番外編②

「大和の奴ら、ケツまくって帰りやがったな。他愛もねえ」


 愉快げに喉の奥を鳴らすと、報告に来た同朋たちも声をあげて笑った。


「まったく、アテルイの策は外れることがない」

「俺達も安心して、アンタの言うことに従えるってもんだ」

「当たり前だ。元々、地の利はオレたちにある。キノコだか木の実だか知らんが、いくら朝廷から兵を送ってこようが無駄な話よ」


 アテルイ、と呼ばれた男は鼻高々だ。

 沢の水よりも深い青の着物をまとい、深草色の袴の裾を絞り、腰に赤い帯を巻いている。さらにその上に生成り色の長羽織を、袖を通さずかけていた。

 涼しげな青い目は、玉のように艶のある輝きを湛えている。

 腰まである長い髪へ乱暴に指を入れたあと、アテルイはむしろで組んだ胡坐あぐらの上に肘をついた。


「しかし奴ら、時間と人手だけはクソみてぇにあると来た。追い返してやったが、おそらく懲りずに立て直してくるぞ。オレたちもしばしの休息をとったら、また戦に備えねばならん」


 笑みを潜めて真剣な表情で語るアテルイの言葉に、彼の同朋――蝦夷えみしの一族たちは、深く頷いた。

 奥州の山深く。畑を耕し、獣を狩り、時には海や川で魚も捕えながら暮らしている一族があった。自らの生まれた土地と先祖を何よりも愛し、敬って生きる彼らは、時の権力――中央の大和朝廷から、蝦夷と称されていた。朝廷にまつろわぬ民と言われていたのは事実だが、彼らは朝廷に従わぬかわりに、歯向かうつもりもなかった。ただ、己の暮らしを安寧に送りたい。それだけが、彼ら一族の尊い望みであった。

 しかし時を遡り、神話の時代。蝦夷の一族同様、朝廷にまつろわず、己の暮らしを営んでいた熊襲くまその一族は、長から老人、赤子にいたるまで血の一滴も残すまいと征伐された。奥州から遠い、西の出来事だ。大和朝廷はそれほど苛烈に国を治める気なのだと、東の果てであるこの地まで話は伝わった。

 ほどなくして、朝廷は征伐隊を組んで蝦夷を攻めた。多くの人が、馬が、豊かではないながらも懸命に生きる人々の土地を荒らした。女子供は連れ去られ、男は首をはねられて体は野に打ち捨てられた。

 それでも一族のために戦い続ける彼らの元へ、にわかに訪ねた者がある。

 ――阿弖流為アテルイである。

 どこからともなくやって来たアテルイは、はじめ旅の者と名乗った。常ならば旅人を歓迎する蝦夷たちも、時期が時期だけに用心深く、彼を捕らえた。しかしアテルイは意に介した様子もなく、朝廷が攻め込んでくる場所を予見し、先回りするための手立てを教えた。アテルイの言葉は尽く的中し、ついには征伐隊を追い返した。

 人々はアテルイに感謝し、この地に残ることを勧めた。アテルイは頷いた。そして残された一族と力を合わせ、大和朝廷から守ってゆくことを誓った。


「しかし、呰麻呂あざまろが捕らえられてからはいよいよ観念するしかないと思ったもんだが、いいところへ来てくれたなあ」

「いや。オレも、蜂起した彼奴あやつが捕らえられたと聞いて、力になろうと来たんだ」

「あの時は疑ってすまなかったなあ、アテルイ」

「疑わなければ、むしろオレはお前らを叱責していただろうがな」


 違いねえ、と彼らは声をあげて笑う。度重なる戦に疲弊していた頃、人々はこうして笑うこともなかった。軽い口を叩けるようになったのも、すべてアテルイのおかげだ。蝦夷の人々にとって、アテルイは大切な仲間の一人だ。しかしそれ以上に、彼らを救い、導く確かな指導者でもある。信頼と尊敬の念は深い。


