第一部 僕と彼女と野球と
第1話「もう二度と野球なんてやらない」
「あっつい……」
日直の仕事を終えて、校舎を出ると、強い日差しと共に、どっと蒸すような暑さが襲ってきた。
日は傾きだしているというのに、まだ日中と大して暑さが変わりなく、立っているだけで体中から汗が噴き出してくる。
9月。まだ、季節は夏の暑さを忘れておらず、その猛威を振るっている。
こんな日は、日の当たらない場所で大人しくしているに限るだろう。
だと言うのに、校庭には勇ましいことに数多くの声が飛び交っている。
「……ご苦労なことで」
この暑さの中、外で走り回っている生徒の気が知れず、蔑むような独り言を口にして、僕は正門の方へと向かう。
その途中、聞き慣れたキーンという金属音が響いた。
その音が聞こえてきた方を思わず振り向くと、校庭の真上を白球が浮き上がっていた。
落ちていくボール。それを白のユニフォーム姿の人間がグラブでキャッチした。
「……こんな暑い日に良く頑張るね、野球部は」
また独り言を口にして、僕はその野球部が練習に勤しんでいる校庭――グラウンドへと近づいた。
グラウンドの外周は、ボールが飛び越えていかないようにするためか、それとも僕のような人間の安全を守るためか、高いフェンスで覆われている。
そのフェンス越しに、僕は野球部の練習風景を覗き見る。もちろん、日差しが当たらない木の下の木陰あたりで。
声が飛び交う。
そして、今度はキンと短い金属音がする。
その音と共にボールが地面を滑るように転がっていく。
ボールを追う白いユニフォーム姿の野球部員。
その部員は転がるボールをグラブに収めると、一塁に向けてボールを投げた。
が、投げたボールは一塁手のはるか上を飛んでいってしまった。
「あーあ……なんて悪送球……」
見ていて呆れてしまい、ついそんな言葉を口にしてしまう。
けれど、それは他人に言われるまでもなく、投げた本人が一番理解しているだろう。悪送球した部員は帽子を取り、一塁手に頭を下げている。
もう一度、金属音と共にボールが地面を滑る。
また同じ部員がそれを捕球し、慎重にボールを一塁に投げた。
今度は何の問題なく一塁手のグラブにボールが収まった。
そして、また、金属音と共にボールが地面を滑り、今度は別の部員がそれを追っていく。
繰り返されるノックは、野球部としてごく普通の練習風景だ。
それを僕はしばらく眺める。
「……あ、また」
今度は転がるボールを取りそこない後ろ逸らしてしまった。誰がどこから見ても完璧なエラーだった。
さっきから見ていると、どの部員もエラーばかりしているような気がする。
運動部らしく、威勢のいい声を出しているのだが、どうも緊張感が足りていないように見える。
それにどの部員も覇気がないようにも感じる。
「なにやってんだか…………ん?」
やっぱりうちの高校の野球部なんてこんなものかと思っていた時、グラウンドの脇でボールを投げる部員が目に入る。
その部員は大きなモーションでボールを投げる。そのボールは二十メートル弱先にいる中腰で構える別の部員のグラブ――ミットにあっという間に収まった。
それは、ピッチャーとキャッチャーによる投球練習だった。
その二人だけは、他の部員とは明らかに雰囲気が違う。異彩を放っている。
「ま……ピッチャーがアイツだもんな」
ピッチャーの横顔を見て、納得いった僕は、しばらくそのピッチャーの投球練習を眺めていることにした。
「へえ……フォーム、改良したんだ」
端的に言って、ピッチャーの投球は見事なものだった。
スピードもコントロールも申し分ない。
投球を受けているキャッチャーも満足気にボールを投げ返している。
けれど……。
ふっと、フェンスの向こう側でその投球を食い入るように凝視している体操着姿の女生徒が目に入った。
その女生徒は体操着から出て肌をさらしている二の腕や脛から下、そして顔もこんがりと小麦色に焼けている。
きっと、この夏はユニフォームを着た部員たちと同じように夏の日差しを浴び続けたのだろう。
その横顔は、噂通り特筆すべきものであり、男しかいないグラウンドの中で彼女の存在は異彩を放っている。
そんな彼女を見て、荒れ地に咲く一輪の花、なんて表現が当てはまるだろうか、なんてことを思った。
