第二章⑦
山小屋の中に張り込める沈黙を、カタブキが破る。
「何とか言ったらどうだ」
「……何とか」
「殺されたいのか? ……貴様のような人間など、餌にならなければとっくに殺しているところだ」
話が終わっても黙ったままの麻里奈に声をかけたカタブキは、返事を聞いて不快そうに眉を寄せた。カタブキの様子をちらりと盗み見た麻里奈は、ぼそりと呟く。
「フキさんじゃなかったんですね」
「ん? ああ……名乗ったくらいで信用されるとは思わなかったが」
「だって、アサキさんの知り合いだって」
「だからと言って、アサキの仲間と言った覚えはない」
「そうですけど……」
溜息を吐くと、麻里奈は膝に顔をうずめた。
山小屋の外では風が吹き、隙間から吹き込んではカタカタと音を立てている。遠くでフクロウかミミズクの鳴いている声も聞こえる。
麻里奈が何も言わないことに関してはもはや興味を失ったのか、カタブキは懐から取り出した本をめくっていた。紙を繰る音に麻里奈が顔を上げると、カタブキも彼女の視線に気付いて顔を上げた。
「そういえば、さっきも和歌を詠んでましたけど……好きなんですか?」
「そうだな……人は嫌いだが、本は嫌いではない。貴様が人の子ならば、鬼共よりは私の言うこともわかるだろう」
カタブキにそう言われて、麻里奈は彼が詠んだ歌を思い出そうとした。しかし突然さらわれたことへの驚きの方が大きく、思い出せなかった。蒸し返すこともないと思い、カタブキの持っている本に目を留める。本屋で見かけるような装丁の物ではなく、資料集などで写真を見るだけの、紐で綴じた古い本だ。
「それは何を読んでるんですか?」
麻里奈の問いに一瞬鬱陶しげな目を向けたカタブキだが、すぐにページをめくり、目を落としながら答を返す。
「『平家物語』だ」
「あ。祇園精舎の鐘の声、ってやつですね」
「ほう。知っているか」
麻里奈を見て目を細くしたカタブキは、静かに本を閉じた。
「ならば、その先は?」
「えっと……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす……ええと――」
「おごれるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し。たけき者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」
「ああ、そうです!」
口ごもった麻里奈の後をカタブキが継ぐと、麻里奈は手を叩いた。思わず嬉しい顔をしてしまったことに気付くと、麻里奈は慌てて身をすくめる。
「意味は知っているか」
「一言でいうと、どんなに栄えている人でも、いつか滅びてしまうということですよね」
「……まあ、そういうことだ」
授業で習ったことを思い出して答えると、カタブキには不満だったのか、反応は打って変わって淡白だった。麻里奈は余計なことを言ったのだろうかと、口をつぐむ。
しかし麻里奈の返事は関係ないようで、カタブキは本を懐にしまい、腕を組んだ。
「風情なく言ってしまえば、そういうことだ。全ては諸行無常。みな風の前の塵と同じである……人の身で見事に言ったものだ」
「鬼も死ぬんですか?」
麻里奈が訊ねると、カタブキは一瞬呆気にとられたように目を丸くしたが、すぐに鼻で笑った。
「生きていて死なないものがあるか。今言ったところだろう。全ては諸行無常、と。……ああ。無論、アサキとて例外ではない」
カタブキの言葉に息をのんだ麻里奈は、けれどぐっと眉を寄せて言葉を返す。
「つまり、あなたも例外ではないってことですよね」
「……フン。気の強い人間だ。いつまでその虚勢を張っていられるか、見物だな」
「アサキさんが来てくれます。私は信じてる。だから、虚勢なんかじゃありません」
「ああ。アサキはここへ来るだろう。だが、腑抜けた奴が無事に来られるとは思わないことだ」
「……どういうことですか?」
「私は単身でアサキの領土へ乗り込むほど愚かではない、という話だ」
その言葉に、麻里奈がさっと顔色を変えた。
確かに、東の鬼の頂点に立つアサキと並んで称されるカタブキのこと。策も無く攻め込むはずがない。麻里奈はアサキが戦っているところを見たことは無いが、トラヌケへ向けられた冷酷さがいかほどのものか、それはよく知っている。だからこそ並び立つ東西二人の鬼をただものとは思えないし、カタブキの自信に満ちた言葉も無碍には出来ない。
カタブキはおそらく、アサキが山小屋へ来るまでに、部下たちによって少しでも体力を削り、傷を与えるつもりだ。そしてカタブキ自身の手を下そうとしているのだろう。そう考えれば、カタブキの何か含んだ笑いも理解できた。
「――
唐突に口を開いたカタブキは、またしても和歌を詠んだ。音だけ聞いても、麻里奈には歌の意味がわからない。少し迷ったが、カタブキはそれ以上何も言わないので、自分から訊ねてみることにした。
「あの……その歌は?」
「『万葉集』だ。朝に東から吹く風で波が堰を越えるように、会ったことが無いのに、人の噂が滝のように轟いている、という意味だ」
「東から吹く風?」
「流石にわかるだろう。アサキのことだ」
「東の鬼の噂を耳にした時、私が真っ先に思い浮かべた歌だ。東は朝が来る方角――私と対称であるとな」
東の方角は、朝だけでなく、太陽と月が昇る方角だ。そしてカタブキの名の通り、彼の治める西の方角は、太陽と月が傾き沈む方角である。
「だから私は、奴に与えた。――
麻里奈は何か言おうとして言葉を探したが、上手く見つけられずに口をつぐむ。カタブキも黙り込むと、小屋の中に静寂が張り詰めた。
話を聞けば腑に落ちる理由だった。カタブキの話を聞いていて、麻里奈はアサキが何故、カタブキの付けた名を名乗っていたのかわからなかったが、ようやく理解できた気がする。そして理解すると、あることに気付く。
「もしかして、カタブキさんの名前も『万葉集』からですか?」
「――
返事は一首の歌だったが、それは肯定だった。
麻里奈はどこか聞き覚えがあると思った。
「月が西に渡ると書いて、かたぶくと読む。鬼共は夜明けを嫌うが、私は昼と夜の境が曖昧な時を好む。それに……この国の西を傾け、西で傾いた私には相応しい名だ」
月が西に渡る鬼だから、
朝と夜。東と西。カタブキがアサキを対称であると感じた理由であり、それを籠めた名付けなのだ。カタブキの話から、それは麻里奈にも理解できた。
しかし、彼女にはまだ理解できないことがあった。
「……あの、聞いても良いですか?」
「ああ。良いだろう」
存外あっさりと了承したカタブキに気後れするが、麻里奈は覚悟を決めて訊ねた。
「西を傾け、西で傾いたって、どういう意味ですか」
「ああ……アサキは何も語っていないか。
顎に手を当てて呟いたカタブキに畳みかけようとした時、それを遮るように彼は麻里奈をひたりと見据えた。暗闇で赤く濡れた目に見つめられて、麻里奈は思わず息を止める。
そして、次に放たれた言葉に目を見開いた。
「私は――否、我々西方の鬼は、かつて大和政権に追われ、根絶やしにされた
「え……でも、熊襲って確か、」
「人間だとも。神話の時代の話とされることも多いが、私たちは人として生きていた。……滅ぼされる時までは」
カタブキの赤い目は冷たく、何の感情もない。麻里奈は身じろぎ一つ許されない気がして、黙って続きを待った。
「私は
カタブキは静かに俯くと、波打つ赤毛に表情を隠した。けれど、話は続く。
「朝廷に従わぬものは人ではない、と奴らは言った。そして我々は殺された。ならば望み通り、人ではないものになろう。望み通り人を殺すものとなろう。その一心で、我々は鬼として生まれ変わった。今でこそ我が一族から生まれ変わったのではない鬼もいるが、多くは熊襲の記憶を有している。――人間よ」
言葉を失くし、唇を噛み締めて俯いていた麻里奈は、カタブキに呼ばれてはっと顔を上げた。いつの間にか顔を上げたカタブキの赤い目が、矢を射るように麻里奈を見つめていた。
「私の願いはただ一つ…………大和の血を引く全ての人間を葬ることだ」
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