第4話「彼女にさえ関わらなければ……」

 彼女とのデートの翌日、いつもと変わらない時間に登校したが、坂の下には彼女はいなかった。

 昨日、あのまま別れてからメールも何もなかったから、そういうことなのだろう。

 当然の結果だと思った。


 人は自分にとって都合の良い存在には、勝手に近づいてきて、過度な期待を寄せる。

 そして、それが期待にそえないと分かると手の平を返したように離れていく。

 一年前、嫌と言うほど経験したことだ。

 彼女もその例に漏れなかった。

 それだけの話だ。


 だから、彼女との関係もこれで終わり。

 そう思い込めば、少しは気が楽になる。

 けれど、坂を上る足取りは、酷く重たかった。


 憂鬱な気分なまま、坂を上り終えると、僕はそのまま正門を潜ろうとした。

 けれど、それはできなかった。

 三人組の柄の悪そうな男子生徒達が僕の行く手を阻むように目の前に立っている。

 三人が一様に憮然とした表情で僕を睨んでいる。

 三人とも見知らぬ顔だった。

 少なくとも僕の知り合いではない。


「……何か用ですか?」


 嫌な予感はしていたが、それでも無視できる状況でもなさそうだと思い、そう尋ねた。


「高杉達也、だな?」


「そ、そうだけど……」


「面、貸せや」


 三人の内一人が、そんな恐ろしい言葉を口にして、他の二人が僕の両脇を固める。

 逃げ場などなかった。

 彼らに従って、連れていかれるしかなかった。

 その様を登校してくる生徒が奇異な目で見てきたが、誰も助けてくれる素振りは見せなかった。

 ここでも僕は人間の汚い部分を見せられたような気がした。

 結局は皆、自分が一番かわいいのだ。

 お門違いと知りながらも、そんな彼らには怒りさえ覚えた。


 連れてこられた場所は、定番と言っていい体育館裏だった。


 さて、何故、僕がこんな目に合わなければならないのか?

 そもそも、彼らはどうしてこんな事をするのか?


 そんな疑問だけが湧いてくる。

 けれども、分かっていることもあった。

 それは、これから僕がどうなるかだ。

 体育館裏に連れて来られると、両脇を固めていた二人は僕を自由にした。


「こんな所に連れてきて、どうする気? 僕が君達に何かしたかな? 少なくとも、僕は君達を知らないんだけど」


 そんな強気な口調で僕は彼らと対峙した。

 もう、何をやっても結果は変わらないのだ。

 だったら、下手に出るだけ損ってものだ。

 そんなやけくそ気味な考えだった。


「テメェ、調子に乗ってんじゃねぇぞ! こらぁ!」


 僕の態度が気に入らなかったのか、彼らの一人が怒声と共に僕の胸ぐらを掴んでくる。


「調子って……一体何のことさ?」


「何のことだと……とぼけんじゃねぇ!」


「と、とぼけてなんか――」


 言い返そうとした時には、遅かった。

 顔面に強い衝撃が走ったかと思うと、僕の視界は暗転していた。

 すぐに視界は戻ったけど、それでも世界はぐるぐると回っていた。

 あと、右頬あたりに強い痛みを感じた。

 どうやら、僕は殴られてしまったらしい。


「あ……ぐ……、ど、う、し、て……?」


 どうして……どうして僕はこんな目に合っているのだろう?

