第一章⑦

 一人の男が、山の中で草むらを歩いていた。生成り色の着物に、紺青の羽織に袖を通した身の丈六尺はありそうな美丈夫である。伸びた黒髪を無造作に後ろでひとつくくりにしている。

 草むらを歩いているにも関わらず、男の足音はあまり聞こえない。何かを探るように辺りを見回しながら進む男は、やがてぴたりと足を止めた。

 ……がさがさと、小さな音が聞こえる。男は身動き一つせずに耳を澄ましていたが、やがて音の止まないことを知ると、そちらへ向かって歩き出した。伸びた草を足でかきわけながら音の源を探していると、大きく開いた鉄の輪を見つけた。


「……人間の罠か」


 ふちが鋭く尖った鉄の輪はばね仕掛けになっていて、獲物が踏むとその足を挟み、鋭い刃を食いこませる罠だ。男はつまらなさそうに溜息を吐くと、頭をかいた。


「近頃、どうも人臭いと思ったがこれのせいか。……こんなところまで来るとは、もはや捨て置けんな」


 男はそう言いながら設置されていた罠を蹴飛ばした。軽い動作に見えたが、罠は大きな音を立てて近くの木にぶつかった。

 いつの間にか、男の肌は浅黒い色になっており、額にはこぶのような角が生えている。男は草むらをかきわけ続け、罠を見つけては蹴飛ばして壊した。


「一体、いくつあるんだ……ん?」


 男が辟易し始めた頃、近くの草が音を立てて動いた。今までと同じように草をかきわけると、そこにいるものに目を瞬く。


「クゥン……」


 犬よりも高い鳴き声のその生き物は、どうやら人間の罠にかかって足を挟まれ動けなくなっているようだった。物悲しそうな目で男を見上げる獣は痩せていて、毛皮は汚れてごわついている。

 男はしゃがみこんでまじまじと見つめる。クンクン鳴く姿をしばらく眺めてから、男はようやく手を打った。


「お前、狐か。犬かいたちか迷ったぞ」

「クン……」

「……助けてやるか。減るものではないしな」

「クーン!」

「おい、動くな! 怪我してるだろうに、元気だな」


 狐は嬉しそうに動こうとして、男に抑えられた。力が強かったのか、苦しそうに唸る。男は笑いながら「すまん」と詫びると、狐の足を挟んでいる鉄の罠を外してやった。飛び跳ねようとする狐の背を撫でながら、足の具合を診てやる。


「これでは歩けんだろう。お前、親や兄弟はいないのか?」

「ククン……」

「ああ、まあ、罠にかかっているようでは置いていかれるのも当然か」

「クゥン」

「何、オレの山に手を出す人間など食ろうてやる。怪我さえ治れば、お前も一匹で生きていけよう。……すまんな、包帯の持ち合わせがない」


 これで我慢してくれ、と言いながら、男は取り出した手拭いを裂いてきつく縛った。やはり力加減が上手くいかないのか、狐が唸る。


「おう、すまん……こんなもので良いか」


 男の手が離れると、狐は草むらへ飛び出した。元気に跳ね回っているが、まだ痛むのか動きは少し鈍い。やがて動きを止めると、静かに男に寄って来た。男の手に体をこすりつけている。


「なんだ、恩返しはいらぬぞ。獣肉は好かん」


 男が立ち上がると、狐は着物の裾に前脚をかけた。


「おい、離れろ」


 男が足であしらうと狐は離れたが、歩き出した男の後を追う。がさがさと音を立ててついてくる狐をしばらく無視していた男だが、そのうちに足を止めて振り返る。


「ついてくるな。オレについてきても、お前は生きていけないんだ」

「クン」

「……わかっておらんな?」


 呆れたように息を吐くと、男は手を伸ばして狐の首根っこを掴み上げた。嬉しそうに男に向かって前脚を伸ばすが、まったく届いていない。


「あのな」


 鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけると、狐はおとなしく体の力を抜いた。男の青い目が狐の金色の目を見つめる。


