第29話 愛らしい見た目の柴犬ですが、その実大変プライドが高く、クールな性格の個体が多いのもこの犬種の特徴です。家族といえども適度な距離を保ちつつ愛情をかけてあげましょう。

「片桐先生のニット展……ですか?」

「うん。それ、案内ハガキなんだ。マークポーターズで先生にお会いしたとき、ココちゃんと二人で行きますってお伝えしたしね。一緒に見に行かない?」


 亜依奈さんの言葉どおり、あの日の翌週にあたる今日、池崎さんはアリョーナのシャンプーに来店した。

 ふわふわ感の増したアリョーナを引き渡そうとしたときに、池崎さんからすっとハガキを手渡されたのだった。


 嬉しい……!!

 あのデートの時に片桐先生に言っていたの、ビジネストークじゃなかったんだ!


 正直、今日は池崎さんの顔を見るたびに、亜依奈さんの勝ち誇ったような笑顔が思い浮かんで息苦しくなっていた。

 でも、このハガキ一枚がそんな不安を吹き飛ばしてくれた!


「もちろん行きます!すごく楽しみです!」

「場所は桜咲おうさき市内の百貨店の催事場だから、僕が車を出すよ。

 来週の火曜日、お店の定休日に出かけるってことでいいかな?」

「はい!よろしくお願いします!」


 初めてのマークポーターズへのデート。

 その後の、ドッグランでのデート(ということにしておこう!)。

 そしてこれが、三回目のデート(ということにしておこう!)。


 会うたびに、知らなかった池崎さんの一面が見えてくる。

 知ってる笑顔のバリエーションが増えていく。

 今度はどんな池崎さんを知ることができるだろう?




〔せっかく桜咲の街まで出かけるし、ランチに何か美味しいものでも食べようか〕


 出かける前日、先日届いたアリョーナという名の毛糸でセーターを編んでいた夜に池崎さんからのLINEが届いた。

 ふわふわと宙に舞いそうだった心は、糸の切れた風船のようにさらにさらに上へと舞い上がってしまった。


 🐶


 これまでと同じように、店の前にメタリックダークグレーの愛車で迎えに来てくれた池崎さん。

 デートが決まった翌日、閉店間際の優希の働くお店に駆け込んで見立ててもらった秋物ワンピースを身につけて、精一杯のお洒落をしてエスコートを受ける。


「今日のランチだけど、駅前の裏通りにあるビストロと、桜咲城址公園のそばのテラスカフェ、どっちがいい?」

「ビストロも美味しそうで捨てがたいけど……お天気がいいから、テラスカフェが気持ちよさそうですね!」

「OK。じゃあランチの後、腹ごなしに公園を少し散歩してから片桐先生の展示会に行くことにしよう」

「はい!」


 キラキラな一日が始まる。

 たわいもない会話の中で、舞い上がった私が時々変なことを口走ると池崎さんの笑い上戸のスイッチが入る。

 最近なんだかこのスイッチが入りやすくなってきたような気がしないでもない。

 でも、楽しそうに笑ってくれる池崎さんを見るのが大好きだから、笑われても全然嫌じゃない。


 むしろ私、池崎さんの専属お笑い芸人になりたいくらい!

 毎日池崎さんを笑わせることができたら、二人どんなに楽しいだろう!


 爽やかな濃い緑から少しずつ衣替えの準備を始めたケヤキ並木が枝を伸ばし、テラスカフェの白いパラソルにグレーのシルエットを描いている。

 低い柵の向こうは公園をぐるりと囲む歩道になっていて、ジョギングや散歩を楽しむ人達が思い思いのスピードで通り過ぎていく。


「ここのテラスは犬連れOKなんですね」

「僕らの街からは少し遠いけど、すぐ目の前に広い城址公園もあるし、今度はアリョーナやチョコ太郎を連れてきてやってもいいかもしれないね」

「はい! ぜひ!実はメニューに載っていたわんこ専用プレートっていうのも美味しそうだなって気になってたんです」

「えっ!? ココちゃんが美味しそうだなって思ったの?」

「だって、すっごく美味しそうでしたよ? 野菜もお肉もごろごろしてて」


 エスニックテイストを取り入れたプレートランチを前に、くつくつと拳を口元にあてて笑い出す池崎さん。

 私はまたしても笑い上戸のスイッチを入れてしまったらしい。


 でも、こんな風に気軽に先の約束ができるようになるなんて、本当に信じられない!


