第一章⑧

「だからアタシは、アサキ様に一生ついていく……そのつもりだったわ」

「トラヌケ……」


 アサキとの思い出語りをしているトラヌケの目は獣の獰猛さを潜ませて少女のように輝いていたが、話し終えて一息つくと、昼過ぎアサキに言われた言葉を思い出したのか声が低くなる。嬉しそうに、あるいは楽しそうに、時折アサキの気持ちに思いを馳せながら聞いていた麻里奈も寂しげな様子のトラヌケにかける言葉を持たない。そっと肩に触れると、トラヌケは顔を上げて眉を下げながら笑った。


「何よ、その顔。自業自得だもの、それこそ毛皮にされなかっただけ優しい――ううん。殺されない方が、いっそ残酷かもしれないわね」

「え? それじゃあこの毛皮……」

「ああ、それは違うわよ。そいつ、化けるのが下手でね。アタシと一緒にアサキ様についてきたんだけど、鈍臭いから人間に撃たれたの」

「そうだったんですか」

「アサキ様は獣の弔い方なんて知らないって言っていたけれど、ちゃんと埋めてくれようとしたの。……でもアタシは、きっとこいつもアサキ様と一緒にいたいだろうからって言って、こうして毛皮にしたのよ」

「優しいんですね」

「そうなの、アサキ様は優しいのよ」


 麻里奈が微笑み返しながら言うと、トラヌケは嬉しそうに頷いて、麻里奈の肩にかけた毛皮を撫でた。彼女の話に出てきた白い狐なのだろう。温かい目で見つめている。


「アサキ様は優しくなんてない、って言うけどね。優しくなかったらアタシのことも助けないし、そばに置いてくれるはずも――」

「そうじゃなくて」

「は?」


 指を組んでうっとりと宙を眺めながら語るトラヌケの肩を麻里奈が叩く。首を傾げた彼女の目を真っ直ぐに見つめながら、麻里奈は首を横に振った。


「私が優しいって言ってるのは、トラヌケのこと」

「……アタシ?」


 目を丸くするトラヌケに毛皮を返して、麻里奈は頷く。その目線に堪え切れなくなったのか、トラヌケは照れたように顔をそらした。


「意味わかんない」

「だって、あんなひどいことを言われてもアサキさんのこと好きなんでしょう? それに、私のこと嫌いなはずなのに、わざわざ来てるもの」

「そ、それは……行くところがないから、ちょっと休もうと思ったらアンタの家だっただけで……」

「トラヌケ、アサキさんのことが好きなんでしょ?」

「……アンタにそれを言われると、腹が立つわね」

「でも、そうでしょ」

「当たり前じゃない! 畜生だって、受けた恩は忘れないのよ。たとえ殺されたって、アサキ様を嫌いになることなんてないわ」


 麻里奈に指摘されて開き直ったトラヌケは、急に立ち上がると麻里奈を金の目で見下ろした。強い意志のこもった目は、アサキを想起させる。

 トラヌケは、麻里奈が想像する以上にアサキを好いている。

 命を助けられた恩、百年かけて募った恋慕。

 トラヌケがアサキに向ける思いは、アサキが麻里奈に向ける思いに勝るとも劣らないだろう。

 真っ直ぐに見据えているように見える金の目も、よく見れば不安げに揺れている。


「私、トラヌケのこと応援する」

「え?」

「アサキさんも頭に血がのぼってたんだと思う。だから明日、もう一度考え直してくれるように頼んでみるわ」

「アンタ……」

「私より、アサキさんのことを好きなトラヌケさんと一緒の方が絶対にいいと思うの……って、いひゃい!」


 乱暴に座り込んだトラヌケが麻里奈の頬をつねる。すぐに手を離したが、爪の跡が残った。麻里奈は赤くなった頬を両手で押さえながら、涙目でトラヌケを見る。


「人間の小娘が、生意気なこと言ってんじゃないわよ」


 鼻を鳴らしてそっぽを向いたトラヌケは、紅を差した唇を引き結んで、しばらく何も言わなかった。麻里奈もあえて何かを口にすることなく、ただ黙って、トラヌケの隣で星空を見上げていた。

