第三章⑤
カタブキが
――しかし。
「アテ、ルイ……?」
「『平家物語』を知っているのだから、
カタブキが白けた様子で呟くと、麻里奈が我に返る。
「し、知ってます! だけど、アサキさんがアテルイなんて……」
「信じられぬか? ならば当人に聞くが良い。なあ、アサキ?」
「黙れッ! 麻里奈、この話は後だ。下がっておれ!」
月白の着物を赤く染めながらも立ち上がったアサキは、血を吐きながら叫んだ。その剣幕に、麻里奈はカタブキからアサキへ意識を向ける。
肩で荒く息をして、眉間にしわを寄せた険しい表情のアサキは、ただカタブキだけを睨み据えている。強い怒りを宿した青い目に、カタブキは笑みを浮かべた。
「良い目だ、アサキ」
聞くや否や、アサキはカタブキに猛然と迫った。どこにそれだけの力が隠されていたのかと驚く麻里奈は、ふと先程までアサキが立っていた地面を見て息をのむ。岩肌を赤黒く染めるおびたたしい量の血が残されていた。
慌ててカタブキと拳を交えるアサキを見れば、そちらでも彼の体から赤い血が流れ、飛び散っているのが見える。自らの身を顧みない戦い方は、怒りに身を任せた手負いの獣と同じだ。
「アサキさんっ!」
麻里奈は思わず声を上げた。アサキが止まるとは思えなかった。しかし、いくら怪我の治りが速い鬼とはいえ、明らかに傷が多い。心配するなと言う方が無理な話である。
アサキはカタブキを相手にしながらも、一瞬だけ麻里奈に視線を送った。麻里奈は何らかの言葉を期待したが、アサキは何も言わずに合わせた視線をそらす。
冷たく、固い目をしていた。
「なるほど。私の口を封じれば、小娘が話を聞くことはあるまい。……出来ればの話だがな」
「減らぬ口を……!」
「そんなに知られたくないか、アサキ。貴様の過去を」
「知る必要がないだけだ!」
力では圧倒するはずのアサキが、カタブキに翻弄されている。それは蓄積された傷と疲労のせいでもあり、また激情しているせいでもあった。
頭を冷やさなければならないと、アサキ自身理解していた。しかし考えるよりも先に手が出た。麻里奈に聞かせてはいけない。知らせたくない。焦燥感があることを、アサキは否定できなかった。
「ほう……。ならば小娘に訊こう。アサキの過去を知りたくはないか?」
「……え?」
一瞬の隙が生まれた。
自身の怒りに身を任せ、焦る感情のまま拳を繰り出していたアサキは、にわかに聞こえた麻里奈の戸惑いの声に、ほんの一瞬――わずか一秒にも満たない時間、思考を止めた。
そして。
「――だから貴様は愚か者だと言うのだ」
「ぅぐ、ッ!」
隙を見逃さなかったカタブキに襟首を掴まれ、地面に叩きつけられる。咄嗟に受け身を取ったが、平らな地面と違い凹凸のある岩肌のため、予期せぬ痛みが走った。
それでもすぐに身を起こして立ち上がったが、カタブキには十分すぎるほどの時間を与えてしまったようだった。
「動くな。貴様が動けば、小娘は死ぬ」
カタブキの腕の中で、首筋に刀を押し当てられている麻里奈の姿を見て、アサキは奥歯を強く噛んだ。
「カタブキ、貴様……麻里奈に触れてただで済むと思うなッ」
「あ、アサキ、さん」
「……喋るな」
「痛ッ」
刃を押し当てる力が少しだけ強まると、麻里奈の首筋に細く赤い筋が浮き上がった。思わず痛みに顔をしかめて声を漏らすと、アサキが息をのむ。
「麻里奈ッ!!」
先程までとは異なる焦りをにじませるアサキの声を聞いて、カタブキは喉の奥で笑う。
「クク……何、少し話をするだけだ」
耳元で囁かれた言葉に、麻里奈の背筋が冷える。刀でつけられた首の傷も痛むが、それ以上にカタブキに捕らわれている恐怖の方が強い。彼は己の部下であるキザとキユウを、何のためらいもなく殺したのだ。目の前のアサキを赤く染め上げたのもカタブキである。意に添わなければ、麻里奈の首が落ちるだろうということは、容易に想像できた。
アサキも麻里奈と同じ考えなのか、憤怒の表情でカタブキを射抜きながらも、指一本動かすことはない。
「貴様が、オレの何を語ると言うのだ」
アサキが吐き捨てたが、カタブキは笑みを崩さない。
「そうだな。私も後に聞き及んだ話だから、真ではない話もあろう。だが、それは貴様が自ら真を明らかにせねば、小娘にとってはわからぬままのことよ」
「昔のことなど、覚えておらぬ」
「そうか……残念だ。……では聞け。
アサキが口を閉じるのを確認すると、カタブキは再び口を開いた。
カタブキは、アサキの抵抗を封じた上で麻里奈に話を聞かせる体をとっていたが、その語り口は麻里奈に向けてと言うより、アサキに向けられているように思えた。
「……我々熊襲の一族が征討されて
麻里奈は息を止めて耳を傾けていた。アサキも話を遮ることはない。風の音と、遠くから微かに鳥の声が聞こえるばかりだ。
「蝦夷のことは知っていたが、名を聞いたくらいだった。田舎者だから長くはもたぬだろうと思っていたが、どれだけ待てど、征討が済んだと聞こえぬ。……その頃だ。蝦夷を率いる
カタブキは朗々と語る。
――蝦夷。アテルイ。
いずれも、麻里奈が歴史の授業で聞いた覚えのある単語だった。
「朝廷は蝦夷相手ならば制することができると踏んでいたのだろうが、その考えを覆すほど、
カタブキは腕に力を込めると、声音にも憎悪と怒りをにじませた。
これほど強い憎悪に、深い怒りに触れたことのなかった麻里奈は、今はただ、カタブキを恐ろしく感じていた。けれど同時に、カタブキの次の言葉を待っているのも確かだった。
「……私の耳に届いたのは、
カタブキが溜息を吐く。わずかに腕の力が緩み、麻里奈も強張らせていた体から少しだけ力を抜いた。
アサキは表情を変えないままぴくりと指を動かしたが、すぐにまた静止する。
「当時、
「…………」
カタブキの真っ直ぐ射抜く視線にも動じず、アサキは黙ったまま睨み返していた。
一度緩んだ腕に再び力がこめられていくのを感じ、麻里奈は固唾をのんだ。
「
蝦夷が坂上田村麻呂に征討されたことくらいは、麻里奈でもぼんやりと知っていた。蝦夷の指導者であったのならば、蝦夷が征討された際にアテルイも処罰されたことは想像に難くない。何よりアテルイという人間であったアサキが、今や鬼となっているのである。当然――アテルイは死んでいるはずだった。
それでも、心に思っていることと、言葉にして聞かされることとは衝撃の度合いが異なる。
麻里奈は動揺する気持ちと一緒に、アテルイへの想いを無下にされた坂上田村麻呂のことを思って、悲しみを覚えた。
するとにわかに、カタブキの力が強くなり、麻里奈は小さく呻いた。
「ッ、う……」
「……私にはわからぬ。何故、
カタブキは激情していた。共に大和の血を引く人間に殺された身でありながら、自らの考えに同調しないアサキへの怒りをむき出しにしていた。千余百年を経てなお強く深まる一方の憎しみ、恨み、怒り。そして――理解できるはずの立場であるアサキに理解されぬ悲しみ。
カタブキを見つめ返すアサキの目は、もはや怒りの色を失くしていた。
「麻里奈から手を離せ、カタブキ」
動揺していないはずはない。自らの過去を、望まぬ形で麻里奈に明かされたアサキは、それでも努めて感情を押し隠していた。カタブキはアサキの態度が気に食わないようで、麻里奈の首筋により強く刀を押し当てる。それを見たアサキが、一歩歩み寄る。
「小賢しい手など使わず、初めから言いたいことを言いに来れば良かったものを……」
一歩踏み出す。刀が食い込む。
「何度も言わせるな。カタブキ、その手を離せ」
さらに一歩。カタブキがわずかに後ずさる。
「ならば答えろッ! 一度は仲を結んだ人間に殺されながら、何故恨まぬのか! 何故人間などに現を抜かすのか!」
アサキの足が止まる。
ひたりとカタブキを見据える青い目は、強い意志に満ちていた。
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