第二章②

「貴様、田村……田村麻里奈、とか言ったな」

「どうして私の名前を……」

「アサキのような虚けではないのだ。調べればすぐにわかる」

「…………」

「そう用心するな。アサキが来るまで、私の話でも聞いていろ」


 古く、もはや人に使われていない山小屋は隙間だらけで、天井から月の光が落ちている。吹き付ける風は冷たい。

 カタブキにさらわれた麻里奈は、山小屋に放り込まれてから這うように部屋の隅へ移動した。逃げ出そうにも窓がないし、入口には扉に寄りかかっているカタブキが立ってふさいでいる。それに逃げ道があったとて、ひねった足首では小屋を出ていくらもしないうちに足を止めるのが関の山だ。

 カタブキはトラヌケに、アサキへ伝えよと言伝をした。しかしトラヌケは当のアサキから、二度と姿を見せるなと言われている。彼女が優しいことは麻里奈も知っていたが、命をかけてアサキに会いに行くかは、正直なところわからなかった。胸中は不安な気持ちが渦巻いていたが、カタブキに悟られぬように膝を抱え、腕に爪を立てて小さく丸まっていた。


「さて、どこから話したものか……そもそも貴様、アサキからどこまで聞いている? あやつは己のことを語らぬ節があるからな……私と対立していることくらいしか言っていないかもしれんな」


 顎に手を当てたカタブキはしばらく考え込むと、麻里奈の反応を待たずに話し始める。麻里奈は、黙って耳を傾けた。






 ――人の世の中心が京の都より東に置かれるようになった頃、カタブキは西方を治める日の本一の鬼と呼ばれていた。密かに力をつけていたカタブキは、吉備の温羅うらや大江山の酒呑童子しゅてんどうじが人間に退治されてから一気に名を挙げた。その勢いは凄まじく、幕府が鎌倉に開かれたのは西方の鬼どもを恐れたからだとも言われている。

 ある鬼の話が聞こえてきたのは、そろそろ東へ出ようか考えているときであった。


「カタブキ様、近頃、東国の鬼どもが騒がしいようです」

「人間が来たものだから泡を食っているのだろう。あやつらは田舎者だからな」

「いえ……それがどうも、鬼の頭が立ったようでして……」

「何?」


 配下の鬼の言葉に、本をめくる手を止める。顔を上げると、赤茶けた波打つ髪の下から、赤い目で鬼を見据える。びくりと肩を揺らした鬼は、けれどもすぐに続けた。


「東の鬼どもからは、東風こちと呼ばれているのだとか」

「東風、か……貴様は知っているのか?」

「い、いえ。流れの鬼から話を聞いただけですので……」

「そうか……」


 カタブキが顔を伏せて考え込むと、波打つ髪に隠れて表情は見えなくなる。配下の鬼は黙ってカタブキの言葉を待った。

 やがて、本を鬼に投げ捨てたカタブキが着物の裾を翻す。


「――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」

「……カタブキ様?」


 鬼が首を傾げながら名を呼ぶ。その手には、先までカタブキの読んでいた本が握られている。


「――おごれるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し。たけき者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」


 カタブキの人間嫌いは配下の鬼たちは当然知っていることであったが、同じくらい、彼が人間の書くものを好むことも知られていた。おそらく今投げてよこした本に書かれていることなのだろうが、鬼にはカタブキがそれを言う意図がわからなかった。

 カタブキは配下の鬼たちが彼の意図を解せぬことくらいわかっている。だからこそそれ以上語ることはない。代わりに命ずる。


「挨拶に行くぞ。このカタブキ、直々に出向くのだ。少しは楽しませてくれるのだろうな……」

「御意に」


 すぐに気配を消して下がった鬼は、他の配下へカタブキの命を伝えるだろう。

 西国の名だたる鬼たちを下してしまったカタブキは、東風という鬼が手応えのある相手であることを願って笑みをこぼした。

 ……カタブキが配下を率いて東方進出すると、時を同じくして東風も噂を聞いたのか、西方を目指していた。そのため、両者がまみえたのは、駿河国であった。

 肌が白く、髪も赤茶けているカタブキとは対照的に、東風の肌は浅黒く、髪も黒く硬いようだった。背丈も、東風はカタブキの知っている鬼よりもいくらか高いように思われた。西国ではあまり見ない青い目を細くして、東風はカタブキを見る。用心しているのか、大きな金棒をいつでも振れるように肩に担いでいる。カタブキも東風の姿から実力を見て取ると、隙を見せないように刀へ手をかけた。


「貴様が東風か」

「あ? ああ、そう呼ぶ奴もいるが、オレは自分の名など興味が無い。……それよりも、お前がカタブキってえ鬼かい? 西の鬼どもを束ねてやがるっつー話の」

「いかにも、私がカタブキだ」

「ふうん……西の鬼を見るのは初めてだな。どうもオレたち東とはまるっきり違ってやがる」


 東風、と呼ばれた鬼は、本当に興味が無いようで話を流した。代わりに、カタブキのことを訊ねる。カタブキが肯定すると、東風はしげしげとカタブキを眺めた。

 確かに、カタブキと東風だけでなく、彼らの配下たちも異なっている。生まれ、過ごした土地がまるきり異なるのだから当然なのだが、彼らにしてみればひどく物珍しいものだった。


「そんで、西の鬼さんがこんな田舎へ何の用だ?」


 東風が一息入れて問うと、場の空気ががらりと変わる。青い目は獲物を狙う獣のように鈍く光っている。


「東の風などと息巻く田舎者を笑いに来たまでよ」

「へえ。西は随分暇と見える。人間に慣らされて鬼の血が鈍ったのかい?」

「……粋がるなよ、東風情が」

「そっちこそ、頭に乗るなよ。西如きが」


 カタブキの言葉に、東風は臆さず返した。言えば返る言葉に、カタブキの口の端が上がっていく。西国の名だたる鬼たちを下すときも、彼らはみな一様にカタブキの言葉に食いついてきた。その泰然とした態度や澄ました顔が崩れるのを見るのが、カタブキは何よりも楽しみだった。

 血に濡れたように赤い目で、カタブキは東風をとらえる。もはや彼は、カタブキの獲物だ。


「田舎者に、風流というものを教えてくれる」

「東には人間の真似をする愚か者はいねえさ。……お前ら、手出すなよ」


 後ろに控えた配下へ告げる東風の言葉が合図となった。

 瞬間、僅かな素振りも見せずに、東風がその場を蹴ってカタブキに向かって飛び出した。それなりに大柄な東風にしても大きく見える金棒を、大きく振りかぶる。カタブキは軽い動作で場を飛びのくと、すぐ後に東風の金棒が叩きつけられ、地面を割った。逃げ遅れたカタブキの配下たちが無様に転がる。


「だらしねえな、西の鬼どもはよ!」


 地面にめり込んだ金棒を引き抜くと、ぐるりと周囲を薙ぎ払い、東風は再びカタブキに向かって飛んだ。明らかに重量のあるそれを振り回してなお素早い動きを取る東風に、カタブキは少なからず目を瞠っていた。

 しかし得物のわりに動きが速いとはいえ、身軽なカタブキに比べればやはり鈍い。カタブキは難なく東風の攻撃を避け続けていた。


「どうした? 東の田舎者は、力任せなことしかできぬのか」

「やかましい! さっきからちょろちょろしやがって、一つも返しやしねえ!」


 辺りの地面を穿ち、木を抉り、鬼を吹き飛ばし、息をあげながらも東風は手を止めない。だがカタブキには苛ついていたのか、挑発には声をあげて返した。

 それを聞くと、カタブキはにやりと笑みを浮かべて柄を握った。


「ならば望み通りにしてくれよう。……遅れるなよ!」

「っく!」


 東風が足を止めた隙をついて、カタブキは東風に向かって飛び込む。金棒でカタブキの太刀を防ぐが、光を残すばかりの速い剣戟に、東風の体には傷ができていく。すると徐々に東風の動きも鈍くなってくる。


「――これで終いだ」


 カタブキが東風の心の臓を狙って刀を構えた時、東風は片手で金棒を振りかぶると、カタブキの頭を狙って投げつけた。

 当然、カタブキは避けたが、それ以上東風を斬りつけることはなく、軽やかに飛びのいて距離を取った。


「面白い……久方ぶりに血が滾るぞ、東風よ」

「お前の話なんか知るかよ」

「そう急くな」


 首をこきりと鳴らし、近付いて来ようとする東風を、カタブキは制す。


「貴様はまだ弱いが、骨がある。このまま潰しても良いが、私がつまらぬ……腕を磨け。そして再び私の前へ来るが良い。貴様をつぶすときが、私がこの国を手にするときだ」

「……お前、何言って――」

「――アサキ――」


 カタブキの言葉に戸惑う東風を遮る。東風はますます怪訝そうな表情を浮かべた。


「……は?」

「今日から貴様は、アサキと名乗れ。私からの贈り物だ」


 そういうとカタブキは刀を鞘に納めて背を向けた。唐突なことに呼び止めるのも忘れて、去って行く西の鬼たちを見送る。


「…………アサキ」


 やがて、与えられた名をぽつりと呟く。

 カタブキのことはいけ好かなかったが、与えられた呼び名は、妙に心に落ち着いた。


「あの……アサキ、様」

「ん? ああ……ありがとな」


 配下の一人が、恐る恐る、といった体で、先程投げ飛ばした金棒を差し出していた。軽々と肩に担ぎ上げると、ひとつ息を吐いて、笑みを浮かべる。


「……帰って飯でも食うか!」


 アサキの言い放った言葉に、東の鬼たちは歓声を挙げた。

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