「そうだ! アテルイ、今晩の宴に来るだろ? 娘たちが、アンタに会いたいと言ってるぜ」

「そうだそうだ。アンタは俺達の長なんだから、たまには宴にも顔を出してもらわねえと」


 武器を手放してアテルイに詰め寄る彼らは、はた目にはただの村人だ。戦が終われば、一族を愛するただ人に戻る彼らを、アテルイは苦笑しながらぐるりと見回す。


「悪いな。オレは外で体を動かしとくよ」

「またそれかよ!」


 話を持ち掛けた人々は不満そうな声を上げたが、誰一人としてアテルイを止めることはない。

 アテルイ自身、賑やかな場が嫌いなわけではない。むしろ酒や踊りは好むところだし、年を重ねるごとに美しくなる娘たちを見るのも良いことだ。しかし同時に、指導者たる彼が戦地へ赴くことは少なく、武人としても勇ましい故に、戦が終わった後は一人で腕を振るうことが多い。誰か相手する者がいれば良いのだが、ただでさえ大柄なアテルイの武器は重い金棒なのだ。彼以外に振るうことのできないそれを受けられる強者は、いくら一族中を探し回ったとしても見つからない。


「まあ、気が向いたら行ってやるさ。あんまり調子に乗って飲み過ぎんなよ」


 笑い声の混じる返事を聞くと、アテルイは傍らに置いてある金棒を手に腰を上げた。

 すれ違う人々に挨拶しながら、アテルイは人気のない、いつもの場所へ来ていた。村の喧騒がほどよく聞こえ、けれど滅多なことでは邪魔の入らない、開けた岩場だ。森の中では村の様子がわかりにくいし、動物が寄ってくることもある。しかし、ここならばその心配はない。

 短く息を吸うと、両手で握った金棒を、力いっぱい振る。金棒を振るうたびに、肩にかけた生成り色の羽織と、背中に垂らされた長い黒髪が揺れた。何度も素振りするうち、じわりと額に汗が浮かぶ。それでもしばらく、アテルイは腕を振るい続けていた。


「…………ふぅ」


 ようやく一息吐く頃には、すっかり日が沈んでいた。辺りは宵闇に包まれ、空には煌く星々が瞬いている。額と首筋の汗を拭うと、アテルイはその場に腰を下ろして、そのまま寝転がった。

 村の方から、陽気な歌と騒ぎ声が聞こえる。戦勝を祝う宴にしても、蓄えが多いわけではないため、質素なものだろう。それでも彼らは、今日の命が有ることを喜び、感謝する。それは尊いものだ。人はかくあるべき――そう思うからこそ、アテルイは彼らと共に戦っている。

 今の暮らしに、不満はない。蜂起した伊治呰麻呂これはりのあざまろが捕らえられて、アテルイがこの地に根付いて、早幾年。終わりの見えない戦に、勿論アテルイも疲弊していた。それでも懸命に、ただ生きる人々の姿は眩しく、美しい。いつか争いが止み、この地が豊かな実りを得られる日を、何よりも待ち望んでいる。

 しかし一方で、アテルイの中の武人の血が騒ぎ立てる。

 ――立て。そして、己が手で敵を討て。

 血に染まった大地に馬を駆り、金棒を振るい、一族を脅かす敵を打ちのめせと、心が叫ぶ。当然、一族の長であり、彼らを率いていかねばならないアテルイにそんな真似は出来ない。己の力に自信はある。しかし万が一があれば、誰がこの地を、人々を守るというのか……そう思えばこそ、アテルイは己を抑えなければならなかった。


「朝廷に、もっと骨のある奴がいれば良いんだが」


 誰にも言えない、けれど、確かに胸の内にある言葉を、アテルイは一人ごちて、目を瞑った。






「大和の人間を捕まえた?」

「ああ。すげえ剣幕で馬を駆ってたかと思うと、ぴたっと止まって、武器も捨ててな」

「ほう」

「『お前たちの長と話がしたい。捕えてもらって構わないから、話を通してくれないだろうか』とぬかしやがる」

「ふむ……それで、其奴そやつは?」

「引っ立てて来てる」


 アテルイ率いる蝦夷軍が、紀古佐美きのこさみ率いる朝廷軍を壊滅に追い込んだ戦から数年。あれからも征伐隊は何度も送られてきたが、アテルイはその尽くを打ち払ってきた。戦はあれど安定した暮らしを送っていた彼らの元へ、朝廷が再び征伐隊を送り込んだ。大伴弟麻呂おおとものおとまろ率いる朝廷軍は、アテルイの策をくぐりぬけ、多くの同朋を捕らえた。如何いかにして彼らを救い出すか、険しい表情で考え込んでいたところで先の報である。少しの逡巡を見せたが、すぐに覚悟を決め、アテルイは頷いた。