その彼女は僕に見られていることなど気づきもせず、そのピッチャーの投球に魅入られているかのように微動だにしない。
よほど集中して見ているようだ。
「……ねえ、そこの人」
僕は投球練習を夢中になって見ている彼女に悪いと思いつつ声を掛けた。
彼女は、最初自分に声を掛けられたものだと思わなかったのだろう。キョロキョロと辺りを見渡したと後、こちらに振り向いた。
「えっと……私、ですか?」
「うん、そうだよ。君だよ。君、野球部のマネージャーだよね?」
そんなことは尋ねるまでもなく知っていたが、敢えて知らないふりをして尋ねた。
「そ、そうだけど……」
彼女は認めつつも、突然見知らぬ男子生徒に話し掛けられたせいか、戸惑っている。
「じゃあさ、あそこで投げてる君のところのエースに伝えてくれる?」
「え……え?」
「球速アップのために脚を高くあげるようにしたのはいいと思うけど、踏み出す時にバランスが悪くなってるように思えるから、脚は現状から後二センチくらい下げた方がいいよ。それぐらいなら球速にも影響ないはずだから。あと、ストレートとスライダーで若干だけど腕が出る位置が異なってるから、それも修正した方がいいね。目の肥えたバッターなら見抜けると思うから」
「え? え?」
彼女は僕の言った事を聞いて、目をぱちぱちとしばたかせている。
「分からないなら、そのまま伝えて」
「は、はあ……?」
「じゃ、確かに伝えたから」
言いたいことだけ言って、僕は踵を返し、その場を離れようとした。
「え……あの、ちょっと! 君は――」
背後から彼女の慌てた声が聞えてきたが、僕は相手にせず正門へと向かった。
「あーあ……何やってんだろ、僕……」
らしくないことをした。
そう反省して、もう野球部の練習を覗くのはこれっきりにしようと決意した。
○
学校から家に帰ると、すぐに準備して、いつもの『日課』を一時間ほどで終わらせる。それから二階の自分の部屋で漫画を読んで、母親から晩御飯のお呼び掛かるまでダラダラと過ごす。
それが、帰宅部である僕の高校生なってからのライフサイクルだった。
だって言うのに、今日に限って晩御飯前に母親からお呼び掛かってしまった。
「お隣にお裾分け、持って行ってくれる?」
「……なんで?」
「肉じゃが、作りすぎちゃったのよ」
それはこちらが訊きたい回答ではない。さも不満げに尋ねたつもりなのだが、母親はどうもそれを曲解してしまったようだ。
「そうじゃなくて! どうして、僕が持って行かないといけないのかってことだよ!」
「何言ってのよ、あんたは? 私はまだ晩御飯の準備が残ってるのよ。どうせ、部屋で漫画ばっかり読んで、ぐーたらしてんでしょ? つべこべ言わず、持っていきなさい!」
ぴしゃりと言い放たれ、ずいっと透明なタッパに入った肉じゃがを押し付けられてしまった。
正直、面倒くさい。ここはボイコット――は、やめておこう。
あの人の逆鱗に触れたら、僕の晩御飯がなくなってしまいかねない。
嫌だけど、仕方ないので持っていくことする。
玄関を出て、ほんの十歩も歩かないうちにお隣の家の玄関前へ。
僕は気乗りしないまま、呼び鈴を押す。
「あーい!」
呼び鈴を押して暫くとすると、低くて太い、けれど無駄に声量のある返事が聞えてきた。
その聞き覚えのある声に僕はびくりと肩を震わせ、一歩後ずさってしまった。
やっぱり帰ろうと思ったのも束の間、目の前のドアが開いて、中から人が出てきた。
「はいはい、どちらさま――」
玄関から出てきたのは、坊主頭でガタイが良い爽やかな系の顔立ちをした少年だった。思春期男児らしく頬やおでこにニキビができている。
その少年と出合い頭に目が合ってしまった。
「おお! なんだ、達也じゃねぇか!」
坊主頭の少年は僕の顔を見るなり、驚いた様子で僕の名前を口にする。
「や、やあ、浩介」
極めて平静を装って、僕は挨拶を返すけれど、声が上ずっているのが自分でも分かる。
けれど、目の前の少年はそんな僕の異変を気に留めることはしなかった。
「よお! こんな時間にどうしたんだよ?」
「これ、母さんから。お裾分けだって」
我ながらどうかと思うほど、口数少なくぶっきらぼうに手にしたタッパを少年に差し出した。
