第3話 宵闇

皆が寝静まった夜中というものは、けっこう暇だったりする。

妖と呼ばれる存在に睡眠が必要だとは誰も思わない通りに、私に睡眠は必要ない。

しとねひとえを引き被って眠っている同僚たちの間を縫い、格子戸を開けてつぼねを出ると、少し肌寒い風が通り抜けた。

通り過ぎる宿直とのいの兵に見つかると、目くらましをかけてそのまま歩き続ける。紫宸殿ししんでんの方へ向かおうとすると、唐突に衣が何かに引っかかり足を止めた。

「この方向を先に進むと清涼殿せいりょうでんです。今上の御座所ござしょへ向かわせるわけにはいきませんよ」

低い声が耳元で聞こえ、ぎょっとして振り返る。

梅の重ねの狩衣かりぎぬ姿の公達が、私のうちきの裾を踏んでいた。

そして目に飛び込んできたのは、とてもとても澄んだ瞳。整った顔立ちに切れ長の鋭ささえ感じるその瞳は、よく見ると暗闇にも宵闇の青にも見える。

「ど、どなた……?」

賀茂保憲かものやすのりと申します」

ニコリと微笑む彼に、前にも感じた冷たく暖かいものが背筋を走り抜け、同時に身の毛が立った。賀茂家の嫡男ちゃくなん。この人、陰陽寮の──‼

「……ばく

短い言葉に身体がピキンと硬直する。

「逃げようとはしないでくださいね? 逃げたら調伏ちょうぶくしてしまいますよ?」

イイ笑顔で言うことじゃないですー!

怖いですー! この人恐いー! 笑顔で何考えているのかわかりませんー!

慌てる私に対して彼は冷静そのものだ、平衡感覚もなくなってしまった私の体が傾くと難なくそれを支えて抱き上げる。

「では、誰にも邪魔されないところに行きましょうか」

嫌です――――――!

そう心の中で叫んでも、誰に聞かれることもなく、彼に抱き上げられたまま人のいない局に連れてこられた。

火の点いた燭台しょくだいが一つ。畳の褥が一つ。何故か几帳がたくさん。

その褥の上に私を寝かせると、彼は格子戸を閉め御簾という御簾を下げ、ご丁寧に几帳を四方に立てかける。

それに満足したのか、唇の端を上げるとゆっくりと私を見下ろして目を細めた。

「じゃあ、少し話をしようか?」

したくございません!

何の因果で私はこんなところに連れてこられたの? 悪いことはしてません! ただ単にちょっと人間に化けて、ちょっとお仕事の真似事していただけです!

「どうして温明殿に潜んでいるの?」

あそこがとても平和だからです。

「あそこで何をしているの?」

何って、ちょっと楽しく姫様付きの女房のお仕事をしていました。

「何も言わないのか?」

何か言わせたいなら、この呪縛しゅばくを解きやがれです!

じろりと視線を動かすと、彼は納得したように手を打った。

「ああ、そうか。ごめんごめん」

サッと彼が手を振ると、身体の自由が半分だけ戻る。だけど、足はなんだかしびれたような感覚のままで動かない。

「な、なにをなさるんですか!? いったい何の話ですか!」

「なんの話も何も、一応、日の高いうちに温明殿に妖がいると、伝えたはずだけれど」

「それとこれとどう関係があるというんですか? 私には身に覚えが……」

言いかけると、彼が微笑みながら目の前に膝をついたから、慌てて身を起こして乱れた単を掻き合わせる。

「そうしていると、うら若き乙女だね。しらばっくれられるのも嫌だから、その姿を解いてしまおうか」

彼は指で印を結び、自らの唇に触れる。その途端にパリンと小さくないかが砕けるような音がして、肌を包み込む薄膜が壊れて消えた。

「な……っ!」

見えたのは白く輝く長い髪。右手の白い指先から手首にかけて広がる薄桃の文様。

一瞬で幻惑めくらましの呪文が解かれた――――!

驚いて目を丸くする私に、目の前の彼も驚いたように口を開けている。

「これはこれは……」

そっと彼の指先が呆然としている私の頬を撫で、それからニヤリと黒い笑みを見せた。

「人の姿をしているよりも美しいとは、君は何の妖なんだ?」

妖じゃないもの!

ムッとして彼の手を払いのけると、彼もムッとしたように眉を寄せる。

どうせバレたのならそんなこと気にしないものね!

「紫宸殿の桜」

「桜?」

「あなたたち人間が勝手に連れてきたんでしょう? あそこに植えられているわ。たちばなと一緒に」

行こうとしていたのは清涼殿ではなくて紫宸殿だ。温明殿から抜けて紫宸殿に行くと、橘と並んで私の本体が植えられている。

ちょっと暇だから、自分の様子でも見に行こうかなーって思っただけなのに、賀茂家の息子に見つかって止められるだけならいざ知らず、本来の姿までさらけ出されてしまうなんて!

なんなのこの男。樹齢……樹齢なんていちいち数えていないけど、桜の精霊である私の幻惑めくらましを一瞬で解いちゃうなんて、どれだけ有能な術師なわけよ?

「別に悪さをしようとしてるわけじゃないわ。ただ見ているのにも飽きてきたから、人間の真似事をして、生活してみようと思っただけだもの」

「人間の世界がそれほど面白いものだとは思えないが。そもそも温明殿の御方は今上おかみに一番近いが政界から外れていらっしゃる存在だ。せっかく人として生活するのなら、もっと華やかな場所を選ばないか?」

「だからこその温明殿でしょ! 下手に弘徽殿こきでん飛香舎ひぎょうしゃに行ったら、やれ東宮立太子とうぐうりったいしだ、男の子を産むんだ、なんて、そんなおっさんたちの思惑渦巻いていて気が休まらないもの」

噛みつくように言うと、彼は思わずといった感じに吹き出した。

「それもその通りだな。桜の君は穏やかな生活がお望みか」

「お望みです。それに政治だなんだというのは嫌ってほど見ているわ。私が咲いているのは紫宸殿なんですからね!」

紫宸殿の中には玉座ぎょくざがある。日常の公務は清涼殿で行われていても、何かの際には紫宸殿もそういった政治の場になる。

その中で渦巻く陰謀やら思惑やら、橘の精霊までが辟易しているほどだ。

「ふぅん。それにしても、桜の妖がここまで美しく若い娘だとは思っても見なかったな」

「妖じゃないわ! 精霊よ、精霊! 陰陽師おんみょうじのくせに言葉の運びが悪いわ。それに私が若く見えるのは当たり前だわ。私はまだ数百年しか生きていないもの」

精霊の世界では幼い方である。それはしっかりと身に染みてわかっている。

よく橘の兄さんには『お前は幼くてそそっかしい』とよく言われる……。

そこまで考えて、何故か彼が近づいてきていることに気がついた。

「人として普通に生活という事は、まわりに君はどのように認識されているだ?」

ニッコリと微笑んでいるけど、この人……怖い。

「ええと……下級貴族の娘で、たまにそそっかしい左近です」

「経歴は本物?」

「そんなわけないじゃないですか。でも、後宮はそういう経歴にうるさいですから、ちゃんとした文章も用意しています」

正確には下級貴族の人を惑わして、自分の娘だと思わせているのが正解。

「ああ、それなら問題ないかな。俺の弟弟子おとうとでしがうるさいかもしれないが、自らがそもそも言えた義理じゃないんだし、目をつむってくれるだろう」

一体何のお話ですか? それよりも近づいてくるのを即刻やめてほしい。こっちは足が動かなくて、上半身しか動かない状態なんだし。

「私をどうするつもりですか」

問うと、彼の動きがピタリと止まった。

「あまり何も考えていない」

少しは考えてくださいませ! 実際、本物の人間の娘なら、気絶してぱったりですよ!

