番外編⑤

 目を開けて、何度か瞬きをする。視界を埋め尽くしているのは青々と茂る枝葉と、その隙間から僅かに見える夜の空だ。

 むくりと体を起こし、辺りを見回す。闇に紛れているが、懐かしい雰囲気の森だ。年月を感じさせる立派な木々は、果てしなく続いているように思えた。光は見えない。遠くから梟の声が聞こえる。


「オレは……」


 無意識に、首にぴたりと手を当てていた。傷一つない。けれど妙な違和感があることに気付き、首筋をぐるりと撫でる。頭が軽いのだと気付いて見れば、長かった髪が肩の下あたりでばっさりと切れていた。

 顔を上げる。


「此処は何処だ?」


 拳を握る。


「今は何時いつだ?」


 深く、息を吐く。


「オレは――――死んでいないのか?」


 幽かな呟きは、夜に響いた。答える者はいない。

 慌てて立ち上がり、前も後ろもわからないまま走り出す。行く先など無いのだから、そもそも前も後ろもないのかもしれない。……何処へ行こうというのか。宛はない。

 けれど、何かを求めてひた走った。

 暗い森の中だったが、目が慣れてくると、闇夜も存外明るいことに気付く。月や星の光が、木々の隙間から落ちているのだ。


「ハァ、ハッ……」


 息が切れるほど走ったのなんて、いつぶりだろう。否――そもそも、今は何時いつなのだろう。


「っ!!」


 急に視界が開けて、たたらを踏む。辺りを見回せば、河原に出たのだとわかった。白い石の河原が続く幅広な川には、どこか覚えがある。けれどすぐさま、呆気にとられている場合ではないと思い、駆け寄って水面を覗き込んだ。


「これは…………夢か……?」


 水面に映っているのは、自分の顔だった。それは間違いない。けれど額には、小さな瘤が二つ付いている。よく見れば、地面についた両手も見慣れぬ浅黒さに染まっている。着物の袖を捲り上げても同じだ。これは良く知った、しかし同時に全く覚えのない体だ。

 訳が分からなかった。頭が考えることをやめて、笑いがこみ上げてくる。


「は、ハハ……」


 笑うしかなかった。もはや、涙も流れない。

 混乱していた。けれど心の奥で、わかってもいた。

 この身は一度死んだ。しかし、蘇った。二度目の生を得たことは、この体を見れば明らかだ。

 何よりも、気付かないふりをして、忘れようとして、目を背けていた、――――首を落とされる瞬間の、記憶。

 ひたりと、両手を首にあてる。

 ――蝦夷えみしはもはや人に非ず、鬼である。

 ――己らが我ら一族を鬼と呼ぶのなら、望み通り鬼になってやる。

 脳裏を駆け巡る言葉。光景。感情。

 思い返せば、胸の内は燃えるように、喉の奥は焼けるように熱くなった。何もないはずの首が熱をはらんだが、逆に指先は冷えていくようだった。

 ハッと顔を上げる。


「我が一族は――ッ!」


 立ち上がると森に向かって踵を返した。まろげるように駆ける。足がもつれる。前につんのめっては、近くの木に手をついて走り続けた。着物の裾が足に絡む。汗で張り付く布が、髪が、むしり取ってしまいたいほどに煩わしい。鳥のように飛べたならどんなに良いことか、今ほど強く思うことはなかった。

 思い出した。全部ぜんぶ、何もかもを、思い出したのだ。

 此処は、かつて仲間と共に愛した土地だ。大和の人々に蝦夷と呼ばれた一族が生きていた土地だ。自らの命と引き換えにしても、守りたかった土地だ。

 よく似た木々の林立する森の中でも、一寸先も見えぬ闇の中でも、間違いなくわかった。心が覚えている――此処が故郷だと。

 森の中で、子供たちと遊んだ。川へ行って、水浴びをした。夜になれば、星を眺めた。……何一つ、忘れていない。忘れるはずが、ない。

 覚えている。覚えていた。けれどすぐに記憶のそれと結びつかなかったのは、辺りの様子があまりにも異なっていたからだ。茂る緑は増え、河原も広くなっていた。空気は同じなのに、妙な違和感が心に燻っている。嫌な予感がじわじわと首を絞めていた。


「もうすぐだ……すぐに、村が見える、はずだ……ッ」


 息を切らして駆けた。草木をかきわけ、枝葉を踏み、闇を縫って。

 夜が明けるのではないかと思うほど、長く思える時を走った。おそらく、それほどの時間は経っていないのだろう。空は黒々と塗りつぶされたままだ。

 辺りが一気にひらけた。空気が流れ込む。闇に目を慣らすまでもなく、周囲の様子がよく見えた。

 よく――――見えすぎるくらいだった。


「…………ああ…………」


 わかっていた。闇の中で目が覚めた時から、薄々気付いていたのだ。

 死んだはずなのに、生きていること。

 覚えている景色が、異なっていること。

 それらが意味するところは一つだ。


「己……きっと許しておかぬぞ、大和の者共……!!」


 人々が愛しあい、笑いあい、戦い、そして生き続けたその土地には――何もなかった。何、ひとつも。あばら家さえも、畑さえも、枯れた井戸さえ見当たらない。だだっ広い焼け跡だけが、星明かりを受けて広がっている。

