


「お前さー、球場で由香があんなに言ったのに、それも聞かずに投げた挙句、ぶっ倒れたりするから、アイツ、大泣きするわ、落ち込むわで大変だったんだぜ?」


「そ、そんな……」


「心の整理がつかなかったんだろうな。誘ったけど、来なかった。ちゃんと謝んのは、お前の方だと俺は思うけどな」


「あ、う……」


 なんてことだ。

 そんな事になっているだなんて、思いもしなかった。

 よくよく考えれば、当然だ。

 彼女はあんなにも僕の事を心配していたのに、僕はそれを無視するような行動を取ったとも言えるのだから。


 僕は一体、どうすれば……。


「ま、俺の方からお前の状態の事とか伝えれば、落ち着いて由香の方から会いに来てくれると思うけど……どうする? たーつやくん?」


 浩介はなんとも意地悪そうな口調で僕に尋ねてくる。

 それに僕は……。


「う、ぐ……お、お願いします……」


 不様にも浩介に頼る他なかった。


「よし、これで貸一な?」


「……わ、わかったよ」


 すごく納得いかないが、仕方ない。

 僕はまだ精密検査のために入院しないといけないから、彼女に会うためには、彼女の方から来てもらうしかない。


「それじゃあ、俺はそろそろ帰るけど、他に由香に伝えて欲しいことはあるか?」


 浩介は機嫌の良さそうな声で僕に尋ねてくる。

 僕はしばし思案する。

 すると、大事な事を思い出して、浩介にある事をお願いすることにした。

 これならば、きっと今回の貸もチャラにできるはずだ。


「由香にはないよ。けど、浩介にはある」


「は? 俺に?」


「うん。ある物を僕の部屋から取ってきて、それを由香に渡して欲しいんだ」


「なんだよ、そのある物って……?」


「それは内緒だよ」


「はぁ!? それでどうやって取って来いと……」


「大丈夫。浩介なら部屋に入ればすぐに分かるよ。目につく場所に置いてあるし」


「なんだそりゃ? まあ、いいや。分かったよ」


 浩介は訝しげにしつつも、僕のお願い承諾してくれた。


 そして、もう話すこともなくなって、浩介は病室を出ていこうとする。


「浩介!」


 浩介の後姿を見て、僕は浩介を呼び止める。


「なんだよ?」


 僕の呼び止めに浩介は振り返った。


 その顔は、いつだって前だけを見て、夢を追い駆けている、僕の良く知った名倉浩介の顔だった。


 そんな浩介に僕は問い掛ける。


「浩介、野球は好き?」


 その問い掛けに、浩介は、


「ああ、もちろん! 大好きに決まってるだろ!」


 満面の笑顔で答えてくれた。


        ○


 決勝戦の翌日、左肩の精密検査も終わり、僕は退院できた。

 検査の結果、浩介の言っていた医者の見立て通り、肩の腱を痛めて炎症を起こしているとのことだった。

 治療とリハビリには時間が掛かるようだが、それを怠りさえしなければ、前と同じようにボールが投げられるそうだ。


 結局、僕が入院している間に彼女は来なかったけれど、すぐに退院できたから、その足で彼女のもとに向かおうと思っていた。

 けれど、病院を出てみると、彼女が既にそこに立っていた。


「タッちゃん……」


「ゆ、由香……」


 彼女は僕を見つけると同時に俯いてしまう。

 僕は僕で突然のことで彼女になんと声を掛ければいいか迷い、その場で固まっていることしかできなかった。


「肩は……どう、だった?」


 彼女が恐る恐るという感じで尋ねてくる。


「あ、うん……だ、大丈夫だったよ。治るまで時間は掛かるかもしれないけど、ちゃんと元に戻るって言われた」


「ほ、本当に!?」


 彼女は顔を上げて訊き返してくる。

 その顔は、期待と不安が入り混じっていた。


「本当だよ。心配、掛けちゃったね」


「本当に本当なんだよね? 嘘じゃないよね? また、野球ができるんだよね?」


「由香に嘘なんか吐くわけないだろ。大丈夫、僕は野球を続けられるよ」


「よ、良かった……」


 彼女は安堵の言葉を呟くと同時に、見る見るうちにその目から涙が溢れていく。


「ゆ、由香? そんな、泣かなくても……」


「タッちゃんの……バカッ! バカバカバカッ!」


 彼女は何度もバカと言いながら、僕の胸を両手で交互にポカポカと勢いよく叩き始める。


「痛っ! イタタタッ! ちょっと由香、やめてよ!」


「いや! やめない! バカバカバカバカ……タッちゃんの、バカァ……!」