「オレは鬼だ。お前みたいなただの獣では、また力加減を間違って殺してしまうかもしれぬ。……それに、オレは獣の弔い方など知らん」


 ぽつりと呟いた男の言葉に、狐は動かなくなった。それを見ると、男は狐を地面におろして背を向ける。


「達者でやれよ」


 振り向かずにひらりと手を振ると、男は颯爽と歩き出す。今度は狐も後を追わなかった。

 軽い足取りで歩いていた男だが、にわかに顔を上げると木の陰に身を隠す。

 ……しばらくすると、物音がして人影が姿を現した。着物の裾を帯に挟んで、肩に猟銃を提げた老人だ。注意深く辺りの様子を伺いながら歩を進めている。


「ふむ……あいつか」


 男が蹴飛ばしていった罠を確かめて首をひねる老人の姿に、男はこっそりと溜息を吐いた。


「あんな爺では、食ろうてもまずそうだな」


 見つけた分の罠は蹴り飛ばして壊したのだから放っておいても構わないか、と考えかけて、先程助けた狐のことを思い出す。狐や山の獣たちに特別な思い入れがあるわけではないが、このまま人間に山を踏み荒らされるのも、鬼である男には面白くない。老人は男に気付かず、壊れた罠を回収している。


「……ま、良いか」


 男は口の端を吊り上げると、鋭い目で老人を睨んだ。隙を伺っていると、老人が足を止める。男が見ていると、老人は草の中から一匹の狐をつまみ上げた。痩せた体に汚い毛皮の獣は、脚に手拭いを巻いている。


「なっ、あいつ何してんだ……!」


 男は舌打ちするが、狐は老人に怯えているのかぴくりとも動かない。老人は狐の脚に巻かれた手拭いを怪訝そうに見ていたが、気にしないことにしたらしい。狐の首根っこを掴んだまま歩き出した。

 他の罠が全て壊れていることを確認した老人は、その足で下り始める。掴まれた狐が、木の陰に隠れている男を見つけて身を震わせた。老人はそれを恐怖と勘違いしているのか、笑みを浮かべている。

 これ以上隠れている必要もないと判断した男が姿を見せようとすると、男の足に何かがまとわりついた。


「なんだ? ……お前、あいつの兄弟か何かか?」


 薄汚れた白い毛皮の痩せ狐が、男の足に身をこすりつけている。黒い目が男をじっと見つめる。一声も鳴かない足元の狐を見て、男はようやく木の陰を飛び出した。


「おい、人間。ここはオレの山だ。獣一匹、手を出さないでもらおう――って、おい、聞いていけよ!」

「クーン!」

「馬鹿、邪魔するな! ……あー、逃げられた」


 意気揚々と飛び出した男だったが、老人は鬼である男の姿を見ると狐と猟銃を放り出し、老体のどこに力が隠れていたのかと思うほどの俊敏さで逃げ去って行った。

 肩透かしを食らった男は、一瞬老人を追いかけることも忘れて後ろ姿を眺めていたが、我に返ると駆け出そうとして――足元にまとわりつく狐の首根っこを掴み上げた。結局、その動作のうちに老人の背中は遠くなり、狐二匹にまとわりつかれた男は大きく肩を落とした。


「お前ら、オレに恩を感じてるなら、丸々太ってからオレのところへ来い」


 白い狐を掴み上げた時、助けた方の狐が男の手を抜け出た。


「あ、おい!」


 草むらに消えてしまうと、白い狐も後を追って去ってしまった。

 残された男はせめてもの手慰みにと、老人の落とした猟銃を拾い上げる。まじまじと見つめた後、両端を握って力を加え、真っ二つに折ってしまった。捨ててしまうと興味が無くなったのか、頭をかきながら歩き出す。


「つまらんことに時間を使ってしまったな」

「……あら。そんな言い方は無いんじゃないですか?」

「誰だ!」


 後ろから聞こえた女の声に振り返ると、いつの間にか狐色の着物の女が立っていた。長い銀髪をなびかせ、金の双眸で男を見つめている。


「狐の恩返しに、嫁入りでもいたしますわ」


 紅を引いた唇が弧を描く。男が鋭い目で睨んでいると、女の近くの草むらが音を立て、先程の白い狐が姿を見せた。


「あら、アンタもこの人に恩返しがしたいの? でもアンタ男じゃない」


 女は白い狐を抱き上げると、肩に乗せた。男はその光景を見て、ようやく問いかける。


「お前、今の狐か?」

「助けていただき、有難うございます。アタシはトラヌケと言います。あなたのお名前は?」

「オレはアサキだが……お前、トラヌケと言うのか」

「トラバサミから助けていただきましたから、今からトラヌケです」


 アサキが言葉を失うと、トラヌケは満面の笑みを浮かべてアサキに近寄り、両手を握った。


「化け狐として、受けた御恩は忘れません。一生ついていきますわ、アサキ様」


 アサキは自分を真っ直ぐに見つめるトラヌケの金の目にたじろぐしかなかった。

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