第一章②
「麻里奈。お主、欲しい物は無いか?」
「欲しい物? さあ……特には思いつきません」
次の日も、アサキはいつも通りに麻里奈を訪ねた。ここまで来ると麻里奈も祖母も慣れたもので、祖母に至っては「お茶あがっていきないよ」と誘う始末だ。もちろん麻里奈は素早く断り、アサキと連れ立って橋まで歩いた。
ちなみに慣れたこの道中、アサキは何度か麻里奈の手を握ろうと画策していたのだが、一度も成功したことはない。それ故、麻里奈も彼がそのようなことを企んでいるとは露ほども知らなかった。
「着物でも毛皮でも、麻里奈が望むなら何でも手に入れてやるぞ」
「い、いえ。お気持ちだけで結構です」
「……本当に良いのか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
口元に手を立ててこっそりと訊ねるアサキの様子が妙におかしくて、麻里奈は心を込めて礼を言った。アサキとの付き合いはごく短いものだが、彼が麻里奈のことを本当に思ってくれていることはよくわかるからだ。
しかし、いつもの橋に着いてからもアサキの様子はどこか落ち着かなかった。話はするのだが、同じことを二度も三度も言いかける。今日も眠いのだろうか、と勘繰った麻里奈がひょいとアサキを見ると、ちょうどよく目が合った。
「アサキさん、眠いんですか?」
麻里奈が訊ねると、アサキは小さく笑って首を横に振った。
「いや。…………麻里奈、ついてきてほしいところがある」
「それって、」
「案ずるな。鬼どものところではないし、すぐに帰すと約束しよう」
「……」
アサキが麻里奈に嘘を吐くとは思えない。しかし、アサキにとって案ずるほどでないところが麻里奈にとってもそうであるとは限らないのだ。
「オレが言っても、信じられぬのも無理はないか」
アサキ自身もこう言って苦笑を浮かべている。
せめて場所をと麻里奈が訊ねたが、アサキは「行ってからの楽しみだ」と一点張り。
――結局、麻里奈が折れることとなった。
「しっかり掴まっていろ。風が強いからな」
「……危なくないんですよね?」
「ああ。オレがいる限り、麻里奈を危ない目になど遭わせるものか」
「えっ、そういう意味!?」
麻里奈がアサキを引き留めるよりも早く、彼はいつもの如く風を巻き起こした。いつもより強い風に、麻里奈はアサキの体に腕を回した。下の河原から、小学生たちの騒ぐ声が聞こえる。人の声も車の音も徐々に遠くなっていき、麻里奈の耳に届くのは風の鳴る音だけとなった。
真夏だというのに、露わになった腕や首筋が冷たく感じられる。アサキが触れている帽子をかぶった頭と腰の辺りだけがほのかに温かい。
……いつもより長く感じられた。麻里奈には十分もそうしていたように思えるが、時間にすれば数分と言ったところ。アサキに優しく肩を叩かれて、麻里奈はようやく目を開けた。
「待たせたな。見よ、麻里奈」
「一体、何を見ろって――」
アサキに訊ねながら辺りを見回した麻里奈は、その先の言葉を失った。
青く冴えわたる空には白い入道雲が高く昇っている。天球のてっぺんさえ見えるほど、辺りに遮蔽物はない。
それもそのはずで、二人は高い山の頂に立っていた。草木も生えないむき出しの地面は夏でも固い冷たさを感じさせる。事実、これだけ標高で吹く風は涼しく、麻里奈は身を震わせた。ふわりとアサキの羽織が肩にかけられ、彼女はアサキを見上げた。
「アサキさん、ここはどこなんですか?」
「よくぞ聞いてくれた。ここは
「ええ……こんなきれいな景色、初めて見ました」
数多くの山々が峰を連ねる長野県は、夏も冬もその頂を目指す人は多い。麻里奈も何度か、ハイキングコースを登ったことがある。テレビや雑誌に絶景を特集されることもあり、一面に広がる青と緑の世界を見たことだってある。