 その理由に全く心当たりがない僕は、どうして、としか思えなかった。

 けれど、その答えを彼らはすぐに与えてくれた。


「いい気味だ。中学の時にちょっとちやほやされたからって、調子こくからこうなるんだ」

「これに懲りたら、二度と由香ちゃんに近づくじゃねぇぞ! 分かったな、このストーカー野郎が!」

「次、由香ちゃんに何かしたら、これくらいじゃすませねぇからな!」


 次々と浴びせられる悪意ある言葉の数々。

 それを聞いて、僕が殴られた理由がはっきりした。

 つまりは、彼らは、高橋由香の熱狂的なファンだ。

 そんな彼らは僕が彼女にちょっかいを出していると勘違いしているのだ。

 まったくもって誤解な上、事実は全くの逆なのだが、それを彼らに言ったところで信じてもらえないのだろう。

 非常に迷惑な話だ。


「なんだ、その目は? なに睨んでんだ、あぁん!」


 僕を殴った男は倒れている僕に怒鳴りながら迫ってくる。

 訂正しておくと、決して睨んでいたわけではなく、殴った奴の顔を覚えておこうと、ただ見ていただけだ。

 けれども、殴られた影響でどうも視界がおかしくて、目を細めたりとかしていたから、睨んでいるように見えたのかもしれない。

 けれども、僕のとった行動はこの場合最悪だったのかもしれない。

 どうも、彼の怒りをさらに買ってしまったらしい。

 彼は僕の胸ぐらを再度つかんで、無理やり立ち上がらせた。


「もう一発……いや、そんな反抗的な目ができなくなるまで殴られねーと分からねぇみてぇだな?」


 彼はそんな物騒なことを言って、拳を振り上げる。


 冗談じゃない。

 たった一発で目を回しているのに、もう何発ももらったら、意識が飛びかねない。

 けれど、既に目を回している僕に、抵抗する力なんてなかった。


 もう一発、さっきと同じところ殴られた。

 気づいた時には僕は地面に突っ伏していた。

 起き上がろうとした時、そこに彼が馬乗りになってきた。

 それで僕は抵抗することすらも諦めた。

 そうなると、もう彼のなすがままだ。

 僕に馬乗りなった彼は、躊躇いなく、拳を振り下ろして――。


「ぎゃ!」


 誰かの呻き声が聞えた。

 いや、それ以前に、歪んだ視界に何か人の足ようなものが飛び込んできて、それが馬乗りになっている彼に当たって、それから彼は……彼はどうなった?


 気づけば、その彼の姿は、視界から消えていた。

 彼の姿を探そうと、上半身だけ起こすと、その彼が目の前で鼻血を流して倒れていた。

 そんな彼を仲間の二人は茫然と眺めている。


「あーあ、鼻血なんか出しちゃってかわいそーに」


 突然、背後からの軽薄そうな声が聞えてきた。

 その声に振り向くと、そこには意外な人物が立っていた。


「さ、坂田君!?」


「よお、高杉ぃ!」


 クラスメイトの坂田敏雄がいつものように馴れ馴れしく挨拶をしてくる。


「な、なんで……」


 どうして坂田君がこんな所にいるのか、それを尋ねようしたけれど、事態はそんな状況ではなかった。


「て、てめぇ、なにしやがんだ!」


 先程まで仲間がやられたことに我を失っていた男子生徒の一人が、声を荒げる。

 もう一人は、鼻血を流して倒れている彼を抱き起そうとしている。


「なにって……見てなかったんですか、先輩? コイツに馬乗りなってた今は無残にも鼻血を流して倒れている先輩の顔面に蹴りをお見舞いしたんですけど?」


「そんなことを訊いてじゃねぇ! 何のつもりだって言ってんだ!」


「何のつもりって、そりゃあ、先輩、あれですよ。クラスメイトが酷い目にあってたら助けたくなるもんでしょう? 人として」


「て、てめぇ……」


 坂田君はへらへらと笑いながら答えていた。

 それは明らかに相手を挑発した態度だった。

 だから、言われた相手は当然怒っている。


 本当ならば、これから起きるであろうことに心配らなければいけなのだが、この時の僕は坂田君が言った言葉を聞いて、間抜けにも、「こいつ等先輩だったのか」なんて事をぼんやり考えていた。


