プロローグ②

 麻里奈は、つるりとした岩の上に座っていた。そろえた膝の上に、小さく拳を作った手を乗せている。

 向かいの草むらにどっかりと腰を下ろしてあぐらをかいているのは、麻里奈を山中まで連れてきた、鬼を名乗るアサキという男だ。アサキの斜め後ろには、タタキと呼ばれた男が控えている。


「あなたたちが鬼だというのは、百歩譲って良しとします。だって、町中から急に山へ来たわけですし」

「話が早くて助かる」

「でも、あなたたちが鬼であることと、私があなたと……その、結婚することと、どう関係があるんですか? 私は鬼じゃありません」


 はじめは鬼を名乗るアサキとタタキに警戒して怯えた様子も見せていた麻里奈だが、危害を加えてこないとわかると、ようやく話す姿勢を見せた。「話だけなら」とひとまず頷いた麻里奈に、アサキは大層喜んだ。しきりに「さすがオレの見初めた女子だ」と言っている。

 麻里奈の言葉を聞いたアサキは、大きな口を開けて高らかに笑った。声の大きさに驚いた麻里奈が拳を強く握る。


「お主が鬼ではないことくらい、わかっておる」


 ひとしきり笑って気がすんだのか、アサキは目元を拭った。麻里奈はちらりとタタキに目をやったが、彼らにとっては日常茶飯事らしく、まるで動じていない。アサキに視線を戻すと、彼は真面目な顔で麻里奈を見つめていた。


「オレは東国の鬼どもを統べて、かれこれ千年以上経つ。その中で一度も伴侶を求めたことはない。オレたちは簡単に死なないから、子を残す必要がないからだ」

「千年以上って……」

「タタキも同じくらいなんだが……どれくらいだったか、お前覚えてるか?」

「正確じゃねえが、千二百か三百かってところだろう」

「だ、そうだ。鬼ってのは人間と違って病気に罹らねえし、怪我は時間をかければ大体治る」


 あっけらかんと言い放つ二人の言葉に、麻里奈はそれ以上の問いも言葉も返せなかった。尺度と言えばいいのか、そうした点が、彼女と彼らは明らかにずれている。

 麻里奈の驚きを見て取ったのか、アサキは苦笑を浮かべた。


「それでも人間みたいに恋をすることはある。子を残す奴もいれば、残さん奴もいる。その辺は好き好きだな」


 アサキの話は、麻里奈にとって容易に理解できるものではない。だからこそ先に話すだけ話して、わからないところを訊ねてもらうつもりなのだろう。麻里奈もそれを察して、静かに話の続きを待つ。


「東国の頭っつうのに惹かれて寄ってくる女はいたが、伴侶にしようとまでは思わなかった。オレさえいりゃあ、鬼どもは率いれるわけだからな。それで千年も千二百年も暮らしてきた。――――ところが、だ」


 アサキの声音ががらりと変わった。視線も言葉のひとつひとつも、すべてが麻里奈に向けられている。麻里奈は身を固くする。


「お主を見た途端、今まで覚えたことのない感情が湧きあがってきた。知らない感情だ。お主を見ていると居ても立っても居られず、ただ、思った。――お主が、欲しいと」

「……それ、って」

「うむ。まあ、早い話が、お主に惚れたのだ」


 そう言うと、アサキは歯を見せてにかっと笑った。

 麻里奈は頬を赤く染めると、助けを求めるようにタタキを見る。しかし彼は何の色もない無表情で彼女を見返すばかり。仕方がなくアサキを見れば、彼はいつの間にか立ち上がって、麻里奈に近寄ってきた。そして岩に座ったままの麻里奈の手を取ると、再三聞かされた言葉をまた口にする。


「そういうわけだから、オレの嫁になれ」

「経緯はわかりましたが、やっぱり嫌です」

「何故だ!?」


 きっぱりと断る麻里奈に、アサキが驚いた顔をする。麻里奈がやんわりと手を離すと、アサキはつまらなさそうな表情で彼女を見つめた。


「理由は二つあります。第一に、私はよく知らない方とお付き合いできません」

「それは、これから知っていけば良いことだ」

「大事なのは、この次です。私は人間で、あなたとは違う存在だからです」

「違うと何が悪い」

「……え」


 麻里奈の言葉を聞けば聞くほど、アサキは平然とした様子になっていく。彼女にきっぱりと断られたときのような動揺は見られない。


「姿は変わらんではないか。言葉も通ずるしな。何が違う?」

「えっと……」

「オレが鬼であることは隠しても仕方がないから話したが、オレがどんな鬼であるかはさして重要な話ではないのだ。オレが望むのは、ただ、お主に側にいて欲しいということだけだ」

