第一章⑤
「アサキさん……来なかったな」
やはり習慣には勝てなかったのだろうか、と思いながら麻里奈は昼過ぎに一人で散歩していた。夕方に来るかもしれないとは思ったが、ここ何日も続いていたアサキの訪問がないことになぜかそわそわしてしまい、宿題は進められなかった。
いつもの橋までやってくると、下の河原はまた小学生で賑わっていた。微笑ましく見守っていると、ポケットに入れた携帯がメッセージを受信した。
「カズ先輩かな」
取り出すと予想通りで笑みがこぼれる。最近はあまりやりとりできていなかったし、押しかけるアサキがいないのならば気をもむこともない。久しぶりに落ち着いた気持ちで読む。
『東京より暑い!』
げんなりした表情の画像もあわせて送られており、一寿が言っている様子が容易に想像できた。
『先輩、福岡ですもんね。長野は涼しいですよ~』
日の高い今の時刻はやはり暑いのだが、東京のコンクリート熱に比べれば微々たるものだ。風は山間を吹き抜け、蒸すような感じはない。
キャッチボールしていた小学生たちが、そろって川に駆けていく。ボールが飛んでいったようだが、フェンスがないため転がり落ちてしまいそうだ。麻里奈が危ないと声をかけようとした時、人影がボールを拾い上げた。
何といっているのかわからないが、その人影はボールを小学生に渡し、河原をのぼってきた。そこでようやく、麻里奈はそれが見知った姿であることに気が付く。
「トラヌケ、さん」
渋みのある狐色の着物に真っ白な毛皮を首に巻き、光に輝く長い銀髪をなびかせている。気の強い表情で紅い口を引き結んで、トラヌケは麻里奈に近付いてきた。その剣幕にたじろいでいた麻里奈だが、トラヌケは構わず目の前に立つと、先日同様上から下まで麻里奈を眺めた。
「アンタ、麻里奈って言ったわね」
「そうですけど」
「ダサい名前……って、そうじゃないわ。アンタに話があるの」
「私に?」
麻里奈は怪訝そうにトラヌケを見る。二人が会ったのは一度だけ、しかもその時トラヌケは麻里奈を疎んでいた。良い話ではないと身構えるのは当然のことだ。
しかしトラヌケは険しい表情を緩めると、麻里奈の隣で欄干に身を預けた。
「……この間は、悪かったわね。目くじら立て過ぎたわ」
「え?」
「アサキ様を一番好きなのはアタシだけど、そのアサキ様が本気でアンタに惚れてるんだもの。とやかく言えることじゃないわ」
トラヌケの言葉に、麻里奈は目を瞬いた。欄干で頬杖をつくトラヌケの横顔は物憂げだ。溜息を吐く姿さえ息を飲むほど絵になっている。
「……ま、アンタにアサキ様を譲る気はないけど、ひとまず仲直りとしましょ」
差し出された手を、麻里奈はじっと見つめる。
「何してんのよ」
「えっと……」
「何もしやしないわよ。ただの握手でしょ」
手を取るか取るまいか躊躇ってさまよう麻里奈の手を、トラヌケは強引に掴んだ。アサキと違って冷たい手だ。
「――じゃ、仲直りもしたことだし、行きましょうか」
「え? ど、どこに?」
「フフ、秘密。いいところよ」
そう言うとトラヌケは意味ありげに笑った。妖艶な笑みに、麻里奈の背筋がぞくりとする。しかし手を引かれて駆け出した足は止まらない。
トラヌケは人気の少ないハイキングコースを登っていく。麻里奈には少し不安な気持ちもあったが、手を振り払うことはなかった。
「ま、まだ行くんですか? もうコースは外れましたけど」
「もうちょっと先。人の来ない、いい場所があるのよ」
そこならゆっくり話せるわ、というトラヌケの言葉を聞くと、麻里奈はついていくしかなかった。
ハイキングコースから外れたとはいえ、手入がしっかりされているのか草はあまり生えておらず、山歩きになれない麻里奈でも歩きやすい。強引に連れてくるところはアサキに少し似ていると感じた。
「そうね……この辺りでいいかしら」
「トラヌケさん?」
「ああ、何でもないわ。ほら、この下に川が見えるでしょ」
「あ、本当」
「春には桜が、秋には紅葉がきれいなのよ」
「へえ……でも残念です。私は夏休みにしかここへ来ないから、見れないや」
