第5話「僕の出した答えは」
先輩から殴られる、なんて騒動はあったけれど、その日はそれ以外にこれと言って大事は起きなかった。
クラスメイトからの視線は、相変わらず痛かったけれど、それでも誰も何も言って来ない辺り、もしかすると今朝の騒動すらも皆知っているのかもしれない。
もちろん、彼女と話し合う機会など恵まれるはずもなく、その日、僕は憂鬱な気分のまま家路について、いつもの場所で『日課』を済ませた。
それでも、微かな希望と言えるものもある。
それは坂田君の存在だ。
彼が彼女との仲を取り持ってくれると言ってくれた事は、今の僕には非常に心強い。
もしかすると、明日には……。
そんな淡い期待を胸に、その日僕は眠りに落ちた。
○
翌日の朝、坂の下に彼女の姿はなかった。
淡い期待が、微かな不安へと変わった瞬間だった。
坂を上り切って、正門を潜る。
今日は何事もなく、学校にたどり着くことができた。
これも昨日坂田君が先輩達を脅してくれたおかげなのだろう。
教室に入ると、その坂田君は既に登校してきていた。
僕が席に着くと、彼の方から僕の方へとやってきた。
「おはよう、坂田君」
「よ、よお、高杉。おはよ」
どうしてか、坂田君は浮かない顔をしている。
それが、一層に僕の不安を強くする。
「ど、どうしたの?」
「あ? あー……やっぱ分かる?」
「うん、様子が……いつもよりテンションが低いから」
「ありゃりゃ……オレも案外分かりやす奴ってことか」
そんな軽口を叩いていても、彼の顔は浮かない。
「さ、坂田君……?」
呼び掛けると、突然彼は両手を拝むようにして合わせて、頭を下げた。
「わりぃ、高杉。今回ばかりは、オレでも力になれなかった」
「え……それって……」
坂田君が何について謝っているかなど考えるまでもない。
彼女との仲を取り持つと言った彼が、こう言っているのだ。
きっと上手くいかなかったのだろう。
「すまん。何とかしようとしたんだが、アイツの落ち込みよーときたら、こっちの話に聞く耳すら持とうとしねぇ。アイツ本来の引っ込み思案な性格が顔を出しちまったようだ。あーなっちまうと、オレが何言っても効果がねーのよ」
「そ、そんな……そこまでなんて……」
「ま、まあ、学校だといつも通り振舞っているようだから、そう心配もいらないと思うが……ありゃあ、相当無理してるな」
「そうか……」
いつも通りに振舞っていると聞いて、内心ではほっとしていた。
あのいつも明るい彼女が、暗くなっているところなど想像できなかったし、そんな彼女の一面が学校で公になってしまえば、また騒ぎになりかねない。
けれど、だからこそ、いつもと変わらないように振舞っているのかもしれない。
坂田君が言うように、無理をして。
「ま、まあ、そういう訳だから、ちょっと今は無理だねぇ。少し落ち着いてからにするか、あるいは……」
「あるいは?」
言い掛けて黙る彼に尋ねるが、彼は難しそうな顔をして、やや悩んだ後、苦笑いを浮かべながら言った。
「いや、あるいは、お前の方から何か声をかけてやればと思って……」
「ぼ、僕から!?」
「あー、いや、無理だよな。こんな状況じゃあ。わりぃ、無茶言ったわ」
「う、うん……」
そう、無理だ。そんな事はできない。
いや、実際のところ無理な訳ではない。
彼女の電話番号もメールアドレスも知っているのだから、彼女に何か伝えることはできる。
けれど、それを僕の方からするのは、躊躇いがある。
彼女を傷つけたのは、僕だ。
おまけに、僕は彼女の期待に応えられない。
そんな僕が、今更、彼女になんて言葉を掛ければいいのか分からなかった。
「ま、まあ、あれだ。時間が解決してくれることあるだろーし、そう深く考えんな。な?」
そう慰めるように坂田君は声を掛けてくれたけれど、僕の気持ちは一向に晴れることはなかった。
その日、結局僕は学校では彼女に会うことすら叶わなかった。
夜になって、相変わらずどう彼女に声を掛けていいか分からないままだった。
けれど、僕は意を決して彼女に電話することにした。
スマホの画面をタップしてから、耳に押し当てる。
数回のコール後、電話が通じた。
繋がった。
出てくれないと思っていたけれど、彼女は出てくれた。
それは嬉しい反面、緊張の一瞬だった。
「あ、あの、高杉だけど!」
意を決した第一声は、向こうだって分かり切っているのに、名乗りだった。
けれど――、
『ただいま電話に出ることはできません。ご用件のある方は――』
スマホから聞こえてきたのは、機械的で定型文の留守番電話サービスの音声だった。
僕はそれを最後まで聞き終えることなく、電話を切った。
出てくれなかった。そう思った。
彼女はもう僕と話をすることさえしたくないと言う事だろうか……。
僕はスマホをベッドの上に放り出し、自分の身もベッドへとダイブさせる。
悶々とする気持ち、その鬱憤を発散させる術などない。
いつもの僕なら、ここでふて寝をかまして、それらの憂鬱な気分を翌日の僕に押し付ける。
そうやって、ずるずると引き延ばしにする。
けれど、今日の僕は違った。
どうしても、彼女ともう一度話す必要があると考えていた。
何を話せばいいのか分からなかったけれど、あの時彼女が見せた涙がどうしても忘れられなくて、このまま放って置けなかった。
寝っ転がりながら、放り投げたスマホを手に取り、顔の前に持ってくる。
そして、スマホを操作して、ある人物の名前を表示させた。
スマホに表示されているのは、『名倉浩介』という文字。
それと暫く睨めっこした後、僕は意を決してスマホをタップした。
「で? 久々にお前の方から連絡してきたと思えば、何で俺がこんな真夜中に呼び出されないといけない訳?」
浩介が不満そうな顔で僕に尋ねてくる。
高杉家と名倉家の丁度境に、僕と浩介は並んでヤンキー座りをしていた。
「訳はさっき電話でも話しただろ? 高橋さんと話がしたいって」
「ああ、聞いた。聞いたけどよ、それだけだ。それじゃあ、何の事がさっぱりだ。話がしたいなら話せばいいだろう?」
「いや、だから、そう簡単にいかないから、お前に相談してるんじゃないか……」
「お前ね……それ、俺に相談することか?」
浩介は呆れたと言わんばかりにジト目を向けてくる。
「ど、どういう意味だよ、それ? なんでお前に相談しちゃいけないんだ? 彼女はお前んとこのマネージャーだろ」
「ああ、そうだったね、そうでした! お前に俺の気持ちを察しろと言うのが間違ってましたよ!」
「なんだよそれ……て言うか、なんでそんなにやさぐれてんだよ?」
いつも爽やかな浩介にしては珍しい態度だ。
何かあったのかもしれない。
すると、浩介はキッとこちらを睨んできた。
「そりゃあな、練習で疲れて帰って、眠気と闘いながら、さあ、明日提出の課題をやろうって時にだよ? よく分からん事情で呼び出されれば、誰だってやさぐれもするぜ、おにいさん!」
「す、すまん……」
怒涛の如く捲し立てられて、思わず謝ってしまった。
まあ、実際、浩介に悪いことをしてしまっているわけだが。
「俺、帰っていい?」
そう言って浩介は帰る気満々で立ち上がる。
「待て待て! わるいとは思ってるから、そこを何とか! な?」
藁にも縋る思い、とはこの事だろうか。
この時の僕には、頼れるのはもう浩介しかいなかった。
浩介はそんな僕の思いを察してくれたのか、再び座り直してくれた。
「はあ……ったく、仕方ねぇな……話せよ、事情を」
渋々と言った表情ではあったけれど、浩介は僕の話を聞く気になってくれたようだ。
持つべきものは友、ならず、幼馴染と言う奴だろうか。恩に着る。
僕は浩介にこれまでの経緯を包み隠さず話した。
あまり他人に話すことが憚られる内容も、浩介には全て話した。
それが、僕の相談に乗ってくれた彼への敬意でもあると思ったから。
「なるほど。高橋と話がしたくとも、学校では会えない上、電話しても出てくれない、と。なんだよそれ? 完璧に避けられてんじゃねぇか、お前」
「う、うぐ……」
はっきりとした物言いをするのは、浩介の長所であるとは思うが、今回ばかりは、それは短所だ。
お前はもっと人を傷つけない言葉を選べるようになった方がいいと僕は思うよ。
「にしても、まさか高橋と連絡先の交換までした挙句、デートまでしてるとはねー。やるねー」
浩介はニッコリと作ったような笑顔を見せる。
だが、その目は決して笑っていない。
言葉にも感情が籠ってないし、どこか棘がある。
「な、なんだよ……?」
「いんや、お前みたいな朴念仁でもやることはやってるんだなーって、感心してたんだ」
やっぱり言葉に棘がある。
浩介の奴、何だって言うんだ……。
「なんだよ……言いたいことがあるなら、ハッキリ言えよ。お前らしくもない」
僕がそう言うと、浩介はスッと真顔になった。
「じゃあ、訊くが、お前、高橋の事、どう思ってんだ?」
「え……どうって……」
突然の質問で戸惑った。
浩介がそれをどういう意味で言っているのか、計りかねていた。
「大体、お前、高橋と話がしたいって言うけど、何を話すつもりだよ?」
「そ、それは……」
何を話せば、彼女に何を言えばいいのだろう?
