第一章
第一章①
配下の鬼たちに堂々と花嫁宣言をした翌日も、アサキは麻里奈を訪ねた。合わせる顔がなく、帰ってもらおうと思った麻里奈だが、アサキの真っ直ぐな目に見つめられると、結局また、いつもの橋まで来てしまうのだった。
「アサキさん……眠そうですね」
「ん? ああ、済まない。お主の前でする顔ではないとわかっているのだが、やはり陽が眩しくてな」
「そこまでして来てくれなくていいんですよ」
麻里奈が溜息を吐きながら欄干に身を預けると、アサキは小さく笑みをこぼした。どこか照れくさそうなその笑みに、麻里奈は目を瞬く。
「いや。どうも近頃、お主の顔を見ないと眠れんのだ」
その言葉に麻里奈が硬直していると、同じようにはたと動きを止めたアサキが振り向いた。
「今のは気にするな!」
強い口調で言い放つが、赤い頬のせいで迫力はない。アサキの表情がこうして垣間見えることを麻里奈は少し嬉しく思った。思わず微笑んで見つめると、アサキは気まずそうな表情をふいとそらした。
下の河原から聞こえてくる声に顔を向ければ、相変わらず小学生が遊んでいた。麻里奈が微笑ましく見守っていると、帽子の上から頭を撫でられる。
「アサキさん?」
当然アサキのはずだが、返事はない。顔を上げようとしても、帽子のつばが広いため上の方がよく見えない。赤子をあやすように、ゆっくりと優しい手つきだ。
二人ともしばらく黙ってそうしていたが、不意に麻里奈の携帯が着信音を鳴らした。驚いたアサキが手を止めると、麻里奈はズボンのポケットから取り出して画面を確認する。
『宿題進んでる?』
予想通り、一寿からだった。朝から送ってきているくらいだから、おそらく彼は宿題に飽きたところなのだろう――と考えて、麻里奈は顔を上げた。
「……何だ、それは」
「アサキさん、近いです」
すぐ真上からアサキが携帯の画面を覗き込んでいた。すぐ近くから聞こえる低い声に耐えつつ、麻里奈はアサキの体を少し押した。しかしまるでびくともしない。アサキに動く気がないのならばと麻里奈は自ら身を引いた。
「麻里奈、それは何だ」
「携帯ですけど……もしかして、知らないんですか?」
「人間の文明など、知ったことではない」
「……といいつつ、興味津々ですね」
いつの間にか麻里奈の後ろに回り込んだアサキは、腕を伸ばして指先で画面をつついている。麻里奈よりもずっと大きな手で、爪は人よりも長く尖っている。麻里奈を訪ねる時のアサキは鬼の証である角や浅黒い肌を隠しているけれど、ふとした拍子に人間ではないことを思い知らされた。
アサキの指が触れて画面が切り替わる。偶然だったが、一寿のプロフィールの写真が大きく表示された。陸上部の友人――麻里奈にとってはやはり先輩にあたる――と撮ったもののようだ。
ふと、圧迫感が消えて麻里奈が振り返る。麻里奈から離れたアサキは欄干にもたれかかり、じっと睨むように遠くを見ていた。
「えっと、アサキさん?」
麻里奈が声をかけても、返事はない。
どうしたことかと携帯をポケットに仕舞い、アサキの顔を横から覗き込むと、アサキの表情に麻里奈は目を瞬いた。それから小さく笑みをこぼす。
「どうしたんですか」
むすっとした、つまらなさそうな表情のアサキに、麻里奈はつとめて優しく問いかける。アサキはちらりと目をくれると、小さな声で呟いた。
「……誰だ、その男は」
「部活の先輩、って言ってもわからないか……えっと、まあ、知り合いの人ですよ」
いつもの堂々とした態度とはまるで違うアサキの姿は新鮮だった。東の鬼を束ねる長も、人間と変わらない表情や態度をとるのだ。麻里奈は、初めてアサキと出会った日に彼の言った「違うと何が悪い」という言葉を思い出した。
「知り合い? ……麻里奈の男ではないのだろうな」
「私の!? そ、そんなんじゃないです!」
麻里奈が大きく両手を振って否定すると、アサキはしばらく疑るような眼差しを向けていたが、やがて常の優しい顔つきに戻った。
「疑って悪かった。オレはそろそろ帰るとしよう」
「そ、それがいいですよ。元気なさそうですし」
「麻里奈にはそう見えるか」
「え?」
