第一章⑥
「なあ、お頭起きてるか?」
「起きてるも何も、朝からピリピリしたまんま寝てねえよ」
麻里奈を背負ったフジが見かけた鬼に声をかけると、鬼は肩をすくめながら返事した。そして麻里奈に目を留めると、呆れた表情を作る。
「いくらフジでも、お頭の女に手を出しちゃあ、終わりだぞ」
「馬鹿、怪我してんだよ」
「ふうん……ま、お頭なら、いつものところにいるぜ」
「わかった。ありがとな」
フジは礼を言うと、目でトラヌケに合図して歩き出した。
日が傾いてきた山中の景色は、麻里奈も見たことがあるものだ。山の中はどこも似たようなものとはいえ、特徴的な岩もある場所へ二度も三度も連れてこられては覚えるというものである。
……その麻里奈は、足首を水で冷やされた後、草をあてて包帯を巻かれた。フジの話を聞いたアサキが、一言も言わずに手際よく済ませたのだ。
そして麻里奈は、先程までアサキの座っていた岩に腰かけている。目の前にはアサキの紺青の羽織の背中が見えていて、その向こうにはフジとトラヌケが立っている。アサキの発する空気に、麻里奈は帰してくれと頼むこともはばかられていた。
「……それで?」
息が止まるほど冷たい声だった。アサキは低く、それだけ言う。麻里奈には見えていない青い双眸も、氷のように冷え切っている。
「えーと、お頭、どういうこと?」
強張った声でフジが恐る恐る訊ねた。
「どうもこうも、麻里奈に怪我をさせて、よくもオレの前にその面を下げられたものだ、トラヌケ」
「っそれは……」
「アサキさん! だからこれは、私の不注意なんです。トラヌケさんは私をあそこへ連れていってくださっただけで……」
「麻里奈」
言いよどむトラヌケに麻里奈は助け舟を出そうとしたが、アサキに制される。
「お主の言った通り、トラヌケはお主を連れて行っただけとしよう。……なればこそ、オレはトラヌケを許せぬよ。人間にとって危険な場所へ連れ出したことだけでも許せんのに、怪我を負わせたのだ。手を触れておらずとも、これはトラヌケの
「そんな……」
麻里奈が落ち込んだ声を出すと、アサキはゆっくり振り返った。麻里奈の前で膝をつくと、まだ痛む麻里奈の足首にそっと触れて顔を覗き込む。心配そうに揺れている青い目からは、先程の冷たい声など到底連想できない。その目を閉じて眉を寄せたアサキは、ひどく苦し気な表情で言葉を絞り出した。
「好いた女が怪我をさせられて、黙っているなどできるものか。――オレは、鬼なのだ」
アサキの言葉に息を飲む。言葉を返せなかった。何を言っても、真っ直ぐな己を持つアサキの意志を変えることは出来ないだろう。アサキは麻里奈の言葉に耳を傾けてくれる。しかしそれに頷くか否かは麻里奈の力も及ばぬところだ。
それでも、麻里奈とてアサキの言葉にただ頷くことも出来ない。
「アサキさん、でもやっぱり、トラヌケさんは……悪くないんです。ひどいことはしないでください」
「……お主は、やはりオレの見初めた女子だ」
麻里奈がアサキの顔を見つめて頼むと、アサキは困ったように笑いながら立ち上がった。
再び麻里奈に背を向けると、アサキはいくらか和らいだ声でトラヌケの名前を呼ぶ。
「トラヌケ、聞いておったな。オレとて麻里奈の言うことを差し置くわけにはいかん。その心遣いに免じてやる……山を出ていけ。二度とオレの前に畜生の姿を見せるな」
「アサキさん!」
「麻里奈、オレは頭領だ。けじめをつけねばならん」
「でも……」
トラヌケはなぜ何も言わないのか。麻里奈は胸の前で拳を握りながら、俯いたまま黙っているトラヌケをじっと見る。動かないトラヌケを見て、アサキはまた冷たい声を放った。
「聞こえなかったか? オレは山を出ていけ、と言ったのだ。……それとも、お前もその毛皮のようにされたいのか」
アサキの冷ややかな視線は、トラヌケの首に巻かれている白い毛皮に注がれている。トラヌケは紅の唇を一文字に引き結んで険しい表情をしていたが、やがて何も言わずに背を向けた。
「待って、トラヌケさん! あいたっ」
「麻里奈! 無理に立つな」
麻里奈は、駆け出したトラヌケの背に手を伸ばして思わず立ち上がった。けれどすぐに足首を押さえてうずくまると、アサキが麻里奈の体を抱えて岩の上に座らせた。
沈んだ顔をして黙り込む麻里奈の頭を、アサキの手が優しく撫でる。