トラヌケの指さす方を見れば、細い小川が静かに流れていた。二人のいるところからは少し高さがあり、上から覗き込むようになる。深さはあまりないようだ。
「アサキさんもだけど、鬼って特別な場所に連れて来てくれるものなんですか?」
「アタシは鬼じゃないわ」
「え、そうなんですか?」
「……それより、アサキ様も、ってどういうこと? アンタ、アサキ様とどこへ行ったっていうのよ」
「そ、それは言えません。アサキさんが、とっておきだって仰ってたから……」
「ふうん……そう……」
トラヌケの金の目が細くなる。足元に気を付けながら下を覗き込む麻里奈は、後ろから見つめているトラヌケの視線に気付くことはない。
ここへ来るまでの道中、麻里奈はまだトラヌケのことを信じ切っていなかった。初対面で浴びせられた冷たい視線や言葉を忘れられなかったからだ。しかし今、手を引いて特別な場所へ連れてきてくれた彼女のことは信頼しても良いと思い始めていた。
だから、トラヌケが手を離したことにもさほど警戒しなかった。
「……玉葛、実ならぬ木には、ちはやぶる、神ぞつくという、ならぬ木ごとに」
後ろから聞こえた覚えのある和歌に顔を上げた麻里奈の背を、トラヌケの手が強く押す。
「きゃっ!」
バランスを崩した麻里奈は、慌てて近くの枝に手を伸ばしたが、下へ滑り落ちていく重力には逆らえずに折れてしまう。幸い、段差になっているところで止まったが、トラヌケのいるところまでは距離がある。足首をひねったようで立ち上がることができない麻里奈は、恐る恐る声を上げた。
「あの、トラヌケさん? 足をひねってしまったので、手を貸してくれませんか?」
しかし返事はない。立ちっぱなしのトラヌケは黙って麻里奈を見下ろしていた。感情のない固い目に、麻里奈は息を飲む。痛む足首を押さえて、もう一度声をかける。
「トラヌケさん」
「玉鬘のように実のならない木には、恐ろしい神がよりつく……つまり、男の気持ちに応えぬ女には、玉鬘のように恐ろしい神がよりつく、ということよ」
「その歌、どうして……」
麻里奈の背筋が凍る。トラヌケの詠んだ歌は、昨日出会ったフキの詠んでいたものと同じだ。フキもアサキの知り合いと言っていたのだから、同じ歌を知っていることは何ら問題ではない。ただ麻里奈には、トラヌケが詠んだ意図が理解できなかった。
冷え切った金の目に射抜かれて顔をそらせずにいる時、下の方から物音が聞こえてようやく麻里奈は顔をそらした。
「トラヌケとお頭の……何だっけ。名前は忘れたけど、人間の小娘じゃねえか」
「なんでアンタがこんな時間に起きてるのさ、フジ」
「そんなの俺の勝手だろ」
咲き誇る藤の花と同じ色の着物を着た鬼が、肩に手拭いをかけながら立ち上がる。川の水で顔を洗っていたらしく、髪をかき上げると額の角が露わになった。
トラヌケにフジと呼ばれた鬼は、麻里奈が座り込んでいるのを見ると眉をひそめた。
「おい、トラヌケ。お頭の女に手を出してただで済むと思うなよ」
「アタシ、何もしてないわ。この子を連れてきたのはアタシだけど、急に落ちて吃驚してたの。今、助けようと思ったのよ」
「フン、どうだか。お前は油断ならねえ女狐だからな」
睨み合う二人のやりとりに口を挟めず麻里奈が見守っていると、にわかにフジが飛び上がって、高さを物ともせずに麻里奈のいる段差に立った。しゃがみ込んで麻里奈の足首に触れると、難しい顔をした。
「人間はなんて弱っちいのかねえ。これじゃ歩けねえだろ。お頭んとこに連れてってやるよ」
「いいです! 町に帰してくれれば……」
「手当もしなきゃ歩けんだろうが。それに放っておいたら、俺がお頭に殺されちまうよ」
「ちょ、ちょっと!」
「トラヌケ、お前も来い」
フジは麻里奈を無理矢理背負うと、再び飛び上がってトラヌケの隣に立つ。アサキに劣らず強引な態度のフジに肩を落としながら、麻里奈はトラヌケの様子をうかがった。「言われなくても行くわよ」と返すトラヌケは、つんとそっぽを向いたまま麻里奈の顔を見なかった。
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