麻里奈は一寿に思いを寄せているが、アサキから彼について聞かれることも嫌だったし、彼の話をすることが得策ではないことも理解していた。話がそれて安心していたが、続くアサキの言葉に首を傾げる。眠たげに細められた目と、いつもより覇気のない笑みを統合した指摘だったが、何かアサキには思うところがあったようだ。
アサキの瞳の色は愛おしさを重ねているが、麻里奈が気付くことはない。
「……これ以上、好きにさせてくれるなよ」
麻里奈の頭を帽子の上から軽く撫でた後、アサキは小さな声で、しかし麻里奈の耳に届くようにはっきりと言い残し、いつものように風を巻き起こして去って行った。
白い帽子のつばを押さえながら、残された麻里奈は呆然と立ち尽くす。最後に続けられた言葉が耳に残っていた。
――さらってしまいたくなる。
一度は昇った陽が傾きはじめ、山の中に差し込む光が橙色になる頃、鬼たちは眠りから目覚め、活動し始める。
タタキのように、常にアサキについている鬼もいるが、中には昨日の花嫁披露のために東北や北陸から呼び出された鬼も少なくない。普段は各々がアサキに命じられた山を守っているのだ。すわ戦争かと身構えた鬼たちは麻里奈を見て呆気にとられ、そしてすぐに手を上げたのだった。
「お頭、人間の小娘に随分と入れ込んでるみたいだな」
「ああ。どうも毎日会いに行ってるらしい。それも朝だと」
「寝ないで行くってのか! いやはや、お頭の考えることはわからんね」
配下の鬼たちは顔を合わせればアサキの話をした。
アサキ当人が麻里奈へ言ったように、彼が女に困ったことはない。常について回っているのはトラヌケくらいだが、それぞれの山の女鬼たちでアサキに抱かれたことが無いのは幼子くらいのものだともっぱらの噂である。アサキ自身が人間の女をさらってきたことも、一度や二度ではない。
しかし、一人に対してこれほど慎重かつ、執着を見せたことはなかった。
千三百年もともにいるタタキのお墨付きである。やはりどこからどう考えても、今のアサキの様子はおかしいと言えた。
「おう、お前ら。トラヌケ見てねえか?」
「いや、俺は見てないですが……見たか?」
「見てないな。こっちには来てないと思いますぜ」
ひょいと姿を現したアサキの言葉に、配下の鬼二人は顔を見合わせた。トラヌケと言えば、昨日アサキが麻里奈を披露してから姿を消したままだ。今までにもアサキが他の女を構っているときは面白くなさそうにしていたものだが、今回はこれまでと訳が違う。他の誰にも向けられたことのない眼差しが、アサキから麻里奈には注がれていた。トラヌケはそれに気付き、苛ついていた。
しかし、アサキがそれに気付くことはない。
「そうか。聞きたいことがあったんだが……」
アサキが腕を組んで宙を眺めると、一人が声を上げた。
「おーい、トラヌケ! ちょうどいいところに」
「何、トラヌケ? おお、よく来た!」
アサキに続いて姿を見せたトラヌケを呼ぶ。トラヌケは一瞬、躊躇う素振りを見せたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて駆け寄った。
「アサキさま直々のお呼びですの? 嬉しいわ」
「ああ。こやつらには相談できんからな。トラヌケ、女子の喜びそうな贈り物とは何か、教えてくれ」
自然な動作でアサキの腕に自分の腕を絡ませたトラヌケだが、聞くや否やこれまた自然に腕を離した。赤い紅を差した唇は妖艶に弧を描いているが、金に輝く目は笑っていない。
「それは、あの小娘への贈り物かしら」
「小娘ではない。麻里奈と言う名だ」
「アサキさまから贈り物など、珍しいことですのね」
「女子は喜ぶと聞くからな。どうだ、トラヌケ。良い考えはないか?」
アサキはトラヌケの視線に気付いているはずだが、構わず言葉を続けた。トラヌケから漂う不穏な雰囲気に、配下の鬼は音もなくその場を離れた。
トラヌケはしばし目を閉じて考えるように間を取った。そして目を開くと、にこりともせず告げる。
「ご自分でお考え下さいませ」
アサキが目を瞬いている隙に、颯爽と踵を返すと、トラヌケは木陰に姿を消した。残されたアサキは右手を腰に当てると、空いた左手で頭をかいた。
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