第二章

第二章①

 麻里奈の姿が見えないことに祖父母が騒ぎ、警察や近隣の住民まで騒ぎが広がり始めた頃、トラヌケは山を駆けていた。人間の姿を捨てて、銀色の毛をなびかせる獣の姿で闇の隙間を縫う。

 躊躇ったのは、一瞬だった。

 二度と姿を見せるなと言ったアサキに二言は無い。トラヌケが喋る暇もなく殺されるかもしれない。それでも、トラヌケはアサキに伝えなければならなかった。彼女がもっとも愛した男に、男がもっとも愛した少女が敵の手に渡ったと、彼女の命をかけてでも伝えなければならない。

 カタブキがトラヌケに接触してきたとき、カタブキは既に麻里奈の存在を知っていた。誰かが密偵としてカタブキに知らせたのだ。そしてトラヌケがそれを面白くないと感じていることも知って、利用しようと近付いた。トラヌケは麻里奈を殺すことは出来なかったが、アサキから追い出され、カタブキも麻里奈をさらうことができた。追い出されたトラヌケの言葉を、果たしてアサキが信じるか……そこまで考えていたとすれば、カタブキは相当な策士だ。やはり、この脅威を伝えないわけにはいかない。

 どれほど走ったかわからなかった。脚が疲れ、喉が渇いた。それでもトラヌケは駆け続けて、ようやく騒がしい鬼たちの声が聞こえてきた。

 宴好きの鬼たちのことだから、アサキに呼ばれたのをいいことに騒いでいるのだろう。彼らは何も知らない。そうわかっていても、トラヌケはこの非常事態にと苛立ちを覚えずにいられなかった。


「ちょっと! アサキ様は!?」


 草むらを一気に駆け抜けると、変化して車座を囲む鬼たちに問う。はじめきょとんとしていた鬼たちは、鋭い目つきでトラヌケを見据えた。


「テメエ、お頭に出ていけって言われてなかったか」

「よほど死にたいらしいな」

「アタシは死んだって構わないわ! ただアサキ様に言わなきゃいけないことがあるの。言って、アサキ様はどこ?」


 獲物を狙う目つきの鬼たちを負けじとにらみ返し、トラヌケは重ねて問う。薄く笑みを浮かべていた鬼たちは、トラヌケの剣幕に表情を冷たくする。


「許してもらおうってか?」

「そんな甘っちょろいこと考えてないわよ。いいから教えて。一刻を争うのよ」

「――なんだ、騒がしいな」

「アサキ様!」

「……トラヌケ?」


 木の陰からタタキと共にアサキが姿を見せる。名前を呼ぶトラヌケの姿に、アサキは怪訝そうな表情を消して、石のように冷たい目で彼女を見据えた。

 トラヌケはすぐに頭を垂れ、鬼たちはアサキの通り道を開ける。


「オレは二度と姿を見せるなと言ったはずだが?」

「はい。……ですが、たとえ殺されてもアサキ様にお伝えしなければならないことが御座いまして、おめおめと戻ってまいりました」

「ならば望み通り、殺してくれる」

「待ってください!」


 トラヌケが顔を上げると、目の前に立ったアサキが彼女を見下ろしていた。ひどく冷たい目だが、不思議と今のトラヌケに恐怖は感じられなかった。それでも声が震えそうになり、息を吸ってアサキの顔を真っ直ぐに見つめる。


「あの子が……麻里奈が、さらわれましたわ」


 アサキの眉がぴくりと動く。


「……何?」


 周囲の空気が凍り付く中、トラヌケは続ける。


「あいつ……カタブキです」

「何と言った!?」


 カタブキの名を聞いた途端、アサキは目を見開いて膝をつき、トラヌケの襟首を掴んだ。血相を変えて詰め寄るアサキに一瞬言葉を失うが、トラヌケはすぐに頷いた。


「カタブキ、あの鬼です。アタシが麻里奈と話しているところへ現れると、あの子を連れて行きました」

「お前、あの娘を目の前でさらわれたっていうのか」


 タタキの言葉に、トラヌケは強く彼を睨む。


「だって仕方がないじゃない! あいつがカタブキだなんて思わなかったんだもの……」

「思わなかった? お前、前にも会ってたのか」


 タタキがトラヌケの言葉尻をとらえて詰め寄ると、トラヌケは顔をそらした。眉をひそめたタタキが更に追求しようとすると、アサキがそれを遮る。


「トラヌケ。あいつは何か言っていなかったか」

「え? ええ……夜明けまで待つ、一人で来い、と」

「夜明け……ならば遠くはあるまい」


 手を離したアサキがゆらりと立ち上がる。もはやトラヌケなど眼中にないようで、青い目は遠い敵を見据えている。

 宴の気配など消え去った鬼たちを一瞥して、タタキが問うた。


「行くつもりか、アサキ?」

「つまらんことを訊くな」


 溜息のように言葉を吐き出すと、鬼たちはみな息を飲む。地を這うような声は、トラヌケを咎めた時よりも低い。


「……お主を許したわけではない。だが、オレに殺されるとわかっていてやってきた志を、今は信じよう」

「アサキ様……」

「いいのか、アサキ。トラヌケは嘘を吐いてるかもしれないんだぞ」

「アタシは嘘なんてっ」

「――嘘か真かなど、どうでも良い。嘘ならば麻里奈を助けてカタブキを片付けた後、トラヌケも始末するだけだ」


 タタキは何か言いかけて口をつぐんだ。彼が何も言わない以上、配下たちがアサキに意見できるはずもない。みなが固唾を飲んでアサキを見守る。

 ふとアサキが顔を上げると、ちょうど月の光が差し込んだ。浅黒い肌にいただいた角がはっきりと見える。


「行ってくる。留守の間を頼むぞ」

「はい」


 アサキの言葉に、鬼たちは膝を折って頭を垂れた。アサキは紺青の羽織の下から取り出した大きな金棒を肩に担ぐ。ずしりと重量を想像させるそれは、アサキの手でも大きすぎるように見える。

 強い風が吹き、枝葉を揺らす。髪や着物を巻き上げる風がやむと、鬼たちはゆっくりと顔を上げた。細々と月の光が落ちる山の中にアサキの姿はない。残された鬼たちは、各々酒瓶や盃を片付け始めた。


「アサキ様一人で、大丈夫かしら……」


 風の吹き抜けた方を向いてトラヌケがぽつりと呟くと、鬼たちが手を止める。


「何言ってんだ、トラヌケ。お頭が金棒持ってったんだ、心配いらねえさ」

「そうだけど……でも、やっぱり不安で……」

「罪悪感があるってんなら、鍋にでもなって待っててやんな」

「馬鹿っ! 減らない口だね!」


 本気なのか冗談なのかわからない口調の鬼に、トラヌケが言い返す。しかし彼の言った通りになってもおかしくない状況であることに変わりはなく、トラヌケもそれ以上喋るのは止めた。


「テメーら。アサキに留守を頼まれたんだ。やることはわかってるだろうな」


 頃合いを見計らって切り出したタタキの言葉に、鬼たちは一瞬でまとう雰囲気を変えた。闇の中にいくつもの目がぎらぎらと光っている。

 トラヌケは彼らが一変した理由がわからなかったが、迂闊に口を挟める状況でないことは理解できた。


「境の守りは全滅と考えていいだろう。カタブキの野郎は野郎で、アサキをおびきだしたかったのかもしれねえが、ここは今、大将のいない微妙な陣地だ。……西の鬼どもに備えるぞ」


 タタキが緊張した声で言い放つと、鬼たちは闇に紛れて用心を深めた。

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