 山間部のため、真夏でも夜には空気が冷たくなる。麻里奈が上着でも羽織ればよかったと考えていると、小さなくしゃみがこぼれた。


「私、そろそろ寝るね」

「そうね、そうしなさい」

「トラヌケ、明日も来てよ。ちゃんとアサキさんに話しておくから」

「はいはい。気が向いたらね」


 立ち上がったトラヌケが麻里奈の手を引く。麻里奈が立ち上がると、勝手知ったる様子で窓を開ける。部屋の中をちらりと覗いてから、トラヌケは表情を緩めて振り返った。


「ちゃんと寝るのよ。人間は弱いんだから、休んでおかない、と……」


 麻里奈の返事を期待していたトラヌケは、目を見開いてその先の言葉を失った。

 闇の中でぎらりと光る赤い目にトラヌケの背筋が凍る。


「――――北山に、たなびく雲の、青雲の、星さかり行き、月を離れて」

「アンタは……っ!」


 手拭いと笠の下に隠れていた赤茶けた髪が夜風になびく。月白の着物に重ねられているのは草色の羽織ではなく、血で染めたように赤い羽織だ。

 爪の長い手で麻里奈の口を覆っている男の額には、こぶのような角が付いている。


「貴様……名は忘れたが……まあ良いだろう。アサキへ伝えろ。貴様の女は、このカタブキが預かった、とな」

「カタブキって、それじゃアンタ本当は!」

「夜明けまで待ってやる。一人で来い――確かに伝えよ。良いな」


 カタブキの腕の中で麻里奈は必死に抵抗しているが、鬼の力にかなうはずもなく、そばにいるトラヌケにさえ指一本届かない。カタブキは麻里奈を連れて闇の中に消えつつあり、トラヌケから伸ばした手も届きそうにない。


「アンタ、最初からアタシを騙して……」


 ぞろりと闇を引き連れて、カタブキの気配が消えていく。


「待ちなさいよ! 麻里奈ー!!」


 トラヌケの叫ぶ声が夜にこだまする。しかしすっかり気配の消え去ったカタブキを求めて闇雲に手を伸ばしても、何かを掴むことはない。

 トラヌケが立ち尽くしていると、窓を開けていたせいか麻里奈の祖父母が起きてきた。家の明かりが点くのを見て、慌てて身を翻すと姿を消す。

 孫娘の姿がないことに驚き騒ぐ声だけが辺りに響いた。






 ぞくりとした気配に顔を上げると、嫌な予感が胸に広がる。木の枝の隙間から見える星空をしばらく無言で眺めていたが、やがて目を落とす。


「…………虫の知らせか。勘違いなら良いのだが」


 前髪をくしゃりと握ると、アサキは固く目を閉じた。少し離れたところから、鬼たちの騒ぐ声が聞こえる。せっかく遠路から呼び出されたのだから宴くらいさせろと喚くのをタタキに押し付け、彼は一人で座っていた。

 数日前、一人の鬼がアサキにある報告をした。

 ――カタブキに動きがありそうだ。

 西の鬼に密偵として潜り込ませた鬼の言葉だ。アサキが東西の境で小競り合いを面倒がるようになってから、カタブキは九州の山にいたという。しかし近頃、にわかに京都の大江山くんだりまで足を運んできた。その報告だけでもアサキが用心するには十分だったが、本格的に攻め込んでくるまでは、腰を上げるまいと静観していた。


「あいつめ……千年経って血の気が引いたかと思えば、昔と変わらんではないか」


 東西の境である長野の木曽を中心とした山脈には、何人も配下を置いている。それはアサキだけでなく、カタブキも同様だ。互いの領域を侵したら、すぐに明らかになる。

 西の鬼が東へ侵攻した時にそれがわからない事態があるとすれば、報告する鬼の一人も残らない……すなわち、皆殺しにできるほどの力を持った鬼が攻め込んできた時だ。事実、カタブキのことを報告した鬼は境へ帰して以来、音沙汰がない。


「おい、アサキ」

「タタキか。向こうは楽しんでるみたいだな」

「我を忘れてるだけだ。あいつらの面倒、俺に押し付けやがって……あんたらしくないな、酒も飲まないなんて」

「カタブキの影があるのに飲んでいられるほど間抜けではない」

「そうだっけか」


 くすりと笑ったタタキは、アサキの隣に腰を下ろして持っていた瓶から盃に酒を注いだ。しかしそれをアサキに勧めることはなく、自分であおる。


「だけど今日は一日寝てねえだろ。朝から起きっぱなしでさ。今のうちに少し寝といたほうがいいんじゃないのか……なんつった?」


 隣で何事かを呟いたアサキに聞き返す。アサキは両手で顔を覆うと、指の隙間から青い目を覗かせた。


「……寝ても覚めても麻里奈のことを考えてしまうのだ。ならばオレは、起きているしかあるまい」

「ああ……そうかい」


 タタキはそれ以上何も言わず、アサキも口を開かなかった。

 嫌な予感だけが、アサキの胸の中で徐々に膨らんでいた。

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