エピローグ②
体中に包帯を巻いたアサキは、立ち上がると腕や肩を回して動きを確かめた。左腕を高く上げるとやはり痛みが走る。眉を寄せながら、アサキはタタキが寄越した新しい着物に袖を通した。麻里奈に見慣れない浅葱色の着物は、青い目と相まって涼やかさを感じさせる。
「ふむ。……良し、行くか」
アサキがぱっと笑うと、麻里奈も頷いた。その返事に人知れず安堵しながら、アサキは麻里奈の体を抱き上げた。
アサキの体を覆う包帯はすっかり着物に隠されてしまったが、顔についた傷から血まみれの姿を思い出してしまう。麻里奈は着物を掴むと、心配そうに見やった。
「アサキさん……」
「何、もう平気だ。心配かけてすまぬな。ありがとう」
麻里奈を安心させるように、アサキは優しい笑みを浮かべる。慈しむように愛おし気な視線を送るアサキの心境は穏やかだった。麻里奈から感じる体温と緩やかな鼓動は、ただただアサキの心に愛おしさを募らせる。
アサキの左胸に手を当てた麻里奈も、規則正しく鼓動する彼の心臓に気を緩める。
「オレは麻里奈を送ってくる。後のことは任せたぞ」
「ああ」
アサキの手当を終えたタタキが頷く。彼が振り返れば、他の鬼たちも同様に頷いた。彼らにはまだ、伸した鬼たちの片付けが残っている。麻里奈からは見えないところに置かれたようだが、タタキが持ってきたカタブキの首級もある。
配下たちの返事を聞くと、アサキは腕に力を込めた。
「行ってらっしゃいませ」
「うむ」
配下たちは一様に、膝を折って首を垂れた。何十という鬼が、一人の鬼に
ふと見たアサキの姿は、いつの間にか浅黒い肌も額の角もなく、いつも麻里奈のところへ来る人間の姿になっていた。肌が白くなると、傷が少し目立って見える気がした。
「あ、あの、トラヌケ!」
同じように傅いている銀色を見つけて、麻里奈は声をかける。アサキは息をのんで、しかし麻里奈のために動きを止めた。
トラヌケは、恐る恐る顔を上げる。以前は獲物を見据えるように鋭く麻里奈を射抜いていた金の目は、今は不安げに揺れている。緊張した面持ちだが、怖がってはいない。
「今度また、ゆっくり話そうね」
「……ええ」
少しの逡巡を見せたが、トラヌケははっきりと頷いた。
「それから、アサキさんを呼んでくれてありがとう」
「お礼を言うのは、アタシの方……ううん。何でもないわ。早く、怪我治すのよ」
「うん」
照れたように、困ったように。きつく吊り上がっていた眉尻はやわらかく下がり、口元には微笑が浮かんでいる。
「麻里奈」
頃合いを見計らって、アサキが名前を呼ぶ。トラヌケはすぐにまた、顔を伏せた。
「しっかり掴まっておれ」
「はい」
そういうと、麻里奈はアサキの首に腕を回してしっかりと抱きついた。アサキは何度か目を瞬くと、小さく笑みを零す。
強い風が巻き上がった。麻里奈は腕に力を込めて、ぎゅっと目を瞑る。アサキも、そしてまた麻里奈も、互いの体温を手放さないように強く抱きしめる。麻里奈の耳元で、電車よりも激しい風の音が渦巻いた。もはや聞き慣れた音に眠気を覚え始めた頃、ようやく辺りが静かになっていることに気付く。
「――着いたぞ」
目を開けると、そこはいつもの橋の上だった。
辺りは明るくなっているが、時刻が早いため、いつも以上に車や人は見られない。先程まで河原を走っている学生もいたのだが、二人がそれを知ることはない。
アサキは麻里奈をそっと地面におろす。自分の足で立つと、麻里奈はすぐに欄干に掴まった。安心したせいか、今になって足首がまた痛み始めた。
「すまない。家まで送ってやれれば良いのだが……」
「良いんです。ここからなら、一人でも帰れますし」
「だが、お主の足は、」
「アサキさん。やることがあるんでしょう? 早く戻らないと」
心配そうに、「やはり送るべきか」と悩んでいるアサキに苦笑する。言われたアサキは、悩まし気に眉をひそめた。麻里奈への心配はアサキの胸を占めているが、同時にタタキらが彼を待っていることも間違いなく、アサキは麻里奈の言葉に頷くしかないのだ。
「うむ……そう、だな」
アサキがしぶしぶ頷くと、麻里奈は優しく微笑んだ。
カタブキは、キザとキユウは、鬼同士の戦いは恐ろしいものだった。鬼とは言え、ほとんど人間と変わらない姿で血が流れている光景は、思い出すだけで気持ちの悪さがこみ上げる。
麻里奈は確かに覚えている。きっと忘れることはないし、東西の鬼たちを迫害した人間の血を引く麻里奈は、忘れてはいけない。西の鬼たちが散っていったことも、彼らを鬼にしたのが自分の祖先であることも。
……それでも麻里奈は、そしてアサキは、またこうして夏の涼風のように穏やかな気持ちで言葉を交わせることが嬉しかった。
アサキが、かつて人間であった鬼であっても。
麻里奈が、かつてアサキを殺すきっかけとなった人間の子孫であっても。
互いが互いを想う気持ちに区別はなく、そこには鬼も人もない。
「では麻里奈、オレは行かねばならん。落ち着いたら、また日を改めてお主を訪ねたいのだが……構わんか?」
訊ねられた麻里奈はきょとんとする。そしてすぐに、柔らかい笑みを浮かべた。
「もちろんです。でも、しばらく山は嫌ですよ」
「ああ。分かっておる」
釘をさす麻里奈に、アサキは笑い返す。
アサキは何度か麻里奈の頭を撫でた。麻里奈は黙って、目を細める。
涼しい朝の風が、ほんのりと温くなってきた。
名残惜しそうに、アサキの手が離れていく。麻里奈が目を開けた時には、アサキは背中を向けていた。紺青の羽織が風にたなびいたと思った瞬間、強い風が巻き上がった。麻里奈は思わず目を瞑ったが、慌てて目を開ける。しかし渦巻く風の中には、既にアサキの大きな背中は見えなかった。
「まーちゃん、次はいつ来るかや?」
「うーん……冬休みは短いし、こっちは結構雪が積もるから、次は春休みになるかも」
「ほうかい。まあ、おじいちゃんはまーちゃんが元気でおってくれればそれでいいよ」
「ありがとう。おじいちゃんとおばあちゃんも元気でいてね」
昼間だけ駅員のいる窓口で両親が切符を買っている間、麻里奈は祖父と祖母に別れを告げていた。あれこれ手土産を持たせようとする祖母の申し出を断りながら、麻里奈は深々と息を吸った。
アサキは、あれから一度も麻里奈の前に現れなかった。
アサキと別れた麻里奈は足首をかばいながら帰宅し、居間でまどろんでいた祖父母に迎えられた。急にいなくなったことを問われた麻里奈は、まったく覚えていないと言い、目が覚めたら河原にいたので帰って来たと告げた。祖母が警察への連絡などを済ませているうちに、麻里奈は眠りに落ち、夕方に目が覚めると東京から両親が到着していた――それが、事の顛末である。
話を聞いた両親はもちろん心配したが、麻里奈が頑なに「覚えていない」と言い張り、また麻里奈が無事であることから、結局うやむやになってしまった。
それから五日ほど。麻里奈は毎日、コツコツと宿題を進めた。朝食を食べた後と、勉強を終えた夕方の一日二回、いつもの橋まで散歩に出かけた。しかし、アサキが麻里奈の前に姿を見せることはなく、日にちだけが過ぎた。
「…………ちゃん、まーちゃん」
「え? あ、何?」
「ぼーっとして、まだ具合悪いかや?」
「ううん、そんなことないよ!」
心配そうな祖母に、慌てて首を横に振る。彼女はアサキと顔を合わせているから、麻里奈に何度か問うた。しかし麻里奈は、アサキは仕事で忙しいのだと説明した。
「あ。もう行かなくちゃ」
電車が駅のホームに入って来た音が聞こえ、麻里奈は駅舎を振り返る。切符を買った両親は既に改札の前で待っている。
「それじゃあ、またね!」
麻里奈は手を振ると、お気に入りの白い帽子を深くかぶり直して駆け出した。改札を抜ける前にもう一度振り返り、祖父母に手を振る。両親に急かされた麻里奈は、後ろ髪をひかれながらも電車に乗り込んだ。
黄色いキャリーケースを荷棚に上げるのは父親に任せ、麻里奈はすぐに電車の窓を開けた。まだ発車していないから、あまり風は吹きこんでこない。麻里奈は身を乗り出して辺りを見回したが、以前感じた誰かの――アサキの視線は感じられない。
「麻里奈。電車、もう出るからやめなさい」
「…………」
「麻里奈?」
「……うん」
母親に
電車が動き出して、ホームを離れる。
「あ、」
「あら……飛んじゃったわね」
電車が走り出して吹き込んできた風が、にわかに麻里奈の帽子をさらった。遠くへは飛ばなかったが、ぐんぐんと離されていく。
「窓、閉めたら?」
「ううん。いいの」
残念そうな母親に、麻里奈は首を横に振った。
さわさわと頬を撫でる夏の風は、少し懐かしい山の香りを運んできた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます