番外編――かつて、友であった者たちの話――
番外編①
「ごめんなさい、アサキさん。お待たせしました。急に顧問の先生に捕まっちゃって……アサキさん?」
慌てて公園に駆け込んできた麻里奈に目もくれず、名前を呼ばれたアサキは、腕を組んだまま目を閉じてベンチに座り込んでいる。
怪訝に思った麻里奈は、アサキの隣に腰を下ろし、息を整えながら様子を伺った。やがて、麻里奈の視線に堪えかねたのか、アサキが片目を薄く開ける。真っ青な目が、麻里奈の視線と交わる。
「…………いや、何でもない。息災か、麻里奈?」
「ふふ。はい、元気です」
「む? 何故笑う」
「アサキさん、いつもそれ聞くなあって」
麻里奈の笑みに見惚れて言葉を失くしかけたアサキだが、すぐに我に返った。
「当然だ。お主に何かあれば、オレは何とかせねばならん。お主はいずれ、オレの嫁となる娘なのだから」
「あ、そういえば」
アサキの優しい、慈しむような視線を華麗に受け流し、麻里奈は手を叩いた。流されたことにアサキは少なからずむっとしたが、麻里奈がそばにいてくれること、己と言葉を交わしてくれることの喜びに勝るものはないと考え、すぐに不満に思う気持ちを打ち消す。
「アサキさんこそ、元気なさそうですけど、また何かあったんですか?」
――また。
その言葉に含まれるものを、アサキはよく知っている。
ひと月ほど前の夏に、東の鬼の長であるアサキは、同じく西の鬼の長であるカタブキと、千余百年にも及ぶ長い因縁に決着をつけた。その際に巻き込んでしまったのが、この麻里奈だ。
彼女自身はごく普通の人間で、アサキと出会うまでは鬼の存在も知らなかった。しかし麻里奈は、かつて
不思議な縁によって巡り合った者たちだが、各々の気持ちを貫いて、今アサキは麻里奈と共にいる。
「何、西の鬼共の件はおよそタタキに任せてある。何とかするだろう。それにオレ自身も、この通りピンピンしておる。お主に会うておるからな」
「もう。すぐにそういうことを言う」
「事実だぞ。オレは麻里奈に会うと、元気になるのだ」
麻里奈が長野の祖父母宅を後にして、東京に戻ってからしばらく、アサキからの音信はなかった。それゆえすっかり油断して――もっと言うならば諦めていた麻里奈だが、再びアサキが目の前に現れたことにより、以前より素直に彼の気持ちを受け入れるようになった。そうは言っても、口説き文句をいくらか受け流せるようになっただけのことで、未だに彼の求婚を是としたことはない。
そしていつからか、麻里奈の部活がない日は、こうして公園のベンチに並んで腰かけ、話をするようになった。
「しかし、そうだな……」
いつも通りのアサキに安堵して苦笑を浮かべた麻里奈は、続くアサキの言葉に首を傾げる。アサキは視線を、一瞬だけ麻里奈からそらした。
「実につまらん!」
「……はい?」
「麻里奈と語らう一時など、瞬く間に過ぎてゆくわ。だというのにお主は、やれ学校だ、やれ使いだと早々に帰ってしまう。……まったく、オレは寂しくて仕方がないぞ」
腕を組んでつんと顔をそらしたアサキの言葉に呆気に取られていた麻里奈だが、やがて笑みを深めていく。横目で見やったアサキは、ますます面白くなさそうに唇を尖らせた。
寂しい、という感情は、先日まで麻里奈が胸に抱き続けていたものだ。アサキに再会して以来、薄れていったその感情が、今度はそのアサキの胸に居座っているという。おかしくないはずがない。そして何より、嬉しくないはずがない。
「ちょっと待ってくださいね」
麻里奈は一言断ると、制服のポケットから携帯電話を取り出して操作した。何か検索しているようだが、当然アサキには何をしているのかすらわからない。
ちらちらと視線を送り待っていると、やがて顔を上げた麻里奈が、満面の笑みでアサキを見つめた。アサキは思わず、きょとんと見つめ返してしまう。
「アサキさん。明日、お出かけしましょうか」
「明日?」
「はい。急遽、部活がなくなったので。……あ、お忙しいですか?」
「お主の申し出以上に火急の件などあるわけがない。
「良かったぁ」
麻里奈がほっと胸を撫で下ろすと、アサキは愛おし気に目を細めて麻里奈の頭を優しく撫でた。大きな掌がはらむ熱は、残暑が厳しい今も、決して嫌なものではない。
「ところで、何処へ行くのだ?」
「広くて、あんまり人も多くない自然公園があるらしいんです。そこだったら、もっとゆっくりお話しできそうですし」
にこにこと柔らかな笑みを浮かべながら提案する麻里奈の姿に、アサキはただただ眩しさを感じていた。
せっかく再会してからも、事実、共に過ごせる時間は多くない。それでも日々募っていく愛おしさを、アサキは勿論、麻里奈も感じていた。静かに、けれど確かに、思いが積み重なっていくのを、互いに感じあっている。
アサキが麻里奈に手を伸ばそうとした時、ちょうど彼女は立ち上がった。
「夕方だと遅くなっちゃうけど、朝だと早いですよね。昼過ぎにこのベンチで待ってますから、一緒に行きましょうね」
「――ああ」
ぽかんと口を開けたまま、アサキは頷いた。彼は麻里奈に見惚れていた。悪戯っぽく笑いながら、決して己のものになることを是としない、強い心を持った少女に。
「それじゃあ、また明日!」
そう言い残すと、麻里奈はアサキを置き去りにして、小走りに公園を出ていった。残されたアサキは麻里奈を追うこともなければ、言葉を送ることもない。
――胸の奥が、鈍く
両手で顔を覆うと、ベンチに深々と背中を預けて呻いた。
「可愛すぎるだろうが……ッ」
楽しみのあまり、ろくに眠れる気はしなかった。
翌日。
麻里奈は弁当を鞄に詰めて公園を訪れた。
「ふぁ……」
ベンチでは、既にアサキが大欠伸しながら麻里奈を待っていた。涙の浮かんだ目をこすりながら、ぼんやりとした様子だ。足元に寄ってくる雀を眺めている。
「アサキさん、お待たせしました」
「おお、麻里奈!」
声をかけると、アサキはすぐに顔を上げて、嬉しそうに笑った。人より大柄な身で着物をまとうアサキだが、麻里奈に見せる表情は人間のものとまったく変わりなく、彼がこの国の鬼を統べる長であると気付く者はいないだろう。
秋を先取りしたような
「あれ? この帽子……」
「お主、忘れていったろう。預かっていたのを忘れていた。すまないな」
「いいえ。わざわざありがとうございます」
長野を発つ時に電車の窓から落としてしまい、お気に入りだが諦めていたものだ。嬉しそうにつばを握って、深くかぶる。
「では、行こう。……うむ。どちらだ?」
「あはは。こっちですよ」
しかし意気込んで足を踏み出した直後、ぴたりと止まったアサキに、麻里奈が苦笑する。
アサキは道行く麻里奈の手を握ろうと何度か手を伸ばしたが、麻里奈に見つめられるたび、結局拳を握って諦めた。そして当の本人はと言うと、アサキの気も知らずに先立って案内していた。
バスを乗り継いで一時間弱。アサキは麻里奈の後ろについていただけだが、麻里奈が懸命に時刻表と睨めっこしたおかげで、無事に目的地の自然公園に到着した。
駐車場にはぽつぽつ車が停まっているが、休日にしては少ない方だ。広い公園内では、キャッチボールをする親子や、遊具で遊ぶ子供たち、ベンチに並んで腰かけているカップルが見られる。紅葉にはまだ早い時期だが、茂る木の葉は夏よりも青みが薄まっている。頬を撫でる風に、麻里奈は目を閉じた。
「んー……涼しいですね」
「うむ。じきに秋が来よう」
麻里奈の隣で、アサキも同じように目を閉じた。陽が照り付ければまだ暑いが、風はかすかに秋の匂いを運んでくる。
「お弁当も作ってきたんです。その……、もしお腹が空いてたら、一緒に食べませんか?」
人気のないベンチを目指して歩きながら、麻里奈が手に提げた鞄を少し持ち上げる。恥ずかしそうに小さな声で、目も伏せられている。緊張した様子の麻里奈に、アサキは優しく微笑みかけた。
「ちょうど腹が減っていたところだ。無論、頂こう」
「ほんとですか? 良かった!」
アサキの返答を聞くや否や、麻里奈は顔を上げて、嬉しそうな笑みを浮かべた。アサキが今日を楽しみにしてあまり眠れなかったのと同様に、麻里奈も昨晩から楽しみにして、眠たい目をこすりながら弁当をこしらえた。それは言わずとも、太陽を眩しげに見つめる麻里奈を見れば、アサキにも一目瞭然だ。
木陰のベンチに腰を下ろすと、麻里奈はいそいそと弁当を広げ始める。紙コップに入れた冷たい緑茶を差し出すと、アサキは礼を言って受け取った。
「さすがオレの見初めた女子だ。至れり尽くせりだな。どうだ、オレの嫁に来ないか?」
「あと三年は学校があるので駄目ですね」
「む。三年とは長いな」
「そうですか? アサキさんにとっては、すぐかと思いますけど」
眉をひそめたアサキに、麻里奈が首を傾げて問いかける。
「何もない三年ならば瞬きしているうちに過ぎるのだが、今のオレは、麻里奈と離れるたった一日すら
考えるだけで憂鬱だ、とアサキは嘆いた。その言葉に嬉しさと恥ずかしさが同じくらいこみ上げてきて、麻里奈は頬を緩めた。
麻里奈の作った弁当を食べながら、二人は語らった。
アサキは西へ出かけた時の話を。麻里奈は人間社会の仕組みを。アサキは麻里奈が美しい景色に興味を持ってくれることが嬉しかったし、麻里奈はアサキが彼女のために人間へ紛れる努力をしてくれることが嬉しかった。
「――そういえば」
きちんと両手を合わせて「ご馳走様」と告げたアサキは、ふと話題を変えた。
「お主は田村麻呂や
「そうですね。歴史の授業で、必ず習うと思いますよ」
「では、お主以外も知っているということか」
「ええ。でも、名前くらいだと思います。どんな人だったとか、何をしたとか、あまり詳しくはわからないんです」
麻里奈の返答にアサキは驚く。多くの人間――カタブキの言い方を借りるならば、大和朝廷の子孫たち――が、己の先祖が征伐した一族やその長の名を知っていることは、少なくともアサキにとっては驚くべきことだった。しかし名は残っても、実態は残らない。アサキには、人間の歴史がどのように刻み、残されてきたかはわからないのだ。
けれど、――――否。
だからこそ、彼は決意する。
「……よし。オレと――いや。
時刻は、昼と言うには少し遅く、夕方と言うには少し早い頃。
青い空に涼しい風が渡る中、アサキは語り始めた。
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