第2話「学校のアイドルは野球がお好き」

 唐突だが、僕が通う高校は山の上にある。

 なので、登校する際は長くて急な坂を徒歩で上らないといけない。

 この坂、その長さとその急勾配から生徒からは『青蘭の心臓破り』とも呼ばれていて、運動部のロードワークにも使われている。

 入学当初は、毎朝この坂を上らないといけないのが、ウンザリしたものだけれど、それも半年も経てば慣れてしまった。

 今では、この坂を上るのも帰宅部な僕にとって良い運動になると思っているほどだ。


 さて、今日もその坂を駆け上るかと思って登校し、坂に差し掛かろうとした時、その坂の前に一人の女生徒が佇んでいるのを目にした。

 その女生徒は、誰かを待っているのか、キョロキョロと辺りを見渡している。

 女生徒の顔には、見覚えがあった。昨日、僕が浩介の投球フォームの癖を伝えた女子マネージャーだ。


 僕は彼女に気づかぬふりをして、通り過ぎることにした。

 けれど、彼女はそんな僕とは正反対の行動に出ていた。


「あ、やっと来た! おはよう!」


 彼女は笑顔で挨拶して、こちらに手を振っている。

 気のせいかと思い、辺りを見渡してみる。彼女が僕に挨拶しているなどと思えなかったからだ。

 だが、手を振っている彼女に反応している人物など周りにはいなかった。


「……え? 僕?」


 思わず、自分で自分を指さして尋ねてしまった。


「そうだよ、君だよ!」


「……」


 満面の笑みで肯定されて、僕は困惑してしまった。

 昨日、一方的にこちらの用件を伝えただけの相手に、まるで友達にするような朝の挨拶をされる覚えなど僕にはない。

 果たして、この状況をどう解釈すればいいのだろうか?


「えっと……人違いじゃないかな?」


「そんな事ないよ。君でしょ? 私にうちのエースの癖を教えてくれたのは」


「そう……だけど……」


「なら、問題なしね。人違いなんかじゃない」


「……」


 僕はますます困惑してしまった。

 どうやら、彼女は僕の事を認識した上で話しかけてきているようだ。

 だからこそ、何故という疑問が湧いてくる。

 いや、疑問というより、何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。

 僕が彼女に話し掛けられる事は、それぐらいあり得ないことだ。


 ここは、厄介な事になるのを避ける為にも無視した方がいいかもしれない。


「……」


 僕は彼女の脇をすり抜け、坂を上り始めた。

 挨拶されているのに、なんとも失礼な態度であることは重々承知しているが、これも自分の日常を守るためだ。

 けれど、僕の考えは甘かった。


「わわ、無視して行かないでよ!」


 彼女は慌てた様子で追いかけきて、あろうことか僕のすぐ横に並んでしまった。


「ひっどいなー! 無視するなんて!」


 そう言う彼女の横顔をちらりと横目で覗いてみると、頬を膨らませて、むくれていた。

 どうも、無視したのは逆効果だったようだ。

 何が目的かは分からないが、僕に何か用があるのなら、その用件をさっさと済ませてしまった方がいいだろう。


「えっと……僕に何か用でもあるの?」


「用? ううん、用ってほどじゃなくて、君とお話したいだけだよ?」


「……は?」


 彼女の発言に耳を疑う。


 彼女が僕と?

 話してみたかった?

 なんで?


「あのさ……確認だけど、僕ら、昨日初めて会ったよね?」


「ええ、そうだけど?」


 彼女はこちらの意図が理解できないのか、小首を傾げている。

 けれど、すぐに何かに気づいたようにハッとした表情に変わった。


「あ、ごめんなさい! 私、まだ名前も教えてなかったね!」


「いや、そうじゃないから!」


「あれ?」


 彼女は僕の反応が予想していたものと違ったのか、また首を傾げている。

 どうも、彼女は自己紹介をしてなかったことに思い至ったようだが、僕が言いたいのはそんな事ではない。

 名前も知らない相手なのに、登校時間に待ち伏せまでして、話をしたいなんて、普通は思わないことだ。

 その辺、僕と彼女との間には認識の違いがあるようだ。

 それに、そもそも彼女には自己紹介なんてものは不要だ。


「はあ……自己紹介なんて必要ないよ、高橋由香たかはしゆかさん」


「え! どうして!?」


 僕に名前を呼ばれ、彼女は仰天した。

 けれど、僕からしてみれば、この程度で驚く方が意外だ。

 なにせ、彼女は青蘭高校ではちょっとした有名人なのだから。


「どうしても何も、君の事を知らない人間なんて青蘭にはいないよ」


「ええ!? そ、そうなの!?」


 彼女は両手で口を塞ぐようにして驚いている。わざとのように見えない辺り、どうも、本人の認識と周りの人間の認識では、大きく異なっているらしい。


 高橋由香という人物の名が、校内で広まったのは、入学初日からのことだった。

 彼女は入学式で新入生代表の挨拶を務めたのだが、彼女のその場での堂々とした立ち振る舞いや容姿に誰もが魅了されてしまった。

 端正な顔立ちと線の細い身体、そのまるでモデルのような姿はとても中学を卒業したばかりの女子にしては出来すぎていた。


 また、言うまでもなく、新入生代表を務めるほどだから、彼女は成績も良かった。

 夏休み前の期末試験だって、学年トップだと聞いている。

 さらに、彼女は気立てもよく、誰に対しても分け隔てなく、気さくに接するらしいのだ。


 才色兼備で、性格も良い。

 そんな漫画の世界から飛び出してきたような女子生徒が、人気者になるのに時間など掛かるはずもなく、夏休み前には、非公式なファンクラブなんてものも存在していた。

 まさしく、彼女は青蘭高校のアイドルだ。


「はあ……やっぱり私って悪目立ちしてるのかな? この間も知らない男子から声をかけられたし……」


「そりゃあ、声を掛けられるもするでしょ。学校のアイドルなんだし」


「うーん、たまにそう言う人がいるけど、まさか高杉君にまでそう呼ばれるとは思わなかったよ。それってやっぱり私のことなの?」


「君以外に誰がいるのさ――って、ん?」


 あれ? なんか今、彼女から聞き慣れた単語が聞えてきたような……?


「えっと……高橋さん?」


「うん? どうしたの、高杉君? あ、私の事は由香でいいよ?」


 まただ。また彼女は僕の名前を口にした。間違いない。


「えっと、僕が君をどう呼ぶかはこの際置いておいて……」


「えー、そこ、置いておかれちゃうのー?」


 高橋さんは不満そうに口を尖らせる。

 けれど、そんな非難の声も今の僕には耳に入らない。


「高橋さん、どうして僕の名前、知ってるの? 僕、まだ名乗ってないよね?」


「え……あ、あれ? そうだっけ? 気のせいじゃない?」


「とぼけないで。僕は絶対に名乗ってなんかいないよ。なんで僕の名字が高杉だって知ってるの?」


「そ、それは……」


 僕の追及に彼女は焦りを見せる。

 そんな彼女を僕は睨むようにして、じっと見つめた。

 すると、流石の彼女も観念のしたのか、諦めたように溜息をつく。


「あーあ、やっちゃったなぁ……残念……」


 彼女は項垂れて、肩を落としている。

 どうやら、白状する気になってくれたようだ。


「ごめんなさい。君の名前は昨日の内に名倉君から聞いておいたの。あのアドバイスをくれた男子は誰なのって」


「こ、浩介に!?」


「う、うん。それで、名倉君が1年の高杉達也って奴だよって教えてくれた」


「こ、浩介の奴、余計な事を……」


 昨日、彼女にアドバイスしたのが僕だって浩介にバレた後、彼女に教えたのだろう。


「ご、ごめんなさい! 悪気はなかったの」


「どうして、高橋さんが謝るのさ? 悪いのは勝手なことをした浩介だよ」


 そう。悪いのは浩介だ。

 せめて、昨日一言でも言っておいてくれれば違ったかもしれないが、そうしなかったのはアイツの悪戯心という奴だろう。

 後でとっちめてやらないと。


「そんなことないよ! 名倉君は、私のお願いを聞いてくれただけなんだから!」


「ふぅん……随分と浩介の肩を持つんだね?」


「そ、そいうわけじゃないよ? 悪いのは私なの……お願いだから、名倉君を責めないであげて」


「う……」


 そんな風に瞳を潤ませて、哀願してくるなんてずるい。

 そんな事をされたら、責めるもの何も、誰も責めることなんてできない。


「わ、わかったよ。浩介を責めたりしないから、安心して」


「よ、よかったぁ……」


 安心した表情で彼女はほっと胸をなでおろす。

 僕と浩介の間の事なのに、何をそんなに心配する必要があるのか理解できないが、彼女なりに迷惑を掛けたくないという野球部のマネージャーとしてエースへの気遣いなのかもしれない。

