第2話 あやかし

ゆっくりとした時間を楽しんでいた時、その使者は現れた。

「この温明殿うんめいでんには、あやかしが潜んでいるとのことです」

御簾みす越しに聞こえた言葉に、女房たちが顔を見合わせる。

「ここに妖の類が潜んでいるの?」

素っ頓狂な声を出したのは、この温明殿の主である、尚侍その人である。

万物には八百万やおよろずの神が宿り、古く大事にされた物には付喪神つくもがみが憑く。けがれに合えば邸に篭って物忌ものいみという名の精進潔斎しょうじんけっさいを行う。

その手の話は身近にないようでいて身近なもので、慶事けいじがあると神の御業みわざ凶事きょうじがあると妖や物の怪の仕業と思うのが常識だ。

人は見えないものに畏怖を感じるものだと思う。

尚侍に仕える女房は、深窓の姫君とまでいかないにしろ、それなりの下級貴族の姫や、豪族の娘たちが多い。

いきなり舞い込んだ、見えざる“お客様”の話に、気絶までする者はいないが、青ざめる者はいる中、尚侍は天井を見上げると、悠然と檜扇ひおうぎを広げて口元を隠した。

「それはいつからですの?」

「いつからと申しますか……ここ数年、でしょうか」

御簾の向こうでは、妖について奏上そうじょうした青年が居心地悪そうに咳払いしている。

「数年……ということは、かなり以前ね。私たちに何か悪さをされたということもないわねぇ。陰陽寮おんみょうりょうの方々はどうおっしゃっているの?」

古くは厩戸皇子うまやどのおうじの時代から続く陰陽道。それに深く関心を寄せた天皇が、除霊や占を行う呪術者たちを集めて陰陽寮を創り、そこに在籍させた。

いうなれば、妖、物の怪の玄人……陰陽師のいる部署が陰陽寮である。

「悪しきものではないが、異質なものではあるという事でした」

それを聞いた尚侍が、パチリと扇を閉じ嫣然えんぜんとする。

「では、捨ておいてよろしいでしょう。この温明殿で病に倒れるものが続出したり、誰かを驚かせたのであればともかく、潜んでいるものを突いて暴れてもらっても困るわ」

「しかし、尚侍はどう判断されましょう?」

その言葉に尚侍は目を丸くし、女房たちは虚を突かれたような顔になった。

尚侍の役割は今上の御言葉を臣下にお伝えする職務の長。と表向きなっているが、その役目が蔵人所くろうどどころに移ってからは、今上陛下の側室と捉えられることの方が多い。

そもそも数多の女御がいる今上が夜のお渡りになることもなく、尚侍本人も寵を急ぐということもなく、政治的な嫉妬からも離れ、いたって平和に過ごしているが、尚侍が中務卿なかつかさきょうの深窓の姫君であることには違いない。

内裏に昇殿しょうでんして政務を行うことができる貴族を殿上人てんじょうびと、それができない人間を地下人じげにんと、身分制度もはっきりとしているこの時代。深窓の姫君であれば、唐突にやってきた使者と直接会話を交わすことはない。

幾重にも立てかけられた几帳の後ろに尚侍は座していて、近くにいる女房に耳打ちしてから、その女房が使者に尚侍の言葉を伝える……それが普通。

ただ、中宮や女御と呼ばれる姫君たちよりも少しだけ突飛なこの姫君は、そういった時代的に奇異な行動に出るために、尚侍としてこの後宮にいるのである。

「……どうしようか。左近」

助けを求められて微笑んだ。

「と、尚侍もおっしゃられておりますと語尾におつけなさいませ」

今更かもしれないが、ないよりはマシだろう。

「そう、尚侍もおっしゃられております!」

ちょっとやけくそ気味にそう言った尚侍の言葉に、使者はしぶしぶと言ったていで引き下がって行った。

彼を見送り、女房たちがホッと息をつく。

「尚侍。話しかけてはなりませんと、あれほど申し上げておりますのに」

キッと尚侍を見たのは、彼女の乳姉妹ちきょうだいである九条くじょうだ。

「しょうがないでしょう? 思わず声を上げてしまったのだもの」

しょんぼりとしているのは尚侍。身体の弱かった母について行き、田舎で育ったという尚侍は、まだ18歳の姫君である。

いつになったらちゃんと“常識”をわきまえるのか。それは私にもわからない。

「でも、妖ですって。私、まだ見たことがないので楽しみだわ」

「……楽しみ……ですか?」

思わず瞠目して尚侍を見ると、彼女は何のてらいもなく頷いた。

「ええ。楽しみよ。害はないのでしょう? それなら是非、見てみたいわぁ」

目をキラキラと輝かせながら嬉しそうに微笑む尚侍に、まわりの女房たちが毒気を抜かれたような顔をする。

どこまでも突飛で、そしてどこまでも前向きで、明るい尚侍はとてもかわいい。

妖かぁ……それ、私だと思いますって言ったら、きっと笑われそうな気がする。

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