彼女とは野球について教えると約束して繋がった関係だった。
それなのに、僕は彼女に野球は嫌いだと言い、あまつさえ、その約束すらも無理矢理なものだったと言ってしまった。
そんな僕が彼女に何を言えばいいのか。
謝ればいいのだろうか?
あれは全部嘘で、言葉の綾だと。
そうすれば、丸く収まるだろうか。
けれど、そんな事に一体何の意味があるのだろう。
そんな表面的な言葉だけで、何か変わるのだろうか。
「なあ、達也。お前、もう分かっているんじゃないのか? 彼女と向き合うってことは、もう一度野球と向き合うってことに。それだけじゃない。彼女がお前に何を望んでいるかも、もう分かってるんだろう?」
そうだ。浩介の言う通りだ。
彼女との関係は野球を通して出来たものだ。
だから、彼女との関係を続けようとするなら、それは避けて通れない。
そして、その行き着く先は、彼女の望むものだ。
それは、僕が、もう一度……。
「ああ……そっか……」
だから、僕は、彼女に言いたい事が見つからないんだ。
野球と向き合う事ができない僕が、彼女に掛ける言葉なんて持ち合わせているはずがない。
けど、それじゃあ、どうして僕はこんなに悩んでいるだろう。
彼女との関係は野球なしには続けられない。
それが分かっていてなお、僕はそれでも彼女と……。
「僕は……一体どうすれば……」
考えは堂々巡りを繰り返し、知らずの内にそう声を出していた。
「ったく、面倒くせぇ奴だぜ。相変わらず、お前はよ。そんな半端な気持ちのまま、彼女と話がしたい、なんてよく言ったもんだ」
「……」
返す言葉もない。
浩介の言う通り、僕の気持ちは半端なままだった。
そんな自分がどうしようもなく惨めに思えた。
「しゃーねぇなー! 答えが出たら、連絡してこい。高橋との取りなしは俺がセッティングしてやるから」
浩介は呆れ返った顔をしつつも、そんな事を言い出した。
「ど、どうして……」
浩介がこれまでの話を聞いて、どうしてそんな判断をしたのか、僕には分からなかった。
すると、浩介は頬を掻きつつ、面倒くさそうに答えた。
「あー、まあ、なんだ……幼馴染のよしみってのもあるが……正直、こっちも参ってんだわ」
「え……参ってる? なんで?」
「高橋がよ、元気ねーんだわ。俺達の前ではいつも通り笑ってるんだけどな。今日なんて、『皆集めて秋の大会に向けてミーティングしましょう』なんて事を監督やキャプテンに提案までして、野球部を盛り上げようとしている」
「それって……」
そうか……彼女、一昨日僕がアドバイスした事を実践しているのか。
「正直驚いたよ。俺達の身の回りの世話だけって思ってたのに、本当に野球部の事、考えてくれてるんだなって。けど、俺には分かるんだわ。無理してるなーって。それを見ているのが正直つれぇんだよ、俺としては。だから、早く元の彼女に戻って欲しいって本気で思ってる。けどさ、俺じゃあ、彼女を戻してやれそうにねぇ。すっげぇ、悔しいことにな!」
「こ、浩介……お前、もしかして、彼女の事……」
「はっはっはっ! やっと気づいたか、この鈍感!」
顔を引き攣らせながら笑う浩介は、少しだけ怖かった。
たぶん、本気で怒る一歩手前だ。
当たり前か。
好意を寄せている女性に関して、他の男から相談されては、誰だっていい気分がしない。
おまけに、それが自分の恋路にとって何らプラスにならないことならなおさらだ。
「いいか? 答えを出せ。お前が納得いく答えを。話はそれからだ。けど、お前が悩んでるのを永遠と待ってられるほど、俺も暇じゃない。明日中だ。明日中に答えを出せ、いいな?」
「あ、明日中って……」
それは性急すぎるってものだ。
今まで答えが出せなかった男に、そんな期限を切るなんて、無理があるだろう。
「馬鹿。こんなのはな、先延ばしにすればするほど、状況が悪化するもんなんだよ! そもそも、これはお前がいままで蒔いてきた種でもあるんだ。そのツケって奴だろ。ここいらでその辺全部、自分で清算しろ!」
そう言い残して、浩介は自分の家へと入って行ってしまった。
「……自分で清算しろ、か」
中々、堪える言葉だった。
と、同時に、思わず感嘆してしまっていた。
「アイツ、あんな大人びた事言う奴だったっけ……?」
一年前の浩介とは別人のように思えた。
人間は一年もあれば成長するということか。
どうやら、成長していなかったのは、僕だけのようだ。
答えを出せ。
そう言われてなお、僕はまだ迷路を彷徨っていた。
○
浩介と話した翌日の放課後、僕は駅前をブラブラとしていた。
あの日、彼女とデートした日、彼女は愉しそう野球の話をしていた。
けれど、その話の中で唯一表情が陰った話題があった。
彼女が野球部のマネージャーになる前、入学直後の話をした時、彼女は自分に自信がなかったと言っていた。
坂田君も中学の頃の彼女は地味で根暗だったと評していた。
そんな彼女が今のようになったのは、やっぱり野球と出会ったからだろう。
彼女は野球に魅入られて、変わったに違いない。
だからこそ、彼女は知識がなくとも野球が好きだと豪語するようになった。
そんな彼女に僕は野球が嫌いだとこの場所で言ってしまった。
この『喫茶カープ』で。
ドアを開けると、カランコロンと昔ながらの音が鳴る。
そのまま中に入ったが、相変わらず接客の基本であるはずの挨拶はない。
マスターはカウンターの中で新聞を広げて、顔を隠している。
その様子に溜息をつきつつも、僕はマスターの目の前のカウンターの席についた。
「コーヒー、ブレンドで貰える?」
注文を告げると、マスターは新聞を顔の前から下げ、ちらりとこちらを見てくる。
その途端、マスターは眉を顰め、ギロリと睨んできた。
「……テメェに出す珈琲なんぞねぇ」
「……」
喫茶店のマスターがお客に言う台詞とは到底思えない言葉だ。
マスターの機嫌が最悪なのは明白だった。
「……なにそれ? 一応、営業してるよね? ここ」
「あたりめぇだ。じゃなきゃ、閉めてる」
「じゃあ、珈琲ぐらい出せるでしょ?」
「……ほらよ」
そう言って、マスターが投げて寄こしたのは、120円ばかりの小銭だった。
「……なんのつもり?」
「そんなに珈琲が欲しいなら、それで外の自販機で買ってこい」
「……」
えっと……ここは本当に喫茶店でいいんだよな?
それとも、知らないうちにこういう塩対応を楽しむような店に変わってしまったのか?
「マスター、一体全体今日はどうしたんだよ? いくらなんでも、酷すぎない?」
「あぁん!? どうもうこうもねぇ! さっきも言っただろ! テメェに出すもんなんかねぇってな!」
どうやら、マスターは機嫌が悪いのではなく、僕に対して怒っているようだ。
「何をそんなに怒ってるのさ?」
「あ? むしろ、こっちが訊きたいぐらいだ。よくも、まあ、ノコノコとやってこれたもんだな! この間、お前が由香ちゃんに言った言葉、忘れたとは言わせんぞ!」
「う……」
マスターが怒っている理由が分かった。
マスターは無類の野球好きだ。
そんなマスターがいる所で野球が嫌いだなんて事を言ってしまえば、機嫌を損ねないわけがなかった。
「それにだ! 由香ちゃんにも酷いこと言ったみたいだしな。そんなテメェに出す珈琲なんて一ミリもあるもんか!」
「……」
そう言えば、マスターと彼女は仲が良かったんだった。
それは誰だって怒るよな……。
「……悪かったよ、マスター。本当はあんな事言うつもりじゃなかったんだ」
言いながら、僕はマスターに対して素直に頭を下げる。
「ば、馬鹿野郎! オレに頭を下げても仕方ねぇだろ!」
「う、うん……そうだよね……」
「ちゃんと由香ちゃんには、謝ったんだろうな?」
「いや……それがまだなんだ。どうも僕、彼女に避けられてるみたいで……」
「けっ! ざまぁみろってんだ! ま、お前みたいにウジウジした奴が由香ちゃんみたいな良い娘と一緒にいられるわけねぇもんな」
酷い言われようだが、そう言われるだけの事をした自覚がある分、何も言い返せない。
だから、僕は肩を落として黙っていることしかできなかった。
「な、なんだよ? 何も言い返してこねぇのかよ?」
「何か言い返して欲しかったの? マスター」
「そ、そうじゃねぇけど、調子狂うだろ?」
「そ。でも、マスターの言う通りだと思うから。やっぱり、僕なんかといたら、彼女にとっても迷惑かなって」
そう言うと、マスターは舌打ちをした後、溜息をついた。
「……珈琲、ブレンドで良かったんだよな?」
「え……そ、そうだけど……」
「ちょっと待ってろ。今、出してやる」
どういう風の吹き回しか、そう言ってマスターは立ち上がり、珈琲の準備に取り掛かった。
マスターはそれ以降何も言わず、せっせと珈琲を作っていく。
ここの珈琲は珈琲豆から挽く本格派だ。
それなりに時間は掛かるが、味は確かで、昔は僕のお気に入りだった。
暫く待っていると、白いカップに注がれたブレンド珈琲が目の前に置かれた。
「ほらよ。ご注文のブレンドだ」
マスターはそっけなく言うと、再び椅子に腰を下ろし、新聞を広げる。
僕は出された珈琲カップに口を付けた。
「……うん、やっぱりここの珈琲は美味しいね」
「ふん、たりめぇだ! 誰が入れた珈琲だと思ってんだ!」
「はは、そうだね」
新聞を顔の前で広げたままのマスターの反応に僕は少し苦笑してしまった。
それでも、確かにここの珈琲は美味しいし、僕と浩介がよく通っていた頃と味も変わっていない。
「ホント、美味しいよ。これで、店主の接客がちゃんとしてれば、もう少しお客が入るのになぁ」
「馬鹿言え。そんな事したら、うるさくて敵わんだろ。オレはな、静かに喫茶店を営みたいんだ」
「はあ……相変わらずだね。でも、お客がいないといないで困るでしょ?」
「ふん、大きなお世話だ。それにな、お前なんぞに心配されんでも常連ならちゃんといる」
「ふーん……」
そうは言うけれど、僕がここに来た時に、他のお客がいたためしがない。
本当に常連がいるのか怪しいものだ。
「それで? 今度は何を悩んでるんだ?」
「え……」
突然、マスターが新聞を広げたままそんな事を尋ねてきたから、驚いてしまった。
「ふん。テメェがここに一人で来る時は、何か悩んでいる時だって相場が決まってんだ」
「そ、そう……だったかな……?」
「そうだよ。大人をなめんな。それぐらいお見通しだ」
そんな事、意識したことはなかった。
けれど、もしかしたら、悩みを抱えていた時、知らずの内に僕はここに来ていたのかもしれない。
それにしても、一年も前の事なのに、よく覚えているものだ。
この一年間、僕の事を少しでも気に掛けてくれていたという事だろうか?
