第一章③

「カタブキ様、ご報告します」


 月の光が枝葉の隙間を縫って落ち込む夜の山中に、一つの影が現れる。膝をついて頭を垂れる影に向けて、闇の中から声がかかる。


「何だ」


 声の持ち主の姿は見えない。他にもいくつかの影が闇に溶けているようだ。沈黙の気配だけが辺りに漂う。


「はい。東の鬼についてなのですが……」

「アサキの話か。京都まで足を運んだ甲斐があったというものだ」


 カタブキと呼ばれた闇が笑う気配がした。影は息を呑むと、続きを話した。


「態度が妙だと思っていたのですが、どうやらあの鬼――人間の娘に惚れたようです」

「……人間に? それは真か」

「あの鬼に最も近しいタタキという鬼が嘆いていました。それに、今朝はその娘に会いに行ったようです」

「フッ……これは傑作だな」


 報告を聞いたカタブキは闇の奥で喉を鳴らした。ひとしきり笑って気がすんだのか、しばし後に続きを促す。


「それで? あの愚か者はいつから人間なぞに現を抜かすようになったのだ」

「ここ幾日かのようです。あの鬼、数か月前にカタブキ様を用心して山へ来た時とは大違いでした」

「あいつめ、自分は決して境を越えようとせぬ癖に、私が踏み込むのだけはえらく用心しているからな」


 つまらん奴だ、とカタブキはまた喉を鳴らした。闇の中から聞こえる笑いは、影の身を震わせる。

 アサキが東の鬼の頭領として、西の鬼の頭領であるカタブキを警戒するのは当然のことだ。二人の鬼は千年以上の付き合いになるが、いつからかそれぞれの領分をこの国の東と西と定めるようになった。以来、永いこと対立し、東と西の境で小競り合いを繰り返しながら今に至る。


「しかし、その人間とはどのような娘なのだ? このカタブキでさえ、アサキの女なぞ、千余年聞いたことのない話だ」

「詳しくは存じ上げません。しかし、タタキによればごく普通の人間の娘だとか」

「貴様は見ていないのか」

「はい。申し訳ありません」

「詫びはいらん。……だが、鬼の身でありながら女一人かどわかせぬとは、とんだ腑抜けになったものよ」


 ――ああ、つまらん。

 カタブキが嘆息すると、影は口をつぐみ、沈黙が辺りを支配した。

 しばらくすると、月明かりの届かぬ暗闇が蠢いた。蠢く影は数十を超えている。報告を終えた影はすらりと立ち上がって辺りを見回した。多くの鬼たちが息をしているのに、言葉はない。闇に溶けるカタブキに一礼すると、影は背を見せて山を去って行った。

 ……残された闇から、二つの影がぞろりと現れる。

 茄子紺の着物に、半分にした熊の毛皮をかけた二人の少年は、瓜二つの顔をしている。違うところと言えば、一人は髪を肩で切り揃え、もう一人は頭頂部で一つに結っているところくらいだ。


「――カタブキ様」


 どちらが名を呼んだのかはわからない。しかし、カタブキの反応する気配があった。


「キザ、キユウ。放っておけ」


 素っ気なく言い放った闇を、二人の鬼は同時に振り返る。


「でも、あの男」

「東の配下だ」

「カタブキ様に、従ってる振りをしてる」

「戻って報告するつもりだ」


 同じ声と調子で、キザとキユウは交互に言葉を並べた。カタブキは声を出して笑った。


「そんなこと、百も承知だ。しかしあいつが戻らねば、アサキが不審に思って動き出すだろう。人間に現を抜かしていても、あの鬼は東の頭領だ。油断ならん」

「……わかった。でも、」

「僕たちは、いつでもやるよ」

「そうだな……用が済んだら、始末は任せる」


 ぞろりと、闇が大きく動いた。目を見開いたキザとキユウはすぐに膝をついて頭を垂れた。辺りを囲む数十の影も、闇の中で同じように頭を垂れている。

 闇の中から、一人の鬼が姿を現した。月白の着物に、血のように赤い長羽織を半身だけかけて帯を締めている。錆のように赤茶けた髪は緩く波打ち、赤く濡れた瞳が闇を睨む。


「久方ぶりに、愉快な気分だ」


 西の鬼どもを従えるカタブキは、顔の右半分を髪で隠しながらも笑みを浮かべていた。


「者ども、支度せよ。――――東へ乗り込むぞ」


 カタブキはそう言い置くと、赤い羽織を翻して再び闇に消えた。いつの間にか、キザとキユウの姿もない。他の気配も徐々に消えていき、しばらくすると辺りは本当の静寂に包まれた。






 草色の羽織に袖を通したカタブキは、深く笠をかぶって山道を歩いていた。笠の下に手拭いも巻いて、特徴的な赤茶けた髪を隠している。

 山の向こうへ傾いた太陽が血のように赤く空を染め上げていた。

 カタブキの足取りは急ぐものでもなければ、ゆるりとしたものでもない。そもそも鬼である彼らの活動時間は黄昏時から夜半、そして明け方にかけてであり、夜目の利かない心配はない。疲れも知らない体であるため、東の鬼たちにさえ気付かれなければ、問題のない潜入であった。

 カタブキは足を止めず、木の陰に声をかけた。


「キザ、キユウ」


 姿こそ見せないが、微かな物音が存在を知らせる。カタブキは声を潜めたまま続けた。


「そろそろ境を越える。貴様らも用意しておけ」

「わかった」

「あの男は、始末してもいい?」

「ああ……そうだな。生きて現れたのなら、好きにするがいい」

「生きて現れたら?」

「どういうこと?」


 キザとキユウの言葉に、カタブキは目を細めた。血のように赤い目がぬらりと光る。


「仮にもあのアサキだ。内偵する者を生かしておくとも思えん」


 カタブキの言葉に、二人の鬼は黙り込んだ。

 カタブキの側について長い二人だが、その中でアサキとカタブキが相対したことは多くない。二人が直接拳を交えていたのは、遥か昔のことだ。


「……アサキって、そんなにすごいの?」


 問いがどちらの発したものか判然とはしなかったが、カタブキはそれに構わず鼻で笑った。


「そうか、貴様らは知らないか。昔のあいつは、血のたぎるままに拳を振るう良き鬼であった。……あの頃は私もアサキも、互いの領分など無視して殴り込みを仕掛けていたものだ」

「それ、どれくらい前の話?」

「僕たちが生まれる前?」

「ああ。千年も前の話だ」


 カタブキは足を止めずに話を続ける。キザとキユウの二人も、姿を見せないままカタブキの後を追っていた。


「……止まれ」


 足を止めたカタブキが、低い声で言い放つ。キザとキユウも足を止めて息を潜めたが、カタブキの言葉は別の者へ向けられていた。


「貴様、こんなところで何をしている」

「何って、内偵ですよ。カタブキ様」


 木の陰から現れた姿に、カタブキが眉をひそめる。他の鬼の気配がないことを確かめてから、笠を深くかぶり直す。さくりと足元の草を踏んで、男が近付く。


「内偵者と知ってなお生かすとは、アサキも甘くなったな」

「俺がアサキ様の内偵者であることを知っていながら生かしていたあんたも、たいがい甘いんじゃないかね」

「いいや、私はアサキ如きとは違うさ」


 にやりと笑みを浮かべた男に対して、カタブキも笑みを浮かべたが、双方とも目は笑っていない。

 カタブキを見据えたままの男がさらに近付くと、カタブキは進んで男へ近付いた。それに驚いた男が足を止めた一瞬を縫って、カタブキが男の横を通り抜ける。男は振り返ろうとして、どさりと地面に倒れた。赤い血が下の草を染めていく。男は身じろぎもしなかった。

 草色の羽織の下で、刀が鞘に納められる。


「私に殺させるとは、アサキも手間を嫌ったものだ。……本格的に温くなったか」


 カタブキが思案気に呟くと、木の陰が音を立てた。


「ああ。キザ、キユウ。貴様らのことを忘れていた」

「カタブキ様、ずるい」

「僕たちがやりたかった」

「こんな鬼なぞ掃いて捨てるほどいるだろう。後は好きにしろ」


 カタブキはそう言い残すと、羽織を固く体に巻き付けて笠をかぶった。キザとキユウの気配は、カタブキを追わなかった。

 赤い夕陽は山向こうに沈み、藍色の夜が迫っていた。

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