「…………麻里奈。家まで送ろう」
アサキがそう言うと、麻里奈は小さく頷いた。アサキが麻里奈の膝裏と肩に手を入れて抱き上げても、いつものように恥ずかしがる素振りは見せない。ただ黙って帽子のつばを下げて、アサキの着物を掴んでいた。
アサキは少し寂しそうな表情で見つめた後、風を起こした。
アサキに抱きかかえられて帰宅した麻里奈は、祖母の問いに答えず部屋へ入った。アサキも特に語ることはせず、挨拶だけして後にした。
夕食も摂らずに布団へ入った麻里奈は、夜遅くにふと目を覚ました。枕元の携帯で時間を確認すると、一時を回ったところだ。メッセージを受信していたが、目は通さなかった。
「……ふう」
息を吐くと、足首に気を使いながら立ち上がる。窓を開けると、虫の声が聞こえた。外灯は少なく、人通りはもちろん車通りもない。
昼間の出来事を考えると、麻里奈の口からは溜息ばかりこぼれた。
アサキの下へ行ったトラヌケは、一切の弁解をしなかった。本当のことも言わず、麻里奈がかばうままにされていた。アサキには本当のことがわかっていたのかもしれないが、それでも麻里奈の言葉を聞いて下した罰があれだ。
誰よりもアサキを慕っていると言うトラヌケが、二度とそのアサキに会えない……どれほど辛いことか、想像すら及ばない。実際に麻里奈に怪我をさせたのはトラヌケだが、それも麻里奈がついていかなければ良かった話だ。麻里奈は流されてばかりの自分が嫌になった。
「アンタ、寝てなくていいの?」
「と、トラヌケさん!?」
「何もしないわよ。……今度は本当に。次アンタに何かしたら、本当にアサキ様に殺されるわ」
窓の下から聞こえた声に驚いた麻里奈が覗き込むと、澄ました顔で爪を見ているトラヌケの姿がある。ちらりと麻里奈を見たトラヌケは、表情こそ変わらないが、声音は寂しげだ。
「アタシって馬鹿ね。アサキ様の側にいたのに、何にもわかってなかった」
トラヌケがぽつりぽつりと語りだし、麻里奈は桟にもたれて耳を傾けた。
「でもね、今までアサキ様が誰か一人を好きになることなんてなかったのよ。だからあんなに怒るなんて思わなかった。……麻里奈、アンタのお陰で、アタシはまだ生きてる。何であんなこと言ったのか知らないけど……その、ありがと」
麻里奈が驚いて見ると、トラヌケは恥ずかしそうにそっぽを向いていた。その姿は学校で好きな人の話をする友人と重なって見えて、麻里奈は微笑んだ。トラヌケは麻里奈の笑みに気付くと眉を寄せたが、すぐ苦笑に変えた。
「ねえ、トラヌケさん」
「何よ」
トラヌケが冷たい目を向けることなく話してくれることが嬉しくて、麻里奈は穏やかな笑みを浮かべたまま名前を呼んだ。
「トラヌケさんは、鬼じゃないって仰ってましたよね。それじゃあ何なんですか?」
「アンタ、どうでもいいこと覚えてんのねえ」
「どうでもよくないですよ! 私、トラヌケさんのこともっと知りたい」
「……アサキ様は麻里奈がつれないって言っていたけど、そうでもないじゃない」
「だ、だってアサキさんは結婚しろなんて言ってくるから」
疑うようなトラヌケの目に、麻里奈は肩をすくめる。呆れたような溜息に、麻里奈は慌てて話を戻した。
「それより、トラヌケさんのこと」
「……わかったわよ。話してあげるけど、そのトラヌケさん、ていうのやめなさい」
「え?」
「トラヌケでいいわよ。ほら、出てきな」
「わ、ちょっと!」
立ち上がったトラヌケに驚いて、麻里奈はのけぞった。トラヌケはその手を掴むと、意外に強い力で麻里奈を窓から外へ連れ出す。静かに窓を閉めると、二人は並んで腰を下ろした。
麻里奈が冷たい夜の空気に身を震わせると、トラヌケは少し考え、首に巻いていた白い毛皮を外して麻里奈の肩にかけた。固くざらついているが、トラヌケの体温も残っていて暖かい。
「アタシはね、狐なの」
「狐? それってあの、動物の?」
「そうよ。他の狐なんてないでしょ。……そうねえ、特別にアタシとアサキ様の出会いを教えてあげるわ」
「えっ、出会い!?」
「大体、百年くらい前の話だったかしら」
興味津々な態度で身を乗り出した麻里奈に、トラヌケは笑顔を向ける。二人は距離を詰めて身を寄せ合うと、星空を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます