エピローグ
エピローグ①
「…………はぁ」
アサキは大きく息を吐くと振り返った。そして心配そうに見つめる麻里奈に向かって、からりと笑う。
「待たせたな、麻里奈……ッつ、」
「――アサキさん!」
直後に脇腹を押さえて呻いたアサキに、麻里奈は誰よりも早く駆け寄った。
すぐに紺青の羽織をアサキの肩へ返すと、にじむ血を押さえるアサキの手に、そっと自分の手を重ね合わせた。立ち込める血の匂いに頭がくらくらするが、強く意識を保つ。
「怖い思いをさせてすまなかった。すぐに手当てをして、家まで送ろう」
痛みに眉を寄せながら、アサキは無理に笑みを浮かべた。
しかし、麻里奈は今にも泣きそうな表情で息を吸った。
「ばかっ!」
「……え」
吐き出された麻里奈の言葉に、アサキは固まった。
募り募った心配が泉のように湧いてくる。言いたいことは、山のようにある。けれど、言葉にしようとすると、何と言えばいいのかわからなくなってしまう。詰まって、けれど何か伝えたくて、感情ばかりこみ上げて、結局それ以上の言葉をつむぐことはできなかった。
「ま、麻里奈?」
「ばか、アサキさんのばか!」
「イヤ、確かに自分で莫迦とは言ったが……待て、泣くな!」
今まで我慢していた涙が、堪えきれずに溢れ出す。麻里奈はしゃくりをあげて、零れる涙を両手で拭う。アサキはおろおろと慌てふためいて、片手を彷徨わせた。抱き締めたい。しかし、血に塗れた体で麻里奈に触れるわけにはいかないという思いが、アサキを止まらせていた。
「ばか……死ぬかと思った……」
「すまない。さあ、手当てを――」
「違います! アサキさんが、死んじゃうかと思ったの……!」
困り顔のアサキは、その言葉に動きを止めた。
麻里奈はまた、胸がいっぱいになって言葉を失くした。
「麻里奈……」
戸惑いがちにアサキが名前を呼ぶと、麻里奈はふと顔を上げた。涙で頬を濡らしているが、目は真っ直ぐにアサキを見つめている。
麻里奈の視線にアサキが息をのむと、体を引き寄せられた。目を瞬いているうちに、己に触れる温もりから抱き締められていることに気付く。背中に回された腕は、血が付くことも厭わぬほどの力が込められている。
「――生きてて良かった」
くぐもった言葉を聞くや否や、アサキは麻里奈を強く抱きしめた。微かに残る嗚咽が耳に痛い。しかし、両腕に抱いた温もりは、何よりもアサキの心を癒し、なだめた。
長年、対立してきたカタブキは死んだ。
太陽と月のように共に在ったものが失せて、心は空虚になった。残る西の鬼たちの始末も残っている。
けれど、今こうして抱き締めている温もりが、愛する麻里奈を守れたことが、何よりアサキを支えていた。
カタブキに言った言葉が嘘にならぬように。アサキは、立ち続けなければならない。
「ありがとう。麻里奈」
アサキが腕の力を緩めると、麻里奈も顔を上げた。頬はまだ濡れている。
「やはりお主は、オレの見初めた女子だ」
涙をぬぐう。しかし次から次へと流れてくる涙は止まるところを知らず、嗚咽をあげる麻里奈の頭を、アサキは優しく撫でた。
風に吹かれて冷たくなっていた体が温まるのを、麻里奈は感じていた。たくさんの血を流し、それでも生きているアサキの体温に身を預け、緩やかに聞こえる鼓動の音に耳を澄ました。
……どれほどの間、そうしていただろう。
名残惜しくもアサキが離れると、麻里奈は少し寂しい気持ちになりながら手を離した。アサキは麻里奈の頬の傷に触れると、己のことのように痛みを想像して顔をしかめた。ふと顔を上げると、未だに立ち尽くしたままの配下たちへ声をかける。
「お前ら、誰か包帯を持っていないか?」
しかし、彼らは互いに顔を見合わせて肩をすくめるばかりで、アサキの求める返事はなかった。
「やれやれ……仕方がない。麻里奈、場所を移す。暫し我慢してくれ」
「はい」
「良い子だ。……おい! 彼奴らを埋めてやれ。タタキはカタブキの首級だけ持って来い」
麻里奈の頷きを確認し、アサキは丁寧に彼女を抱き上げる。タタキとその他数名の鬼に命じると、彼らはすぐに動き出した。歩き出したアサキに駆け寄った一つの影に、足を止める。差し出されているまっさらな手拭いにアサキは無表情だったが、麻里奈は目を開いて笑みを浮かべた。
「トラヌケ!」
朝日に輝く美しい銀の髪は乱れ、心配そうに眉を下げて、麻里奈に微笑んでいた。トラヌケは差し出した手拭いで麻里奈の頬を拭うと、そのまま首の傷を覆ってやった。
「……麻里奈。謝って許されることじゃないけど、それでも――ごめん」
「ッ貴様、」
「アサキさん」
一度は目をそらして、けれどすぐに麻里奈を真っ直ぐに見据えて。トラヌケははっきりと謝罪を口にした。見かねて声をあげたアサキを、麻里奈が制する。
「トラヌケが、アサキさんに伝えてくれたんだよね。ありがとう」
その言葉にトラヌケは、唇を震わせたが、強く引き結ぶと跪き、首を垂れた。
「何なりと御処断を」
決意の言葉に、麻里奈はアサキが口を開くよりも早く彼を見た。
冷ややかな視線だ。前に見たような激しい怒りは感じられないが、良い言葉が出てくるとも思えなかった。
すぐさまアサキを呼ぶ。
「アサキさん。トラヌケに酷いこと言わないでください」
「……麻里奈」
「私、トラヌケのことが好きだから、もっと話したいから、トラヌケがいなくなっちゃうなんて嫌です」
「麻里奈、」
「嫌です」
「……わかった。沙汰は追って下す。付いて来い」
「――はい!」
振り向きもせずに歩き出したアサキの後を、トラヌケは意気揚々と追った。その後を東の鬼たちが付いてくる。
昇り始めた太陽は、辺りを燦々と照らしていた。麻里奈は眩しさに目を細めると、アサキの羽織を強く掴んだ。
見慣れた大岩に、麻里奈は座っていた。否、座らされていた。
裸足で連れまわされたために解けた足首の包帯を巻きなおし、濡らした手拭いで頬や首の血を拭われる。真剣な表情で手当てするアサキに、麻里奈はされるがままだった。
「……うむ。麻里奈、他に痛むところは無いか?」
「だ、大丈夫です」
「本当か?」
「ほんとです、ありがとうございます!」
アサキは疑り深そうに、麻里奈の頬や腕に触れて怪我をしたところが無いか確かめていた。くすぐったさに恥ずかしくなってきた麻里奈がアサキの体を押すと、彼はしぶしぶ離れる。
いつもの場所は、やはり鬱蒼と茂っているが、隙間から陽の光が零れ落ちていて、傷に塗れたアサキの体を明らかにしていた。無数の青黒い痣と刀傷。いかに激しい戦いであったか、雄弁に語っている。
「日が昇ってしまったな……すまないが、家までは送ってやれん。今のオレは、ちと目立つのでな」
自らの格好を見たアサキは、苦笑いを浮かべる。改めて見ても、これ以上ないほどに赤く染められたアサキの着物は、元の美しい生成り色が想像できないほどだ。あまりの凄惨さに、タタキやトラヌケたちは言葉を失くしていた。
だから、麻里奈だけが言葉をかけられる。
「アサキさん」
「うん?」
麻里奈に名前を呼ばれ、アサキは優しく笑みを浮かべた。
しかし、麻里奈の顔を見て硬直する。
「アサキさんも、ちゃんと手当てしてください」
きつく眉を寄せて睨みつける麻里奈の言葉に、アサキは堪らず顔をそらした。トラヌケたちがその態度に呆気に取られているが、麻里奈はいたって真剣な表情を崩さぬし、一方のアサキも気まずさにそらした顔を戻さない。
「聞いてますか?」
「う、うむ……お主を送り届けたら、」
「アサキさんが手当てするまで、私、帰りません」
「ぐぬ」
視線を泳がせたまま答えるアサキに、麻里奈はぴしゃりと言い返す。アサキが自分には強く返せないことを、麻里奈は知っていた。アサキとて、麻里奈がそれを理解しての言葉とわからないはずもない。それでも彼女の言葉を無碍には出来なかった。
何となだめようか考えて口を一文字に引き結ぶアサキは、ちらりと麻里奈へ視線を送ったが、鋭く見据えられてすぐに後悔する。
「……だって、痛いでしょう? 私の怪我なんて、何でもないんです。アサキさんに比べたら」
「そんなことを言うものではない、麻里奈」
「じゃあ、アサキさんだって」
思わず顔を向けたアサキは、真っ直ぐな目に射抜かれる。目をそらすことも出来ずに息をのんでいると、やにわに左脇の傷を叩かれてしゃがみ込んだ。
「ッ!!」
「アサキさん!」
あまりの痛みに呼吸を止めたアサキは、涙目で犯人を見上げた。
「な、にしやがる、タタキ……!」
「強がるな、アサキ。どっちにしろその人間を送り届けなきゃならねえんだろ。手当てくらいして行け。途中で倒れでもしてみろ、回収するのは俺達だぞ」
「お前な……痛ッ」
アサキを見下ろしているのは、タタキだった。他の鬼ほどではないが、彼も戦ったのか着物に乱れが見られる。己の手についたアサキの血を見て顔をしかめると、タタキは包帯を取り出して腰を下ろした。
「世話の焼ける大将だな」
「ハハ……いや、すまない」
観念したのか、アサキは苦笑いを浮かべてタタキの溜息を受け入れる。大人しく手当てされるアサキの姿に、麻里奈は安堵の息を吐いた。
「まったく、麻里奈には敵わんな」
アサキは、そう言って笑みを零した。
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