プロローグ③

「アサキさま、戯れも程々になさってくださいまし」

「戯れではないぞ、トラヌケ。オレは本気だ」


 アサキに言葉を返された女は眉をひそめた。

 狐色の着物に鮮やかな紅の帯を締めている、豊満な体つきの女だ。しかし目を引くのは、彼女が首元に巻き付けている狐の毛皮と、白金に光る長い髪だ。額にこぶはない。


「オレは麻里奈を嫁にする。それを手前の配下どもに伝える。それだけだ」

「だけど、人間の娘ですわ」

「それがどうした? オレは子が欲しいんじゃない。麻里奈が欲しいんだ」


 あっけらかんと返すアサキに、トラヌケはぐうの音も出ない。いつもならここらでアサキをたしなめてくれる、彼と付き合いの長いタタキの姿はない。アサキに言われて、東日本各地の山の長である鬼たちを呼びに行っているためだ。

 麻里奈の座っていた岩の上に、同じようにアサキは座っている。空を見上げても枝葉が伸びていて月を見ることはできない。そうでなくとも、東の空は既に少し白み始めている。朝が来れば、鬼たちは眠りにつく。アサキが立ち上がってぐるりを見回すと、配下の鬼たちは眠そうな目をこすっていた。


「タタキが戻ったら、オレは下にいると伝えよ」

「……下?」


 一人が怪訝そうに問い返すと、アサキは笑みを浮かべて頷いた。


「ああ。下――人の世だ」

「アサキさま! まさか、あの人間の娘のところへ行こうと仰るのではありませんよね?」

「さすがトラヌケ。そこのぼんくらと違い、お主は察しが良い」


 アサキがからりと口をあけて笑う。

 トラヌケたちが言葉を探しているうちに、アサキは紺青の羽織をしっかりと体に巻き付けて風に姿を消した。名残の風に揺られた木の枝から、何枚か葉が落ちる。

 鬼たちは大きな欠伸をしながら、眠るために各々散っていった。白んだ光がさしてくるようになったその場に残っているのは、トラヌケ一人だ。彼女の視線は、アサキが立っていた場所に釘付けになっている。

 やがてトラヌケも背を向け、その場を後にする。低い声で吐き出された言葉を聞いたものは誰もいない。


「…………人間風情が」






 翌日。

 祖母の作った朝食を食べて、家の掃除を手伝った麻里奈は、ようやく夏休みの宿題に取り掛かっていた。国語は終わらせてきたが、数学の問題集と英語のワークは半分も残っている。

 紺色の問題集の表紙を見ていると、昨日出会った鬼を思い出した。

 一晩明けると、夢だったのではないかと思える。慈しむような笑みも、優しい声も、あたたかい温もりも。


「……どっちでもいいじゃない! 勉強しよう」


 頭を振ると、麻里奈は問題集を開いた。アサキと出会ったのが現実でも夢でも、二度目はない。夏休みの不思議な思い出として胸の中に仕舞っておこうと考え、ペンを手に取る。

 ――トントン。


「はいはい、どちらさんですかぁ」


 問題に取り組んでいると、遠くから戸を叩く音が聞こえた。祖母の声が聞こえたところから想像するに、訪問客のようだ。田舎町だから、祖父母の知り合いなら、すぐに玄関を開けて声をかけるはず。郵便配達も似たようなものだし、誰であろうか、と麻里奈が首を傾げた時、祖母がやってきた。


「まーちゃん、お客様」

「え? 私に?」

「昨日のお礼がしたいってねぇ、着物のいい男」

「!!」


 着物の、と聞いて麻里奈は跳ねるように立ち上がって玄関へ走った。

 長野に、祖父母以外の知り合いはいない。昨日のお礼というのも、麻里奈には心当たりがない。一つだけ見当をつけるとしたら、それは着物の男と容易く結びつく。

 果たして、麻里奈が玄関へつくと、その男はいた。


「おはよう、麻里奈」

「あ、アサキさん……」


 生成り色の着物に紺青の羽織をまとった見目麗しい男、アサキが立っていた。肌は浅黒くなく、額のこぶもない。どこからどう見ても普通の人間だ。


「呼び捨てで構わんと言ったはずだが……まあ、これも新鮮で良いか」

「どうしてここにいるんですか!?」

「何、麻里奈と話がしたくてな。お主の匂いを辿っただけよ」


 アサキの言葉に、麻里奈は軽いめまいを覚えた。しかし振り回され続けているわけにもいかない。まずは場所を変えようと、靴を履いて家の奥に声をかける。


「おばあちゃん! ちょっと出かけてくるね!」

「オレのところへ来る気になったか」

「家を出るだけです!」


 祖母の返事も待たず、麻里奈はアサキの背中を押して家を出た。

 しばらく歩くと、昨日の橋までたどり着いた。河原では今日も小学生が遊んでいる。お気に入りの帽子をかぶってくるのを忘れたなと思いながら、麻里奈はようやくアサキを振り返った。


「何の用ですか」

「先程も言ったがな、お主と話がしたい」

「私は話すことなんてありません」

「そうつれなくするな。今日は山へ連れていったりしない」


 アサキが苦笑すると、麻里奈はしばらく黙って考え込んだ。


「……私はアサキさんと結婚するつもりはありませんよ」

「そのうち気が変わる」

「…………はあ」


 アサキの言葉に溜息を吐くと、麻里奈は欄干に体を預けた。


「アサキさんは、千年も生きてきたのにお嫁さんいないんですか」

「話をしてくれるのか!」

「少しだけですよ。宿題あるし」


 アサキが嬉しそうに麻里奈の顔を横から覗き込む。麻里奈はそっぽを向いたが、

アサキは嬉しそうな表情のまま、隣に立った。


「嫁がいたことはないな。女には困ったことないが」


 さらりと言ったアサキに、麻里奈は顔をしかめた。

 確かにアサキは整った容姿をしている。東日本の鬼を束ねているというだけあって、言動から頼り甲斐もあるように感じられる。麻里奈にとっては強引そのものだが、アサキに惹かれてしまうのも理解できることだ。

 しかし、理解することと納得することは別である。


「それなら、その人たちをお嫁さんにすればいいじゃないですか」

「あやつらは、オレの東の長の座に寄って来ているのだ。もし西にいたのなら、同じように西の長に寄って行っただろう」


 冗談を、と笑おうとした麻里奈は、アサキの存外真剣な横顔を見て口をつぐんだ。

 鬼がどれくらいいるのか、麻里奈は知らない。彼らがどこで、どのように暮らしているのかもだ。何も知らない人間がわかったような口を利くことほど愚かなことはない。


「……あ。そういえば、ちゃんと西の長もいるんですね」


 話題を変えようと考えていると、アサキの言葉に覚えた引っ掛かりを思い出した。アサキは苦笑を浮かべると頷く。


「ああ。大体、この辺りの山脈を境に東はオレ、西はカタブキという鬼が長を務めている」

「カタブキさん……」

「あいつの名前など覚えなくていい。麻里奈、お主はオレだけを見ていろ」

「鬼を率いているのは、お二人だけですか?」

「大きくはな。この国を東と西に分けて、それぞれをオレとカタブキが治めている。各地の山には配下共がいて、更にその下にも配下がいる」

「……アサキさんって、もしかしてすごい人……ううん、すごい鬼なんじゃないですか?」

「ああ。まあ、そうだな」


 いい加減、アサキの口説き文句をかわせるようになった麻里奈だが、さらりと肯定するアサキの態度にはいまだ目を瞠る。

 アサキたちの他にも鬼がいると聞いて、麻里奈は驚くべきなのか怖がるべきなのかわからなかった。本来、鬼とは人を食らったり人を祟ったりするもので、恐れるべき対象だ。しかし人間である麻里奈に求婚するアサキを見ていると、これまで鬼に抱いていたイメージが間違いだったのではないかとさえ思えてくる。


「ふぁ……」


 不意に、アサキが大きな欠伸を噛み殺した。


「眠いんですか?」

「少しだけだ。常ならば昼間は寝ているからだろう」

「いつもは寝てるのに、今日はわざわざ起きていてくれたんですか?」

「人間の活動時間は昼だろう。お主に会うためには眠ってなどいられんよ」


 麻里奈が驚きながら訊ねると、アサキは柔らかい笑みを浮かべて頷いた。麻里奈は言葉を返すのも忘れて、アサキに見惚れていた。


「…………麻里奈。お主にそう見つめられては、流石のオレも照れるのだが」

「え? あ、ごめんなさい!」


 ほんのりと頬を染めたアサキの言葉に、麻里奈は慌てて顔をそらした。アサキの口説き文句をかわせるようになったと思っていたのは、麻里奈の思い込みだったらしい。頬が熱いのは、気温のせいだけではないように思えた。


「あー……では、オレはそろそろ山へ帰る」


 アサキがそういうので、麻里奈は彼の方を見た。しかしアサキはまだ照れたように目を合わせようとしないので、麻里奈も余計に恥ずかしくなる。

 真夏だというのに、羽織を着てアサキは暑くないのだろうか。麻里奈がそう考えた時、アサキの手が伸びて、そっと頬に触れた。


「またな、麻里奈」

「アサキさ、」


 麻里奈が何かを言うよりも早く、アサキは体に羽織をしっかりと巻き付けて風を起こした。思わずつむった目を開けると、当然のようにアサキの姿はない。

 両手で覆った頬はまだ、確かに熱を持っていた。

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