第三章
第三章①
風が冷たい。麻里奈は肩に羽織ったアサキの紺青の羽織を強く掴んだ。寒さを感じるのは、標高の高さだけが原因ではないだろう。冴え冴えとした月明かりに照らされ、じっと睨み合うアサキとカタブキの間にある空気は、明らかに冷ややかだ。
双子の着物の裾で刀に付いた血を拭ったカタブキは、そのまま鞘に納めることなく抜き身を提げている。対するアサキは、担いだ金棒を固く握り締めていた。
緊迫感に気圧されて思わず息を止めていた麻里奈が、静かに、小さく息を吐いた瞬間。
――ガキィン!
両者は地を蹴って、武器を交えた。
アサキの体重を乗せた一撃を刀身で受けるのは不利と知って、カタブキは攻撃の筋をうまくずらすと、僅かに生まれた隙に刀を滑り込ませる。しかしアサキも恐ろしいほどの反射神経で体を反転させて避けると、そのまま遠心力に任せて金棒を大きく振り抜いた。
麻里奈が再び息をのむまでの刹那に、一度目のやりとりは収束した。
「……カタブキ」
アサキは怒りを押し殺すように、けれど隠し切れない怒声で西の鬼の名を呼んだ。カタブキは気だるげに顔を上げ、視線だけでアサキに応えた。
「てめえの手下殺しておいて、遊んでんじゃねえぞ」
言葉や、まとう雰囲気から、嫌と言うほどアサキの怒りが伝わってくる。見向きもしないカタブキとは対照的に、麻里奈はその言葉で、もはや動かぬ物となった二人の鬼の亡骸を見た。脳裏によみがえる光景に、すぐに顔をそらす。
カタブキは答える代わりに、刀を構えた。アサキも返事は期待していないのか、同様に金棒を構える。
麻里奈が動く、と思った時には、既に二人の二度目のやりとりは終わっていた。
カタブキの赤い長羽織を締めていた帯が解けている。一方で、アサキの頬には刀の切っ先がかすめた赤い線が引かれている。カタブキは長羽織を脱ぎ捨て、帯を締め直した。
「今の貴様如き、目を瞑っていても勝てるわ」
聞くや否や、アサキは大きく踏み込んで金棒を振り抜いていた。しかしカタブキは大きく後ろに跳躍して避けた。鼻を鳴らして持ち上げた刀の切っ先は、麻里奈に据えられた。麻里奈がびくりと肩を震わせるより先に、アサキがかばうように立ちはだかる。
「脆弱な人間の小娘を守りながら戦って、私に勝てると思っているのか? 貴様ほどの鬼が、まさか斯様に甘い考えを抱いては居るまいな」
「……そうだとしたら、如何する」
「ハッ、知れたこと! ……小娘共々、ひねりつぶしてくれるまでよ。つまらぬ物は、要らぬ」
麻里奈からカタブキの姿は見えない。アサキの大きな背中が視界を遮っているのだ。けれど寒気すら覚える恐ろしい言葉に、少しだけ、怒りを感じて怪訝に思った。
「麻里奈に指一本でも触れてみろ。楽には殺してやらんぞ」
「元よりそのつもりなど無いだろう」
カタブキが笑うと、アサキは押し黙った。
麻里奈が一瞬感じた疑問を深く考える暇もなく、アサキの背中が離れていく。
固唾を飲んで見守る麻里奈のそばへ、再びアサキが戻ってくると、息が少し上がっていることに気が付いた。近くにいるからわかるが、呼吸が速い。不安げな視線を送ると、アサキは口角を上げて微笑んだ。
「心配するな。お主は必ず守る」
「アサキさん……」
麻里奈が名前を呼ぶと、アサキは愛おし気に目を細めて、それから顔をカタブキの方に向けた。カタブキから攻撃してくる気配はないが、だからと言ってアサキと麻里奈を逃がすつもりもないらしい。辺りに漂う緊張感がそれを許さないことは、麻里奈にもわかった。
黙って互いに睨み合っていた二人だが、やがてカタブキが顔をそらして溜息を吐いた。
「嘆かわしい……。私は貴様が遊び甲斐のある鬼となることを望んでいたのに、斯様な腑抜けになってしまうとは……愚かとしか言いようがあるまい」
「……何だと?」
「はっきり言わねば分からんか。弱くなったな、と言っている。
「……何とでも言うが良い。元々、その名を寄越したのも貴様だろう」
挑発するカタブキに、アサキは慎重に言葉を選びながら返す。低く唸るように吐き出される言葉は、静かに怒りを堪えていた。
カタブキは、アサキが挑発に乗らないことが面白くないのか、露骨に顔をしかめると鼻を鳴らした。
「フン。まこと、つまらん奴よ」
「言いたいことはそれだけか?」
呼吸を整えたアサキが、金棒を構えながら問うと、カタブキの赤く濡れた目が、麻里奈をとらえて獰猛に光った。睨み据えられた麻里奈は、息をのんで硬直する。アサキが麻里奈をかばうように片方の手を出すと、カタブキは笑みを浮かべた。
「貴様は弱く、つまらぬ鬼に成り下がった。――だが、壊し甲斐はある」
「ッ下がれ、麻里奈!」
アサキの背中に押されて尻もちをついた麻里奈は、アサキの腕をかすめる切っ先の鈍い光を見た。破れた着物に血が滲んでいる。
「アサキさん!」
麻里奈が声を上げると、アサキは返事の代わりに、力を込めてカタブキをはねのけた。アサキはカタブキに注意を向けたまま、わずかに麻里奈へ視線を送った。
「オレから離れるな。お主のことは、絶対に守る。……心配せずとも良い、かすり傷だ」
麻里奈の視線に、アサキは真剣な表情をふと緩めた。麻里奈にとってのアサキは、この優し気な笑みを浮かべている鬼のことだ。カタブキと千年以上の因縁があろうと、かつて人間を恨んでいた――あるいは今も恨んでいるとしても、関係ない。麻里奈は、真っ直ぐな青い目を信じたい。
だから、カタブキに訊ねようとしたことは忘れて、ただ、アサキを信じて見つめる。
「――気を付けてください」
知らず、胸の前で両手を握り合わせていた。祈るように己を見上げる人間の少女の姿に、アサキは心の奥底から湧きあがる愛おしさをひしひしと感じた。
カタブキが何を企んでいるとしても。
己が血肉をかけて、絶対に麻里奈を守ると、心に誓う。
アサキは麻里奈に向かってはっきりと頷くと、再びカタブキの姿を見据えた。
「
「ああ――来るべき時だ」
アサキに対し、カタブキは頷いた。
麻里奈はゆっくりと立ち上がると、アサキを見守る。
「――――行くぞ!!」
二人は同時に地を蹴った。
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