第三章⑥

 鬼も怒ることがあると、アサキとカタブキを見て知った。

 鬼も悲しむことがあると、アサキとカタブキを見て知った。


「……己の部下ですら駒としか考えられぬお前には、言ってもわからんだろう」

「己以外へ感情を抱いて何になる。私も貴様も、一族のために戦い、そして死んだだけだ! 貴様にいたっては、一度は信じたはずの相手に裏切られたのだ。それで何故……もう一度、誰かを信じる気になれる?」


 理解できん、とカタブキは吐き捨てた。

 千余年を生きてきて、アサキはこれほど心境を吐露するカタブキを見るのは初めてだった。彼の言葉、一つ一つを聞き逃さぬように意識しながら、同時に麻里奈へも意識を向ける。どうすればこれ以上麻里奈に怪我をさせず、カタブキの手から解放することができるのかを考えていた。そしてアサキがそう考えているであろうことは、激情していてもカタブキにもわかっている。

 互いに用心しながら、アサキが口を開く。


「誰かを信じなければ、生きてなどゆけまいよ」

「莫迦な話があるものだ」

「お前も、知らず信じていたのだろう。あの双子の鬼を」

「あれらはただの駒だ。少し手をかけただけのな」

「……そう思いたいのなら、思うが良い」


 自らの怒りを静めたアサキは、理解せぬカタブキへの悲しみを言葉ににじませていた。カタブキはそれを察して、アサキから己へ向けられる感情にさらに苛立っていた。

 息を詰めながら話を聞いていた麻里奈は、ようやく気付く。

 アサキとカタブキは、共に怒りを覚え、悲しみを覚えている。カタブキの言ったように、ほぼ同じ環境に置かれ、そして鬼となった二人だからこそ互いの境遇を想像し、思いを馳せることができる。境遇を理解できるからこそ、心境も理解できるはず。双方とも、そう思っていることは同じなのだ。しかし、鬼としての在り方が、考え方が、決定的に異なっている。

 太陽が昇れば月が沈むように。

 月が昇れば太陽が沈むように。

 つながっていながら、決して交わることはない。


「……話はそれだけか、アサキ。否――もはやこの名も貴様には過ぎるか。東の鬼よ」

「ああ、忘れていた。……何故、阿弖流為アテルイが大和へ下ったのか。何故、田村麻呂たむらまろ阿弖流為アテルイを助けようとしたのか、だったな」

「…………」


 今度はカタブキが黙り込む番だった。麻里奈は、カタブキの腕の力が緩んだことに気付く。どうやら無意識のようだ。カタブキに動きはない。


阿弖流為アテルイは田村麻呂を信じた。田村麻呂もまた、阿弖流為アテルイを信じた。それだけだ。それと、何故オレが大和の血を引く者を恨まぬのか、だが……」


 カタブキに口を挟む隙を与えないよう、アサキは言葉を続ける。


「何百年もねちねちと恨んでいるのが阿呆らしくなっただけだ」

「阿呆、だと……?」

「お前はつまらんことにばかり気を遣っているんだな。せっかくもらった命なんだ、楽に生きねば損だぞ」

「貴様……ッ!」


 あっけらかんと言い放つアサキに、カタブキは再び怒りをあらわにした。カタブキの腕に捕らわれたまま、麻里奈も緊張する。


「貴様は……元々蝦夷えみしではないのだったな。一族を滅ぼされた怒りも恨みも、所詮余所者の貴様には理解できぬと言うことか」

「――侮るなよ」


 怒りよりも嘆きの色を濃くしたカタブキの言葉に、アサキはすかさず切り返した。カタブキと麻里奈は同時に息をのむ。


「共に生き、共に戦った一族はオレの家族だ。家族を殺されて怒らぬ者などおらぬよ……お前がそうであったように。オレとて怒りもしたし、恨みもした。無論、憎みもした。朝廷の貴族共を一人残らず殺してやろうとさえ思っていたさ」

「ならば何故ッ!」

「嘆いても戻らんからだ!」


 噛みつくようなカタブキの言葉に、アサキが畳みかける。

 感情をむき出しにしたかと思えば押し隠し、そしてまた激情のまま言葉を吐き出す二人の鬼の姿に、麻里奈は口をつぐむほかなかった。呼吸さえもはばかられる空気の中、そっと見守る。


「オレやお前のように、大和を恨み、憎しみ、鬼と化した者もいる。だが、蝦夷の全てが鬼として再びの生を受けたわけではない。お主ら熊襲くまそもそうであろう。生きておらぬ者のために拳をかざすなど無意味なことだ。其奴そやつらが真に怒っておるかはオレたちにはわからぬ。もはや言葉を語ることは無いのだからな」

「何故――何故、割り切れる。死んだ者に口がないことくらいわかっている。それでもこの怒りを、憎しみをぶつけずにいられようか!」


 カタブキは爪が食い込み、血がにじむほどに拳を握り締めた。

 アサキが深く息を吐く。


「だからな、カタブキ」


 カタブキは険しい表情をアサキに返した。


「最初からそう言っておれば、ややこしいことはなかっただろう。貴様は己の怒りを、長の怒りに転嫁した。滅ぼされたのは確かに一族だ。だが彼らを殺されたことに憤っているのはお前自身だ。それを一族の恨みだ何だと言い張って、配下共を連れまわしこの様。……いい加減、頭を冷やせ」


 カタブキから返事はなかった。アサキもそれ以上の言葉は続けず、辺りに沈黙が降りる。麻里奈は風の音と、自分の鼓動の音だけを聞いていた。

 いつの間にか波打つ赤い髪に表情を隠していたカタブキが、緩慢な動作で顔を上げた。ひたりと見据える視線の先は、麻里奈だ。アサキが拳を握る。


「最後に、何故、人間に――麻里奈に惚れたのか、だがな」


 カタブキは刀を強く握った。赤く濡れた目が微かに揺れた。

 アサキはカタブキの機微を見定めてから切り出す。


「ひと目見て、傍にいたいと思った。それだけだ」

「……ひと目見て?」

「ああ。何気なく人の街を見ていた時に、麻里奈を見つけた。その時に、オレは麻里奈を嫁にしたいと思ったのだ」


 その言葉を聞いて、麻里奈は数日前に駅から祖父母の家に向かうまで感じていた視線の正体を知る。麻里奈は気のせいだと思って、祖父の言葉を笑い飛ばしていたが、それもあながち間違いではなかったようだ。


「それに、お前は拘っているようだが、オレにとっては麻里奈が人間であろうがなかろうが、関係のない話よ。麻里奈だから惚れたのだ」


 ――麻里奈だから。

 アサキの言葉は、麻里奈の胸に深く染み渡る。

 初めて出会った時、強引に山中へ連れられたが、その時のアサキは名も知らぬ麻里奈を慈しむような視線を向けていた。戸惑いながらも求婚を断る麻里奈の一言一句を嬉しそうに聞いていた。

 出会いを重ねて話す時、アサキはいつも麻里奈を優しく見つめていた。どんな時も、麻里奈を大切にしてくれた。彼のとっておきの場所へ連れて行ってくれた。

 麻里奈を害するものに怒りを覚えてくれた。

 傷だらけになってまで、今なお麻里奈を守ろうとしてくれている。

 アサキとカタブキが黙り込んでいたのは短い時間だったが、麻里奈にはとても長く感じられた。


「……カタブキ。西へ帰れ」

「自らの手を下すつもりはない、と?」

「違う」

「ならば同情か?」

「違う、カタブキ、」

「腑抜けが我が名を呼ぶなッ!」


 溜息を吐いたアサキの言葉に、カタブキが次々と噛みつく。取り付く島もないその様子にアサキが眉をひそめた時、カタブキはいよいよ激昂してアサキに飛びかかった。急に解放された麻里奈はよろけてその場にへたり込む。

 アサキは咄嗟に身をずらして避けたが、すかさずカタブキの追撃が入り再び着物を血に染めた。


「立て。私を愚弄した償いはしてもらうぞ」


 膝をつくアサキを見下ろしながら、カタブキは刀を振るう。カタブキを挑発していたアサキだが、怪我や疲労は大して癒えていないようだ。いくら鬼は傷の治りが早いとはいえ、治る前に新たな傷を負っていてはどうしようもない。カタブキにアサキを待つつもりはなく、無言のままに重ねて刀を振るっている。

 なぶられるアサキはかろうじて致命傷は避けているようだが、その分、他の傷は次々と増えていく。息つく暇もなく繰り出されるカタブキの剣戟は、アサキの金棒によって切れ味こそ落としたものの、まだ十分に傷をつけることはできるのだ。


「個人的な恨み、か。その方が幾らか良かろう」

「黙れ!」


 アサキが傷口を押さえながら薄く笑めば、カタブキは刀の柄で頬を殴った。アサキが両手をついて這いつくばる姿を、カタブキは冷たい目で見下ろしている。

 ――――麻里奈だから惚れたのだ。

 不意に、麻里奈の頭をアサキの言葉がよぎる。

 いつの間にか止めていた息を吐きだすと、もはや麻里奈の目には、膝をついてなお凛としたアサキの姿しか映らない。

 ――だから。


「……何をしている、小娘。急がずとも、アサキの後で始末してくれる」

「麻里奈、お主は下がっておれ!」


 二人の間に割り込んで、麻里奈は両手を広げてアサキの前に立った。カタブキの刀の切っ先が喉元に突き付けられても、アサキが血を吐くように怒鳴っても、麻里奈はじっと動かない。

 繰り返される深呼吸。カタブキを真っ直ぐに見据えて揺れる双眸。恐怖よりも上塗りされる、確固たる決意の表情。


「駄目だ、麻里奈……下がれ……」


 アサキは喉の奥から息を漏らしながら、麻里奈の足首を掴む。


「ごめんなさい、アサキさん。それはできません」


 麻里奈はアサキに困ったような顔を向けたが、しかしきっぱりとアサキの言葉を断った。アサキが返す言葉を失う中、カタブキはきつく眉を寄せて、麻里奈を睨んでいた。

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