エピローグ③

 宿題も全部終わらせ、残りの夏休みを、麻里奈は部活に費やして終えた。

 久しぶりに会った友人や先輩と休暇中の話をしながら、麻里奈は日常に戻っていった。

 アサキの話は、誰にも言わなかった。田舎でのんびり過ごすことができたと、それだけを話した。何よりも濃い夏の一ページを彩った出会いは、静かに麻里奈の胸の奥にしまわれている。誰にも言えない、けれど忘れることのできない思い出だ。


「……あ」


 新学期初日。

 全校集会と学年集会の後で諸注意を受け、その日の学校は午前で終わった。遊びに行こうとはしゃぐ同級生を横目に、麻里奈は携帯電話に一寿からの連絡が入っていることに気付く。


『放課後、ひま?』


 夏休みの部活では、あまり話すことがなかった相手だ。それどころか夏休み中、あまりSNSでのやりとりもなかった。一寿から連絡は何度も入ったが、麻里奈が頻繁に返さなかったため、気を遣った一寿から連絡も減ったのだ。

 麻里奈は、一寿に想いを寄せていた。陸上一筋と自他ともに認める選手で、いつも明るく、麻里奈たち後輩にも優しい先輩だ。しかし一寿も麻里奈を少しは気にかけていたようで、以前ならばこうして誘われたら喜んで答えていた。

 ――以前、ならば。


「…………」


 ゆっくりと、丁寧に返事を作る。返す言葉を考えたわりに、しかし文面は簡素なものだ。


『ひまですよー』


 送るとすぐに、一寿の返事が来た。


『じゃあ、新しくできたカフェに行ってみない? 俺ひとりだと、ちょっとハズいから……』

「…………」


 じっと画面を見つめて、麻里奈はまた慎重に返事を作る。


『おごりですか?笑』


 鞄を持って、教室を出る。


『わかった、いいよ』

『ごちでーす!』

『昇降口で待ってるよ』

『了解です』


 携帯電話をスカートのポケットにしまうと、早足で昇降口に向かう。

 心は揺れていない。

 けれど、決意しなければならなかった。

 いまや麻里奈が一寿ではない誰かに心を移していたとしても、その誰かが――アサキという一人の鬼が、麻里奈の前に現れることは、おそらく、もうない。

 ……だから。


「田村!」

「先輩、待ちました?」

「俺が誘ったんだし、ちょっとしか待ってないよ」

「待ってるじゃないですか」


 靴を履き替えた麻里奈を見つけて、一寿が声をかける。麻里奈が苦笑すると、一寿もにこりと笑った。休み中の部活で、また焼けたようだ。小麦色よりも少し濃い肌色に、麻里奈は目を細めた。


「じゃ、行こうか」

「はい。新しくできたカフェって、駅前のとこですか?」

「いや。図書館の方なんだ」

「そっか。先輩の家、あっちでしたね」


 隣に並んで歩き出す。一寿は麻里奈よりも少し背が高いから、話す時には自然と見上げることになる。しかし今までは高く感じていた一寿の目線も、アサキと比べれば随分話しやすい位置にある。

 何もかもアサキと比べてしまう自分に、麻里奈はこっそりと溜息を吐いた。


「どうした、田村?」

「あ、いえ、何でもないです」

「学校始まるから、憂鬱なのか?」

「……まあ、そんなとこですかね」


 耳聡く聞きつけた一寿に、麻里奈はさりげなく返す。一寿もそれ以上深追いすることはなく、会話はすぐに部活や授業のことに移っていった。

 一寿と話すことは楽しい。会話は尽きないし、彼と麻里奈は音楽や映画の趣味が合う。明るく接しやすいのに、気遣っていることを悟らせないほど気配りも出来る。

 これで良いのだ。

 忘れてはいけないし、何より忘れることなど到底できないだろう。それでも麻里奈は、アサキの思い出を抱いて、他の誰かと出会っていく。


「それでアイツさ――、あれ? 校門のとこ、なんか人が集まってんな。どうしたんだろう」


 一寿がふと足を止めて、首を傾げた。

 麻里奈と一寿の他にも、下校する生徒は数多い。校門で待ち合わせをしている生徒も少なくはないだろう。けれど明らかに、一か所に人だかりができているのだ。誰かを取り囲んでいるように見える。

 「ちょっと見てみる」と一寿がつま先立ちして、人だかりの中心を覗こうとする。麻里奈は少し離れて一寿を待っていた。

 ふと視線をそらした瞬間、不意に肩を叩かれる。気の済んだ一寿だろうと振り返った麻里奈は、目の前の人物に驚き、頭のてっぺんから爪先までまんべんなく見回して、ようやくの思いで言葉を発した。


「――――アサキ、さん?」

「久しくしたな、麻里奈」


 柔らかく美しい生成り色の着物の上に、深い紺青の羽織を重ねている。白い肌の上には、かすり傷一つない。爽やかに冴える青い目を細くして麻里奈を見つめながら、アサキは穏やかな笑みを浮かべた。

 麻里奈は一歩、ふらりと歩み寄る。黙ったまま手を伸ばし、躊躇いがちにアサキの左胸に手を当てた。暖かい。そして、規則正しい鼓動だ。


「本当に、アサキさん……?」

「うむ。オレ以外のわけがあるまい」


 確かめるような麻里奈の問いに、アサキは大きく頷いた。

 アサキを取り囲んでいた生徒たちは、二人のかもし出す雰囲気に気圧されて息をのんでいる。

 何度か肩を叩かれて、麻里奈は振り返った。状況を理解できずに困惑した様子の一寿だ。麻里奈は慌てて二人を交互に見ると、すぐに一寿に向き直った。


「カズ先輩、ごめんなさい。ちょっと、知り合いの人と約束してたの忘れてて」

「あー……うん。そっか。じゃあカフェは、また今度行こうぜ」

「すみません。それじゃ、お先に失礼します」

「あ、ああ。また部活でな」


 説明はしなかった。知り合いと言った麻里奈の言葉は、間違いではない。けれど、突然現れたアサキという人物が、麻里奈にとって知り合い以上の相手であることは一寿にもわかった。だから、深くは聞かなかった。彼に出来るのは、曖昧な表情で麻里奈を見送るだけだ。そんな一寿を見て、アサキは目を眇める。


「アサキさん、付いてきてください」

「お、おう」


 振り返った麻里奈はアサキの手を握ると、有無を言わさず駆け足で学校を出た。アサキは言われる勢いのままに頷いた。

 残された一寿は頭をかくと、生徒たちの視線に気付いて麻里奈と反対方向へ歩き出す。携帯電話を取り出したが、何もせずにポケットへ戻した。

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