だったら、少しだけ、ほんの少しだけ、頼ってみてもいいだろうか。
いくら非常識な接客しかしないこの人でも、大人であることは変わりないのだから。
「ねえ、マスター。浩介と高橋さんって、よくここに来るんだよね?」
「ん? ああ、野球部の連中と部活帰りにな。最初はうるさくて敵わんかったが、浩介が連れてくる連中だ。どいつもこいつも無類の野球好きな奴らばかりだから、見逃してやってるよ」
それはつまり、裏を返せば、野球好きではなかったら、追い出されるということか。
なんだか、急に自分の身が心配になってきた。
「余計な心配はするな。お前は昔のよしみで追い出したりなんかしねぇ。ま、もっとも、この間のような事をまた言ったりしなけりゃだがな」
新聞を顔の前に広げて、こっちの表情すらも窺えないはずなのに、マスターは僕の気持ちを見透かしたような事を言ってくる。
大人をなめるな、か。この人には敵わないな……。
「そ、それで、浩介達って、ここでどんな話をしてるの?」
「話か? そんなの、お前と一緒に来てた頃と変わってねぇよ。野球の話ばっかだ。バッティングはどうとか、この時の守備体系はこの方がいいだとか、そんな話ばっかだよ。ま、由香ちゃんはそれを楽しそうに聞いてるだけの方が多いけどな」
楽しそうに、か。
野球の事が殆ど分からない彼女にとって、浩介達のする話は高度過ぎるだろう。
普通なら詰まらないと思う方が普通だ。
けれど、彼女にとってそれが楽しいと思えたなら、それは野球部の仲間と一緒にいる事自体が楽しかったんだろう。
それほど彼女は野球が好きだったんだ。
「じゃ、じゃあさ、浩介と高橋さんが二人で来ることってなかったの?」
「ん? ああ、あったぞ。たまにだけどな。……なんだ? お前、なんでそんな事を気にするんだ? まさか、お前……」
「そ、そんなじゃないよ! べ、別に高橋さんが浩介と一緒にいようが僕には……か、関係ない話さ」
マスターが疑うような口ぶりをしたので、慌てて否定した。
けれど、よく考えたら、慌てる必要なんてなかったんだ。
本当に僕は、浩介と高橋さんのことなんて気にしてない……はずだ。
「ほー。ま、オレから見てもあの二人はお似合いだけどな。お前と由香ちゃんじゃあ、釣り合わねぇし」
「お、大きなお世話だよ!」
まったくもって失礼だと思いながらも、その一方ではその通りだと納得していた。
顔もそこそこの野球部のエースピッチャーと校内一の美少女の取り合わせは、誰も文句言いようがない。
対して、僕は何の取り得もない帰宅部高校生だ。釣り合いなんて取れる訳がなかった。
「ね、ねえ、浩介と二人で来た時って、何を話してたの?」
「あ? さあな。流石に二人で来た時は、オレは引っ込んでたよ。邪魔しちゃ悪いしな。ま、楽しげな声だけは聞えてきてたよ」
僕の質問に対して、マスターは妙に愉しげに答えている。
まだ勘違いされていそうだが、もうこの際それはスルーすると決め込んだ。
「じゃ、じゃあさ、ここに来た時に、高橋さんが野球好きになった理由の話とか聞いたことない?」
「む……んー、ああ、あるな。確かに浩介と二人で来た時に、オレも混じってそんな話を聞かされたことが」
「え! あるの!?」
「あ、ああ……だが、なんでお前そんな事を気にするんだ?」
「え……それは……」
そうだ。
なんで僕はこんな事を気にするんだろう?
彼女が野球を好きになったのは、彼女が中学三年の夏に中学野球の試合で見たピッチャーの影響だとしか知らない。
けど、だからこそ、気になっている。
彼女に影響を与えた中学生ピッチャー、僕はそんな凄いピッチャーに一人くらいしか心当たりがなかった。
「ねえ、マスター。彼女が影響を受けたピッチャーってどこの中学だったか分かる?」
「なんだ、そこまで知ってて話を振ってたのか。さあな。由香ちゃんもそれは言ってなかったが……確か、中学三年の夏に、彼女の中学に練習試合に来た中学のピッチャーらしいから、県内の中学だろうな」
「え……練習試合……?」
「おうよ。なんだ? そこまで聞いてなかったのか?」
「う、うん……」
中学野球の試合であることは知っていたけど、練習試合だと思わなかった。
彼女が言うには、観客までいたそうだから、てっきり大きな大会か何かだと思っていたのに……。
「ね、ねえ、マスター。そう言えば、彼女の出身中学ってどこだか知ってる?」
「あん? なんだ? それも知らなかったのか……お前ら、本当に友達か?」
「う……ま、まだ知り合って間もないんだよ。仕方ないだろ……」
「ほー、知り合って間もないのに二人で買い物か。最近の高校生はその辺がよーわからんな、おじさんには」
「ほ、ほっといてよ」
そうは言ったものの、確かに僕は彼女の事をあまり知らない。
最近になって、昔の彼女はどうだったとかを他人づてに知っただけで、彼女自身からはあまり聞かされていない。
むしろ、彼女からは意図的に肝心なところをはぐらかされていたようにさえ思える。
僕は彼女の事を本当にどこまで分かっているのだろう……?
「まあ、お前らの関係性ってのは、お前らのもんだからとやかく言わねぇよ。それよりも、由香ちゃんの出身中学はもういいのか?」
「いいわけないでしょ。マスター、知ってるの?」
「ああ。確か、隣町にある三崎中だって聞いたことがあるぜ」
「三崎中……それって……」
「おう、あそこの野球部も中学ながら中々の実力があったらしいな。ま、お前らがいた北中ほどじゃなかったにしろ」
「う、うん……そう、だったね……」
マスターの言うことに同意しながらも、僕は全く別の事を考えていた。
三崎中……。
確か、僕が中学三年の夏、まだ怪我をする前に、全国大会に向けて練習試合をした中学だ。
マスターが言うように、三崎中は県内では強豪のチームだった。
だから、全国大会前に監督が練習試合を組んでくれた。
そして、僕らはその中学に出向いて行ったんだ。
あの中学が、彼女の出身校?
それじゃあ、まさか……彼女に影響を与えたピッチャーって……。
いやいや、まだそう決めつけるのは早い。
けど、そう言えば、あの練習試合、やけにギャラリーが多かった記憶がある。
確か、地区大会優勝校と県内2位の学校が対戦するって言うんで、どういうわけか話題になって、人が集まってたっけ……。
じゃあ、やっぱり彼女が見た試合って、僕達北中と三崎中の練習試合だったってことだろうか。
いや、でも、あの試合は……。
「ね、ねえ、マスター?」
「なんだ? 急に黙ったと思ったら、今度は何が訊きたい?」
「あ、いや……訊くっていうよりさ、マスターの意見が欲しんだけど……」
「当ててやろうか? お前が気にしてること」
「え……」
「由香ちゃんがその試合で見たピッチャーってのが、浩介だったんじゃないか、だろ?」
「え……どうして……?」
何故分かったのか不思議でたまらず、僕は尋ね返していた。
すると、マスターは顔の前に広げていた新聞を下し、得意げな表情をした。
「大人をなめんな。お前の考えていることぐらい、顔を見んでも分かるわ」
「……恐れ入るよ、マスターには」
ホント、僕はこの人の事を舐めすぎていた。
中学生だった頃は分からなかったけれど、この人の推察力は半端ない。
きっと些細な嘘でさえ見破られてしまうだろう。
「それで、マスターはどう思う?」
「さあ、どうだろうな。だが、彼女の言うようなピッチャーは、オレの知る限り、あの頃県内には二人しかいないな」
「それって……」
「皆まで言わせんな、馬鹿。お前と浩介以外いるか、そんな奴」
「やっぱり、か……」
自分でそう思うのは自惚れが過ぎると思っていたけど、マスターが言うならそうだと、確信できる。
けど、だからこそ、僕には分からない。
「ねえ、マスター……」
「そっから先の質問には答えんぞ。それは本人に尋ねる事だろうが」
「うん、そうだよね……」
まったくもって、マスターの言う通りだ。
ホント、大人って凄いな……。
本人に尋ねる。
そうすることが正しい。それは分かっているけれど、それを彼女に確かめるのは少し怖い気がする。
だって、もしそれが――。
そう考えそうになって、僕は頭を振った。
その恐怖から僕はいままでずっと逃げ続けてきた。
けど、いつまでもそんなんじゃいられない。
でも、怯えてしまっているのも確かだ。
ここから先に踏み出すのが怖い。
だから、その勇気が欲しかった。
「ねえ、マスター。最後に一つ訊いていい?」
「ああ、いいぜ。これで最後だ。そろそろオレもお前と問答に飽きてきたしな」
飽きたなんて憎まれ口は相変わらずだけど、この時のマスターの表情は穏やかだった。
その顔は、まるで子を見守る親のようで、安心できた。
「さっきさ、彼女が浩介とここ来た時に楽しげだったって言ってたでしょ? じゃあさ、この間の日曜、僕と話してる時の彼女は、どうだった? 浩介の時と比べて」
その質問に、マスターはすぐに答えようとしなかった。
その答えを出すのに考えている様子ではなかった。
それはまるで僕の覚悟が決まるのを待っていてくれてるようだった。
僕はマスターの顔をジッと見た。
そんな僕にマスターは鼻を鳴らして微笑んだ。
「……変わらねぇよ」
「え……」
「浩介の時と同じだ。楽しそうに話してた」
「……そっか」
その言葉を聞けただけで、なんだか嬉しかった。
「ああ、ついでにもう一つ教えておいてやる」
「え……?」
「テメェは自分で気づいてないだろうが、由香ちゃんが野球の話をしてた時、お前も同じような顔、してたぜ」
「……そっか。そうだったんだ」
いつもなら反論しただろうけど、この時の僕はマスターの言葉を素直に受け入れることができた。
僕はマスターの言葉を聞いて、自分のすべきことが分かったような気がした。
「ありがとう、マスター。珈琲、美味しかったよ」
マスターにお礼を言って、僕は椅子から降りて、立ち上がる。
「悩みは解決したのか?」
「どうだろう? でも、なんだか色々とスッキリしたよ」
「……そうかい」
僕の返事にマスターの表情は少しだけ緩んだような気がした。
それはなんだかとっても嬉しそうな表情だった。
なんだろう?
今更だけど、今日のマスターは、ちょっとだけいつもより大人に見えるし、親切だ。
「あ、そうだ。お代。いくらだっけ?」
「いらん」
「え!? いや、流石にそれはまずでしょ!?」
「いいんだ。気にするな」
「いや、でもさ」
いくらなんでも、そんな商売をしていたら、この喫茶店が潰れてしまう。
払うものは払わないと。
いくら今日のマスターが親切でも、そこまで甘えるわけにはいかない。
「あー、いや、そうじゃない。この間、釣りを返し損ねた。そっから差し引いてチャラだ」
「あ、そういうことね」
全然、親切心とかそんな事ではなかった。
取るものは取る。
この人はそう言う人だ。
何があってもそこが変わるわけはなかった。
それでも、今日のマスターは……。
「飲み終わったんなら、さっさといけ」
マスターは僕をあしらうようにそう言うと、飲み終わった珈琲カップを片付けることなく、再び新聞を顔の前で広げる。
それだけだったのに、マスターが僕の背中を押してくれているようなが気がした。
僕は、顔の見えないマスターに無言で頭を下げてから、店を出た。
喫茶店を出た僕はスマホを取り出す。
そして、まだ部活中であろう浩介にメールを打って、送信した。
○
午後6時半。
まだ薄明るい中、僕はある公園に来ていた。
段々と暗くなってくる中、公園の中は電灯がついていて、その周りだけ妙に明るい。
この公園は僕にとって馴染み深い場所だ。
昔、浩介と二人でここでキャッチボールや投球練習をやっていた。
僕達の二人だけの練習場。
昔は部活が終わってから、この場所に来て、このぐらいの時間から一時間程の二人で練習をしていた。
そんな思い出が詰まった公園だ。
と同時に、この公園は今の僕にとっては、別の意味を持つ場所にもなっている。
そんな場所に何故来ているかと言うと、昨日浩介にメールを送った後、夜になって返事が返ってきたのだが、そのメールに時間と場所が書かれていたからだ。
『明日の午後6時半頃、俺達がいつも投げ合ってた公園に来い。そこで、お前の答えを聞かせてもらう』
浩介からはそんな短い文面だけのメールが返ってきただけだった。
僕はそれに従って、約束時間に約束の場所にやってきたのだ。
辺りを見渡すが、浩介の姿はどこにも見当たらない。
約束の時間は既に過ぎているのに……。
「アイツ、忘れてるんじゃないだろうな……」
折角、覚悟を決めて来たというのに、浩介がいなければ意味がない。
本当に来るのか心配になって、携帯を鳴らしてみたが、出ることなく留守番電話サービスに繋がってしまう。
「あの野郎……」
いよいよ、来ないかもしれないという予感が現実のものになりそうで、不安が募る。
どうしようかと迷った。
けれど、浩介も今は色々と忙しい身だ。部活で遅れているだけかもしれないと思い、待つことにした。
僕は電灯の柱に寄りかかって、浩介を待ち続ける。
すると、約束の時間から十分経った頃だった。
「高杉……くん?」
「え……」
背後から唐突に名前を呼ばれた。
僕はその声に慌てて振り返った。
すると、そこには――。
「た、高橋さん!?」
そこには、強張った表情をした彼女が立っていた。
「ど、どうして……」
どうして彼女がこんな所にいるのか。
浩介を待っていたはずなのに、まさか彼女が現れるなんて……。
「た、高杉君こそ……どうしてここに?」
「ぼ、僕は浩介に呼ばれて……」
「え……わ、私も名倉君に呼ばれて……」
「……」
「……」
こ、浩介の奴め、嵌めやがったな!
浩介の企みが分かって、浩介に怒りを覚えつつも、僕は平静を保とうとした。
彼女だってこの状況に戸惑っているのだろう。不安げな表情を浮かべている。
まずは落ち着くことが先決だ。
ここで取り乱しては、余計彼女を不安にさせてしまう。
「……たぶん、浩介は来ないよ」
「え……そっか、そういうこと、なんだ……」
彼女は僕の言葉を受けて、どういう状況か理解できたのか、俯いてしまった。
「ごめんなさい!」
彼女は唐突にそう言うと、踵を返し走り出そうとした。
それを僕は――。
「待って、高橋さん!」
僕は後先考えずに逃げ出そうとする彼女の腕を掴んでいた。
「は、放して!」
「嫌だ!」
彼女は僕の手を振りほどこうと必死にもがいている。
まさか、ここまで抵抗されるとは思わなかった。
そんなに僕といるのが嫌なのかと思って一瞬躊躇いもしたが、ここで手を放してしまっては、もう二度と彼女とちゃんと話をする機会に恵まれない気がした。
だから、彼女の腕を掴む手に力を入れた。
「お願いだから、放してよ!」
「ダメだ。君がここから逃げないって約束するまで放さない! 君とちゃんと話がしたいんだ!」
僕が諦めずにそう言うと、彼女の体から力が抜けるのが分かった。
「……分かったよ。逃げないから、放してよ」
「本当に?」
「うん……」
「……分かった」
僕は彼女の言葉を信じ、腕から手を放した。
彼女は約束した通り逃げなかった。
けれど、気まずさからか、俯いてこちらを見ようとしない。
「どうして、逃げようとしたの? 電話しても出てくれなかったし……もしかして、僕、避けられてる?」
「……ごめんなさい」
ごめんさない、か。
この間から、彼女は僕に謝ってばかりだ。
僕は責めているわけじゃない。
ただ、彼女が、今、僕の事をどう思っているのか聞きたいだけだ。
「ねえ、もしかして、この間の体育館裏での事、気にしてるの?」
「……」
尋ねても彼女は何も答えなかった。
ただ、黙って俯いている。
いつも明るく振舞っていた彼女とは思えないほど、暗い表情だ。
「あの事だったら気にすることないよ。あれは君のせいなんかじゃない。それに、坂田君のお陰で、あれから先輩達から絡まれたりしてないし」
「そうじゃないの!」
「え……そうじゃ、ない?」
「う、ううん……それもあるけど、それだけじゃないの。私は……私は君を傷つけた。君の気持ちも考えないで、自分勝手に振舞って……そのせいで君に辛い思いをさせちゃった。だから……」
「それって……日曜日のこと言ってるの?」
尋ねたが、彼女からの返事はなかった。
それを僕は肯定と受け取った。
「あ、あの事だって、君は悪くないよ。あれは僕がいけなかったんだ。本当は君にあんな事言うつもりじゃなかったのに……」
「ううん。私、君からすれば話題にもしたくない野球のことばかり話して、無理をさせてたんだもん。怒るのは当たり前だよ」
「ち、違うんだ。そうじゃないんだよ!」
「え……違う……?」
そう違う。
彼女が思っているような理由で僕は怒っていたんじゃない。
もっと言うと、怒ったとも違う。
僕はあの時……。
「うん。あの時は、その……君があんまりも僕の事を凄いって言うもんだから……だから、怖くなったんだ」
「こわ、く……?」
「そう、怖くなったんだ。君の中で僕への期待が大きくなってるのが分かったから。君が僕に何を期待しているかが分かっちゃったから……」
だから、僕は自分から彼女を遠ざけようとして、野球が嫌いだなんて事を言ってしまった。
恐怖から逃げようとしたんだ。
「……訊いていいかな?」
「うん。なに?」
「どうして、期待されるのが怖いの?」
「そ、それは……」
それを彼女に話して理解してくれるだろうか?