 この後起きたことは、あまり語りたくない。

 何故って? それは、見るも語るも無残なものだったからだ。

 坂田君は先輩二人に囲まれてボコボコに――なんてことにはならず、逆に先輩達が坂田君にボコボコにされていた。

 正直言って、坂田君は強すぎた。先輩二人程度ではまるで相手にならない。

 二人を相手に坂田君は一方的に殴って、これでもかと痛めつけていた。

 最後には先輩達が泣いて謝りだす始末だ。

 そんな彼らに、坂田君は満面の笑顔を作って、


「ま、謝ってくれるなら、これ以上はしませんけどね。でも、先輩? もし、また高杉にちょっかい出すような事あったら、こんな怪我程度じゃ済みませんからね?」


 そんな恐ろしげで、ごく最近どこかで耳にしたようなセリフを口にした。

 それで先輩達の心を完璧に折れた。

 坂田君の忠告を耳にした二人の先輩は、悲鳴をあげて、倒れている一人を担いで逃げて行った。


「うーわ! 見たかよ、高杉? あいつ等のあの怯えっぷり。いい気味だぜ!」


 逃げていく先輩達を見ながら、坂田君はそう言って子供のように笑っていた。


「あ、ありがとう、坂田君。助けてくれて……」


「あいよ、困った時はお互いさまってな。ま、ちょっとばかし助けるのが遅かったようだけどねぇ。顔、大丈夫?」


 坂田君はまだ立ち上がれない僕のためにしゃがんで顔の傷の具合を診てくれる。


「う、うん……ひりひりするのと、頭がクラクラするぐらいだよ」


「あちゃー、そりゃあ、ちょっとヤバイな。保健室まで連れて行こうか?」


「あー……それは有難いけど、お断りしておくよ。この顔見られて、先生に事情を聴かれた時にどう答えればいいのか分からないから」


「んなの、上級生に問答無用で殴られたっていえばいいじゃねーの?」


「あのね……そんな事言ったら、色々と問題になるだろう? 僕は何事も波風立てたくない主義なの」


「ああ、そういうこと。そりゃまた、難儀な生き方だねぇ」


 坂田君は苦笑する。

 どの辺が難儀なのか教えてもらいたいところだけど、今はそれも億劫だ。


「それにしても、君、強いんだね?」


「ま、ね。これでも中学まで空手やってたからね。素人なんかには負けません!」


 坂田君は自慢げにえっへんと胸を張る。

 その様子がちょっとおかしくて笑ってしまった。


「あたた……」


 笑ったついでに頬が痛んだ。


「おいおい、まだ安静してた方がいいぞ?」


「あ、うん、でも大丈夫だよ、もう」


「そっか? しっかし、お前はとんだとばっちりだよな? 勘違いされた挙句、殴られるたぁ」


「……うん」


 まったくだ。

 それもこれも、彼女に関わってしまったからだ。

 彼女と関わりさえしなければ、こんな事にはならなかった。


「お前、いま高橋にさえ関わらなければこんな事にならなのかったのにー、とか思ってるだろ?」


「え!?」


 坂田君に心の声を言い当てられて、僕は取り繕うこともできず、驚いてしまった。


「図星か……まあ、お前の気持ちも分からなくもないよ。オレもお前と同じ立場ならそう考えると思うよ。けどよ――」


「高杉君!」


 坂田君が何かを言いかけた時、僕の名前を呼ぶ声が聞えてきた。

 僕と坂田君はその声が聞えてきた方を一斉に振り向いた。

 そこには、彼女がいた。


「げっ! ゆ、由香ぁ!?」


 現れた彼女に、坂田君は何故か悪さをしているところを先生に目撃されてしまったような、そんな慌てた時のような声を出した。


「……ト、トシちゃん?」