 バカと連呼すればするほど、その声は涙声で掠れていき、彼女が僕の胸を叩く勢いも弱まっていく。

 もう、叩かれていても痛くなどなかった。


「本当に……本当に心配したんだから! タッちゃんが野球出来なくなっちゃうんじゃないかって、不安で不安で堪らなかったんだからぁ……!」


 彼女は外だというのに人目も憚らず、泣きながら叫ぶ。

 結局、いつだって僕は彼女を泣かせてばかりだ。


「ご、ごめん……」


「ひっく……ばかぁ……」


 謝ってみたものも、彼女は泣き止まず、僕の事も許してくれない。

 そんな彼女にほとほとに困り果てていると、彼女は涙目のまま、僕に言ってきた。


「もう、あんな無茶、絶対にしないで」


「う、うん」


「本当だよ? ホントの本当に、もう無茶しちゃダメだよ? 約束、してくれる?」


「うん。約束、するよ」


 それは彼女と交わす幾つ目の、そして何度目の約束だろうか。

 以前はその約束を破ってしまったけれど、もうそれを破ることなんてない。

 だって、僕は、最初の想いを思い出すことができたから。


「大丈夫。今度は絶対に守るから。君との約束はもう二度と破らないよ」


「それも……約束……?」


「うん。約束だ! だから、もう泣かないで? 由香」


「う、うん……」


 約束だと力強く頷いてみせると、彼女はやっと泣き止んで落ち着いてくれた。

 そして、彼女は周りを見渡した後、はにかんで頬を赤らめる。そんな彼女の表情に僕も恥ずかしくなって、彼女と目を合わせることが出来なかった。


「その……本当に、ごめんね。約束、破ってばかりで……」


「そ、そんな事ないよ! タッちゃんは約束通りコウちゃんを……」


「あー、いや、そっちじゃなくて……」


「え? じゃあ……?」


「その……君を甲子園に連れて行くって約束、果たせなかった」


「あ……」


 それはいつか交わした約束だ。

 青蘭高校を甲子園に導くことが出来たなら、その時は、彼女と――そんな守る事すら難しい約束だ。


 僕に言われて彼女もその事を思い出したのか、彼女は先程よりも顔を赤くして俯いてしまう。

 けれども、僕はしっかりともう一度伝えたかった。

 彼女に僕の想いを。

 そうでないと、新たなスタートが切れないような気がしたから。


「そ、その、さ。今回はダメだったけど、秋の大会にも間に合わないかもしれないけど、来年の夏には、きっと果たしてみるから! だから、その……」


 それが出来たなら、付き合って欲しい。


 そう言い掛けて、僕はその言葉を飲み込んだ。

 別にそれを口にする勇気がなかったわけじゃない。

 それこそ、今更だ。

 そんな勇気がなかったなら、今までしてきたことなんて、出来はしなかった。


 違うと思ったんだ。

 そんな事を伝えたいわけじゃないと、思った。

 僕が彼女に伝えたい想いは……。


「タッちゃん……?」


 彼女は恥ずかしそうに頬を染めながらも、僕がその続きを口にしない事を不思議そうな目で見ている。

 僕の言葉を待ち望むその目は、見ているだけで吸い込まれそうになるほど綺麗な瞳だった。

 その瞳にいま移っているのが僕だけだと思うと、もう止められなかった。


「だから……だから、君にはこれからもずっと僕だけを見ていて欲しいんだ!」


 その言葉に彼女は驚いたように目を丸くした。

 きっと、想像してものと違っていたから驚いているのだろう。


 僕が紡いだ言葉は、愛の告白と言うには、あまりにも中途半端なものだろう。

 その癖、独占欲だけは強いと分かる言葉だ。

 けれど、それが僕の本心だった。


 彼女が中学三年の夏に見た、彼女を魅了したピッチャー。

 それが僕だったのか、それとも浩介だったのかは分からない。

 けれど、それはもうどちらでもいい。

 僕はその時彼女が見たピッチャーのように、彼女を魅了できるようなピッチャーになって、ただ彼女に見ていてもらいたい。

 それが、甲子園に行って優勝するという夢以外で、僕が野球をやる動機だ。


「あは、ははは……こ、困ったなぁ……」


 彼女は苦笑いを浮かべつつ、本当に困ったような顔をする。


 そんな彼女に僕は恐る恐る尋ねる。


「だめ……かな?」


「タッちゃんのこと、見てるのは嫌じゃないよ。だけど、流石にタッちゃんだけを見てるわけにはいかないよ。私、野球部のマネージャーだし、それに……コウちゃんだっているし……」


「そ、それは……そう、だよね……」


 彼女の言う事は正しい。

 彼女にとっても、野球部にとっても、野球部のマネージャーと言うのは大事な役割だ。

 それに、彼女にとって浩介が大切な存在であるのも確かだ。

 僕だけを見ている事なんて出来るわけがない。

 それは分かっていた事だ。

 けれど、それを口にされてしまうのは、少しだけ堪えて、僕はしょんぼりと項垂れるしかなかった。


「でもね……」


「え?」


 項垂れる僕に対して、彼女が何かを言い掛けるので、僕は慌てて顔を上げた。


「私ね、昨日のタッちゃんの投げる姿を見てて、思ったの」


「な、何を?」


「もしかしたら、あの時のピッチャーってタッちゃんだったのかなって……」


「あの時って……まさか……それって、中学三年の時に見たって言う……?」


「う、うん。けどね、私が野球を好きになったきっかけを作ってくれたピッチャーのことはね……以前、タッちゃんに話した通りなの」


「え……以前にって……何のこと?」


「その……そのピッチャーが誰なのか覚えてないってこと……」


「え!?」


 僕が驚くと、彼女はバツが悪そうに苦笑いを浮かべる。


「で、でも……僕か浩介かどっちかだって……それに、前は内緒だって……」


「う、うん。確かにタッちゃんかコウちゃんかどちらかなんだろうけど……どっちなのか、私には分からないの。二人とも背格好が似てたし、マウンドに立ってる時は帽子被ってたから、顔も良く見えなくて……だから、どっちだったのか、分からないの。それを二人に話すと残念がると思ったから、つい内緒だなんて言っちゃんって……。その……ごめんなさい!」


 彼女は申し訳なそうに勢いよく頭を下げて謝ってくる。


「あ、いや、別に謝らなくても……それに、さっき僕だったのかなって……」


「それは、昨日、最後の一球を投げる前のタッちゃんの姿を見てたら、そんな風に思えたの。チームの皆から信頼されて、最後を任されて、それでも堂々としてて……それがあの時のピッチャーと重なって見えて。だから、もしかしたらって……。でも、そのピッチャーが本当にタッちゃんだったのかどうかはやっぱり思い出せなかった」


「なんだ……そういう事だったのか……」


 結局、彼女の言うピッチャーが僕か浩介のどちらだったのか、分からず仕舞いということだ。


 半分、残念。

 けれども、もう半分は嬉しかった。

 彼女の言うように、僕がそのピッチャーの姿に少しでも近づけたなら、僕はそれだけでも嬉しい。


「だからね、タッちゃん!」


「は、はい!」


 不意に彼女に名前を呼ばれて、僕は思わず姿勢を正す。


「マウンドに立つタッちゃんの姿を、これからも見ていたいって……。私はこれからも、ずっと君を見ていたいって……そう思ってるの」


 彼女は真剣な顔をして、その言葉を僕にくれる。

 彼女のその言葉だけで僕は十分だった。

 ずっと君を見ていたい。

 その言葉だけで、そう言ってもらえるだけで、僕の心は飛び上がりそうなほど嬉しくて、幸せだった。


「ありがとう……由香……」


「ううん。折角、タッちゃんが想いを伝えてくれたのに、私、まだ、タッちゃんの事も、コウちゃんの事も、二人の事が大好きで、どちらかだけにってことができなくて……ずるいよね? 私って……」


 そう言って彼女は自らを嘲るように冷たく微笑む。


「そんなことないよ、由香。僕は、さっきの言葉だけで今は十分だから。それに、僕も浩介とは、ちゃんと決着つけたいしね!」


 そう言って僕は笑って見せる。

 すると、彼女も、


「ありがとう、タッちゃん」


 そう言って、いつもの優しげな微笑みを見せてくれた。


 けれど、その笑みはすぐに消えて、彼女はまた恥ずかしそうに顔を赤く染めて、俯く。


「ど、どうしたの?」


「あ、あのね……タッちゃんを選んであげることは、まだ出来ないけどね。その……コウちゃんの事は、ちゃんと約束は守ってくれたから……」


 そう言うと、彼女は意を決したように顔を上げる。


「こ、これは、私からのそのお礼だよ!」


 そう言うや否や、彼女は僕に顔を近づけてきて、そして僕の頬に――。


「え――」


 右頬に伝わる柔らかな感触。

 それは一瞬のことだったが、それが彼女の唇の感触なのだとすぐに分かった。


「ええええええ!?」


 僕はあまりの突然の出来事にキスされた頬に手を当てがって、驚きの声を上げていた。


「あははははっ! タッちゃん、顔真っ赤だー! おっかしー!」


 彼女は、僕の顔を指さしながら、からかうように大笑いする。

 その彼女の顔だって、未だに赤いままだ。


「こ、このぉ! そこ、笑うところじゃないだろ!」


「うわーん、ごめんなさーい! 怒らないでよぅ!」


 謝っていても、その顔は笑顔のままで、彼女は僕から逃げ出すように走っていく。


 僕は捕まえようと追い駆ける。

 僕がずっと見ていたいと思っていた、その眩しいくらい弾けた笑顔を。

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