「おお? こ、これは……!?」
差し出されたタッパを目にした少年は、目を見開き、そして、その目を輝かせた。
「ありがてぇ! おばさんの作った肉じゃがはサイッコーなんだよな!」
少年は飛び上がりそうなほど喜んでいる。おまけに、口元は緩み切り、口端から涎を垂らして、今にもタッパの中身に食らいつきそうだ。
僕の母親が作った肉じゃが好物というこの変わった趣向を持つ坊主頭の少年の名は、
僕の家のお隣に住む名倉夫婦の一人息子で、僕の幼馴染であり、同じ高校に通う同級生でもある。
浩介は高校では野球部に所属している。そのおかげで、彼の髪型は、野球部員は丸坊主という高校野球の常識が適用されている。
いくらさわやか系とはいえ、坊主頭では幾分かその顔はいかつく見える。
「じゃあね」
その顔をなるべく見ていたくない僕は、タッパを渡し終えると、短く別れの言葉を口にして、踵を返し、自分の家に戻ろうとした。
「待てよ、達也!」
「……なに?」
よせばいいのに、浩介の呼び止めに振り向いて反応してしまった。
きっと幼馴染を無下にできないという良心からの余計な行動だったと思う。
浩介は振り向いた僕の顔をじっと見てくる。僕はそれに耐えらず、顔背けてしまった。
「なに? 用があるなら早くしてくれない?」
「……うちのマネージャーに余計な入れ知恵したの、お前だろ?」
「え」
思ってもみないことを言われ、驚き混じりの間の抜けた声を出してしまった。
けれど、幸いにもすぐに平静を取り戻すことができた。
「……なんのこと? 言っている意味が分からないけど」
「ごまかしても無駄だぞ? マネージャーが言ってたからな。陰険で根暗そうな男子が偉そうにうちのエースの欠点を指摘してきたってな」
「へえ……彼女にはそんな風に僕が見えてたんだ……」
それはちょっとだけ心が傷ついてしまう。
「ほら、やっぱりお前なんじゃねーか」
「あ……」
しまった。
思わず認めてしまうような発言してしまっていた。
なんて不覚。
「けけ、心配すんな。うちのマネージャーはそんな事言ってねぇよ! あいつは他人を貶めるような奴じゃないからな」
「お、おま……嵌めたな!?」
「はっはっはっ! 簡単に罠に嵌るお前が悪いんだよ!」
意地悪そうに浩介は笑って見せる。
そんな浩介を僕は思いっきり睨んでやった。
「悪かった悪かった。謝るからそんなに怒るなよ? それにお前だって悪いんだぜ? 大体、お隣なんだから、直接言えばいいのに回りくどい事しやがって」
「僕は野球部員じゃないからね。お前の投球フォームについてどうこう言える立場じゃないよ」
「んなこと、俺とお前の仲なんだから、気にするこたぁねえだろ? まったく、昔から変なところに拘るんだよな、お前って」
浩介は言いながら呆れたように溜息を吐いている。
浩介はこう言うけれど、それはやっぱり違うと思う。
野球部の部員は監督の指示に従って毎日練習をしている。浩介の投球フォームにしたって、きっと監督の思惑みたいなものがあったはずだ。
それをおいそれと部外者がどうこう言っていいものじゃない。
「ま、今回は投球練習中に指摘してくれたおかげで、フォーム修正もその場で出来たし、いい感じにハマってくれたから良いだけどよ」
「そ。なら良かったじゃないか。じゃ、タッパは明日にでも返してくれればいいから」
これで話は終わりと言わんばかりに、僕は踵を返し、今度こそ家に戻ろうした。
「なあ、達也!」
背後からまた浩介の呼び止めが聞えてきた。
けれど、今度は振り返らずに答える。
「……なに? まだ、何か用があるの?」
「いや、そうじゃねえけど……」
「だったら、帰らせてもらうよ。もう晩御飯できてるだろうし」
立ち話が過ぎた。
もう晩御飯は出来て、母親が僕の帰りを待っていることだろう。
あんまり待たせていると、怒りを買いかねない。
僕は浩介に背を向けたまま、自分の家と歩を進める。
「……なあ、お前、本当にもう野球はやらないのか?」
「――」
背後から聞こえてきた声に僕は足を止めてしまった。
その質問に、僕の頭の中は空白になっていた。
けれど、それは一瞬のことで、僕は振り返ることなく、
「やらないよ、絶対に。もう二度と、ね」
