第三章⑧
夜明けが迫っていた。遠く、木々のざわめきを聞きながら、アサキとカタブキは睨み合っている。
麻里奈は胸の前で両手を握り合わせて、祈るようにアサキの背中を見つめていた。
「……ちっ。来たか」
不意に、カタブキが舌を打つ。視線の先は、少し離れた森の方角だ。すぐさまアサキも反応し、顔をそちらに向ける。
草木の揺れる音が聞こえ、暗い森からいくつもの影が出てきた。岩肌の上に立ち、白んだ空に照らされる姿は麻里奈も知っている、タタキら東の鬼たちだった。彼らも戦っていたのか、アサキほどではないにせよ、傷を負っている者もいる。
カタブキはアサキ一人で来いとトラヌケに言伝させた。しかしカタブキも匂わせていたが、アサキ同様に彼らも西の鬼たちの襲撃を受けたようだ。ようやく片が付いて、駆け付けたというところだろう。
「お前ら、手は出すなよ」
アサキを見て駆け寄ろうとした鬼たちを、きっぱりと制する。彼らは一様にぴたりと動きを止めたが、代わりに鋭い視線をカタブキに送った。カタブキは視線を彼らからアサキへ戻すと、僅かに後ずさった。
「
そう言いながら、アサキは目の前に突き付けられた刀を指で挟んだ。カタブキが引き抜こうとしても、かなりの力を込めているのかびくともしない。
――刹那。
カタブキが刀から手を離した。そして、猛然とアサキに詰め寄る。
一方アサキも、カタブキとほぼ同時に刀から手を離し、両腕を顔の前で交差させてカタブキの拳を受けた。
「ふッ……ン!」
拳を受けて僅かに後ろへ押されたアサキだが、短く息を吐くとすぐに跳ね返した。そのまま態勢を整えているカタブキに向かって地面を蹴る。しゃがみ込んでいたカタブキの脳天に向けて、高く振り上げた脚を力いっぱい下ろすが、素早く避けられた。
カタブキは地面に落ちた刀へちらりと目をやったが、すぐに諦める。アサキの拳を受け流してそのまま背負い込もうとするが、難しいと悟ってすぐさま手を離して距離を取った。
「まったく……東の田舎者の根性には、呆れを通り越して畏敬の念すら覚えるな」
着物を整えると、カタブキは息を吐いた。
たたらを踏んだアサキはすぐさま切り返して拳を構えた。ついでとばかりに、口元の血を拭う。
アサキの拳が繰り出される。カタブキは一つ一つ見極めて避けながら、反撃する機会をうかがっていた。
「…………何故、まだ戦える」
「っグ、」
カタブキは心底理解できない、という風に呟いた。そしてアサキの着物を掴むと、脇腹の傷に指を突き刺した。苦痛に顔をゆがめたアサキが腕を振りかぶると、すぐさま離れる。やはりそこが一番の深手らしく、再び血が滲んできた。しかしカタブキが離れるや否や体勢を立て直し、すかさず猛追する。
「チッ」
カタブキが舌打ちして拳を受けると、アサキの血がカタブキに降りかかった。顔にかかったアサキの血に眉をひそめた時、顔の真横から蹴りが叩き込まれる。吹き飛ばされたカタブキは数度回転して地面に叩きつけられた。
「オレには守らねばならんものがある。だから戦える、だから戦うのだ」
「まも、らねば、ならん……だと……?」
切れ切れに言葉を吐くカタブキは、血を咳き込んだ。
アサキはぼろぼろになった着物を煩わしく思い、帯を締め直すと上半身を露わにした。その姿を見て、麻里奈は息をのむ。
赤く、あるいは青く、おびただしく肌を覆っているのは無数の傷だ。しかしそれは、よく見ると全てがカタブキとの戦いによってできたものではない。大小さまざまな古傷も残っている。
「守ろうとしても……いずれ、また、失うだけだ……」
よろめきながらカタブキが立ち上がる。ふらつき、それでも真っ直ぐにアサキへ向かってくる。おそらく、彼の体にも数多くの古傷が残されているのだろう。
カタブキが頭を狙って繰り出した蹴りは避けられ、すかさず体を狙った拳がアサキから放たれる。しかしカタブキはのけぞって避けると、そのまま腰を落として足を払った。体勢を崩したアサキとは対象に、カタブキが立ち上がる。振りかぶった拳は、アサキが横へ転がって避けたために固い岩に落とされ、ひびを入れた。
アサキは体のばねでカタブキから離れると、大きく息を整えた。麻里奈にちらりと目線を送って、すぐにまたカタブキを見据える。
「失うことを恐れるのならば、それは大切なものだ。お前が守らねばならん、背負っているものだ」
「……だとすれば、貴様が私を
「それは……、」
「皆、共に
カタブキはアサキに背を向けた。アサキは立ち尽くして見つめている。
麻里奈も、タタキも、息を潜めて見守っている。
カタブキは背を向けたまま、歩き始めた。その背中へ、アサキは声をかける。
「失えば悲しい者だから、オレもお前も、守っていたのだろう。――今も昔もな」
足を止めたカタブキは、岩肌に落ちているアサキの金棒を拾い上げた。先程、アサキが麻里奈をかばった際に転がっていったものだ。
振り向いたカタブキは、無言のままアサキに向かって投げてよこす。受け取ったアサキは素早く肩に担ぎ、怪訝そうにカタブキを見る。
「カタブキ?」
「…………」
返事はないが、カタブキは強い眼差しでアサキを見据えていた。
そしてようやく、アサキも気が付いて、足元に転がっている、刃こぼれした刀を拾い上げて投げ渡した。カタブキは受け取ると、すぐさま構えた。
――瞬間、空気が緊張する。
しかし同時に、空気が緩む。
太陽が山の端から顔をのぞかせて、空を白く染め上げていた。
「もう朝なんだわ……」
麻里奈がふと漏らす。太陽の昇るほうへ顔を向けて、眩しさに目を細める。
東の鬼たちがその言葉につられて視線を向けている間も、西と東の鬼の頭領は互いを見据えたままだった。僅かなひと時、笑みを交わすが、誰も見ていない。
夜明けの冷たい風が吹き、麻里奈はアサキの羽織を強く握り込んだ。
風が止むと、二人の鬼は同時に地を蹴った。
「アサキ、貴様の戯言にはもううんざりだ!」
カタブキが、喉から振り絞るように強く吐き出す。振り下ろされた刀は、しかしアサキの左手に止められた。押しても引いても血が流れるばかりで、アサキの力は一向に緩む気配がない。両手で握っていたはずの金棒は、右に掲げられている。
「カタブキ。オレも、貴様の頑固さには呆れがさしていた頃だ」
不敵な笑みを浮かべたアサキは、振りかぶった金棒に遠心力を乗せてカタブキに叩きつけた。
「ぬ、ぐ……ッ」
堪えようとしたカタブキだが、渾身の力に堪えかねて刀から手を離した。そのまま横っ飛びに転げ、打ち捨てられたままの双子鬼の体にぶつかって止まる。キザとキユウの体を一瞥したカタブキは、自嘲気味に笑った。
アサキは金棒を手放すと、カタブキの刀を右手に持ち直した。そしてカタブキへ近付いていく。カタブキは僅かに顔を上げると、黙って待っていた。
眼前に立つアサキの姿に、カタブキは目を細めた。昇り始めた太陽を背負う姿は、堂々としたものだ。しかしカタブキを見下ろす青い目は、真っ直ぐなのにどこか寂しげな色を含んでいる。
「お前が斃れれば、西の鬼共も斃れるしかあるまい。……だが、カタブキ。オレは、お前の分まで、西の鬼の分まで、全ての想いを背負ってゆくつもりだ」
「莫迦なことを……」
「うむ。オレは莫迦なのだろう。だが、何百年かけても、鬼共の恨みは忘れさせてやる。二度目の生を後悔させぬように――それが、オレが再びの生を受けた理由だ」
一蹴しようとしたカタブキに、アサキは重ねる。
カタブキは、大和朝廷の血を引く全ての人間を滅ぼしたいと願った。そしてその為に鬼を育て、憎悪だけを教え込んだ。アサキは、何百年も憎悪を刷り込まれた鬼たち、全ての想いを背負うと言う。
「……貴様に出来るのか?」
「出来る。……否、してみせるとも。麻里奈と共に」
「小娘と?」
「ああ。頭が先を切らねば、誰も付いてくるまい。オレは自分が後悔する気もないが、麻里奈や付いてくる者たちにも、後悔をさせるつもりはない」
怪訝そうなカタブキに、アサキはきっぱりと答えた。
カタブキは目を閉じた。
「――――私の負けだ、
凛とした、どこか晴れやかな声で宣言し、すぐに続ける。
「時間切れだな。夜が明けた」
麻里奈は安堵の息を漏らし、嬉しそうに東の鬼たちを振り返った。しかし彼らは、未だ険しい目で二人を見ている。麻里奈も眉をひそめて彼らの方を見やった。
いつの間にか、アサキが刀を天高く構えていた。その背中に、麻里奈は戸惑いながら声をかける。
「アサキ、さん?」
「……麻里奈。お主が見るものではない。目を閉じておれ」
アサキは振り返らずに言った。
不意に、麻里奈の脳裏に、目の前でキザとキユウが首を落とされた光景がよみがえる。
「嘘、そんな……」
誰も、何も言わなかった。
麻里奈の心はざわついていたが、カタブキの心は、対照的にずっと穏やかだった。目を閉じて死を待つ顔は、千余百年を知るアサキも初めて見るものだ。
アサキは、自分の首が落とされる瞬間を知っている。当然、カタブキも知っているはずだ。けれど、死を穏やかに迎える心境は理解できない。
カタブキは、死の恐怖を知っている。
それでいて、二度目の死を迎える決意をした。
「……如何した、アサキ。今更自ら手を下すことを恐れるわけでもあるまい」
掲げた腕を振り下ろさないアサキに、カタブキが言う。
アサキは、柄を強く握り締めた。
「…………最後の、言葉は」
振り絞るような声に、カタブキは目を開く。
「何も無い」
そして、アサキは刀を振り下ろした。
麻里奈は息をのんで目を瞑る。
カタブキの首が落ちると、アサキはすぐさま刀を地面に突き立てた。腹の底からせり上げる感情を堪えて、咆哮の代わりに最後の言葉を贈る。
「三度の生を得る時は、今度こそ幸せに生きるが良い――」
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