 その場に膝を折って背中を丸める。両の手は乾いた土を掴み、そのまま爪が刺さるほど強く握り締めた。地面になすりつけた額を、もはや己の意思で上げられる気はしなかった。


「……己らの望み通り、オレは鬼になってやる」


 焼けるように、首が痛んだ。突き刺さるように、額の瘤が痛んだ。


「クソッ……!」


 喉から血が出るほどの嗚咽が零れた。

 とめどなく滑り落ちる涙は、何もなくなった大地へ静かに飲み込まれていった。






 ようやく顔を上げた頃には、すっかり夜が明けて太陽が高く昇っていた。乾いた涙が固まっている。腫れあがった瞼をゆるゆると持ち上げた。喉が干上がったように渇いていた。

 額に手を当てた。何の凹凸もなくつるりとしている。そのまま手を見れば、まったく浅黒くない。昨夜見たものは夢だったのかとも思ったが、目の前に広がる乾いた土地を見ていると、真だと思い知らされる。

 ゆっくりと立ち上がると、太陽の光に目眩を覚えた。

 ――其方そなたとの契り、必ずや……っ!

「――田村麻呂たむらまろ

 にわかに閃いた言葉で我に返る。呆然としている場合ではない。

 本当に一族は征伐されたのか、確かめなければならない。田村麻呂が誓ってくれた言葉を、どうにか信じたい。目の前に広がる光景は何かの間違いなのだと、そう言ってほしい。

 西へ――京へ行かねばならない。

 そう思うと、体は急に軽くなった。

 昼夜を問わず、幾千里を駆けた。喉が渇けば、泥水でもすすった。腹が減れば、死体でも食らった。疲れれば、木の洞で死んだように眠った。

 しかし、武蔵国むさしのくにの辺りについた頃、坂上田村麻呂さかのうえたむらまろは既に死んでいることを知った。

 都から遠く離れた東の田舎で聞いた噂だ。にわかには信じられなかったが、時を尋ねれば阿弖流為アテルイが首を落とされてから二十年以上経っているとのこと。そして、田村麻呂が没してから、やはり十年以上は経っているらしいのだ。

 東者あづまものが事の仔細を知っているはずもなく、彼らも、奥州に巣食っていた蝦夷と言うまつろわぬ民が朝廷に征伐されたとしか語らなかった。しかし、それだけで十分だった。

 田村麻呂の死の真偽が定かでなくとも、もはやどうでもいい話だった。

 阿弖流為アテルイが愛した一族はいない。そして阿弖流為アテルイは死に、此処にいるのは、人ではない……鬼だ。喪われた者は戻らない。没した命は蘇らない。世に存する全てのものは、いずれ皆、風の前の塵のように滅びるだけだ。

 無いものを取り戻すことは出来ない。――だが、有るものを奪うことは出来る。


「……許しておかぬ。大和の民よ。我が友よ。オレは――決して、お主らを許すことは出来ん。血の一滴まで残さず、己らを絶やしてくれよう」


 すぐに京へ行くつもりはない。しかし、いずれ訪ねるつもりだった。大和への恨みを抱えて、無念のうちに死んでいった同朋がいるはずだ。彼らを探し、集め、力を蓄えねばならない。鬼ならば鬼らしく、人に仇を成してやろう。人を食ろうてやろう。

 体の奥が燃えるように熱かった。頭が割れるように痛かった。

 心で渦巻く色々な感情が、泥のように溜まっていった。

 ――――そうして、幾許いくばくの年月が流れただろう。

 多くの同士が集まった。人間であった時の記憶が有る者もいれば、記憶は無く、ただ人間への憎悪を抱く者もいた。彼らと共に東の国を荒らしまわった。多くはないが、かつて大和に恭順し、俘囚ふしゅうとして奥州の地の守護を任ぜられた者たちの子孫もいた。恭順した者たちは皆不自由なく生きたと思っていた。しかし、蝦夷であったというだけで蔑まれ、肩身の狭い思いをしていたという。

 情けない話だった。一族を想ってとった行動が、何一つ一族のためにならなかった。ただ、骸を重ね、恨みを募らせただけだ。


「アテルイ――っと、アンタはもうこの名前じゃなかったな」


 何て呼べばいい、と訊ねてくる配下からふいと視線をそらす。

 己は、鬼になってもなお、彼らを率いる長となる。しかしかつて人であった時の名は、もはや捨てた。名前などあってもなくても構わない。けれどその時、風が吹いた。知らず、口が開いていた。


「――――東風こち


 ただ一言を言い置くと、すぐに緑深き山へ姿を消した。

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