その言葉を躊躇うことなく言い切って、家に戻った。
もう一年も前の話だ。僕は幼い頃から続けていた野球を中学三年の夏にやめることになった。
中学の野球部では、僕はピッチャーとして活躍していた。
そして、浩介も同じ野球部のピッチャーだった。
僕と浩介はエースの座をかけて、互いに競い合っていた。
もちろん、競い合っていたと言っても、相手を蹴落とそうとかそんな陰湿なものではなく、お互いを高めあう良きライバルだった。僕達は幼い頃からそういう関係だった。
そうして高めあった結果、気づけば、僕達は中学生としては異質と言える実力を身に着けていた。
自慢ではないが、僕と浩介は中学野球としては全国で五本の指に入るほど、有力ピッチャーとして注目されてもいた。
僕の方も、そういう評価をされて、まんざらでもなく、高校は野球の強豪校に入って、いずれは甲子園優勝を目指そうと息巻いていた。
だから、浩介とはいつか二人で甲子園を目指そうなんて夢を語り合っていたこともあったりした。
けれど、そんな関係も評価も中学三年の夏に大きく変わることになった。
地区大会を優勝し、初めての中学の全国大会を目前に控えた練習中、僕は右肩を負傷した。
その怪我はピッチャーとしては致命傷で、利き腕の肩を壊した僕はピッチャーとしての選手生命は絶たれたのも同然だった。
結果、ピッチャーができなくなった僕は全国大会を待つことなく、野球部を辞め、潔くグラブを捨てた。
幸いだったのは、それが高校へのスポーツ推薦前だったということだ。
もし、スポーツ推薦で高校が決まっていた後だとしたら、僕はきっと高校に入学した直後に退学していただろう。
そういうわけで、野球をやめた僕は三年生の夏から晴れて真っ当な高校受験生となり、勉学に勤しみ、そのおかげで野球も大して強くもない進学校として有名な青蘭高校に入学できることなった。
対して、全国大会でピッチャーとして一定の活躍を見せた浩介は、きっと野球の強豪校に進学するのだろうと思っていたのに、彼が進学先として選んだのは、僕と同じく青蘭高校だった。
それを知った時、僕は仰天した。と同時に、何故という疑問が沸いた。
僕は、どうして浩介が野球も大して強くない高校を進学先として選んだのか訳が分からず、一度本人を問い詰めたことがあった。
その時、浩介はあっけらかんとこう言い切った。
『そりゃあ、あれだ。最初から強くて甲子園に行くこと間違いなしって言われている所より、弱小で期待もされてない野球部を強くして、甲子園に出る方が感動的だし、面白いだろ?』
これを聞いた僕は眩暈を起こしそうになったのを今でもよく覚えている。
まあ、実際のところ、浩介の両親は野球ばかりにかまけていた一人息子の将来を心配していたから、県内有数の進学校に入学してくれたことを大いに喜んでいたそうだから、そういった理由もあったのかもしれない。
浩介は僕と違って真面目で前向きな人間だ。ちょっと躓いたぐらいじゃ、挫けない。
この間の夏の大会も、地区大会の三回戦で敗退して、試合が終わった後は悔し涙を流していたのに、次の日にはケロッとして、「さあ、練習だ!」と活き込んでいたぐらいだ。
僕と浩介を繋いでいた野球という共通点がなくなり、そして性格の違いも相まって、僕達の距離は急速に開いていった。
僕は野球という生き甲斐を失い、目的すらも見失って毎日を怠惰に過ごす高校生。
対して、浩介は自分の生き甲斐に毎日全力投球で、いまや誰もが認める超高校級のエースピッチャー。
そんな二人が交わる道などあろうはずがない。
「なんか、疲れた……」
晩御飯が食べて、風呂も入り終えたところで、急な疲労を感じ取った僕はベッドに身を投げ出した。
きっと、浩介なんかと会話をしたせいだ。
疲れるほど話した覚えはないけれど、それでも浩介との会話は、いまの僕にとって精神的に良くないものがある。
だから、明日の提出の課題が出来ずに、このまま寝てしまうのも浩介のせいだ。
結局、僕は何もかも他人に押し付けて、そのまま夢の中に落ちた。
やっぱり僕はどこまでいっても怠惰だった。
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