 でも、それだったら、最初から僕の名前なんて知ろうとしなければいいのに……。


「それで? 僕の幼馴染に名前を聞き出してまで、どうして僕と話してみたかったわけ?」


「あ、それはね!」


 尋ねてみると、彼女は打って変わって明るい表情になって、喋り始めた。


「君が、野球に詳しそうだからだよ!」


「え……」


 野球。その単語が野球部のマネージャーの彼女の口から飛び出してくる事は何もおかしいことではない。

 けれど、野球と聞いて僕は動揺してしまった。


「詳しいでしょ? 野球。ちょっと投球を見ただけで、癖とか欠点がわかるくらいなんだから」


「そ、そんなことないよ」


「嘘。知ったかぶりであんな事言えるわけないもの。もしかして、昔、野球やってたことがあったんじゃない?」


 彼女は僕の気も知らないで、ニコニコしながら尋ねてくる。その顔には、悪意はない。


 おかしい。

 浩介から僕の事を聞いていたのなら、僕が野球をやっていたことなんて知っているはずだ。

 なのに、こんな質問するなんて、もしかして、本当に僕の名前しか知らないのだろうか……?


「あのさ、浩介から僕のこと聞いてないの?」


「え、名倉君から? うん、聞いたよ。君の名前と、名倉君とは幼馴染ってことをね」


「はあ……やっぱりね」


「あれ? どうかしたの? 溜息なんかついたりして」


「ううん、何でもないよ」


「そーお?」


 何でもない。そう答えたが、彼女は不思議そうに首を傾げている。


 彼女は知らない。

 僕が中学三年の夏まで野球をしていたことを。

 将来を期待されたピッチャーであったことを。

 そして、怪我のせいで、そういった期待に応えることができなくなったことを。

 だから、僕に対して無邪気に野球の話題なんて出せるのだ。


「と、とにかく、僕は野球のことなんて、君が思ってるほど詳しくないよ。昨日はたまたまだったんだよ」


「そうかなぁ? あ、でも、野球は好きでしょ?」


「え……いや、それは……」


 その質問に、僕はすぐに答えることができなかった。

 好きとも、嫌いとも、答えることができなかった。

 この一年、野球をやめた理由や野球をもう一度やらないのかと尋ねられたことは腐るほどあった。

 けれど、野球が好きかと訊かれたのは初めてだった。

 だから、僕はどう答えるべきか躊躇ってしまったのだ。


「あ、学校に着いちゃった」


「え……あ、本当だ」


 彼女に言われて気づいた。

 いつの間にか長い坂を上り終え、学校の正門を僕達はくぐろうとしていた。


「ざんねーん。今日はここまでだね」


 彼女は心底残念そうに肩を落としている。

 何がそんなに残念なのか分からない。

 けれども、今の発言を聞く限り、どうやら開放してくれる気になったようだ。

 助かった……。


「それじゃあ、またね!」


「あ、うん」


 僕がお別れの挨拶に応じると、彼女は校舎の方に走って行ってしまった。

 僕は正門前に一人取り残される。


「はあ……疲れた……」


 なんだか、朝からとんでもない体験をする羽目になってしまった。学校のアイドルと一緒に登校なんて、地味な僕にはきっともう二度とないことだろう。

 いや、もう一度なんて望んでいるわけでもないけれど……。


「うん、もう二度と……ん? あれ? またね?」


 別れ際、彼女の言った一言。

 それがどういう意味を持つのか。

 それを想像して、ちょっとだけの期待と大きな不安が、僕の胸の中に残った。


             ○


 教室に入ると、既に大半の生徒が登校してきていた。

 自分の席へと向かう道すがら、クラスメイトへ挨拶していく。

 けれど、返ってくる挨拶は何かいつもと感じが違う。

 ちゃんと挨拶は返してくれるし、皆同様に笑顔だから、何がどう違うのかは、はっきりと言い表すことできない。

 それでも、やはり僕に対する反応に違和感がある。

 その違和感の正体が分かったのは、一限目の授業が終わった後の休憩時間だった。


「よお、高杉ぃ!」


 軽薄そうな男子生徒が馴れ馴れしく呼びかけてきた。

 彼の名前は、坂田敏雄さかたとしお。クラスの中で一番のチャラ男として、僕は彼を認識している。

 彼とは仲が良いわけでもないし、これまでさほど話したこともない。

 そもそも、地味な僕と彼では相性も良くないと思う。

 そんな彼が僕に話し掛けてくるなんて、どうしたことだろう?


「えっと……何?」


「何って、そりゃあ、お前、決まってんじゃん」


 坂田君はニヤニヤと怪しく笑っている。

 この笑み、あまり好きじゃない。

 それに言っていることも意味不明だ。


「決まってるって言われても、僕には何のことか分からないんだけど……」


「またまたー、とぼけなさんなって!」


「とぼける? なんで、僕がとぼける必要があるのさ?」


「およ? その反応、ホントに分かんないわけぇ? ははーん、知らぬは当人ばかりって奴かねぇ」


 坂田君の怪しい笑みをさらに濃くしている。

 その笑みを見ているだけで、気分が悪くなってくる。

 だから、つい、語気が強くなってしまった。


「何なのさ、一体!」


「おっと、恐い恐い! そんなに怒りなさんなって。つかよ、今の怒るとこか?」


 彼は何一つ動じた様子なく、へらへらと笑っている。

 どうも、彼は僕を怒らせている原因が自分にあると分かっていないようだ。


「まあ、いいや。お前さ、今、クラスで注目の的になってるの気づいてる?」


「え……注目の的? なんで?」


 坂田君に言われて、周りを見渡す。

 すると、こちらに向けられている視線がいくつもあった。

 女子も男子も、こちらを見ている。特に男子からの視線が何故か痛い。


「……どういうこと?」


 僕は声を潜めて坂田君に訊いてみた。

 すると、流石の坂田君も場の雰囲気を察してくれたのか、僕を見習って声を潜めて答えてくれた。


「どうもこうも、お前、今朝、あの学校のアイドル、高橋由香と一緒に仲良く登校してきただろ? その事で、朝からずっとお前の噂で持ち切りだ。もしや、あのアイドルに遂に彼氏が出来たかってねー」


「え!?」


 予想もしていなかった答えに、僕は思わず声をあげて驚いてしまった。

 その声で、さらにクラスの視線を集めてしまった。

 僕は慌てて、手で口を塞ぐ。


 なんだそれ……。

 今朝の今で、なんで、そんな噂になっているのか……。


「ちょっと聞くけど、さっきからこっちを見る男子が妙に殺気立ってるのって……」


「そりゃあ、お前、皆のアイドルに手を出せば、そうなるだろうよ。しかも、それが高杉みたいな冴えない奴なんてことになりゃあ、全校の男子生徒が殺気立つってもんだよねぇ」


「ぐあっ……やっぱりか……」


 なにやら、とんでもない勘違いされ、僕のクラスでの立ち位置――いや、この場合、学校での立ち位置は最悪のものになろうとしていた。


「んで、実際のところ、どうなのよ? やっぱり、お前、高橋の彼氏なわけぇ?」


「バッ……! ち、違うよ、断じて違う! 僕は高橋さんとはそんなんじゃないよ!」


「んじゃあ、今朝のは何なんだよ?」


「そ、それは……」


 それはこっちが聞きたいくらいだ。

 そもそも、今朝に限って、何故彼女が話し掛けてきたのか、僕には分からない。


「し、知らないよ。突然、彼女の方から話し掛けてきたんだ」


「高橋が、お前にぃ?」


 坂田君は僕の言っていることが信じられないのか、疑いの目を向けてくる。


「ほ、本当だよ! 疑うなら、高橋さんに訊いてみるといいよ!」


「ま、お前がそういうなら仕方ないかー」


 坂田君はしぶしぶ納得して、自分の席に戻っていった。



 その日、僕に対して注がれる視線は、時間が経つにつれ、緩和していったが、それでも、数人の男子からは睨まれ続けた。

 どうやら、その数人というのは高橋さんの熱狂的なファンらしい。

 一日中、肩身の狭い経験をした僕は、ホームルームが終わると、すぐに学校を飛び出した。


 家に帰って、いつもの『日課』を終わらせると、僕はベッドに倒れ込む。


「つ、疲れた……」


 昨日以上に、精神的な疲労が蓄積していることを実感する。

 なんで僕がこんな目に合わないといけないのか……。

 そんなやりきれない思いを抱えつつ、僕は夕食の時間になるまで、眠りについた。


             ○


「でね、良かったらなんだけど、私に野球について教えてくれない?」


 彼女、高橋由香は、昨日と同様に何故か当然のように僕の横に並び、長い長い坂を上りながら、これまた何故か僕とは古くからの旧友のように話しかけてくる。


「えっと……、高橋さん?」


「ん? なに? あ、由香でいいよ?」


「君をどう呼ぶかは、また今度にするとして……、どうして、君は今朝も僕と一緒に登校なんてしているんでしょうか?」


「あーあ、また今度にされちゃったあ……ま、仕方ないかぁ。

 どうしてって、君とお話したいからだよ? 昨日も言ったじゃない。忘れたの?」


 うん、確かにそれは聞いた。決して忘れていたわけじゃない。

 けれど、それで僕は納得できないし、きっと、他の人も納得いかないと思う。


「あのね……昨日も聞いたかもしれないけど、もう一度訊くね。どうして、僕と話がしたいの?」


「うん、それも昨日言ったよ。君が野球に詳しそうだからだよ」


「うん、そうだったね。じゃあ、訊くけど、君は野球に詳しそうな人なら、誰にも馴れ馴れしく話し掛けるわけ?」


「そ、そんなことないよ! 私はそんな見境なしじゃないよ。君だからだよ!」


「僕……だから?」


 その言葉に思わず僕はドキリとしてしまった。

 そんな風に言われてしまうと、どんな男でも淡い期待を抱いてしまう。

 もしかすると、本当に彼女は……。


「君が、部員でもないのに、うちのエースにアドバイスしてくるような親切な人だから、だよ」


「……あ、そ」


 とんだ勘違いでした。

 そうだよね、そんなわけがないよね。

 何を自惚れているんだ、僕は。すごく、恥ずかしい。

 顔、赤くなってないかな……。


 そんな僕の心情をよそに、彼女は楽しげに声を弾ませて話している。


「うん。だからね、そんな親切な君なら、私にも野球の事、教えてくると思って」


「え、えっと……それ、さっきも言ってけど、どうして? 君は野球部のマネージャーなんだから、そんなの教えてもらう必要なんてないんじゃない?」


「そうだよって言いたいところなんだけど……お恥ずかしながら、私、マネージャーになる前は野球について何も知らなかったの。野球部に入ったのも、ついこの間のことだし……」


 彼女は両手の人差し指の先をくっつけながら、恥ずかしそうにしている。


 言われてみれば、高橋さんが野球部のマネージャーになったのは、夏休み前のことだと聞いている。

 ちょっとした騒ぎになったので、当時の事は僕もよく覚えている。

 高橋さんは、入学直後、どの部活動にも入らなかった。

 多方面から勧誘があったそうだが、どれも断っていたそうだ。

 それが、七月なると突然、野球部のマネージャーになったと言うのだから、騒ぎにならないわけがない。

 野球部員の誰かが実は彼氏なのではないかと、邪推する者まで現れた始末だ。

 結局、この騒ぎは、野球部の先輩マネージャーから口説き落とされたという事実が知られ、収まりをみせた。


 その事実と先程の彼女の話を照らし合わせると、彼女はまだ野球についてあまり詳しくないと言うのも頷ける。

 だからと言って、僕が彼女に野球の知識を教える必要なんてないのだが。


「だからね、お願い! 私に野球について教えて。このとーりだから、ね?」


 いくら教えを請われても、それに応じる必要なんてない。

 そう、こんな風に両手を合わせて、頭まで下げられなければ……。


「や、やめてよ、こんな所で! そんな事されたら……」


 また、周りから色々と勘違いされてしまう。

 今だって、僕達と同じように登校してきている生徒からの視線が痛い。

 だって言うのに、彼女は僕の言うことも聞かず、頭を下げ続けている。

 これは、早くなんとかしないと、彼女のファンから何をされるか分かったもんではない。


「はあ……分かったよ。分かったから、頭を上げてよ!」


「え!? それじゃあ!」


 彼女はパッと顔を上げて、明るい表情を見せる。

 その目は期待に満ちていた。


「ひ、暇な時になら教えてあげるよ」


「わぁ! 良かったぁ!」


 僕は嫌々ながら応じたのに、彼女は嬉しそうに頬を綻ばせ喜んでいる。

 どうも、彼女は他人の表情や声の機微には鈍感のようだ。


「それじゃあ、連絡先、教えてもらっていいかな?」


 彼女は自分のスマホを取り出して、こちらに差し出してくる。

 番号やメールアドレスの交換をしようと言うことらしい。

 僕も自分のスマホを取り出して、お互いの連絡先を交換し合った。


 連絡先の交換が終わる頃には、ちょうど坂を上り切り、学校の正門前に着いていた。


「それじゃあ、後で連絡するね!」


「え、あの、ちょっと!」


 彼女は僕の制止も聞かず、校舎の方へと駆けて行ってしまった。

 この場合、追いかけるという選択肢はない。

 そんな事をして、彼女のファンの目に留まることになってしまう。

 僕と彼女は、ただ連絡先を交換し合っただけの仲だ。

 けれど、それだけでも周りに知られたら、きっと嫉妬の嵐だろう。

 だから、彼女に今回の事は誰にも言わないように言い含める必要があったのだが、それは後で伝えおこう。

 幸い、彼女のメールアドレスも分かっていることだから。


 正門前で一人取り残された僕は昨日のクラスメイト達の反応を思い出す。

 それだけで気が滅入りそうになってしまったけれど、その重い気分を振り払い、校舎へと足を進めた。


 言うまでもないけれど、教室に入った僕に、殺気めいた男子の視線が突き刺さってきたのはお約束だ。

 そして、休み時間にニヤニヤ顔の坂田君に質問攻めにあったのもお約束だった。


 そして、この日、僕の頭を悩ませる出来事がもう一つ起きる。


 昼休みの事だった。

 ポケットの中に入れていたスマホのバイブが短く震えるのを感じた僕は、スマホを取り出し、画面を見た。

 そこには、『高橋由香』の名前が通知欄に表示されていた。

 彼女からのメールだ。

 僕は誰にも見られないように周りを警戒しつつ、メールを開く。


『件名:早速メールしてみたよ!

 本文:どう? ちゃんと届いてる?

 今朝は、私のお願い聞いてくれてありがとうね! やっぱり、君が親切な人で助かったよ!