 編みかけのセーター、早く編み上げて池崎さんに渡したいな。

 今のこの距離感なら、私の気持ちごと受け取ってくれそうな気がする。


 美味しいランチを楽しく食べて、芝生の広がる城址公園の中をぐるりと散歩し、再び車に乗り込んで桜咲市の中心部へ。

 駅前の大きな百貨店の駐車場に車を停めて、最上階の特別催事場へ向かった。


「わあぁ……! すごい……綺麗……!」


【Atelie Atsuko Knit Works】という展示場へ足を踏み入れた途端、白い壁に等間隔で飾られた色とりどりのニット作品に目を奪われた私。


 受付で名前を書き、名刺を渡していたビジネスモードの池崎さんが私の傍に歩み寄ってきた。


「片桐先生の教室には講師をやっているお弟子さんが数人いてね、今回のニット展は先生とそのお弟子さん達の作品を50点ほど展示しているそうなんだ。

 複雑で難しい編み方をしているものもあるけれど、基本の編み方の組み合わせで編めるデザインも沢山あると思うから、今後のココちゃんの作品の参考にもなると思うよ」

「確かに、よく見ると編み方の組み合わせでいろんな模様をつくっているのがわかります……! このストールも、デザインといい、色といい、すっごく素敵……」

「ああ、それ、うちが納入した糸だね。ネットでも人気の種類なんだ」


 平日の昼間ということもあり、会場内にはほとんど人がおらず、私たちは誰にも気兼ねすることなく、一つ一つの作品を時間をかけて丁寧に鑑賞していった。


 使われている糸の素材や開発秘話、デザインの妙を解説してくれる池崎さん。

 優雅なチェロの調べのような、低く伸びやかな声が耳に心地よくて、ずっと聞いていたくなる。

 白くて明るい宇宙船の中に二人きりでいるような、ふわふわとした夢見心地の感覚。

 壁の先にある出口に近づいていくのが惜しくて、編み目のひとつひとつまで目を凝らしてゆっくりと眺めていく。


「あら! 池崎部長! いらしてくださったのね」


 出口付近の応接テーブルにいた初老の女性が立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。

 マークポーターズのラクレットのお店でお会いした片桐敦子先生だ。


「先生。ご案内ありがとうございました。今回もとても素晴らしい作品ばかりですね」

 池崎さんの微笑みに上品な笑顔で返した片桐先生が、私にも柔らかな眼差しを向ける。

「こちらのお嬢さんも、またお会いできて嬉しいわ。デートのついでに寄ってくださったのかしら」

「いえ! 先生の作品を拝見したくて、池崎さんに連れてきていただいたんです。

 デートはそのついでです!」


 緊張した私の口から思わぬ言葉がこぼれ出て、池崎さんも片桐先生も一瞬目を丸くした後、くすくすっと笑い声をたてる。

 またやらかしてしまった! しかも今度は片桐先生まで笑ってる!


「素直で可愛らしいお嬢さんね。大切にしてあげなくちゃね、池崎部長?」

 先生が目を細めて視線を向けた先の池崎さんは、またしてもスイッチが入ってしまったようでくつくつと笑い続けている。


 けれども、少し苦し気に口元を歪めながら「はい」と短く返事をした!


 たった二文字の返事に胸を射抜かれて、眩暈を起こしそうになる。




「大切にしてあげなくちゃね」の言葉に「はい」で応えてくれた!


 それって……


 それって――!!



「失礼しました。つい笑い過ぎてしまいました」

 全身から湯気が出そうなくらい熱くなった私の横でようやく通常モードに戻った池崎さん。

「先生も展示会の間はお忙しいかと思いますので、弊社の新商品のご案内はまた来週にでも営業担当に伺わせます」

「わかりました。お待ちしてますわね」


 用意していた差し入れの菓子折りを先生に手渡し、口元にまだ笑いの残る池崎さんは「お茶でも飲んでから帰ろうか」と展示場を出た。


 🐶


 地に足がつかないようなふわふわとした心地のまま、同じ階にあるカフェに入る。


「どう? 素晴らしかったでしょう。先生たちの作品」

 コーヒーを飲みながら穏やかに微笑む池崎さんが、わずかににじんで見えるほど目元が熱い。


「どれも素敵な作品ばかりで、見ていて楽しかったです」


 さっきの「はい」は、きっと面倒な説明を避けたかったから、

 きっと笑い過ぎて苦しかったから。


 うん、きっとそうに違いない。


 けど、けど……


 もし、あの短い言葉に池崎さんの本当の気持ちがわずかにでも入っていたら──?


「あの、さっき――」


 コーヒーカップから口を離して思い切って言葉に出そうとした。


 そのとき。


 プルルルル……


 池崎さんの携帯が鳴った。


「あ、ちょっとごめんね」


 ジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、画面表示を確認してから通話ボタンをタップする。


「もしもし? どうした?」


 いつもより低い、ちょっとぶっきらぼうな声。

 親しい相手であることがすぐにわかる口調。


 嫌な予感がした。


「え? そうか……。熱は測ったのか? 病院は?」


 誰……?


「俺がそっちに行くまでに40分はかかるな。何か買ってくるものはある?」


 初めて聞いた、池崎さんの“俺” という一人称。


「うん。わかった。とにかく寝ておけよ。すぐに出るから。じゃ」


 タップして通話を切る池崎さんの顔が歪んでいた。


「ごめん、ココちゃん……」


「亜依奈さん、ですか?」


 池崎さんの口から出るよりは、自分でその名を口にした方がましだ。


「うん。そう。あいつ、熱を出して寝込んでるみたいでさ。

 動けないから僕に来てほしいって」


 先日の、勝ち誇ったように微笑む彼女の顔が浮かび上がる。


 あのひとは、今日うちの店が定休日ってことを知ってるはず。

 私と池崎さんが会ってるかもしれないって思って電話をしてきたんじゃ…


 そんな邪推が頭をよぎった自分が恥ずかしくなって俯いた。




 でも――




 ――行かないで。


「そうですか。亜依奈さん、一人暮らしって言ってましたもんね」



 ――行っちゃだめ。


「熱が高くて寝込んでいたら、なんにもできませんもんね」


 ――だって、あのひとは……


「病院だって、早く連れて行ってあげた方がいいだろうし」


 ――行ってしまったら……





「私は電車でも帰れるし、大丈夫です。池崎さん、早く行ってあげてください」





 言葉と心が正反対の方向へ向かっていき、引き裂かれそうになる。


「ごめんね。せっかくゆっくりしていたのに。

 ココちゃんの家までは送るから」


 そう言って、伝票を持った池崎さんが立ち上がる。

 足早に会計に向かう背中をなんとか追いかける。


 さっきまで軽かった足取りが、泥の沼にはまってしまったように重たくなった。


 帰りの車で、沈黙の間に交わしたわずかな会話。

 車を降りてからの、簡単な挨拶。


 帰宅してベッドに倒れ込んだ時には、もう何も頭に残っていなかった。


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