第一章④
ここ数日溜まっていた宿題をいくらか片付けて、麻里奈はその日の夕方、散歩に出ていた。
アサキに連れられて御嶽山まで行ったためか時間がかかり、昼前に帰宅すると祖母にとうとう良い仲になったのかと勘違いされてしまった。誤解を解こうとしたが、麻里奈が言えば言うほど、祖母は笑みを深めるのだった。
「……別に、期待はしてないんだけど。単に近いから来ちゃうのよ。うん」
自分にそう言い聞かせながら、麻里奈はいつもアサキとやってくる橋までやってきていた。小学生たちは遊び場を変えたのか、河原には誰の姿もない。麻里奈は珍しく下りてみることにした。
橋の影に入ると、少し肌寒い。ポケットに入れた携帯がメッセージを受信したが、億劫に思って麻里奈は手を伸ばさなかった。友人にはあまりメッセージを送ってくる人がいないので、おそらく一寿だと予想できた。いつもならすぐに返事をするのだが、ここ数日はアサキのことで頭がいっぱいで、一寿に気を回す余裕がなかった。
「って、なんでアサキさんのことなんか……!」
一日のうちに、何度もこうして我に返ることがある。麻里奈は学校や部活のこと、一寿のことを考えようとするのだが、ふと心に隙間ができると、あの柔らかいアサキの笑顔が浮かんでくるのだ。
あの豊かな表情が。優しい声音が。温かい腕が。
麻里奈の心をかき乱す。それが何を意味するのか、麻里奈は理解していない。……否、理解しようとしていない。おそらくその正体は、麻里奈が自ら手を伸ばせば、すぐに届くところにある。
橋の下を抜けると、思いがけぬ日差しの眩しさと温かさに、麻里奈は反射的に目を瞑った。
――その時。
「どうも」
背後から声をかけられて、驚き振り返った。橋の下には誰の姿もなかったし、麻里奈が下りた時には河原にも誰一人いなかった。
しかし今、橋の下に、暗い影の下に、一人の男が立っている。
手拭いをして笠をかぶった男は、草色の羽織をしっかりと着込んでいる。少し涼しいとはいえ夏の日だ。奇妙な和服姿の男には、少々の心当たりがある。麻里奈は恐る恐る声をかけた。
「……もしかして、アサキさんのお知り合いですか?」
「ああ、話が早くて助かる」
男は燃えるように赤い目を閉じてにこりと笑った。穏やかな表情だが、底の方に冷たさを感じて、麻里奈はひやりとした気持ちを覚えた。
男は影の中に立ったまま、近付いてくる気配はない。
「あの、あなたの名前を、うかがってもいいですか?」
麻里奈が訊ねると、男は驚いたように目を丸くした。それから、また笑みを浮かべて、笠をかぶって下を向いた。
「私は……フキ、という。アサキとは、長い付き合いだ」
「それじゃあ、タタキさんと同じくらい?」
「タタキ? ……ああ、そうだな。およそそれくらいだろう」
フキと名乗った男は一向に日の下へ出てくる様子はない。話しにくいと感じた麻里奈は、少し警戒しつつも近寄った。ぞくりとするほど赤く濡れたフキの目に見つめられるのが妙に不安で、麻里奈はフキから顔をそらした。
「アサキはどうだ」
「どうだって……」
「あれは阿呆な鬼だ。千年生きようが、二千年生きようが、人間に現を抜かすような阿呆は治らんだろう」
「やっぱり……おかしいですよね。鬼と人間なんて」
フキの言葉に、麻里奈は思わず顔を向けたがすぐに目を伏せた。
アサキは鬼の頭領だ。だからこそ、彼の宣言は配下の鬼たちにとって、どんなに阿呆らしいことでも黙って従わなければならない。しかし表立って異論を唱えることはせずとも、アサキが人間である麻里奈を嫁にしようとすることを良くは思っていないだろう。アサキとばかり話しているから意識が鈍くなっていたが、元々麻里奈自身、人間と鬼が一緒になることなどできないと思っていたのだ。
「ああ、おかしい。へそで茶が沸かせるな」
あけすけなフキの言葉に、麻里奈は肩を落とした。しかしすぐに、なぜ彼の言葉に落胆したのか疑問に思うと、頭を振ってそれ以上考えるのを止めた。
「あいつも、鬼の頭ならば女子一人くらい攫えばよいものを」
「えっ」
「案ずるな。まだ手を出していないということは、あの愚か者が貴様へ無闇に手を出すことはない、ということだ。私に言わせれば、何を迂遠なことを、というところだが」
「フキさんは、随分とはっきり仰るんですね」
「人間相手に取り繕う必要がどこにある」
「そう……ですね」
涼風が吹いた。手拭いからこぼれたフキの赤茶けた髪が揺れる。伸ばされた前髪は顔の右半分を覆っていて、風に揺れてもその下は見えない。麻里奈は白い帽子のつばを押さえながら、フキを見つめた。
「それで、貴様はアサキをどう思っているのだ?」
フキが一歩、麻里奈に向かって歩み寄った。ぞろりと影が蠢いたような気がする。しかしフキが日の下へ出てくることは、やはりない。
「私は……正直、よくわかりません。アサキさんのことは気になっています。でも、それはアサキさんが鬼だからなのか、アサキさんだからなのか……わからないんです。嫌いでは、ないんですけど」
どこか物憂げな表情の麻里奈を、フキの赤い目がじっと見つめる。その時、麻里奈が慌てた様子で顔を上げた。
「あ、あの、アサキさんには言わないでくださいね? 誤解されちゃいそうだから」
麻里奈の言葉に、フキは目を閉じて笑みを浮かべた。今までのどこか恐ろしさを覚えるものではなく、純粋に麻里奈の言動にこぼされたものだ。麻里奈はフキの反応に首を傾げる。
「フキさん?」
「……ああ、アサキには言わないさ。私は、あれと話すことは多くないしな」
「そうなんですか? なんか、意外です」
「――
「え?」
フキの詠んだ歌に麻里奈が聞き返したが、彼はそれ以上は何も語らずに背を向けた。音もなく去って行く背中は、麻里奈がひとつ瞬きした間に消え失せてしまった。
残された麻里奈は、フキの言い残した歌を繰り返す。和歌であるとはわかったが、麻里奈には意味がわからなかった。
帰ってから調べようと思ったが、結局、帰宅した麻里奈がフキの言い残した歌を調べることはなかった。
真夏の夜。山に囲まれた長野はいくらか空気も涼しいが、それでも上着はいらないほどである。長い羽織に手拭いをかぶり、日も出ていないのに深く笠をかぶっているカタブキの格好はさすがに奇妙であった。
日中にはランニングする人や小学生の姿が見られる河原も、この時刻になれば人っ子一人いない。橋の欄干にもたれながら黒い川の水面を眺めるカタブキは、先程まで静かだった河原に黒い影を見つけて目を細めた。
月の光が雲間から差し込むと、影の姿が露わになる。銀の光を受ける影は、同じように光を返して輝く獣の毛皮と長い髪を持っている。若い女のようだ。誰に向けるでもなく、紅の引かれた唇が動いている。カタブキは目を凝らした。
――人間風情が。
そう読み取れた時、カタブキは口の端を吊り上げた。音もなく女の後ろに立つと、白い女はできた影に驚いて振り返った。
闇の中、金に輝く女の目は獣のように鋭い。しかしそれを見下ろすカタブキの赤い目は、それよりも鋭く、冷たい。
「貴様、アサキの配下か?」
「……アンタは誰さ。ここにいる鬼でアタシを知らないやつがいるもんかねぇ」
カタブキの問いに口調は強く返すと、カタブキは不快そうに眉をひそめた。
「アサキの奴、一人の女も持たぬかと思ったが……否、あやつにはその気は無いのかもしれんな」
「ぶつぶつと何だい。……アンタ、ひょっとして西の鬼かい? だとしたら、見逃すわけにはいかないね」
女は警戒しながら立ち上がったが、カタブキは気にした様子もない。むしろ女の言動に呆れてさえいるようだった。
「人間の小娘に現を抜かすような奴でも、従うというのか。……フン、愚かだな」
「何を……っ!」
「あの小娘がいなければ――そうは思わないか?」
「……アンタ、一体何を……」
「いくらアサキが愚かとはいえ、本当に人間なぞに入れあげると思うか? ……私は思わん。あの人間を何とかすれば、あやつも目を覚ますだろう」
カタブキの言葉に、女は少しずつ警戒を緩めていく。金の目は次第に不審から憎悪に塗り変わっていった。
「そうよ……アサキ様は、あの小娘に騙されてるんだわ」
「そうだとも。アサキは東の鬼の頭領だ。人間と夫婦になるなど、愚かな真似はしない」
カタブキが笑みを深める。どろりとした言葉が、女の意識を侵食していく。
女は、アサキと行動を共にするようになって長くはなかったが、決して短くもなかった。アサキに仇なすもの、反旗を翻すもの。女は鬼ではないが、危険を感じた相手には容赦しなかった。
しかし今。明らかに危険人物だと理解していながら、女の心はカタブキの言葉に飲まれかけていた。それほどまで、人間の娘――麻里奈の存在は、女にとって邪魔なものであった。
「私と手を組め。女、名は何という」
だから女は、カタブキの問いに答えた。
「アタシはトラヌケ。アンタは?」
「そうだな……フキ、と呼んでもらおう」
トラヌケはカタブキに不審な目を向けたが、追求はしなかった。
カタブキが天を仰ぐと、月が雲に隠れた。
「玉葛、実ならぬ木には、ちはやぶる、神ぞつくという、ならぬ木ごとに」
「何よ、それ」
「玉鬘のように実のならない木には、恐ろしい神がよりつくという話だ。実のならない木、それぞれに――――『万葉集』だ。貴様のような獣にはわからんだろうがな」
カタブキはそう言うと、それ以上の追及を許さぬように顔をそらした。
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