 それでね、早速で悪いだけど、今度の日曜日に実用書とか買いに行きたいから、付き合ってもらっていいかな?』


「はあ!?」


 メールの中身に思わず声を張り上げた。

 すると、教室中の生徒の視線が一気に僕に集まる。

 それに気づいて、僕は愛想笑い振舞きつつ、教室を出た。


 僕はトイレの個室に駆け込み、もう一度メールの中身を確認する。

 一字一句、先程と変わらない。変わるわけがない。


 それは、生涯初めての女の子からのデートのお誘いだった。


            ○


「よ! 有名人!」


 放課後、校舎を出ると背後から声をかけかられた。

 聞き覚えのあるその声に僕は思わず振り向いてしまった。


「げっ! こ、浩介……。何? これから部活?」


「そうだけどよ……んだよ、そのあからさまに嫌そうな顔はよ? 折角、幼馴染が声をかけてやったっていうのに……」


「馬鹿言え。お前が女の子ならともかく、男の幼馴染なんかに声をかけられて喜ぶ奴がどこにいるって言うんだ」


「うへ……相変わらず、さめてんなー。ちょっとした冗談だってのに」


「わるいね。僕はその手の冗談には乗らないようにしてるんだ」


「あー、そうかい、そうだろうよ。まあ、有名人様もいまは冗談に付き合えるような気分じゃないだろうな」


 売り言葉に買い言葉だったが、浩介の言葉にはどうも棘がある。

 それにさっきからどうにも気になる単語を耳にしている。


「ねえ、その『有名人』って、何さ? まさか、僕のこと?」


「あったりめぇだろ。お前以外誰がいるって言うんだ」


「……だろうね。で、なんでお前にそんな呼ばれ方されなきゃならないの?」


「そりゃあ、お前……言わなきゃダメか?」


「……いや、いい」


 大方の予想はつく。

 それが予想通りであって欲しくはないのだけれど、昨日から今日にかけて、僕を取り巻く環境は大きく変わってしまっているから、それしか思いつかない。


「しっかし、お前から浮いた話が出ると思わんかったぞ、俺は。しかも、相手が青蘭のアイドルとは恐れ入ったよ」


「はあ……」


 浩介の言葉を聞いて、思わずため息を漏らしてしまった。


 案の定、その話だったか。

 まあ、今朝の事が朝の内にクラスに知れ渡っているのだから、浩介が知っていてもおかしくないけど。


「お前ね、あんな噂、真に受けるなよ……」


「あん? けど、お前とマネージャーが仲良く登校してきたのは事実だろ? しかも、二日連続で」


「う……そ、それはだな……」


 事実は事実なんだが、仲良くという表現は正しいだろうか?

 いや、この場合、僕の主観での話は意味をなさないのだろう。

 周りからそう見えていれば、そういう事実になってしまう。


 僕がどう言い訳したものかと、考えあぐねていると、浩介はにやついた顔でこちらをジロジロと見てきた。


「な、なんだよ……?」


「いんや。ただ、俺としちゃあ、お前がどうやってマネージャーと仲良くなったのか、その辺じっくりと聞きたくてね」


「はあ? べ、別に仲良くなったわけじゃ……。大体、お前これから部活だろ?」


「だいじょーぶ! ちょっとくらいなら、遅れても問題なし。つーか、うちのマネージャーの一大スキャンダルを放って置くことはできん。その真相が分かるってんなら、監督もキャプテンも遅刻くらい大目に見てくれる。と言うか、もう許しはもらってる」


「おいおい……」


 それ、野球部として全然大丈夫じゃない。

 マネージャーの事だけで部活動そっちのけなんて、うちの野球部は本当に甲子園を目指しているんだろうか……。


「で、本当のところはどうなんだ? 達也」


「ほ、本当も何も、僕は彼女とは何でもないよ」


「ほう……じゃあ、二日連続の仲良く登校してきたのは、どう説明してくれんだ?」


「そ、それは……」


 し、しつこい。

 まさか、コイツがこんな事をここまで気にするなんて……。


 僕の中の浩介のイメージは、野球バカで、色恋沙汰なんて気にも留めないそんな人間だったが、それは僕の勝手な思い込みだったんだろうか?


「言っとくが、お前がゲロるまで俺は諦めんぞ。もちろん、お前もそれまで帰れると思うな」


「な、なんつー横暴な……」


 僕は浩介の強情さに負け、昨日と今日とで彼女との間であった事を話した。

 もちろん、メールの件は伏せて、だが。


「そうか、マネージャーの方からだったのか。なるほどねぇ」


 僕の話を聞いて、浩介は不思議と納得していた。

 きっと疑われると思っていた僕としては肩すかしな反応ではあった。

 けれど、話がややこしくならずに済むから助かる。


「これで分かっただろ? 僕は彼女に何もしてないし、する気もない。むしろ、迷惑してるのは僕の方だよ。大体、野球部のマネージャーなんだから、野球の事も野球部で学ぶべき――そうだ、そうだよ! 野球部で教えるべきだ! 浩介からも彼女に言ってやってくれよ?」


 自分で言っていて、なんで今までこんな当たり前なことに気づかなかったのかと、呆れてしまう。


「あー、うん、俺も出来ればそうしてやりたいところだけどよ。それ、無理だわ」


「は? なんで?」


「まあ、なんつーか、うち、そういった余裕が、いまあんまないんだわ、正直言って」


「……秋の大会か?」


 余裕がないと聞いて、思いついたのが春の選抜高校野球に向けての地方大会だった。


「ま、そういうことだ」


「け、けど、それだって、マネージャーの知識不足は困るだろ?」


「いや、まあ、ホントの事言えばそうなんだけどな。けど、そっちは部員の方でカバーできるっつーか……正直言って、今は俺達の身の回りの世話をしてくれているだけで、十分ありがたいんだよ」


 それは詰まる所、冷たい言い方をすれば、身の回りの世話以外の事を彼女には求めていないということだろうか?

 浩介は野球の事となると、結構ドライなところもあるからな……。


「だから、さ。俺達が何か言ってマネージャーのやる気に水のさすのもなんだから、お前が引き受けてくれると正直助かるって話だ」


「……それ、本気で言ってんのか? 僕は……」


「いや、お前には悪いとは思ってる。けど、ここは俺に免じて頼むよ、達也。マネージャーもお前に教わりたくて頼んだんだろうし」


 浩介はすまなそうに頭を下げてお願いしてくる。

 それを見ていて、僕はあることを思い出した。


「あ、思い出したぞ、浩介! お前、彼女に僕の事を教えただろ?」


「あん? 何のことだ?」


「とぼけるなよ。そうじゃなきゃ、そもそも、彼女が僕に教わりたいなんて言い出すはずがないだろ!」


「はあ? 言っている意味がさっぱりなんだが……」


 浩介はあくまでも知らぬ存ぜぬを突き通そうとしている。

 けど、それは通じない。少なくとも、コイツは彼女に僕の名前は教えている。

 それ以外のことは、昨日今日と彼女と話した感じでは知らないように思えたけど、それもそうとは言い切れない。

 それにさっきの話を聞いて、もしかすると、こうなってしまったのは、全部浩介の思惑によるものという可能性も出てきた。

 この際、浩介には彼女に何を話したのか、洗いざらい喋ってもらおう。


「あ、流石にそろそろ行かねーと、ヤバイわ。じゃあな、達也。またな!」


 そう言って、しゅたっと浩介は右手を上げる。


「こらこら! 都合が悪くなったからって逃げようとするな! こっちも正直に答えたんだから、お前も答えろよ!」


「いや、正直もなにも……大体、俺がお前についてどうこう言ってたとしても、結果は変わってないと思うぞ。ちょっと癪だが、彼女の興味を引くような事を先にしたのはお前なんだからな。まったく、あの子に興味を持たれるなんて、羨ましい限りだぜ」


「お、お前ね……」


 浩介め、開き直っただけでなく、僕の責任にした挙句、羨ましいとかどの口が言うのか。

 これはこれ以上問い詰めても、きっとコイツは吐かないだろう。


「はあ……もういいよ。部活、さっさと行きなよ」


「ん? そうか? それじゃあ、お言葉に甘えて、頑張ってくるぜ!」


 浩介は威勢よく、グラウンドの方へ駆けていく。

 だが、数歩進んだところでこちらに振り向いた。


「あ、そうだ。最後に一つ言っておくぞ」


「なんだよ?」


「これは忠告なんだが……もしだ、もしだけど、お前が彼女に何かしたり、あったりしたら、全校の男子達がただじゃ置かないから気を付けるように」


「……は?」


「もちろん、俺もだ。たとえ、達也だろうと、それだけは許せないし、譲らないからな」


 笑いながら冗談めかしに、浩介はそんなおかしな事を言ってきた。

 けれど、その目は笑っていなかった。


「ちょっと待て! それはどういう――」


「ま、気を付けろってことだよ!」


 僕が言葉の真偽を尋ねようとする前に浩介は、全力疾走でグラウンドに向かっていってしまった。

 あっけに取られつつ、その遠ざかる背中を僕は見続けた。

 その背中が見えなくなった後、僕はポケットからスマホを取り出し、彼女からメールを画面に表示する。


「気を付けろ、ね……」


 妙に耳にこびりついたその言葉を口にしつつ、僕は彼女からメールへどう返すべきか考えていた。

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