しかし、実際に見る衝撃は生半可なものではない。胸を打つ感動が、それを伝えようとする言葉すらも奪っていく。麻里奈は黙って、じっと佳景を見つめていた。
羽織を押さえていた麻里奈の手に、アサキの手が重ねられる。
「オレは頂から見る景色が何よりも好きだ。上にいないと気がすまん質なんだが、隣に誰かいるのは落ち着かなくてな。……ここは誰にも教えたことのない、とっておきの場所だ」
そう言ってアサキが片目を瞑ってみせると、麻里奈は眺望とアサキの顔を交互に見た。
「そんな場所に……どうして私を連れてきてくれたんですか?」
「わかっておるだろう」
麻里奈が訊ねると、アサキは涼風のような笑みを浮かべた。
「お主だから、麻里奈だから連れてきたのだ。オレは千余年生きて初めて、隣でこの眺めを見てほしいと思える者に出会えた。……麻里奈よ、オレは本当にお主のことを好いているのだ」
空を映したように青いアサキの目に真っ直ぐ見つめられると、麻里奈はまた物が言えなくなった。アサキの言葉は、いつだって直接麻里奈の心に届く。すとんと胸に落ち込んだ言葉は、麻里奈の意志ではもはや動かすことができない。そうして、アサキの言葉は麻里奈の中に溜まっていく。
麻里奈が帽子のつばを掴んで俯くと、アサキは何も言わず、その頭を優しく撫でた。
ほんの数分程、二人は黙り込んでいたが、やがてアサキが口を開いた。
「では、送ろう」
無言のまま頷くと、麻里奈はためらいがちに、アサキの着物を掴んだ。アサキは麻里奈の体をしっかりと抱き締めると、ふわりと宙に浮かぶ。風を切って舞い降りたためか、帰りは行きよりも早く感じられた。
いつもの橋に戻ると、アサキは一度強く麻里奈を抱き締めた後、挨拶もそこそこに颯爽と山へ帰ってしまった。初めてのことに、麻里奈は目を丸くしていたが、携帯で時刻を確認して昼前になっていることを知ると、急ぎ足で帰った。
「おう、フジ、カケクレ! ちょうどよいところに!」
山へ帰って早々、アサキは眠たげな様子も見せず、見つけた鬼の名前を呼んだ。咲き誇る藤色の着物を着た鬼と、暮れなずむ緋色の着物を着た鬼だ。太い木の枝の上で談笑していたところらしく、声をかけられるとすぐに下りてきた。
「どうしたんですか、お頭」
「タタキさんなら絶対起こすなって寝ましたけど」
「寝たのか、あいつ」
「寝るでしょ。もう昼ですよ。俺たちもそろそろ寝るかって話してたくらいで……そうそう、それで何でしたっけ?」
カケクレが思い出したように話を戻すと、アサキも手を打った。
「おうそうだ。この際お前らでもいいから、ちょっと聞いてほしいんだが」
にわかに真剣な目をして声を潜めるので、二人の鬼も表情を変え、固唾を飲んで
アサキの言葉に耳を傾けた。
「…………すぎる」
「お頭、何て?」
囁かれた言葉を、フジが聞き返す。
「麻里奈が可愛すぎる! オレにどうしろというのだ、もうさらっていいのか? どう思う?」
ぱっと上げたアサキの顔を見た二人の鬼は、頬を引きつらせながらも律儀に答える。
「鬼なんだからさらいたきゃさらえばいいんじゃないですか」
「あの人間にはまず嫌われるでしょうけどね」
「だから我慢しているんだろうが! このオレが!」
「ああ。ご自分でわかってるんですね」
冷静なカケクレの言葉に食って返すアサキを見て、二人は深々と溜息を吐いた。どうやら彼の配下たちが考える以上に、アサキは麻里奈に惚れ込んでいるらしい。一方的に愛情表現しているのかと思えば、ちゃんと嫌われぬように考えてもいるようだ。
千年以上の時を生き、数百以上の鬼を従える東の頭領らしくもない一面に、フジとカケクレは肩をすくめる他なかった。
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