「アサキ、さん……」

「余所余所しいな。これからオレの伴侶となるのだ、もっと親しくアサキと呼びおいて構わんぞ」


 優し気な表情でからりと笑うアサキは、悠然とした態度を崩さない。慈しむようなアサキに、麻里奈は頬を染めて目をそらした。草木を揺らす風は少し冷たくなったようだ。


「後悔はさせん。……オレの嫁になれ」


 もはや何度目かもわからない求婚に、今度は麻里奈も即答することはない。膝の上の拳を見つめたまま、口を閉ざしている。アサキはそうして悩む麻里奈を急かすこともない。時間だけが静かに過ぎていく。

 夏であっても、山に囲まれた長野は日の傾きが早い。橙色の夕日が山の中に差し込み、辺りを照らしている。空気もいよいよ冷たくなってきた。


「アサキ、日が暮れる」


 それまで黙っていたタタキが声をかけると、アサキも麻里奈も顔を上げた。


「ああ、そうだな」

「……その人間、帰さなくていいのか?」

「オレは帰したくない」

「アンタの意見は聞いちゃいねぇよ」


 タタキがぴしゃりと言い放つと、アサキは不満げな表情を浮かべた。


「相変わらず面倒な聞き方をする。……お主、家に帰りたいか?」


 苦い顔をタタキに向けてから、アサキはすぐに麻里奈を振り返った。タタキに向けていたのとはまるっきり逆の、優しく、それでいて寂しげな表情である。

 麻里奈は逡巡したが、やがてこくりと小さく頷いた。

 彼女を見ると、アサキは目に見えて肩を落とす。しかしそれも一瞬で、すぐに笑みを浮かべると麻里奈の両手を取った。


「お主が望むのならば、家へ帰そう。だがその前に、名前を聞かせてくれ」

「名前って……私の?」

「他に誰の名を聞くというのだ」

「…………麻里奈。田村麻里奈です」

「麻里奈、か。良い名だ」


 何気ない一言だった。

 麻里奈が返す言葉を探している間に、アサキは連れてきた時と同じように「目を瞑っていろ」と指示すると、麻里奈の体を強く抱きしめた。麻里奈は言われた通りに目を瞑ったが、布越しに伝わるアサキの体温が心をかき乱す。冷たい突風の中でアサキの着物を掴んだ。

 電車よりも騒々しい風の中で、ぴたりとくっついたアサキの胸からは規則正しい鼓動が聞こえていた。どくどくと脈打つそれは、少し急いているようにも聞こえる。

 麻里奈が顔を見られなくて良かったと考えている間、アサキも同じことを思い、少しだけ頬を赤らめていた。


「……麻里奈、もう良いぞ」

「つ、つきました?」


 抱き締めるアサキの腕の力が緩むと、麻里奈はするりと腕を抜けた。夕方の冷たい風が、一抹の寂しさを覚えさせる。


「では、名残惜しいが……道中気を付けよ」

「は、はい。ありがとうございます。……えっと、アサキさんも、お気を付けて」


 麻里奈の頬を両手で包んでいたアサキは、彼女の言葉に目を丸くした。そして目を細くして、嬉しそうに柔らかく笑う。


「ありがとう。やはりお主は、オレが見初めた女子だ。――――さらば」


 一言残すと、風がアサキを巻いた。麻里奈が目を閉じた一瞬でアサキは姿をかき消す。彼女が再び目を開けた時、辺りには誰の姿もなかった。

 麻里奈が戻されたのは、アサキに連れ去られた橋の上だ。下の河原の小学生たちはもういない。

 携帯が不意に着信を告げた。取り出して通知を見れば、先程までやりとりしていた部活の先輩からだ。


『また写真送ってよ』


 見慣れたグラウンドの写真と一緒に、メッセージが送られていた。時間を見ると、やりとりをしていた数分後。それを今受信したということは、先程まで麻里奈がいた山中には電波が届いていなかったということだ。登山道から外れていると言っていたアサキの言葉は本当だったらしい。

 そのまま返事はせずポケットに仕舞いこむと、麻里奈は祖父母の家に向けて歩き出した。






 日が傾いてすっかり薄暗くなった山の中で、アサキは麻里奈の座っていた岩の前に立っている。腕を組んで仁王立ちする彼の背中を見つめているのはタタキだ。


「それで、どうすんだ」

「どうって?」

「あの人間。アンタ、あれしきで諦めるタマだったか?」

「はっはっは、まさか」


 タタキの言葉を笑い飛ばすと、樹の陰から何人かが姿を現す。各々着物に袖を通し、額には小さなこぶのようなものが見える。


「――タタキ、山の長たちを集めろ」

「それは、」

「オレの花嫁を披露する」


 にっと口の端を上げて笑ったアサキの言葉に、タタキはため息をついた。

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