実際、やってみようかとも思ったけど、やめておこう。

今、この場所でやるにしては、この状況はとこの人の纏う雰囲気が怖すぎる。

逃亡の方法としては他に、私が今、人の形を解いて本来の精霊に戻り、姿を消して逃げ出してしまってもいい。

でも、それをやると彼を力の余波に巻き込みかねない。

彼は力の強い陰陽師だから、自分の身くらいは守れるのかもしれないけれど。だとしても、人間を傷つける可能性はあるのだから、それはしたくない。

……それに、現在の尚侍はのほほんとしすぎていてハラハラするときがある。左近として、まだそばにいてあげたい。

考えていたら、彼がスッと引いてくれた。

「お前は優しいのだな」

何の話だろう?

彼は私の髪をひと房手にすると、そこに口づけをした。

「……保憲やすのり様。何を」

「人として暮らすのならば、恋もするのだろうな?」

「こ、こい?」

恋ってあれか。好きとか嫌いとか、文を貰って『ああ、この力強い文字! きっと頼もしくて素敵な人なんだわ』とか言って、見たこともない人に思いをはせるアレか!?

「恋をして、誰かと連れ添って、子供を産むのも人生だろう?」

「いや。それは無理でしょう。そりゃ人の実体はありますから、やることやれば子供も出来ますが、私は普通に人間じゃないんですよ? そもそも人と時間の流れが違います」

「やることやったら子供ができるのか?」

静かな声に何故か戦慄した。

「ちょっと待ってくださいね? あなた、今、何を考えていますか?」

青ざめる私にうっすらと微笑む彼。

「どうしたら桜の精が、現世うつしよに留まってくれるのだろうかと。手籠てごめにするのは趣味じゃないが、それもありなのかな」

「なしですなし! なしに決まってるじゃないですか! だいたい1回や2回、ねやを共にしたからって子供ができるわけでもなし、だいだい、陰陽師なら人間と人間外がつがって幸せに暮らしましたって話がないことくらいは存じているでしょう!?」

「まぁ、そうだな」

彼はクスッと小さく笑うと、パチリと指を鳴らした。

「悪さをするつもりがないのであればいい。夜が明ける前につぼねに戻るといいよ」

足のしびれがいつの間にかなくなっていた。そして、姿も元の左近に戻っている。

「……見逃してくれるの?」

「尚侍が捨て置けと判断されたのなら、俺の出る幕ではないよ。その妖が今上おかみに何かするというのであれば別だが」

「するわけないでしょう。あの子はあの子で頑張っているんだから」

乱れた髪を直しながらぷくっと頬を膨らませると、彼は驚いたように目を見開いた。

「……今上おかみを“あの子”と呼ぶのか?」

「そりゃそうでしょう。私はあの子が生まれた時から知っているのよ。今は結構なおじさんになったけど、今の東宮はあの子に生き写しね。女泣かせなところまで似なければいいのだけれど」

ブツブツ呟くと、彼は肩を震わせて笑い始める。

「近所の世話焼きおばさんかよ……」

「失礼ね。でもおばさんなのは確かだもの、受け止めておくわ」

ゆっくりと立ち上がり、乱れてしまった裾を直すと、几帳を少しずらして彼を振り返る。

「ありがとう。見逃してくれて」

「ああ。今日のところはね?」

今日のところは?

「すべてを見逃すわけじゃないよ、左近。心しておくようにね?」

それはそれはうっとりするような甘い笑顔を向けられて、私の身体はまた硬直しそうになった。

だけど、これ以上ここにいてはいけない。本能的にそう感じで御簾を巻き上げるのももどかしく、格子戸を荒々しく開けるなり急ぎ足で局に戻った。

冷たくて暖かい。ぞくぞくした背筋はそのままに、その心臓はバックバクと音を立てて荒れ狂う。

あの人恐い。今後、近づかないようにしよう。

そう固く誓った。






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