番外編⑥

 噂に聞いていた西の鬼の頭領――カタブキと一戦交えて別れた後。朝東風あさごちの鬼、アサキの名を贈られた東の鬼の頭領は、しばらくは配下と共に奥州の山奥へ引っ込んでいた。カタブキといずれまた見えた時に戦えるように、勢力を拡大するためだった。

 東の国の鎌倉に幕府が開かれた。にわかに人が流れ込んできて、アサキら鬼たちも多少は浮足立った。すぐに線引きをして山奥に引いたが、奥州に進出してくる人間たちを完全に止めることは出来ない。彼ら鬼が生きるための手立てを考えるべく、アサキは数名の配下を引き連れて西へ――京の都へ向かった。

 数百年ぶりに訪れた京は、帝や公家がいるばかりで、かつての華々しさを失って久しいようだった。古く、熊襲くまそ蝦夷えみしの一族を追い立てたのと同じ大和の人間とは思えぬほどだった。

 旅人を装うアサキは、町の人間に坂上さかのうえ家を尋ねた。何人かに尋ねてようやく答を得たが、政治の中心が鎌倉へ移ってより坂上家の威信も落ちているという。かの有名な坂上田村麻呂さかのうえたむらまろの子孫たちは、いまや地方へ散り散りになってしまっているらしい。奥州にも移り住んでいるらしいのだが、アサキにはとんと見当もつかなかった。

 一晩の宿を取ったアサキたちだったが、その夜は当然宿を抜け出し、坂上家を訪ねた。無論、家人には気付かれないように。

 屋敷に足を踏み入れても、田村麻呂の匂いはしなかった。彼が没してから数百年も経つのだから、当たり前だ。幽かな痕跡でもあれば――期待を抱いていたアサキだが、やはりそう上手くはいかない。それでもアサキは、阿弖流為アテルイが死した後に田村麻呂がどんな生を送ったのか、僅かな手掛かりを求めて探した。

 敷地の中を探し回っていると、一人が蔵を見つけた。月はまだ天高く、アサキは配下に見張らせて、蔵に忍び込んだ。夜目の利くアサキにも、蔵の中は暗い。明かりを灯すか迷ったが、見つかるかもしれないと考えて点けないことにした。

 …………長いこと、蔵の中を見ていた。坂上の系図。古い巻物。祭事の道具や衣服など、多くの物が層をなして片付けられている。アサキは巻物や書物の辺りを、下へ下へと遡って探した。

 記録の中に田村麻呂の名前が見え始めた頃、アサキは紙をめくる手を遅くした。役人としてより、武人として名を挙げた田村麻呂。その功績――つまり、蝦夷の征討などが誇張を交えて記録されていた。赤ら顔で身の丈は六尺近い、などと記されているのを見て、アサキは我知らず笑みを零した。田村麻呂は決して大男ではなかった。けれど馬に乗った勇壮な姿は、傍目に実際よりも大きく見せたのだろう。契りを守られなかった怒りは今でもあるが、やはり田村麻呂のことを考えて抱く感情は懐かしさ。大和の人間は憎い。しかし、坂上の血には手を出したくない――そう思い始めた時、手元から一枚の書簡が滑り落ちた。


「手紙……?」


 手元の書物から滑り落ちてきたという事は、間に挟まっていたのだろう。古い物だ。よれた紙を、何気なくひっくり返して、記されている名前に驚愕した。

 ――坂上田村麻呂。

 共に記されている細々した肩書は目に入らなかった。人につけられた評価など関係ない。ようやく見つけた田村麻呂の痕跡に、アサキは胸を昂らせてすぐに中を開いた。

 手紙は、晩年にしたためられた物のようだった。

 子孫や家人、一族にあてた内容が主だった。家を守ること。天皇によく仕えること。鍛錬を怠らぬこと。勉学に励むこと。後のことを考えて色々に綴られたことは、彼の懸念と共に愛情の深さを示していた。果たして、彼の遺言が遂行されたか知る術はない。書物に挟まっていたから、もしかすると読まれてすらいないかもしれない。