 坂田君の声に彼の存在に気づいた彼女は、彼を見て、不思議な言葉を呟く。


「由香? トシちゃん?」


 彼女と坂田君、その顔を交互に見た。

 彼女は状況が理解出来ていないのか、茫然としている。

 対して、坂田君は気まずそうな表情を浮かべている。

 そんな二人に挟まれて、僕はこの状況が何か凄くまずいよう気がしてきた。


 一時の空白の時間、それは彼女が我に返ったことで終わった。

 彼女は僕に視線を移してくる。


「た、高杉君、その怪我!」


 彼女は僕の顔を見るなり、僕のところに駆け寄ってきた。


「顔、赤く腫れて……だ、大丈夫?」


 彼女はその細い指で、僕の頬に触れてこようとする。

 僕は身を引いてそれを拒んだ。


「あ、ああ、うん……だ、大丈夫だよ、これぐらい……」


 気まずさから、極力を目合わさず答える。

 すると、彼女は頬に触れようとした手を引いて、俯いた。


「……トシちゃん、これはどういうこと?」


 トシちゃん。

 おそらく、それは坂田君のことを指しているのだろう。

 彼女は俯いたまま、暗い声で彼に尋ねた。

 それに対して、坂田君は非常に困った様子だった。


「こ、これはその……いやいや、それ以前になんでお前がここに?」


「私は……高杉君が男子生徒に体育館裏に連れていかれたって友達に聞いて、それで心配なって来たの。そしたら……」


 僕と坂田君がいたというわけだ。

 しかも、僕に至っては顔に殴られた跡がある。

 となると、この状況、ちょっとまずい方向に傾いているのかもしれない。


「答えて、トシちゃん。ここで何があったの?」


 彼女はもう一度坂田君に尋ねる。

 今度は顔を上げて、彼をまっすぐ見て。

 案の定、彼女の表情は強張っていた。

 その目は彼を睨んでいるようでさえあった。


「い、いや、だから、これは……」


 そんな彼女の様子に坂田君はしどろもどろになってしまっている。


「ちゃんと答えて! 答えによっては、いくらトシちゃんでも許さないよ!」


 彼女は語気を強くして坂田君に迫る。

 けれども、それは逆効果でしかない。

 それでは、答える側も委縮してしまう。

 それは僕の知らない彼女の一面だった。

 彼女がこれほど感情を露わにして、他人に対して激情をぶつけるなんて、意外だった。


「ち、違うんだよ、高橋さん! 彼は僕を助けてくれたんだ!」


 僕は彼女や坂田君の様子に見かねて、後先考えず、そう口にしてしまっていた。


「え……たす、けて……?」


 僕の言葉に彼女の強張っていた表情が薄れていく。

 けれど、坂田君はそれを聞いて、天を仰いでいた。


「どういうこと?」


 今度は落ち着いた様子で彼女は真っ直ぐ坂田君を見据えて尋ねた。

 その様子に坂田君は諦めたように肩を落とした。


「あーあ……わーったよ、言うよ。けどなー、あんまショック受けるなよ?」


 そう前置きして、坂田君は事の真相を彼女に語って聞かせた。

 僕が三人組の先輩に勘違いされた挙句、因縁をつけられ、殴られたこと。

 その原因が、ここ数日の僕と彼女との交流であったこと。

 そして、殴られていた僕を見かねて、坂田君が助けに入ったこと。

 それらを包み隠さず、彼は喋った。

 そして、最後に彼は付け加えるように、ある事に触れた。


「まー、引き金になったのは、昨日、お前らが一緒に街を歩いているのを目撃されたってのが、一番だよな。それが、お前に好意を抱いている奴らにとっちゃあ、面白くなかったんでしょーよ」


 坂田君の話を彼女は黙って聞いていた。

 そして、彼が話し終わると、俯いてしまった。

 この時になって、坂田君が何故彼女の問い詰めに答えあぐねていたのか分かった。

 彼は、この事実を彼女に告げると、彼女が傷つくと分かっていたのだ。

 それを僕が馬鹿正直に「助けてくれた」なんて言ってしまったから……。


「そっか……そういうことだったんだね……」


 抑揚なく彼女はそう呟く。

 その言葉からでは、彼女がいまどんな心境にあるのか、測り知ることはできなかった。


「あ、あの、高橋さん……?」


 声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせた。

 そして、僕の方へと振り返って、顔を上げた。


「――」


 その顔を見て、僕は衝撃を受けた。

 彼女は瞳を潤ませ、今に泣き出しそうな顔をしていた。


「ごめんね、高杉君。私のせいで……」


「い、いや、これは、君のせいなんかじゃ……」


「ううん、全部私のせいだよ。高杉君や周りの人の気持ちも考えずに、自分勝手なことをした私のせい。そのせいで、君を傷つけた。昨日も、今日も……全部、私が悪いんだよ」


 そう口にする彼女は今にも泣きだしてしまいそうなところをぐっと我慢していた。

 そして――。


「ごめんなさい!」


 その言葉を告げて、彼女は走っていってしまった。


 彼女を呼び止めることはしなかった。

 僕にはそれが出来なかった。

 呼び止めたところで、どんな言葉を彼女に掛けるべきか分からなかったから。

 だから、泣いているのが分かっていても、走っていく彼女の後ろ姿をただ見送ることしかできなかった。


 校舎裏には、僕と坂田君とだけが取り残されてしまった。


「あちゃー、ありゃあ、ちょっとまずいな……」


 坂田君は頭を掻きながら、困り顔でそう口にする。


「……ごめん。僕のせいだ。僕が余計な事を言ったから……」


「んなことねぇよ。高杉は何も悪い事なんてしてないだろ。それに由香が高杉に迷惑かけていたのも本当のことだ。あいつもそれを知っておくべきだったんだよ」


「……うん」


 果たして本当にそうだろうか?

 少なくとも、あのまま黙っていれば、彼女をあんな風に泣くほど傷つけることもなかったように思う。


「彼女……大丈夫かな?」


「あのねー、お前が由香の心配しても仕方ないでしょ? まー、アイツもこれで自分の今の立場ってもんが分かったんじゃないの」


「そうかもしれないけど……。それにしても、君は随分と彼女と親しいみたいだね?」


「……まあ、ね」


 坂田君は曖昧な返事と共に、気まずそうに僕から視線をそらす。


「もしかして、坂田君って、高橋さんの……?」


「ばっ……そ、そんなんじゃねーよ!」


 僕の勘ぐりに坂田君は慌てて否定した。

 けれど、その反応では余計に怪しくなってしまう。


「じゃあ、何のさ? さっき彼女に親しげに呼ばれてたでしょ? トシちゃんって。君も彼女の下の名前を呼び捨てしてただろ?」


「う、うぐ……お、お前、殴られてフラフラな癖に、よくそんな余裕が……」


「あんなに連呼されれば、どんな状況でも気にもなるさ。で、どうなの?」


「おう……まあ、アイツとオレは、家が近所でな。ガキの頃からの腐れ縁だ。所謂、幼馴染って奴だよ」


「幼馴染……」


「ああ。つっても、アイツとはそれだけだ。こうやって周りに関係を勘ぐられたくなくて、黙ってたけどね」


「そっか。そうだったんだ……」


 なんとなく、その気持ちは分かる。

 僕も元ピッチャーだった事は、あまり周りに知られたくない。

 ピッチャーであった頃に周りから持ち上げられていただけに特にだ。

 彼女があれだけ校内で有名だから、彼もそれに似た気持ちがあるに違いない。


 そんな事を考えていると、坂田君は僕をじっと見つめてきた。


「な、なに?」


「……いや、高杉って変わってるなって思って」


「……なにそれ?」


「いや、気にすんな。それよりも、一限にはもう間に合ないし、何処かで怪我の手当てでもしながら、時間潰さね?」


「あ、ああ……うん、そうだね」


 僕は坂田君が何を言いたかったのかよく分からないまま、彼の提案に乗った。


            ○


 教師に見つからないように学校を出て、近くのドラッグストアで消毒液や絆創膏を買うと、僕らはまた体育館裏に戻って来た。

 僕は顔の手当てを坂田君にしてもらいながら、彼からどうしても聞いてみたいことがあったので尋ねてみた。


「ねえ、高橋さんと幼馴染ってことは、中学も同じだったんだよね?」


「ああ、もちろん。それが?」


「いや……彼女って昔からあんな風だったのかなって……」


「あ、あー、うん……そうだなぁ……」


 僕の疑問に対して、坂田君は何故か歯切れの悪い返事をする。


「えっと……違った?」


「いや……空気読めねぇってのは変わってないな。今も昔も、思い込んだら、突っ走る奴だったよ」


「ああ……やっぱり、そうなんだ……」


 彼女と知り合ってからまだ間もないが、なんとなく彼女がそういうタイプであることは理解していた。


「けどなー、今みたいに全校の男子からモテるような奴じゃなかったよ」


「え……うそぉ!?」


 坂田君の思いもよらない言葉に、つい疑うように声を上げてしまった。


「嘘じゃねぇよ。アイツ、昔は眼鏡でおさげで、地味でよ。そんで、いっつも本ばっかり読んでいるような根暗で、おまけに人前に出るといつもビクビクしてた。その癖、寂しがり屋、そんな奴だったんだぜ?」


「……だ、誰だよ、それ」


「ま、そう思うよな、普通。けど、ホントなんだよなー、これが」


 そう言って、わははと坂田君は笑う。

 彼が嘘を言っているように思えない。

 だとしても、今の彼女からでは想像できない。

 あの誰からも好かれている彼女が、地味で根暗で、人前に出ることも苦手だなんて、思えるはずがない。


「で、まあ、昔からそんなんだったから、アイツの親が、何か変わればと思って空手を習わせ始めてよ。空手道場に通うようになったんだ」


「それって、坂田君も通ってたの?」


「そのとーり。ま、オレとアイツが同じ道場に通うようになったのは偶々だったけどねー」


「そっか。それで? 道場に通うようになって彼女も今のように変わったってわけ?」


「いんや、結局なんにも変わんなかった。あー、いや、変わったことはあったか。空手がすげぇ強くなった。オレよりも」


「……」


 か、空手六段は、ホラではなかったのか……。

 でも、坂田君よりも強いなんて、ちょっと想像できない。


「アイツ、根暗だったくせに、頭良くて、運動神経もよかったんだよなぁ……天は二物を与えずって言うけど、ありゃあ、二物持ちだ、きっと。こっちとしてはやってらんねーって感じだぜ。いつも女のアイツに負けてたんだから」


「そ、それはご愁傷様……」


「まったくだ。ま、けど、アイツにとって、それが良かったかどうかは考えもんだな。根暗で人前に出るのが苦手なくせに、無駄に強くなっちまったから、公式戦に出場させられそうになって、途中で道場に来なくなったりしたし。そのせいでオレにしわ寄せは来るし、あの頃は大変だったよ……」


 なんだか途中から坂田君の高橋さん関係での苦労話なってきている。

 けれども、やっぱりどう聞いても、彼の話に出てくる彼女と、今の彼女とでは結びつかない。


「な、なんだか、彼女のイメージがどんどん崩れていくな……」


「お、だったらアイツの名誉のためにも、今と変わらないところも話しておこう。

 空手を習って強くなってもアイツは、地味で根暗なままだったけど、自分に敵意を向けてくる相手には容赦なしなんだよ。周りに誰がいようが、その瞬間だけは強気になる。すげぇだろ? つーか、ショックだろ?」


「あ、ああ……うん、そうだね……」


 僕は苦笑いを浮かべて、彼に同意した。

 昨日の事がなければ、確かにショックを受けていただろうけど、あんな彼女を見せられた後では、彼の言っていることが全て真実であると受け入れられてしまう。

 と言うか、それ、何も名誉守れてないよ、坂田君……。

 けれど、ここまでの彼の話が本当だとして、それでは、今の彼女は一体何なのだろう……?

 その疑念が強くなった時、坂田君それまで笑いながら話していたのに、表情を一変させて、真面目な顔になった。


「けどよ、そんな地味で根暗な奴がよ、中学三年の夏に変わったんだ」


「え……?」


 中学三年の夏……? それって……。


「何があったかは知らねぇが、野球の試合を観て、感化されたらくしてよ。それからのアイツはそれまでとは打って変わって、活き活きして、明るくなった」


 やっぱり、そうだったのか。

 その試合、きっと昨日彼女が話してくれたものだ。

 あの話に出てきた名前の分からないピッチャーが、きっと彼女を変えたんだ。

 彼女を野球好きにしただけではなく、彼女の性格すらも変えてしまうピッチャー。

 僕はそのピッチャーがどんな人物だったのか、余計気になってきた。


「ねえ、その試合って、何処と何処の球団がやった試合か知らない?」


「は? 球団? 何言ってんだよ?」


「え……その試合ってプロ野球の試合だったんでしょ?」


「違う違う。オレが聞いたのは、中学野球の試合だったはず」


「え……」


 ちゅ、中学野球……? そんな馬鹿な……。

 中学野球なんかに、そんな凄いピッチャーなんているはずない。

 だけど……。


「ね、ねえ、その試合って――」


「あー、いけね! これは誰にも言うなってアイツに釘さされての忘れたわー。やっべー!」


 試合についての詳細を尋ねようとした時、坂田君は思い出しように声を上げた。


「そういうわけだから、高杉、この話はここまでな。アイツにもオレが話したって言うなよ?」


「あ、ああ……うん……」


 彼の言葉に、僕は現実を思い出し、心は一気に塞いでしまった。

 僕が彼女にここでした話をすることはありえない。

 だって、もう彼女とは話をすることすらできないかもしれないのだから。


「んだよ、なに突然暗くなってんだー、高杉?」


「あ、いや、別に……」


「あ、さては、もう由香の奴と話すこともないかー、とか思って落ち込んでたんだろ?」


「あ、う……」


「図星か! お前、わっかりやすいなー!」


「う、うるさいな!」


 そう叫んでも、坂田君はケラケラと面白そうに笑っていた。

 この男は、どうしてこうも僕が考えていることを見透かしてくるのか。

 正直言って、やりづらくて敵わない。

 やっぱり、彼は苦手だ。


「けどよ、それって、また由香と話をしたいってことだよな?」


「う、い、いや、それは……」


「誤魔化すな誤魔化すな。その反応を見りゃあ分かるよ。ホント、高杉は分かりやす過ぎぃ」


「……」


 彼の発言にちょっとだけ腹が立ったので、僕は彼を睨みつけた。

 すると、笑っていた坂田君は不意にまた真面目な顔をした。


「わるいわるい。茶化してるつもりはなかったんだ。ただ、ちょっと嬉しくって」


「う、嬉しい?」


「ああ。だって、それはアイツとまだ関わるつもりがあるってことだろ?」


「う……ま、まあ、そうだね」


「だから、嬉しいんだ。アイツはさ、確かに昔とは比べ物ならないほど変わったよ。けど、根は昔と一緒なんだと思うんだ。人前が苦手なところとか、寂しがり屋なところとか、な。だから、アイツが自分から積極的に関わろうとしたお前との仲がこれっきりにならなくて良かったって思ったのさ」


「け、けど、僕は……」


 僕は彼女を傷つけた。しかも二度も。

 そんな僕が、また以前のように彼女と仲良くできるだろうか……?


「心配すんなって! その辺はオレがとりもってやるよ! すぐに元通りだって!」


 そう言って、坂田君はニカッと笑う。

 何故だか、彼の言葉とその笑顔には、不思議と説得力がある。


「ありがとう、坂田君。でも、どうしてそこまで僕に親切にしてくれるんだい?」


 そう尋ねると、彼は少し悩むようにして考えた後、また笑って答えた。


「ま、あれだ。お前っつーか、由香のためかなー。オレもなんだかんだで、今の由香が好きなんだよね。あ、これは幼馴染としてな。だから、お前といることで、アイツが笑ってられるなら、協力したいってだけだよ」


「……」


 ああ、今、何となく分かった。

 僕が坂田君を苦手な訳が。

 軽薄そうな容姿とか口調とか、そんなことじゃない。

 この男は似ているんだ。

 僕の唯一のライバルだった浩介に。

 特にこんな聞いているこっちが恥ずかしくなるような事をさらっと言ってしまう当たり、そっくりだ。


 それが自覚できれば、彼への苦手意識はもうなくなっていた。

 だからか、僕は素直になれて、自然とその言葉が漏れていた。


「……ありがとう」


「ば、馬鹿言え! お前のためじゃねぇって言ってるだろ!」


「うん。でも、お礼が言いたかったんだ」


「……」


 僕がそう言うと、坂田君は照れ臭そうにした後、突然手に持っていた絆創膏をバチンと顔に張った。


「いっでぇ! 何すんだよ!」


「ほい、出来た。そろそろ、一限も終わるし、先に教室に戻らせてもらうねー」


 そう言う彼はいつもの軽薄そうな調子に戻っていて、背を向けたまま手をひらひらと振って、さっさと行ってしまった。

 僕はヒリヒリした頬をさすりながら、それでも、少しだけ前向きな気分になれていた。

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