エピローグ④

 麻里奈に手を引かれるアサキは、興味深そうに街を眺めながら後を追う。麻里奈の足取りは迷いなく、人々からアサキへ向けられる視線にも構わず進んでいく。

 徐々に喧騒を離れ、住宅街に入り込んでいく。すれ違う人に目もくれず、麻里奈がようやく足を止めたのは、小さな公園だった。

 公園といっても、遊具もなく野球をするほどの広さもない、ベンチがある休憩所のようなところだ。麻里奈同様、新学期初日で早く帰って来た小学生たちは別の公園に遊びに行っているのだろう。日が高いため、犬の散歩をしている人もいない。


「ここは麻里奈の庭か?」

「そんなんじゃありません。ただ、落ち着いて話ができるのはここかと思って」


 ベンチに誘導すると、アサキは不思議そうにベンチを見ていた。しげしげと見つめて座ろうとしないので、麻里奈は先に腰を下ろして、隣を叩いた。アサキは静かに、麻里奈の隣へ腰を下ろす。


「む、そうか。オレと話してくれるか」

「アサキさん、そのために来たんでしょう?」


 さりげなく、しかし確信的に麻里奈は言った。アサキは苦笑すると頷く。


「ああ。まったく、やはりお主には敵わんな」

「アサキさんの考えてることは、わかりやすいですから」

「うむ。まあ、麻里奈が好きだからなあ」


 深々と頷きながらさらりと零すアサキの言葉に、麻里奈の胸がどきりと跳ねる。彼のあけすけな好意には慣れたと思っていたが、やはり言われると照れずにいられない。恥ずかしくなって俯くと、アサキはそんな麻里奈を見つめて微笑んだ。

 先程アサキの姿を見た時、麻里奈は彼のことしか見えなくなった。一寿に話しかけられて一瞬は我に返ったが、その後アサキの手を取ったのは無意識だった。彼と話す。そのためにあの場を離れる。それは麻里奈にとって、ごく自然な思考だった。


「ところで、どうやって私を見つけたんですか?」


 アサキの殺し文句がひどく照れることは、百も承知。彼が麻里奈と話したいと思っていることも承知しているし、麻里奈自身も、彼と話したいと思っている。軽く咳払いをして話題を切り替えた。


「何、いつも通り、匂いを辿ったのだ。さすがに骨が折れたがな。あちらと違って、こちらは人間が多いから」

「な、なるほど……」


 そう言えば、長野で麻里奈を訪ねてきた時も、「匂いを辿った」と言っていた覚えがある。麻里奈には想像もつかないが、アサキは桁外れの鬼なのだ。現にこうして麻里奈の前に現れているし、決して無理な話ではないのだろう。


「結構久しぶりですけど、探すのにそんなに時間がかかったんですか?」

「いや。すまない、違うのだ。西の鬼共の片付けに時間がかかってな。カタブキがいなくなったものだから、オレ自身が西まで出向かねばならなかったのだ」


 てんやわんやで大変だったぞ、とアサキは笑った。しかし、鬼同士の戦いを目にした麻里奈は、それがとても笑える状況ではなかったことを察した。それでもアサキがこうして麻里奈の前に現れたことから、無事に片が付いたのだともわかる。


「……終わったんですね」


 麻里奈が安堵するように呟けば、アサキは彼女の頭を撫でた。


「いいや、まだ終わっておらん。全てが終わるのは――おそらく、ずっと先だ」

「ずっと先って、どれくらい?」

「うむ……まあ、五百年や千年くらいはかかるかもしれぬ。それだけカタブキの呪縛は強かろう」


 アサキの横顔を見つめると、彼は真っ直ぐな目で遠くを見据えていた。

 千年以上の年月を生きてきたアサキにとっても、これから先の五百年、そして千年という時間は決して短くない。しかし彼は、どれだけかかっても、西の鬼たちが抱く恨みを晴らしてみせると言った。全ての鬼の想いを、ただ一身に背負うと誓った。西の鬼の長であったカタブキが人間へ向ける恨みを目の当たりにした麻里奈には、それが容易なことではないとわかる。並大抵の決意ではない。生半可な気持ちではありえない。

 それでも立ち続けるのが、アサキという鬼だ。

 今の麻里奈は、それを知っている。だからこそ、再び出会うことのできた彼の手を取ったのだ。


「しかし案ずるな。もう誰にも、お主に手は出させんよ」

「……そうじゃないんだけどな」

「ん? 何か言ったか」

「いえ、何でもありません」


 アサキに気付かれぬよう、麻里奈はそっと息を吐いた。彼が麻里奈の身を案じてくれることは素直にありがたいし、彼ならば麻里奈を、何があっても守ってくれるだろうことは確信していた。仰々しい感じもするが、嬉しい言葉だ。

 しかし、数週間ぶりに会ったアサキに期待していた言葉は、まだもらっていない。

 何百年を生きるアサキにとっては数週間など、大した時間ではないかもしれない。けれど人間である麻里奈には、長い時間に感じられた。

 アサキの声。姿。眼差し。笑顔。そしてぬくもり。

 全てが待ち遠しかった。おそらく二度と出会えぬのだろうと思っていたから、再会して、離れていた期間に無理やり押し込めた寂しさが一気に溢れ出してきた。

 ――アサキは、自分と同じ感情を抱いてくれたのだろうか。

 麻里奈は、それが気にかかっていた。けれど、自分からは気恥ずかしくて到底訊けない。照れくささに、顔を伏せた。


「麻里奈?」


 アサキが名前を呼ぶ。麻里奈は躊躇いがちに顔を上げ、彼を見た。清流のような、あるいは高く冴えわたる青空のような、澄んだ青い目が優しい眼差しで麻里奈を見つめている。


「麻里奈」


 もう一度、アサキは重ねて呼んだ。

 麻里奈はその声音に安堵して、微笑む。


「はい」


 返事をすると、アサキは両手で麻里奈の手を握った。大きく包み込むような手のひらから、アサキの体温が伝わってくる。どくどくと脈打つ血の流れさえも感じられる気がして、二人はしばらく、手を握りあったまま黙っていた。


「……麻里奈よ」

「はい」

「オレは朝東風鬼アサキ。この国の鬼を統べる者だ」

「……はい」

「――麻里奈」

「はい」


 アサキは、何度でも麻里奈の名前を呼んだ。そして麻里奈は、そのたびに返事をした。

 残暑のうだるような空気に、汗が首筋を流れる。頬が熱を持っているのは、けれど気温のせいだけではない。


「改めて告げよう――――オレの花嫁になってはくれぬか?」


 麻里奈は、目をそらさず、真っ直ぐにアサキを見つめていた。当初のように、彼の言葉に動揺を見せることはない。じっと黙り込んで、ただただ見つめている。アサキもそれ以上重ねることはせず、麻里奈の言葉を待った。

 麻里奈の唇は、まだ引き結ばれている。しかしいつまでもそうして見つめているわけにもいかないと、麻里奈自身わかっていた。

 だから、深く息を吸う。

 アサキが緊張したように体を強張らせる。


「――――ごめんなさい」

「…………え?」


 思わず、アサキの口から気の抜けた声が漏れる。


「いや、待て。麻里奈、何と言った?」

「ごめんなさい」

「……すまない、良く聞こえなかった」

「ごめんなさい。アサキさんのお嫁さんにはなれません」

「な……っ、何と……!」


 あまりの衝撃におののいたアサキは、麻里奈の手を離していた。相当落ち込んだ表情で麻里奈を見つめている。精悍な二枚目の顔つきはどこへやら、眉を下げた情けない表情だ。麻里奈が小さく笑みを零すと、アサキはむっとしたように眉を吊り上げた。


「何がおかしい。オレはこんなにお主のことを愛しているというのに!」

「いえ。鬼も人も、変わらないんだなあって」


 麻里奈の言葉に一瞬息をのんだアサキだが、すぐに言葉を返す。


「そうだ。オレたちは何も変わらぬ。ならば何故断る?」

「アサキさんのお気持ちは嬉しいんですけど、私は学校があるので」

「が、学校……? オレは人の文化に負けたのか……」

「人間なので、学校には行かなくちゃいけないんです」

「田村麻呂は学校なぞ行っておらんかった」

「時代が違いますもん」


 目に見えて肩を落とし、落ち込んだかと思えば、アサキは拗ねたように生前の話を持ち出した。無論、麻里奈は苦笑いで返す。アサキはむっつりと唇を尖らせて黙り込んでしまった。

 麻里奈は公園の時計をちらりと見て、アサキに目を向けた。いつの間にかそっぽを向いてしまった彼の表情は、麻里奈からはよく見えない。

 麻里奈が断れば、アサキは無理をしないと知っている。夏休みのことがあったのだから、尚更だ。けれどアサキだって一向に想いに応えぬ麻里奈に堪えかねているだろうし、麻里奈とて申し訳なく思っている。応えたい気持ちはあるのだ。

 しかしやはり、現代において鬼と人が結ばれるのは、おそらく容易なことではない。麻里奈の気持ちだけで動いて、アサキやこの国中の鬼たちに迷惑をかけたくないという思いがある。それを告げる気は、麻里奈にはさらさらないが。


「……オレはこんなにもお主のことが好きだというのに」

「私も、アサキさんのことは好きですよ」

「え?」


 さらりと返された麻里奈の言葉に、アサキが思わず、勢い良く麻里奈の方を振り向いた。麻里奈はベンチから立ち上がって、スカートの裾を直す。


「そろそろ帰らなくちゃ」

「待ってくれ、もう一度言ってくれぬか?」

「もう言いません」

「麻里奈!」


 顔をそらした麻里奈の手を掴む。優しく、けれど手放すまいという意志の感じられる強さだ。

 麻里奈がアサキを見ると、彼は不安げな、どこか期待したように麻里奈を見つめていた。その姿が、無性に愛おしく思えた。きっと、麻里奈以外は誰も知らないアサキの顔。その頬に、唇を寄せる。


「今はまだ、アサキさんのお嫁さんにはなれません」


 小さな声で囁いてから身を離すと、穴が開くほど麻里奈を見つめていたアサキは、やがてゆるゆると頬を赤く染めた。

 力が緩むと、麻里奈はするりとアサキの手から逃れた。アサキは空いた手で片頬を押さえる。


「お主……」


 呆然とした様子のアサキから離れて、公園の入り口まで駆けていく。振り返ると、口元に手を当てて声を張った。


「でも、また、お話はしたいです」

「また――お主を訪ねても良いのか?」


 立ち上がって問いかけるアサキに、麻里奈は微笑む。


「もちろんです。でも、明日からは授業が始まるし、部活もあるから、夕方以降にしてくださいね」

「うむ――うむ。相わかった」


 アサキはにわかに表情を明るくして、心底嬉しくてたまらない、という風に深い笑みを浮かべた。そして一歩、麻里奈に向かって踏み出したかと思うと、次の瞬間には目の前に立っていた。驚く麻里奈の左手を取って、身をかがめながら薬指に口付けを落とす。


「では、また会おう。愛しい麻里奈よ」

「――――はい」


 麻里奈が頷くと、アサキは優しい笑みを浮かべて風を巻き起こした。麻里奈が目を瞑っている隙に、いつもの如く彼の姿は無くなっていた。公園には、もはや麻里奈一人しかいない。辺りはあまりにも静かで、最初から麻里奈一人だったのではないかと思えるほどだ。

 けれど、左手の薬指はまだほのかに熱を持っている。

 両手をぎゅっと握り締めると、麻里奈はスカートを翻して帰途についた。

 いまだ夏を残す太陽の光は麻里奈の肌を焦がしたが、微かに秋の訪れを予感させる涼風が首筋を通り抜けていった。

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