あの恐怖は、体験した人にしか分からないものだ。
だけど、きっとそれを話さないまま、彼女と本当の意味で向き合うことなんてできない。
そう思った。
「肩を怪我する以前の僕が剛腕ピッチャーとか言われて、もてはやされていたのは知ってるよね?」
「うん……この間、マスターも言ってたね」
「そうだね。あの頃の僕はそう呼ばれるだけの自信があった。監督やチームメイトの信頼と期待を一身に背負ってマウンドに上がって、ボールを投げてた。それを怖いとか重いとか思ったことなんて一度もなかったよ」
「だったら……どうして? どうして、今は怖いの?」
「……怪我を負って、ピッチャーが続けられないって分かった時さ、ショックだったけど、それでもこれで野球が出来なくなったわけじゃないって思ってたんだ。実際、プロ野球選手の中にも学生の頃に投手から野手に転向した人なんていくらでもいたしね。自分で言うのもなんだけど、バッティングも中々だったから、僕。だから、ピッチャーが出来なくなっても、野球は続けられる。甲子園での優勝を目指すって夢は追い続けられるって思ってた。
だけどさ、ピッチャーが出来なくなったって知った周りは、僕以上に落胆してたんだ。あんなにいいピッチャーだったのに残念だってね。そして、僕を見る目が変わった。浩介や両親以外は僕を見るたびに落胆して、可哀想にって言ってるような気がしたんだ。そういう目をしていた。彼らはバッターとしての僕には期待なんてしてなかったんだ。実際、そういう声だって聞えてきた。それが堪らなく嫌だった。辛かったんだ。
期待が大きい分だけ、それに沿えなくなった時、周りの落胆は大きくなる。期待を寄せていた人達は離れていく。それを知って、その辛さを知って怖くなったんだ。期待されることも、その期待に沿えなくなった時の喪失感を味わうことも。だから、僕は野球をやめた。最初から何もしなければ、そんな辛い思いもしなくて済むって思ったから」
結局、僕は逃げ出したんだ。自分が置かれている現状から。
ピッチャーが出来なくなったから潔くグラブを捨てた?
そんなの嘘だ。
僕はただ野球から、周りから、そして、自分からすらも逃げていたにすぎない。
そんな情けない話を彼女はただ真剣な表情で黙って聞いていた。
「笑っちゃうよね? 君が凄いって思ってた奴は、いつも逃げ腰で、一度の挫折すらも乗り越えられないような奴だったんだから」
そんな風におどけて見せたが、彼女は決して笑おうとはしなかった。
彼女は僕の言葉に少しだけ辛そうな顔をして俯いた。
その表情が同情から来るものか、それとも、落胆から来るものなのか分からなかった。
それでも、彼女が僕の話を聞いて、少なからず心を痛めていることは分かった。
「……私はね、逆だったの」
「え……逆?」
それまで黙って聞いていただけの彼女が、唐突に口にした言葉に僕は戸惑った。
その言葉だけでは何を意味しているのか、僕には分からない。
彼女は顔を上げると、戸惑う僕に微笑みかけ、語りだした。
「前も話したけど、私ね、自分に自信がなかったの。中学の頃なんて、人目を気にしていつもビクビクしてたんだよ? だから、人前に出るなんてことも出来なかった」
それは坂田君から聞いた話と同じだった。
坂田君の話を聞いた時は意外過ぎて信じられなかったが、彼女本人がそう言うと説得力がある。
「驚いた?」
「ううん。この間、坂田君から似たような話、聞いてたから」
「あー、トシちゃんめ、余計な事を! 今度とっちめてやんなきゃ」
彼女は頬を膨らませ、怒ったような表情になって、坂田君への恨み節を口にする。
「それはやめてあげてよ。きっと、坂田君は君のために思って話してくれたことだから」
「うーん、そうかなー? トシちゃん、結構適当なところあるからなぁ……でも、高杉君がそう言うなら、今回は勘弁してあげますか」
彼女はそう言って、クスクスと笑った。
それは何日ぶりかに見た、彼女の笑顔だった。
けれど、すぐにその笑顔は消えた。
彼女は悲しげな微笑みを浮かべながら、続きを語りだした。
「そっか……昔の私がどんなだか、もう知ってるんだね。それだったら、話が早いや。私ね、自分が嫌いだったの。地味だし、暗いし、人前には出れないし、そんな自分が大嫌いだったの。だから、変わりたかった。自分で自分を好きになれるように。でも、どうしたらいいか分からなくて……そう思ってた時にね、あの試合を観たの」
「それって前に話してくれた、君が野球好きになったきっかけの試合のこと、だよね?」
「うん。うちの中学に他校の野球部がやってきただけの練習試合。でも、どうしてか人がいっぱい集まってた。私もその騒ぎを聞きつけた友達に誘われて、興味もないのに観に行っただけの観衆の一人だった。あ、そう言えば、練習試合って事は話してなかったよね? ごめんね、この間はプロ野球と勘違いさせちゃって……って、もしかしてこれも知ってた?」
「うん、まあ……マスターから……」
僕は彼女にはわるいと思いつつ、正直に答えた。
誰だって自分の過去をあれこれと他人に詮索されるのは良く思わない。
けれど、彼女は恥ずかしそうに苦笑いを浮かべるだけで、僕を咎めるような事はしなかった。
「そっかぁ……それじゃあ、ここから先はトシちゃんにもマスターにも話したことない話をするね」
そう前置きされて、僕は姿勢を正した。
たぶん、これから先の話は彼女にとって、自分だけの心に留めておくべきような大切な事なのだと思った。
それに、もしかすると、あの真相も分かるかもしれないと思ったから。
「あの時のピッチャーね、相手チームのピッチャーだったんだけど、そのピッチャーは大勢が見ている中で、堂々としてた。後ろを守るチームメイトからもすっごく信頼されていて、その信頼に応えるように、打者を何人も立て続けに三振に取ってた。そして、イニングが終わる度にチームメイトと笑顔で言葉を交わし合うの。その姿に私は衝撃を受けた。こんな人前で、しかもチームメイトからの期待や信頼を背負って、それでも堂々としてられるなんて、笑ってられるなんて、なんて強い人なんだろうって……。
そんなピッチャーの姿を見て、やっと私は自分がどうなりたいのか分かったの。私は、あのピッチャーのように、どんな時でも堂々としていて、笑っていられるような人間になりたいんだって。ううん、なりたいじゃなく、なろうって思ったの」
『なりたい』ではなく『なろう』、そう思って高校生になった彼女は、事実、そのなろうとした姿になった。
いまや、誰からも信頼され、好かれる校内のアイドルだ。
つまり、彼女の言った逆とは、過去の僕達と現在の僕達の事を言っているのだ。
一度は他人から期待されながらも、その期待を背負うことから逃げた僕に対して、彼女は、他人の期待から逃げる自分を嫌い、その自分を変えようと努力し、期待に沿えるような人間になった。
確かに辿ってきた道筋がまったくの逆だ。
けれど、まったくの逆のはずなのに、この時の僕は、僕と彼女は似ているような気がしていた。
けれど、それは僕の勝手な思い込みだと思ってた。
「なんだか……私達って似てると思わない?」
「え――」
彼女の言葉に僕は思わず驚いた。
僕と同じことを彼女も感じているとは思わなかったからだ。
「やっぱり、変かな? 逆だとか言っておきながら……」
「……ううん、僕もちょうどそう思ってたところだよ」
「ホント!?」
僕が同意すると彼女は嬉しそうに声を上げて微笑んだ。
僕らは似ている。昔も今も、全く逆の立場だけど、それでも、他人の目を気にし過ぎて、自分を見失った事があるという点で同じだった。
「だ、だったら、高杉君もきっとまた戻れる――ううん、変われるよ!」
「そ、そうかな……?」
「うん、きっとそうだよ! だって、私だって変われたんだもん! 君なら絶対に大丈夫だよ!」
何を根拠にと思ったが、それでも彼女の言葉には不思議と説得力があった。
「そっか……うん、そうだね。なんだか、そんな気がしてきたよ」
「うん、その意気だよ!」
彼女は僕を励ますように笑いかける。