「分かった。一先ひとまうてやろう」


 武に優れ、それでいて身一つで敵将の元へ乗り込んでくる強者。長として、智将である相手に会わないわけにはいかなかった。この度の戦の立役者も、おそらく彼の者であろう。

 何より、アテルイ個人としても、見えたい相手だ。


大墓公阿弖流為たものきみあてるい様」


 武に優れ、智に優れる朝廷の将がどんな人物であるか考え込んでいると、同朋に名を呼ばれた。改まった呼び方に、アテルイの表情も自然と引き締まる。


「――私は、坂上田村麻呂さかのうえたむらまろと申す者。御存知の通り、大伴弟麻呂の遠征に付いてきた大和の者だ。其方そなたが噂に聞こえる、蝦夷の長……阿弖流為アテルイ殿か」


 引き締まった面は、敵将であるアテルイを前にしても恐れを知らず、泰然としている。きつく結い上げられた髪と、明るい黄蘗色の着物で若く見えるが、おそらく年はアテルイよりも少し上。当然、武器は身につけていないが、着物の上からでもわかるほど肉体は鍛えられている。この男が捕らえられたのは自らの意思であり、何かの企みがあってのことだと知れた。


「いかにも。オレはこの地を守り、この地に生きる一族の長――大墓公阿弖流為たものきみあてるい。……お前、坂上と言ったな。率直に聞くが、何が狙いだ」

「ハハ。流石、長年大和の軍を寄せ付けぬだけのことはある」

「御託は良い。言わねば殺すぞ」


 アテルイの言葉に目を丸くして、陽気に笑った田村麻呂にぴしゃりと言い放つ。田村麻呂は蝦夷の人々くらいならば抑えつけて逃れることが出来るだろう。しかしさすがに、アテルイを相手取るのはいくら彼でも難しいはずだ。アテルイはそれを理解して、田村麻呂を険しい表情で睨みつけていた。


「いや、失敬。しかし、私が望むことはただ一つ。簡単なことだ――其方そなたらに、降伏してもらいたい」

「……智将と思ったが、莫迦であったか」

「待て、阿弖流為アテルイ殿。もう少し、私の話を聞いてくれ」

「何を聞けと言うのだ」


 金棒を持って立ち上がったアテルイに、田村麻呂は慌てて声をかける。周りの者たちが一様に殺気立っていることに気付きながらも、田村麻呂は動揺していない。肝が据わっているだけの愚か者かと思ったが、目を見ればいかにも真剣だ。


「……許す。話せ」


 肩に金棒を担ぐと、アテルイは乱暴に腰を落とした。


「感謝する、阿弖流為アテルイ殿。……今までの戦いで其方そなたも感じたことと思うが、私がいる限り、此度の征伐は失敗することはない。いくら其方が優れた長であろうと、幾多の戦を積んできた私の前では脆い砦よ。胆沢いさわにも、直に大和の城が建とう。そうなれば、朝廷に抗い続ける蝦夷の一族は息の音が止まるのを待つばかり。……分かるか? このままで其方そなたらは殺されるしかない。しかし、降伏すれば我らとて無碍むげにはせぬ。俘囚ふしゅうとして、これからもこの地を守ってもらうように取り図ろう」


 アテルイの青い目が、細く眇められる。田村麻呂は真剣な表情を崩さず、訴えかける。


阿弖流為アテルイ殿。一族の長として、其方の選ぶべき道は一つだ」

「…………」


 アテルイは目を瞑ると、長く息を吐いた。

 田村麻呂が、一族の人々が、みな息をのんで言葉を待っている。

 ゆらりと立ち上がると、アテルイは冷めた目で田村麻呂を見下ろした。


「言いたいことは、それだけか?」

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