第三章④
いつの間にか、東から空が明るくなり始めていた。深々と傾いた月は、かろうじてその白い光で辺りを照らしているが、山の向こうへ沈むのも時間の問題に思えた。
麻里奈は、目の前で膝をつくアサキに手を伸ばしかけて、我慢するように胸の前で握り締める。
美しい白い着物は、先程よりも明らかに赤く染めた部分を広げていた。
「どうした、アサキ。息が上がっているぞ」
「……喧しい。貴様の刀も、切れ味が落ちているだろうが」
「フン。減らぬ口だ」
肩で息をするアサキとは対照的に、カタブキはあれ以降、決定的な打撃を避け、しっかりとした足取りで立ちながらアサキを見下ろしていた。
麻里奈をかばって背中に受けた傷がアサキを苦しめていることは明らかだった。カタブキの体に直撃したアサキの一振りも後を引いているようだが、時間と共に回復しているのか動きの鈍さも見られなくなっている。
「小娘など気遣うから守りが疎かになるのだ。愚か者め」
「好きなだけ言うが良い」
カタブキは、アサキが膝をつくと、立ち上がるのを待った。その間に二人は刺々しい言葉を交わし、鋭い視線を送り合った。何度となく交わされる応酬に、麻里奈は息を詰まらせるばかりだ。
麻里奈がアサキと過ごしたのはたった数日だが、真っ直ぐに好意を向けてくるアサキに心を開き始めていた。自分が人であること、アサキが鬼であることを脇に置いてもいいとさえ思い始めていた。だから今、傷つくアサキに心を痛めている。だからより、麻里奈を守ろうとするアサキの姿が心に突き刺さる。
キザとキユウを斬り捨てたカタブキの姿から、麻里奈も殺されるかもしれないという思いはあった。けれどそれ以上に、今の麻里奈にとっては、アサキがカタブキになぶられる姿が堪えがたく、彼が殺されてしまうかもしれないという懸念の方が強かった。
「アサキさん……」
祈るように、麻里奈はアサキの名を呼んだ。
アサキはその声を聞くと、深い息を吐いて頬を緩めた。カタブキが怪訝そうに眉をひそめると、アサキは足に力を入れて立ち上がった。
「……アサキ。貴様、何故そこまでその人間にこだわる?」
カタブキは心底理解できないという風に、アサキに訊ねる。
「……ふはっ」
アサキは、気が抜けたように息を漏らして笑った。怠そうに金棒を肩に担ぐと、あっけらかんと言い放つ。
「何故だろうな。好きだからということ以外、オレにも分からん――ぐッ」
直後、間を詰めたカタブキの刀を受けて、アサキは少しだけ後ずさる。麻里奈の目の前で、アサキの背中がじわりと赤みを増す。
アサキの手から、血と汗で滑った金棒が抜け落ちる。地面に落ちるそれを拾い上げようと手を伸ばした時、カタブキの刀がアサキの左脇に食い込んだ。肉にめり込み、骨に当たったまま、カタブキは力を込めてアサキの体を吹き飛ばした。
「アサキさんッ!」
アサキがカタブキを吹き飛ばした時ほどは飛ばなかったが、それでも麻里奈から引き離されたアサキは岩肌に転がり、染みの広がる左脇を押さえた。カタブキは足元に転がっている金棒を拾い上げて遠くに投げ飛ばすと、アサキに刀の切っ先を向けた。
「立て、アサキ」
地に手をついて起き上がろうとしたアサキは、せりあがる血を吐いて、何度か咳き込んだ。
「がは……ッ」
アサキは明らかに押されていた。しかしそれでも、立ち上がろうとする。顔は伏せられたままで、喉の奥からかすれたような呼吸が漏れている。
カタブキはちらりと麻里奈を見やった。波打つ赤茶けた髪の下から覗く赤い目に、麻里奈は恐怖を覚える。冷酷で残忍な視線に、アサキの身を案じる。急に風が冷たく感じられて、アサキの羽織を強く握り締めた。
「……小娘。昔話でもしてやろう」
「え?」
話を振られた麻里奈は、思わず戸惑いの声を上げる。刀の切っ先はアサキに向けられたままで、カタブキに麻里奈を害する意思は、今のところないようだ。
「カタブキ、何を……!」