その笑顔が僕には眩しく映った。
けれど、彼女はすぐに気まずそうに俯いてしまった。
「ど、どうしたの?」
「あ、あのね、それじゃあね、早速なんだけど、私の期待に応えてもらってもいいかな?」
「え……それって……」
一瞬、ドキリとした。彼女の言葉の意味がどういう意味か色々と考えてしまって、顔が赤くなりそうになった。
けれど、彼女が僕に寄せる期待なんてものは、決まっていたんだ。
「あ、あのね! も、もう一度、野球やってみない? 私達と一緒に」
彼女は必死な様子で問いかけてきた。
その問いかけに僕はどう答えるべきか躊躇った。
けれど、ふと彼女の手を見ると、震えていた。
その手を見て、彼女もまた怖いのだと分かった。
僕に断られてしまうかもしれないと恐れて、震えていたのだ。
その姿を見て、もう逃げてはいけないと思った。
だから、僕は――。
「うん。僕もやりたい。野球を」
だから、僕は覚悟を決めて、答えた。自分の素直な気持ちを。
その気持ちを言葉にすると、彼女は茫然とした表情になった。
「え……ほ、本当に……?」
「な、なんだよそれ? それを期待して訊いてきたんでしょ?」
「そ、そうだけど……ほ、本当の本当に野球をやるんだよね?」
「うん。どうも僕は野球から離れなさそうだしね」
「……ひ、ひっぐ」
僕が答えると、彼女は突然泣くような声を出して俯いてしまった。
「た、高橋さん!? 一体どうしたの? も、もしかして、僕、傷つけるような事言っちゃったかな? だったら、謝るから!」
慌てて彼女を宥めようとすると、彼女は首を大きく振った。
「ち、違うの! 嬉しくって……」
「え……嬉しい?」
「うん。高杉君がまた野球をやるって言ってくれて、嬉しかったの!」
彼女はそう言うと、頬を伝う涙を手で拭う。
そして、まだ涙が止まらないうちに真剣な表情を僕に向けて、あの質問をしてきた。
「高杉君、野球は好き?」
それは前にもされた質問だ。
けれど、あの時と今ではその答えは全くの逆になる。
「うん、大好きだよ!」
僕の答えを聞いて、彼女は涙を流しながらも、満面の笑顔を咲かせた。
さてはて、しかしながら、僕と彼女と野球の話はこれで終わりではない。
僕には彼女から聞いておきたいことがどうしてもある。
「と、ところで、君が見たっていうピッチャーってさ、もしかして――」
「よぉーし、そこでストップだ!」
彼女に尋ねようとすると、突然背後から大きな声が聞えてきた。
僕と彼女はその声の方へと振り返った。
「こ、浩介!?」
「な、名倉君!?」
その姿を目にした僕と彼女は、驚きながら同時に彼の名前を口にした。
「よっ! 二人とも!」
浩介は僕らの反応なんて気にする様子も見せず、軽い挨拶をしてくる。
そんな浩介に僕は突っかかっていった。
「お、お前は……今更現れてどういうつもりだよ! ここに呼び出したのはお前だろ! それを……」
「わりぃわりぃ。でも、そのおかげで高橋と二人っきりで話ができただろ?」
「そ、それは……そうだけど……だ、だからって、彼女まで騙すことはなかっただろ?」
「いやー、そうでもないさ。お前が来るって言えば、高橋は絶対に来なかっただろうし。な、そうだよな? 高橋」
「そ、それは……そう、かも……」
彼女は申し訳なさそうに浩介の指摘を肯定した。
今はもう過去の話だけど、自分がそこまで彼女に避けられていたのかと思うと、ちょっと悲しかった。
「ま、いいじゃないか、達也。お前や高橋を騙したことは謝るけど、その甲斐あって、高橋と仲直りできたし、素直に野球がやりたいって言えるようになったわけだから」
浩介は悪びれる様子なく、笑っている。
けれど、浩介の言葉を聞いた僕は笑えない。
「ちょっと待て。お前、いつからここにいたんだ?」
「あ? いつからって……最初からだけど?」
「は……?」
浩介の返事に僕は唖然としてしまった。
それは彼女も同じだった。ギョッとしたような表情をしている。
『最初から』とは、一体どこからの事を言っているのだろう……?
まさかとは思うが……。
そんな不安が過っている最中、浩介は平然と言い放ってくれた。
「達也がこの公園に来る前から、物陰に隠れてたからな」
「な、なん……だって……?」
「そ、それじゃあ、私達の会話は……」
「おう。全部聞いてたぜ」
浩介が親指を立てて、得意げな顔で爆弾発言をする。
僕はあまりの事で、開いた口が塞がらなかった。
彼女は顔を真っ赤にした後、俯いてしまった。
「お、おおお、お前は! デリカシーってものがないのか! 普通、盗み聞きなんてするか!?」
僕は動揺しつつも、浩介に非難の言葉を浴びせる。
だが、浩介はそれに不思議そうな表情を浮かべるだけだ。
「なんでだよ? 俺はただ、俺がいたら二人が話しづらいだろうって思って、親切心で出て来なかっただけなんだぜ?」
「なんでだよ! それならここに来ないのが親切心ってもんだろうが!」
「はあ!? それこそ、なんでだよ? お前や高橋を呼び出したのは俺なんだぜ? だったら、俺が来ることに何の問題があるって言うんだ!」
僕と浩介の言い分は平行線を辿る一方だ。
完全に嚙み合っていない。
「大体だな、達也が俺に相談してきたんじゃねぇか! だったら、その成り行きを知る権利が俺にもあるだろーが!」
「屁理屈言うなよ! そんなのな、後から僕や高橋さんから聞けばいい事だろ!」
「あ? じゃあ、何か? お前は、幼馴染から相談受けて、かいがいしくもそれに応えてやった俺に、後から結果だけを聞けと言うのか? お前がそんな薄情な奴だなんて、俺は知らなかったぜ!」
「は、薄情だって!? お、お前だって盗み聞きなんて悪趣味にも程があるだろう!」
「な、なんだと!? テメェ、言わせておけば……今迄、散々ウジウジして、捻くれてた朴念仁の癖に、人の事とやかく言ってんじゃねえ!」
「だ、誰が朴念仁だ! お前だって、気の利かない唐変木の癖して!」
売り言葉に買い言葉とはこの事だ。
僕らの言い合いは徐々にヒートアップしていった。
しかも途中から相手をただ罵り合うだけのものになっていた。
そんな不毛なやり取りをしている時だった。
「プッ――アハハハハッ!」
彼女が突然噴き出して笑い出した。
僕と浩介は何事かと彼女を見た後、顔を見合わせた。
けれど、浩介も何が起きたのか分からないようで、困惑した表情を浮かべている。
「ど、どうしたの? 高橋さん」
「ご、ごめんなさい! で、でも面白くって……プッ!」
彼女は笑うのを耐えながら謝りつつも、また噴き出して笑い出す。
何がそんなに面白いのか分からず、僕と浩介は再び顔を見合わせて、首を傾げた。
それから彼女はしばしの間腹を抱えて笑った後、目から涙を拭うようにして、話し出した。
「笑っちゃってごめんなさい。でも、この間マスターから聞いた通りだったから、おかしくって」
「マスターからって……それ、日曜のこと?」
「う、うん。マスターは、高杉君と名倉君はいつも競い合ってたって言ってたけど、本当だったんだなって」
競い合ってた。確かに昔の僕らは競い合い、何かにつけて言い合いをしていた。
けれど、それの何が彼女のツボに嵌ったのか、僕には分からない。
「高杉君の話を聞いた時に、もしかして、二人の関係も変わっちゃったのかなって思ってたんだけど、今の二人のやり取りを見てたら、余計な心配だったんだなって分かって安心しちゃったの。そしたら、急におかしくなっちゃって……」
彼女にそう言われて、気が付いた。
こんな風に、浩介と言い争いをしたのは、一年前の夏以来だってことを。
まだ一年前の事のはずなのに、それが随分と懐かしいものに思える。
「だ、だからって、そんなに笑うことないじゃないか?」
「それは、二人のやり取りが本当に面白くって、耐えられなかったの。ホントにごめんね」
そう言う彼女は誤魔化す様にチロッと舌を出して、微笑む。
そこには、僕と二人で話していた時の緊張や不安を抱えた表情はもうなかった。
「でも、良かった。二人もやっと元に戻れたんだね」
そう呟く彼女の口元は嬉しそうに緩んでいる。
元に戻れた……?