 一筆一筆から懐かしさを感じつつ読み進めていると、最後に、と書き出された文があった。目を通して、知らないうちに手に力がこもる。


 ――最後に、救うことのできなかった我が友へ、悔恨と謝罪を。願わくば、又の世に再び友と成らん。


 目頭が熱くなった。手紙にはたはたと滴が落ちる。古い紙はよく水を吸って、墨を滲ませた。

 アサキはくしゃくしゃに握り締めた書簡を懐に仕舞い込むと、涙を拭ってすぐに蔵を出た。見張らせていた配下全員に、引き上げるように指示する。


「山へ戻る」

「戻るんですか? 人間共はどーすんです」

「放っておけ。我らが真に憎むべきは貴族共のみ。平民は捨て置いて構わん」

「その貴族共をやっちまわないんですか」

「まだ戦力が十全ではない。生半可に相手どれば、人間相手とはいえ手こずるやもしれん。時期を待つ」


 これ以上の口答えは無用とばかりに睨みつけると、騒がしい配下たちも声を潜める。

 大和の人間を恨む気持ちは決して消えないだろう。けれども見る人を手あたり次第殺すわけにもいかないし、その必要もない。鬼として二度目の生を受けた以上、人を殺めることは道理だ。けれどそれは憎しみではなく、生きるためであるべきだ。獣や魚を食らうように、自らが生きるために人を殺すべきだ。そうでない殺生は、自然の摂理に反する。憎しみで人を殺せば、今度は人が憎しみで鬼を殺しに来る。誰かが止めねば、殺生の輪廻は止まらない。それは、阿弖流為アテルイと田村麻呂ではできなかった。しかし阿弖流為アテルイは、アサキとして二度目の生を得た。

 ならば、為すべきことは一つ。

 ――願わくば、又の世に再び友と成らん。


「田村麻呂よ……お主と友と成れる又の世、オレが作ろう」


 誰にも聞こえぬ声で呟くと、アサキはまだ深い夜の京に消えていった。

 アサキが奥州へ帰ってから、彼とカタブキは目に見えて立場を変えた。人間を全て滅ぼそうとするカタブキら西の鬼と、人間との共存を望むアサキら東の鬼。彼らは幾度となく互いの領分に踏み入り、拳を交えた。人の世が動乱に包まれれば、鬼たちも乗じて争いを重ねた。

 時が流れ、人の世の文明が開化すると、アサキは勿論、カタブキも息を潜めるようになった。彼らが直接顔を合わせることが少なくなったのは、その頃からだ。東西が互いの領分であるという暗黙の了解の元、更に時は流れ、現在に至る。






 アサキは己の過去も恨みも全部飲み込んで、あまつさえ他の鬼たちの恨みさえも一身に背負い、その上で住処を分けて人と生きてゆくことを選んだ。二度目の生を受けた訳を、彼はそのように了解した。彼自身が全てを飲み込んだとしても、同朋等は簡単には納得しなかった。何百年もかけて説得し、時には戦い、ようやく配下である東の鬼たちのほとんどがアサキの考えに従うようになった頃、彼らが鬼となってから千年は経っていた。

 他者の考えを、憎悪を打ち消すのは容易な事ではない。己の配下でさえそうなのだから、カタブキ亡き西の鬼たちは更に難航するだろう。けれどアサキは、何百年かかっても諦めるつもりはない。全て背負うと、カタブキに誓った。己に誓った。二度目の生を全うするまでは、膝を折ることも弱音を吐くことも許されない。

 固い決意が、アサキを日ノ本の鬼の頭領たらしめていた。


「一枚の手紙が、オレとカタブキの明暗を分けた。オレとカタブキを太陽と月に例える者もあろうが、むしろオレは、田村麻呂やお主が太陽ではないかと思うのだ」

「私と田村麻呂さんが太陽、ですか?」

「ああ。月は太陽の光を受けて光るであろう。オレは光を受ける面、カタブキは光を受けられぬ月の裏側の面よ」


 それまで静かに話を聞いていた麻里奈が尋ねると、アサキは大きく頷いた。東と西。太陽と月。互いを比べ、比べられ続けてきたアサキは自分がカタブキと同じ月だと語るが、果たしてカタブキはどう考えていたのか。今となっては、知る術はない。


「田村麻呂の手紙がなければ、オレはきっと、今でもカタブキ同様に人間を恨んでいたであろう」

「それじゃあ、今は?」

「全く恨んでいないと言えば、まあ、嘘になる。やはりオレは鬼なのだ。人間を、心の底から許すことは出来そうにない」

「そう……ですよね」


 麻里奈が肩を落とすと、アサキは「しかし」と言葉を続けた。


「しかし、田村麻呂と出会えた先の世。麻里奈と出会えた又の世。生きてさえいれば、出会い、交わり、言葉を交わすことが出来る。お主と出会えたこの世界、恨みなぞで詰まらぬものにしたくはない。愛し、慈しみ、大切にしてゆきたい――ただ、その気持ちが何よりも上回っている」


 握り締められた麻里奈の拳を、アサキは大きな手で包み込む。己のために。友のために。そして、麻里奈のために。柔らかい笑みを浮かべるアサキは愛しい女の顔をじっと見つめていたが、やがて不意に顔をそらした。


「うむ……流石に照れくさいな」

「あ、アサキさんでも照れるんですか?」


 思わずつられて照れくさくなった麻里奈も顔をそらし、横目に伺う。アサキはほんのりと頬を赤く染めながら振り返った。


「何を言う。オレはお主と一緒にいる時は、いつでも羞恥でこの心臓が張り裂けそうなのだぞ」


 オレの気も知らんで、とぼやくアサキの言葉が、じわじわと麻里奈の胸に広がっていく。頬が熱を持つ。心臓が早鐘を打つ。晩夏の暑さばかりでない汗が首筋から背中へ流れた。


「しかし昔のことよ。詰まらぬ話ではなかったか?」

「そんなことないです! 私……アサキさんのこと、何も知りません。だから、どんなことでも聞きたいんです」

「そうか……知りたいと思ってくれるか、オレのことを」


 麻里奈の言葉は本心だった。アサキのことは好きだ。けれど、生きて来た世界が、時間が、あまりにも違い過ぎている。鬼も人も、感情を持ち、泣き、笑い、怒るところは同じでも、積み重ねてきた過去や歴史は如何いかんとも埋めがたい。ならば一つでも多く、知るしかない。何がアサキを作って来たのか、彼の口から。

 麻里奈は人間だ。家族や友人には、世に鬼が存在することすら話していない。急に学校をやめて、アサキに嫁ぐわけにはいかないのだ。けれど彼の側にはいたい。許される限り、一番近くに立っていたい。これほど募る恋慕の情を、麻里奈は今までに知らなかった。

 アサキはアサキで、麻里奈の言葉を噛み締めていた。今まで何度も人間の女をさらった。鬼の女も寄って来た。単純に強さに惹かれる者もあれば、鬼の頭領の座に目が眩んでいる者もあった。しかし皆一同に、武勇の話を聞きたがった。問われても答えなかったかもしれない。しかしアサキは、己に近付く女たちが己の過去へ興味を示した覚えがなかった。アサキはアサキであって、阿弖流為アテルイではない。しかし阿弖流為アテルイがあったから、アサキがいる。

 今、真っ直ぐに彼を見つめる人間の少女は、どんなことでもアサキのことを知りたいという。彼女はむしろ、武勇の話を苦手に思うかもしれない。ならばどんな話をすれば喜んでくれるだろうか。美しい花の咲く渓谷の話か、珍しい生き物の住む森の話か。くだらぬことでタタキと喧嘩した話をしても、麻里奈は笑ってくれる気がする。それが、アサキにとっては何よりも嬉しいことだった。


「――麻里奈」

「はい?」


 名前を呼べば、麻里奈は恥ずかしそうにはにかみながら答えた。それだけで、アサキの胸はいっぱいになる。


「お主はやはり、オレが見初めた女子よ。……オレの嫁に来い。絶対に後悔はさせん」


 いつものアサキの言葉に、返ってくる言葉も変わらない。


「ごめんなさい。まだまだ、学校があるので」

「やはり駄目か……」

「というか、アサキさんも諦めませんね? あと三年はかかるっていつも言ってるのに」

「いつお主の気が変わるかわからんだろう。もし麻里奈が他の男の嫁になってしまったら、オレはその男を殺しかねん」

「怖いです、アサキさん!」


 嘆息しながら零されるアサキの言葉に、麻里奈はおののく。他の男、と言った時に双方が思い浮かべたのは麻里奈の先輩である一寿だった。普段は陽気に笑っていても、アサキは鬼の頭領だ。やるといったら本当にやるだろう。麻里奈は苦笑を浮かべた。


「心配しなくても、私はアサキさんから離れたりしませんよ」

「……本当か?」

「はい」

「本当の本当にか?」

「本当の本当にです」


 何度も確認してくるアサキの姿に笑いと愛おしさがこみ上げる。

 ただただ、お互いへの想いが溢れてきて仕方がなかった。恋しいと思う気持ち、愛しいと感じる想い。繋いだ手から、相手へ伝わっている気がした。


「ねえ。アサキさんの話、もっと聞きたいです」


 麻里奈がせがむと、アサキはふにゃりと表情を和らげた。


「良かろう。では、雪の中に咲く花の話をしよう。あれは越後の山で聞いた話であった――」


 日が傾いて、木陰の色を濃くしていた。けれども辺りはまだ明るく、夕方とは言い難い。そよ風は優しく涼しげだが、蝉の鳴く声は耳に煩い。秋はまだ遠く、夏はなお、終わりを告げない。

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女子高生、鬼の花嫁になる 星谷菖蒲 @ayame_star13

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