「貴様は黙っていろ」
「ぅ、ぐッ」
口を挟もうとしたアサキの肩を、カタブキの刀が切り裂く。再び倒れ込んだアサキを横目に、カタブキは語り出した。
「
「…………」
話しかけられているとわかったが、麻里奈は口を閉ざしていた。するとカタブキは不快そうに鼻を鳴らしてアサキを斬り付ける。
「アサキさん!」
「返事をしろ。さもなくば此奴を斬る」
「……わかりました」
麻里奈が硬い表情で頷くと、アサキは呻きながら麻里奈の名前を呼んだ。
「麻、里奈……!」
「黙っていろと言っている。……そうだな、それから、私が元々
「……はい」
アサキに血の筋が増えるたびに、麻里奈は息をのんで青ざめた。それでも悲鳴をあげず、努めて冷静に返事をする。カタブキは麻里奈の対応に満足したのか、少しだけ口の端をあげた。
「――では、アサキが何者であったかわかるか?」
麻里奈が返答を考えた一瞬、アサキが立ち上がった。
「カタブキッ!!」
そして麻里奈がそちらへ顔を向けるよりもずっと速く、カタブキはアサキに向かって斬りかかっていた。素手で刀を掴むアサキが力を込めると、わずかにひびが入る。カタブキは眉を寄せると、すかさず左脇に蹴りを入れた。アサキが怯んで手の力を緩めると、刀を抜いて、反対の手で拳を叩き込んだ。
のけぞったアサキが、再び膝をつく。
「……アサキは私より遅れて鬼になったが、今よりも千と二百以上昔のことだ。貴様如きでも、耳にしたことは有るかもしれん」
「それって……熊襲と関係があるんですか?」
「我が一族と、直接の関わりはない。東と西だからな。だが、考えろ」
アサキが立ち上がれないことを確かめたカタブキは、麻里奈の方を向く。
「我が熊襲の一族は、大和政権に滅ぼされ、その怨念を持って鬼となった。東の鬼共とて、我らと大差はない。人が鬼となるのは、強い恨みを、憎しみを抱いたためだ」
カタブキの赤い目の奥に、憎悪と、怒りを見た。
「まだわからぬか、人間――――否、大和の血を引く者よ」
麻里奈は言葉に出来なかったが、カタブキのその先の言葉を想像することができた。そして、カタブキの目に浮かぶ感情の理由も。
憎悪は、熊襲を滅ぼした大和の血を引く、人間である麻里奈を前にしているため。
怒りは、同じ立場に置かれているはずのアサキが、人間である麻里奈に好意を寄せているため。
「聞け、小娘」
「聞くなッ、麻里奈!」
アサキが血を吐きながら、聞いてはならぬと叫ぶ。
しかし、カタブキは告げた。
そして、麻里奈はそれを聞いた。
「――東の鬼は、かつて大和政権に滅ぼされた
予想はしていた。けれど、カタブキの紡ぎ出した言葉は麻里奈に大きな衝撃を与えた。何よりも、アサキがカタブキの言葉を止めようとしたこと、そして今、否定しないこと。それらがカタブキの言葉が真実であると語っていた。
しかし、麻里奈はすぐに我に返って疑問に思う。
カタブキは、アサキが何者であったかわかるか、と問うた。それでいて先の言葉では、東の鬼が蝦夷であったと言い、主語がすり替わっていた。カタブキと同様であるなら、アサキは蝦夷の長であったと言うはずだ。
麻里奈の怪訝な視線に気付いたのか、カタブキが笑みを深める。
「気付いたか」
「やめろ……カタブキ……っ」
アサキが傷を押さえながら立ち上がろうとする。しかしもはや、麻里奈はアサキを見ることはできなかった。カタブキの血に濡れた目に魅入られて、目をそらすことができない。浅い呼吸の切れ間に、白を切ることしかできない。
「何も、わかりません」
けれど、揺れる麻里奈の目は雄弁に語る。
カタブキは麻里奈の心境を見透かした上で、拒むアサキの心情を知った上で、それを告げた。
「アサキは蝦夷ではない。だが――蝦夷を率いた人間だった。
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