僕と浩介もあの頃の関係に戻れたとでも言うのだろうか……。
僕はもう一度浩介の顔を見る。
すると、浩介はおどけるように肩をすくめながら言った。
「ま、確かに、ライバル関係っていう意味では戻ったかもな」
それを聞いた僕は、浩介の意見には賛同しかねる。
「おいおい、何言ってんだよ、お前は……。僕はもうピッチャーは……」
そう無理だ。
痛めた肩は、もうピッチャーとして再起はできない。
浩介のライバルになること自体あり得ないことだ。
けれど、浩介は――、
「あ? お前、まだそんな事を言ってるのかよ?」
そんな意味の分からない事を言い出した。
「ったく、お前はどこまで鈍感なんだか……しゃーねー、ちょっと待ってろ」
そう言うと、浩介は公園の物陰の方に走っていき、そして、すぐに帰って来た。
その手には、何かが持たれている。
「ほらよ!」
浩介は手に持つそれを僕に投げて寄こす。
僕はそれを慌ててキャッチした。
「こ、これって……」
それは、野球のグラブだった。
浩介の方を見ると、既に浩介は左手にグラブをはめ、右手にはボールが握られている。
「お、おい……これはどういうつもりだよ?」
「折角、野球をやるって決めたんなら、ここで久々にキャッチボールしていこうぜ。全力投球は無理でも、キャッチボールならできるだろ?」
「あ、ああ……」
浩介が何を考えて、そんな事を言い出したのかは分からなかった。
ただ、グラブやボールを準備していたあたり、初めからこうするつもりだったようだ。
僕は浩介から距離を取って、左手にグラブをはめる。
右手を拳にして、はめたグラブに何度か打ち付ける。
自分が使っていたグラブとは違うが懐かしい感触だった。
浩介は僕の準備が整うと、ボールを投げる。
ボールはゆっくりと弧を描きながら僕に向かってくる。
それを僕はグラブに収め、キャッチした。
そして、そのボールを右手で掴む。
ボールの感触を確かめるように何度か手の中で回し、右腕を振って、浩介に投げ返す。
弧を描くボールは、中学の頃なんかよりもずっと遅く、ギリギリ浩介のもとに届いた。
投げることを拒み続けてきた右腕は、中学時代の剛腕は見る影もなく衰えていて、それが限界だった。
浩介は僕が投げたそんな不様なボールを見ても、何も言わなかった。
そのまま、僕と浩介はキャッチボールを続けた。
それを彼女は嬉しそうに微笑みながら見ていた。
キャッチボールを始めて、何度目かボールが行き交った時だった。
浩介が投げる時に、不意に口を開いた。
「お前さ、高橋の事、どう思ってるんだ?」
「え……」
尋ねられた事に驚きつつ、僕はボールをキャッチする。
キャッチしてから、彼女の方を見たら、彼女も驚いた表情をしていた。
「ど、どうって……どういうことだよ?」
僕は尋ね返しながら、浩介に返球する。
投げたボールはちょっと軌道が逸れた。
浩介はそれを難なくキャッチする。
「そんなの決まってるだろ。男子と女子なんだから、そういう意味で、だよ!」
浩介はそう言いながら、ボールをこれまでよりちょっと強めに投げ返してきた。
僕はそれを見誤らないようにキャッチする。
僕はもう一度彼女の方を見る。
すると、彼女は顔を赤らめながら俯いてしまった。
「そ、そんなの……ここで言えるわけないだろ!」
僕は気恥ずかしさから、浩介に今できるだけの力でボールを投げ返した。
けれど、浩介は苦も無くそのボールをキャッチしてしまう。
そして、今度はすぐに投げ返して来ずに、浩介は僕をじっと見据えてくる。
「な、なんだよ……?」
「言えねぇのは、俺がいるからか? それとも、本人が目の前にいて、それを口にする勇気がないからか?」
「な、なに言って……」
浩介の責め立てるような口調に僕は戸惑いを隠せない。
浩介の言う事は的を射ている。
だからこそ、この場で僕が彼女をどう思っているかなんて言葉にすることは出来ない。
けれど、浩介はそれを許そうとはしなかった。
「またそうやって自分に嘘ついて、誤魔化す気か?」
「ご、誤魔化すなんて……そんなつもりはないよ!」
嘘だ。
僕は戸惑っている。
迷っている。
だって、浩介の言う通り、僕は……。
「そうか? じゃあ、俺がこの場で俺の気持ちを高橋に伝えても、お前は文句ないよ、な!」
「お、おまっ……!」
浩介は煮え切らない僕に対して、今度は思いっきりボールを投げてきた。
ボールはこれまでのどのボールよりも速い。
僕は慌てながらも、なんとかボールをグラブに収める。
グラブに収まった瞬間、バチンと鳴って、左手が痺れた。
「高橋!」
「は、はい!」
浩介は突然彼女の名前を大声で呼んだ。
それに彼女は顔を上げ、緊張した面持ちで返事をした。
「俺は高橋を絶対に甲子園に連れていく。絶対にだ! 約束する! だから、甲子園に行くことが出来たら、俺と付き合ってくれ!」
僕がそばにいながらも、浩介は臆面もなく、そして、恥ずかしがることもなく、彼女に大声で告げた。
「な、名倉君……」
彼女は両手で口を塞ぎ、大きく目を見開いている。
そして、しばらくすると、彼女はまた顔を赤らめた。
そんな浩介と彼女の姿を見て、僕は胸を締め付けられるような思いがした。
そうして、僕は自分の気持ちに気が付いた。
だから、居ても立ってもいられなくなって――。
「ぼ、僕だって……浩介なんかに負けない!」
僕は手に持つボールを浩介目掛けて思いっきり投げる。
ギリッと一瞬右肩が痛むの感じたが、そんな事は気にしていられない。
投げたボールは浩介の顔面に向かって今までにないスピードで向かっていった。
「うおっ!」
浩介は驚いた声を上げながらも、顔の真ん前でボールをキャッチした。
「た、高橋さん!」
「は、はい!」
先程の浩介と同じように僕は大声で彼女の名前を叫ぶ。
彼女も先程と変わらない緊張した面持ちで返事を返してくれた。
もう、引き返すことはできない。
なによりも、この気持ちを止めることができない。
僕は大きく息を吸い込む。
そして、その想いを一気に吐き出した。
「僕もいつか君を甲子園に連れて行くよ! まだ、浩介の足元にも及ばないかもしれないけど、だけど、浩介なんかよりも活躍して、必ず甲子園に連れて行ってみせる! 約束するよ! だから、だから……!」
そこから先の言葉を声にすることは出来なかった。
自分の小心者ぶりに嫌気がさす。
こんな時になっても僕は前に踏み出すことにビビっている。
なんて情けないんだ。
けれど、彼女はそんな僕の思いを察してくれているみたいだ。
彼女は僕の言葉を聞いて、赤かった顔をさらに赤らめていた。
そして、恥ずかしそうに俯いてしまった。
僕も浩介もそんな彼女を固唾を飲んで見守る。
どういう返事が貰えるのか、それだけが不安で堪らない。
しばし待っていると、俯いていた彼女が顔を上げた。
その顔は若干落ち着いてはいるが、まだ赤みを帯びている。
「はあ……二人とも、仕方ないなぁ……」
そう呟いた彼女の表情は困り顔ではあったが、口元は少し緩み、微笑んでいるように見えた。
「……いいよ。もし甲子園に行けたら、二人のどっちかと付き合うよ。私で良ければ、だけどね」
その彼女の返事に僕と浩介は顔を見合わせる。
浩介は固まった表情で僕を見た後、嬉しそうな笑顔になった。
きっと僕も同じだったように思える。
けれども、それは一瞬の事で、すぐに互いの事を意識して、表情を引き締めた。
「ま、まあ、これで達也とは正式にライバル関係ってことだな」
「あ、ああ、そういう事になるな」
僕と浩介は睨み合うように視線を交わす。
その様子に彼女は慌てた様子で言ってきた。
「あ、でもでも、だからって喧嘩しちゃダメだよ? もし、喧嘩するなら、今の話はなしだからね!」
彼女は心配そうな表情で、そんな条件を付けてきた。
けれど、そんな心配は僕らに無用なものだ。
「大丈夫だよ、高橋さん」
「おうよ、俺達の夢はなんたって甲子園優勝だからな! そんな足の引っ張り合いなんてするわけがねぇ」
僕達の意見は一致していた。
もう一度野球をやると決めた時から、かつて浩介と約束した甲子園優勝という夢も僕の中でもう一度目指すべき目標になっている。
今度こそ、その夢を二人で実現させてみせる。
だから、それを妨げるような事をするはずがない。
もっとも、青蘭高校は強豪高校でもなんでもないから、甲子園に行くことさえも難しい。
けれど、浩介の言葉を借りるわけではないが、だからこそ、やり甲斐があると言うものだ。
「うん! 二人とも、これから頑張ってね!」
「うん!」
「おう!」
嬉しそうに応援する彼女に僕達は応える。
今度こそ、夢に向かって前に進もう。
この応援してくる彼女の期待に応えるためにも。
そう誓った。
「けどよ、達也はこれからどうするんだ? 野球部に入るんだよな?」
僕が心の中で誓を立てた時、浩介が思い出したように訊いてきた。
「ん……あー、それは、来年の春までやめとくよ」
「はあ!? なんで!?」
浩介が素っ頓狂な声を上げて驚く。
浩介がそうした反応をする理由は分かる。
折角、もう一度野球をやると決めたのに、野球部に入るのは先送りにするなど、理解し難い選択だろう。
「まあ、聞けよ。流石に一年間ブランクあると、僕だってきついさ。今のままじゃ、練習についていけそうにないからね。まずは自主練して、最低限のとこまで戻そうと思うんだ。少なくとも、練習についていける体力がないとダメだろ?」
「そうか? 俺には、その必要はないような気がしてならないけどな。今のお前のままでも十分だと思うが……」
道理に適った説明をしたはずだが、何が納得いかないのか、浩介は否定的な見解を示す。
それに、浩介にしては珍しく根拠のない事を言ってきている。
もしかすると、僕の意図に気づいているのかもしれない。
「いや、野球部的にもその方がいいと思うよ。こんな時期に新入部員が入ると色々と困るだろ?」
僕がそう答えると、浩介は眉を顰める。
「やっぱりそういうことか……お前、今度の大会の事を心配して言ってやがるな?」
「考えすぎだよ、浩介。今のまま、お前と同じ土俵に立たされたら、勝ち目がないからな。単なる時間稼ぎさ」
「この野郎……」
憎まれ口を叩く僕に対して、浩介は悔しげな顔で睨んでくる。
もう、浩介には僕の意図が完全にバレている。
春の選抜高校野球、その出場校を決める指標となる地方大会がもう迫ってきている。
今、野球部はその大会に向けて一丸となろうとしているところだ。
それには浩介だけじゃなく、彼女も一役買っている。
そんな時に、僕のような経験者が入れば、少なからず部員間では動揺が広がってしまう。
それは野球部としては上手くない。
だから、僕が野球部に入るのは、まだ後の方がいい。
自然な入部ができる4月がベストだろう。
「はあ……わーったよ! 仕方ねぇから、お前に意見に賛同してやる。ついでに、勝負も次の夏の大会までお預けだ」
僕の意図を理解した浩介は、溜息混じりにそんな事を言ってきた。
「いいのか?」
「ああ。じゃなきゃ、フェアじゃねぇだろ。俺は自分も含め、お前も高橋も納得した上で、高橋と付き合いたい」
「この野郎……ハッキリ言いやがって。余裕ぶってられるのも今の内だ。絶対に負けないからな」
「おう。なら、さっさっと這い上がって来いよ」
僕と浩介は互いに歩み寄って、不敵な笑みを浮かべながら睨み合う。
「こ、こらー! 喧嘩はダメって言ってるでしょ!」
バチバチと火花が上がる僕と浩介の間に彼女が声を上げて割って入って来た。
そして、彼女は僕の左手と浩介の右手を掴んで引っ張ると、それを重ね合わせる。
「これからは、私達三人で野球部を盛り上げていくだから、仲良くね!」
「う、うん」
「おう、そうだな」
再度彼女の前で仲良くすると誓わされた僕と浩介は、顔を見合わせながら笑い合った。
色々とあったけれど、僕らは笑い合えるような仲になることができた。
そういう関係に戻ることができた事に、僕は心底嬉しかった。
そんな安堵の空気に包まれた時だった。
「あ、そうだ!」
笑い合う僕らの間で、彼女が突然思い出したように声を上げた。
「どうしたの? 高橋さん」
「うん、いいことと思いついちゃって」
「いいこと?」
「うん、いいこと、だよ」
そう繰り返す彼女は、本当にいいことを思いついた時のように嬉しそうな表情だった。
けれど、僕はそれに何か嫌な予感がしていた。
「そ、それってどんなこと?」
「難しいことじゃないよ。私達、折角仲良くなれたのに、いつまでも他人行儀に苗字で呼び合ってるじゃない? だから、もっと親しげに呼び合えたらいいなって思っただけ。それに、二人とも前から私の事は名前で呼んでいいって言ってるのに、ちっとも呼んでくれないんだもん。これを機に、名前で呼び合うとかしようよ」
「おー、それはいい考えだな!」
浩介が彼女の提案にあっさりと賛同してしまった。
「う、うん、僕も構わないよ」
彼女の言い分は、別におかしな事でもなんでもない。
だから、僕も嫌な予感がしつつも賛同した。
「じゃあ、二人とも、これからは私の事、由香って呼んでね?」
「おう、分かったぜ、由香!」
ここでも浩介はあっさりと彼女の名前を口にする。
それに彼女は嬉しそうに微笑み、そして、期待に満ちた目を僕へと向ける。
「う……」
僕は気恥ずかしさのあまり、すぐに言葉にできなかった。
この時ばかりは、浩介の豪胆さを羨ましく思った。
「ほら、高杉君も」
彼女は僕にも呼ぶように促してくる。
「わ、分かったよ……ゆ、由香」
僕は渋々彼女の名前を口にする。
すると、彼女はまた嬉しそうに満面の笑みを見せた。
恥ずかしかった。さっき彼女に想い告げた時よりも、ずっと緊張してしまった。
そんな思いをしている事に彼女は気づく気配もなく、話を続けた。
「それじゃあ、私は二人をなんて呼んだらいいかな?」
彼女が僕と浩介にそう尋ねると、浩介が答えた。
「ん? それは由香が呼びやすいように呼んでいいんじゃないか?」
「え! ホント!?」
「ああ、それでいいよな? 達也」
「え!? あ、ああ……うん、そう、だね……」
僕は戸惑いつつも浩介の賛同してしまった。
それがいけなかった。
「そっかー、それじゃあ、なんて呼ぼうかなぁ……」
彼女は何故かそんな事を呟きながら悩みだした。
そして、しばらくすると、閃いたと言わんばかりに表情を明るくした。
「よし、決めた! じゃあね、名倉君はコウちゃん、高杉君はタッちゃんって呼ぶね!」
「え!?」
彼女の言葉を聞いて、僕は驚きのあまり声を上げてしまった。
タッちゃん……。
それじゃあ、まるで本当にあの漫画の……。
これはいくらなんでも……。
「え……ダメ、かな……?」
彼女は僕の反応に不安げな表情を向けてくる。
「い、いや、俺は全然問題ないけどよ……」
浩介はそう言うと、僕をちらりと見てくる。
「良かった。高杉君は?」
「あ、いや……それは……」
「やっぱり、ダメ?」
「あ……う……」
申し訳なさげに上目遣いで彼女が見てくる。
それに僕は嫌だとすぐに告げる事ができなかった。
浩介はそんな僕を見ながら、クスクスと笑っていた。
その浩介の様子に彼女も気づき、小首を傾げた。
「あれ? コウちゃん、どうしたの?」
「い、いや……達也の反応が面白くって……。由香、お前、狙ってやってるのか?」
よっぼど僕の反応が滑稽だったのか、浩介はそう彼女に尋ねている時でさえ笑っていた。
けれども、彼女は訳が分からないとでも言いたげな表情をしているばかりだ。
「そっかそっか、知らないでやってたのか! まあ、そうだよな!」
浩介はそんな彼女の反応を見て、さらに笑っていた。
浩介の奴、こっちがこんなに困ってるのに完全に楽しんでやがる。
「えっと……どういうこと?」
「ん? あ、ああ、コイツの名前な――」
「ば、馬鹿、浩介! それ以上先はお前でも許さないぞ!」
浩介が口を滑らせそうになったので、慌てて止めに入った。
「いいじゃねぇか、この際。知ってもらっておくことも必要だと思うがなぁ」
「馬鹿言え! お前は、ただ面白がってるだけだろ!」
第一、そんなにやけ面で何を言われても信じられるか!
「ええっと……つまり、タッちゃんは、ダメ?」
「うぅ……ダメじゃ、ないけど……」
再度、彼女に悲しげに尋ねられて、僕はその表情に押し負けてしまった。
「ホント!? ホントにタッちゃんって呼んでいいの?」
「……うん」
「わぁ! よかったぁ!」
僕の返事を聞いた彼女は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔があんまりも嬉しそうだったので、僕はもう嫌とは言えなかった。
「よし、ひとまず話は纏まったし、もう遅いから、そろそろ帰ろうぜ」
僕が頭を抱える中、浩介がこの話題を打ち切るように告げた。
公園にある時計を見れば、もうすぐ八時を回ろうとしていた。
随分と長く話していたようだ。
「うん、そうだね。すっかり遅くなっちゃったもんね。二人とも、もちろん家まで送ってくれるよね?」
「おう、当然だろ」
「夜道を女の子だけ歩かせるわけにはいかないからね」
僕も浩介も当然の如くそう言うと、彼女の両脇に並んで、歩き出した。
「あ、そう言えば!」
歩き出すと、突然彼女がまた思い出したように声を上げた。
「タッちゃん、コウちゃんが出てくる前に私に何か尋ねようとしてなかった?」
「え……ああ、うん、そう言えばそうだったね……」
そうだった。
彼女が中学生の時に見たピッチャーが誰なのか聞こうとしていたんだ。
今や、それが誰なのかなんて、もうどうでもいいかもしれないけど、それでも気にはなることだ。
「あれって、なんだったの?」
「う、うん……由香が中学に見た時のピッチャーって、結局誰だったのかなって……」
「おう、それ、俺も気になってたんだ。どう考えても、その練習試合、俺達がいた北中と三崎中の練習試合だろ? つーことは、その時のピッチャーは、俺か達也のどっちかってことだろ?」
そう、僕と浩介のどっちかだ。
あの試合は、前半は浩介が投げて、後半は僕が投げた。
だから、彼女が見たピッチャーは僕か浩介のどちらかなのだ。
果たしてどっちだったのか……。
「えへへ……やっぱり二人にはバレてたんだね……」
彼女は恥ずかしそうに笑いながら、僕達より一歩前に踏み出して、振り向いた。
僕はその瞬間、息を飲んだ。
ずっと疑問に思っていたことが、つい分かると思って緊張した。
けれど、彼女は人差し指を口元にそえて、
「それは……内緒だよ!」
愉しげにそう言った。
「ちょっと待て! それはないだろ!」
「そうだよ! 教えてよ!」
「えー、どうしよっかなー?」
僕と浩介は彼女に迫ったが、彼女は愉しげに笑うだけで、決して話そうとはしなかった。
その時の彼女の天真爛漫な笑顔は、本当に綺麗だった。
そんな君の笑顔を、僕はずっと見ていたいと思った。
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