プロローグ④
祖母の追及を何とか誤魔化した翌日。
麻里奈が宿題のページを進めていると、玄関の戸が叩かれ、予想通り祖母が麻里奈を呼びに来た。
「おはよう、麻里奈。気分は如何だ?」
「おはようございます。とっても驚いています」
麻里奈が玄関へ向かうと、立っているのはやはりアサキだった。
昨日同様、祖母に声をかけてからアサキの背中を押して家の外へ出る。
「アサキさん、また寝てないんですか!?」
「昨日、麻里奈と別れてからすぐに寝たぞ」
「ていうか、今日も来るなんて聞いてないですし……」
「オレは昨日、またな、と言ったはずだが」
「……そういえばそうでした」
ああ言えばこう言う。麻里奈はそれ以上何か言うのも疲れるだけだと思い、諦めて欄干に身を預けた。
ふと不安に思ってアサキの方を見ると、彼は麻里奈よりも早く口を開いた。
「山には連れて行かないから、安心してくれ」
「……はい」
心を読まれたかと驚いたが、アサキが鬼である以上あり得ない話ではない。結局、麻里奈は努めて動揺を表さないようにした。
その日は、アサキの配下であるタタキや他の鬼たちの話を少しだけ聞いて別れた。アサキは、麻里奈には会いたいが、鬼の性としてやはり昼が近くなると眠くなっていけないと語った。
明日も来る、と言い残したアサキが姿を消すと、麻里奈のポケットに入っていた携帯が着信音を立てた。取り出してみれば、『カズ』――榊原一寿からだった。陸上部の先輩にあたる一寿へ、麻里奈は憎からず想いを寄せている。いつもなら一日に一回以上はやりとりするのだが、昨日はアサキのことに気を取られていて忘れていた。
『俺も帰省!』
メッセージの後に送信された写真には、福岡駅が写っている。
何か返事をしようと思ったけれど、当たり障りのない言葉が思いつかない。
麻里奈は少し歩いてから帰ろうと思い、携帯をポケットに仕舞いこんだ。
翌日は麻里奈も学んで、午前中は宿題をせず居間でくつろいでいだ。やはり玄関の戸を叩く音が聞こえたので、祖母に声をかけて麻里奈が出た。
「……やっぱり」
「ああ、おはよう麻里奈」
案の定、訪問者はアサキだった。しかし昨日までと違い、どこかそわそわした雰囲気をしている。その証拠に、麻里奈が背を押さずとも玄関を出たし、それどころかすぐに麻里奈の手を掴んだ。
「え、ちょっと」
困惑する麻里奈の体を引き寄せて抱き締めると、麻里奈はすぐに察して不平を告げる。
「アサキさん!」
「すまない麻里奈。今日は山へ連れて行く。大丈夫だ、すぐに返すから」
「信じられ――」
麻里奈が皆まで言う前に風が巻き起こり、麻里奈は口をつぐみ目をつむるしかなかった。
少しして風がやむと、麻里奈は恐る恐る目を開く。顔を動かして辺りを見ると、想像通り緑が広がっていた。アサキの力が緩むのを感じて、麻里奈はその腕から逃れた。
――見回して、息を飲んだ。
連れてこられたのは、数日前と同じような森の中だ。しかし木は少なく、少し拓けたようになっている。そこへ幾人もの影が座っていた。各々異なる色の着物をまとい、額には角をいただいている。麻里奈を見つめる瞳に浮かんでいるのは、好奇心であり、疑念である。
「え、えっと……」
助けを求めるようにアサキの方を見ると、アサキはにこりと笑みを浮かべて麻里奈の肩を抱いた。
「お前ら、そう怖い顔をするな。麻里奈が怯えるだろう」
「アサキさん、そう言うことじゃないんですけど」
「うん? ではどういう……ああ、そうだな。連れてきた訳を話さねばなるまい」
困惑した麻里奈の視線に、アサキは一度首を傾げ、すぐに頷いた。その言葉を聞いて、麻里奈もこくこくと頷く。
「――皆、よく聴け!」
二人をじっと見つめるたくさんの鬼に向けてアサキが声を張る。少し離れたところにタタキの姿を見つけた。そしてさらに離れた木の影に、白い姿も見えて、麻里奈は目を瞬く。
木の影から出てきたのは、白い着物をまとう、長い髪の女だった。遠くて確かにはわからないが、角は無いように見える。よく見るために身を乗り出そうとした時、アサキの手に力がこもった。
「ここに居る人間は、麻里奈という」
麻里奈がアサキの顔を見上げると、彼は目を細めてみせた後、すぐにまた鬼たちへ目を向けた。
「そして、オレの花嫁となる娘だ!」
辺りがしん、とする。
麻里奈はすっかり言葉を失って固まり、アサキを見つめていた鬼たちも引きつった表情をしている。タタキに至っては肩をすくめていた。
やがて、一人の鬼が恐る恐る口を開く。
「……人間、だよな?」
「言ったであろう。麻里奈は生粋の人の子だ。ほれ、角もなかろう」
アサキの手が麻里奈の髪に触れて額を露わにする。麻里奈はすぐにアサキの手を下ろさせると、じとっとした視線を送った。しかしアサキは、羞恥に赤くなる頬さえも愛おしげに見つめるばかりで、結局麻里奈が折れて顔を背けた。
鬼たちは互いに顔を見合わせて、小さな声で言葉を交わす。時折視線が麻里奈やアサキに向けられる。彼らを知らない麻里奈でも、よく見られていないことはありありとわかった。不安になってアサキの様子を伺ってみるも、まるで動じた様子はない。
「アサキさん、前も言いましたが、私は――」
意を決して抗議の声をあげようとした麻里奈を、女の声が遮った。
「アサキさま、とんだ御冗談を仰いますのね」
白く輝く長い髪を翻しながら、鬼たちの間を割って近付いてくるのは、先程木の影から姿を現した女性だった。麻里奈が白い着物と思っていたのは、どうやら何かの動物の毛皮らしい。遠目にもきつく睨まれていることがわかり、麻里奈はアサキの着物を掴んだ。
「冗談ではないと言っておろう、トラヌケ。……麻里奈、案ずるな。恐れることなどない」
アサキは優しい声で囁くが、麻里奈はまるで安心できなかった。親の仇でも見るような視線に息が詰まりそうだった。金色の目は、あるいは獲物を見据える獣のようでもある。
トラヌケ、と呼ばれた女が麻里奈の前に立ち、顔を覗き込む。目尻が吊り上がっていてそうでなくともきつい印象があるが、唇にはきっちりと紅が引かれている美人だ。麻里奈は息を止める。
「…………ふうん」
長い時間をかけてまじまじと見つめた後、トラヌケはくるりと背を向けた。
「人間の小娘が、一体どんな手を使ってアサキさまを誑かしたのかしらね」
「トラヌケ、言葉が過ぎるぞ」
言葉をかぶせるように咎めたのはタタキだったが、トラヌケはアサキと麻里奈を一瞥して去って行った。他の鬼はアサキとトラヌケの様子を伺い、タタキは溜息を吐いている。
颯爽と去って行くトラヌケの後ろ姿を見つめて、麻里奈が固まっていると、アサキが優しい手つきで肩を叩いた。
「すまない、麻里奈。気にするな。トラヌケはどうもオレを好きすぎるのだ」
「さ、さいですか……」
困ったように眉尻を下げるアサキを見ると、麻里奈もトラヌケよりそちらが気になるようになった。ここ数日会って麻里奈が思うことは、アサキは表情が多いということだ。感情を素直に表に出すからわかりやすいのだが、同時に突っ返しにくくもある。
「……ん? トラヌケさんがアサキさんを好きなら、私は必要ないんじゃないですか。トラヌケさん、美人だし……」
ふと言葉を口にした麻里奈は、見上げたアサキの表情の冷たさに息を飲んだ。今までが嘘のように、感情と名のつくものが消え失せ、真っ白な顔で、ただ黙って麻里奈を見つめている。
急に恐ろしく思えて強く目をつぶると、すぐにアサキの大きな手が頭を撫でた。優しい手つきにゆっくり目を開けると、そこにいるのは麻里奈もよく知る、慈しむような笑みを浮かべたアサキだった。
「オレは、麻里奈が好きなのだ」
「わ……私は、アサキさんのこと、好きじゃないです」
「嫌いか?」
「嫌いではないですけど……」
「ならば、好きにさせてみせよう。麻里奈がオレを好くまで、いつまでも待つぞ」
両肩を掴んで真っ直ぐに顔を覗き込むアサキから目をそらし、麻里奈は言葉を濁す。まさにああいえばこういう状況だった。
「……アサキ。悪いが眠いんだ。用が済んだなら、その娘も返してやった方が良いだろう」
気まずい空気を打ち壊したのは、タタキの一声だった。
アサキが顔を上げると、麻里奈は胸を撫で下ろす。鬼たちもようやく解放される嬉しさからか、顔を緩めている。
「それもそうだ。皆に伝えることは済んだのだから。……では麻里奈、送ろう」
「……お願いします」
これ以上掘り返しても自分が疲れるだけだと思い、麻里奈は大人しくアサキの着物を掴んで目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます